☆ ☆ [その1]、ローマの買い物
コルソ通りとコンドッティ通りの名を覚えたのは、私が買い物に熱心だったからで
はない。
12月30日のローマは、自由行動日の予定になっていて、私たち5人家族だけは、もちろん
独自の行動をするため、オプショナル・ツアーには参加しなかった。
ホテルはチチェローネ通りにあった。
同行のみんなが市内観光に出かけたあと、私たちだけが地図をたよりに目指したのは、
この2つの通りだった。
大病をした年の暮れ、私はこの旅を内心では「家族の解散会」だと考えていた。
私は50歳、妻は49歳。長女が23歳、以下大学二年生の次女、高校二年生の長男。私と妻
は高校教師、冬休みの9日間でヨーロッパ旅行をする。
申し込んだのは、自由行動が最も多いコースだった。というのは、家族が水入らずの旅
をする共同の「思い出」を作っておきたいからだった。
普段から好奇心の旺盛さが幸いして、私はフランス語も少しはできる。だから、道を尋
ねながら目的地を目指すには、道行く人に
「エクスキュゼ、モワ」と声を掛け、
「ピュイジュアレ・アラ・リュド・コンドッティ・アヴェック・セット・ルート?」など
と、正しいフランス語かどうかも分からぬままに、尋ねる。
イタリー人は中学校でフランス語を習うそうで、私のこんな「カタコト・フランセ」で
も、よく理解してくれる。ただし、答えはたいていがイタリー語だから、分からないとこ
ろを類推したりするが、それでもイタリー語の多くはフランス語と類似するから、類推し
やすく、面と向かって話せば情況や実物を手や身振りでも示し、表情まで伴うので、通じ
なくて困り果てたなどということは、一度だってなかった。
目指すコンドッティ通りへは、二度、道行く人に尋ねただけでたどり着けた。
通りの両側には、向き合った商店が目白押しに並ぶ。妻も長女も次女も、女性の本性を
発揮して、一軒でも見逃してなるものかとばかりに軒並みに入って行く。
そこに探すモノが特にあるわけではない。珍しい物や掘り出し物を求めているのか、と
いうと「Yes」でもあり「No」でもある。
どうやらショッピングを楽しむとは、買う楽しみ、見る楽しみ、着た時を想像する楽し
み、負けさせる楽しみ、やりとりの楽しみ、等々がいずれも比重の違いを持たない総合的
な「楽しみ」のようだった。
最初の数軒は、「通訳」の役割を意識して私も入っていた。
だが一時間もすると、私だけはもう入らないで、通りを前へ歩いたり、後ろへ戻ってみ
たり所作なげに動いていた。
衣服の商店がほとんどだが、ときどき下着の店があったりすると、店先に展示してある
のは真っ赤な下着で、[彼らはこんな色の下着に魅力を感じるのだろうか]と私は見つめる
が、男がそんな代物を眺めてばかりもおれない。
次の通りはどんなだろうか、休憩するのにいい喫茶などないか、などと先を歩いてみる。
そして妻子と離れすぎないように気にしては、またまたみんなのそばまで戻る。
[まだなのか]とか[遅いじゃないか]とは、一度も言わなかった。それは妻子への存分な思
いやりでもあり、そのための「自己犠牲」という辛抱でもあった。
私に声を掛けた中年女性がいた。英語で、だった。
肌の色はやや褐色がちで、イタリーの南部でよく見かけるタイプのように思った。
「(ハロー。ホテルで食事しませんか)」と言った。
私でも聞き返さなくてすむほど分かりやすい英語だった。
「(え、なぜ? 私といっしょにホテルで食事をするのですか)」
私は、疑問のままを正直に言っている。
この国はホテルのレストランが客をこのように勧誘しているのかも知れない。あるいは
何かの割引を宣伝しているのかも知れない。
女性は首を振って、声を少し大きくし、こう言った。
「あなたは分かってない。私と一緒にホテルへ行きましょう。そして食事をしましょう」
と。
私にはよく分かっていた。この女性とホテルに行く。そしてレストランでいっしょに
食事をする。その程度の英語が分からないでどうする。
そしてそれがどうして私の理解不足なのか。
失礼な物言いだと思えた。
「私はどうしてあなたといっしょに食事をしなければいけないのですか?」
私にはそんな義務なぞない。ほんの今、通りで出逢ったばかりの女性じゃないか。
女性は、もっと声を大きくして私に近寄った。
「You can't understand what I said. I mean ……」
女性と私とが[言い合っている]雰囲気で立ち向かっているとき、後ろから妻が近づいて
きた。
数メートルの後ろから、
「何かあったの? どうしたの?」と心配した声を上げながら近づいてきた。
私は、突然この女性がホテルでの食事を誘っていることを妻に言おうとしたが、女性は
そのスキを与えなかった。
素早くきびすを返し、背を向けて前方へと早足で去っていってしまった。
告白する。私にはこの女性の「真意」が理解できていなかった。だから妻には、
「変なの。ホテルへ行って食事するって言うんだよ。なんで俺が知らない女と食事の付き
合いをするんだい。わからないねえ」と、そのとき言っている。
帰国後、横浜に住む兄嫁にこの「不可解」な出来事を話した。
さすがに兄嫁は「たちどころ」に理解して、こういった。
「食事に誘ったんだから、違法行為ではないでしょう」と。
なーるほど、「風呂」を営業していて、「性的遊び」を目的にする。「マッサージ」を
看板にして「男性欲望」を処理する。「個人観光案内」を職業にすると言いながらパート
タイムの「妻関係」になる。
規制法に触れない知恵。どこの国にも人は知恵を以て働いていたのだ。
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☆[その2]、ローマの年の瀬 ☆
その前夜は大晦日だった。
娘2人と息子はホテル内の賑わいに加わって徹夜で楽しんだと、翌日、ベネチアへ向かう
バスの中で私に話した。
ホテルのロビーにマルチェロさんとういう演奏家がいて、長女のピアノを褒め、彼のCD
を娘にプレゼントした。
私は若い人の音楽は、嫌いではないが好きでもない。睡眠の時間を辛抱してまで楽しも
うというほどの積極性はない。CDについても改めて聴きたいとは思わなかった。
子供たちがしかし、3人とも口を揃えて私たち両親に報告したのは、ここの大晦日の楽し
みようが、日本で見る通常のものではないということだった。
特に除夜の鐘、いや、日本流に言えばこうだろうが、ここではこの時を以て新年となる
合図の鐘、つまり年初の鐘である。これを合図にして、それまで盛り上がっていた賑わい
は一気に爆発し、辺りかまわず抱き合ったり、誰彼となく構わずキッス、抱擁をし、ダン
スに興じる。
「この国の年の始まりは大変な騒ぎなんですねえ。誰でもそばの人と抱き合うのですか」
近くの座席に座るイタリー人と私は話していた。
「あなたは見なかったのですか」
「はい。子供たちから聞きましたが」
「ほんとうの騒ぎは、表の通りなんです。興奮した人が上から家具を投げたりする。
すると下で騒いでるでる人が怪我をしたり、……死んだり」
「え?」
「そういえば、外がとっても騒がしかったよ。出ては見なかったけど」と娘が後ろから口
を挟んだ。
「死ぬんですか、ほんとに?」
「ハハハ、死にますよ。家具が落ちてくるんですよ」
「危ないですね」
「危険ですよ。ハッハ。毎年、6,7人が死にます」
新しい年明けを喜び、古い家具を投げ捨てて歓喜する。階下の裏通りでは、ガシャンと
派手な音を立てながら、怪我人や死人が出る。
何と向こう見ずな……と思いかけて、思考が停まった。
日本の祭りにも「死」を伴うもので、それが「まつりごと」の神髄のように考えられて
いたものがいくつもある。
御柱にだんじり、いや歴史を遡れば、人柱とか人身御供とか、古事記のオトタチバナヒ
メなんかも、今私が言う「神髄」の放射形(範疇)の中に立派に入っている。
スペインに牛追い祭りがあり、トマトのぶっつけ合いやら、闘牛もあり、現にコロッセ
オは遺跡として立派に残る。
人の世の歴史っていったい何だったんだ。
人道とはほど遠い歴史の話は、別の項目に譲るとして、年に6、7人の死亡者とは不思
議な数字だと思った。
キノコ中毒も日本で年間6~7人。ほとんどがニガクリタケに因る。フグ中毒も6~7人。
人間、知識の範囲内で普通の注意を払いながら生きるとき、「これくらい」の失敗を生
じるのだろう。
それを基準に類推するなら、日本で年間に10000人の死者を出していた交通事故や高度成
長経済の中で顕在化してきた公害(という呼ばれる化学物質中毒や科学技術産業の労災など
に対して、慢性化した鈍感な視点でしか見ることができなかったような(自称)専門家は、
その地位をすぐ去ってもらいたいものだ。
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☆ [その3]、 ヴェネチアのチケッティは盛り放題 ☆
サンタ・ルチア駅とはヴェネチア・ターミナル駅の愛称である。
福岡県の「海の中道」と見まがうばかり、列車の両側に海を見ながら終点のこの駅に着
くとき、ドーム型の構内に「サンター・ルーチアー、…サンター・ルーチア」と放送され
るが、通常の駅、例えば「ミラーノ、ミラーノ」と放送されるときより、一味も二味も情
緒が籠もっている。
駅を出ると広場前がすぐ船着場になっている。
ヴァポレッタというが、言葉から想像できるように蒸気を吹き出してすすむ船(水上バ
ス)の発着場のことである。
個人旅行以前に、二度、団体旅行で来ている。でも個人で来てみると、感覚が全く違う。
いや、大げさに言っているのではない。ほんとうに雲泥ほどの差があると言いたくなる。
団体で来ると、これほど入り組んだ水路や狭い路地で一行とはぐれてしまったらどうす
るかと心配になるし、ガイドからもきっちりと付き従うことが要求される。
だから限られた場所、例えばサン・マルコで、限られた時間、例えば40分の他に、自由
行動は許されない。
個人で来た私たち(夫婦)が最初に発見したことは、ここでは道しるべが実に行き届い
ていて、もし道に迷えば、何を見ればいいか、すぐ分かるようになっていることだ。
駅舎の出口脇には、informationがあってホテルを紹介している。順番が回ってくると、
担当者は「いくらぐらいの?」と値段の希望をまず尋ね、次に駅からの近さを、そして部
屋条件などの希望を尋ねていく。
イタリー人は明るいとか楽天家が多いなどと、失礼なことを考えてはいけない。ヴェネ
チア人は親切で友好的。すべてまずお客の要望に応えることから始まる。
そして、すぐ近くにある2人で5000円程度のこぎれいなホテルをすぐ紹介してくれた。
旅は身軽に、をモットーにしていても、はるばる日本から来れば、手提げとリュックだ
けではない。ホテルの部屋にスーツケース置き、リュックを下し、身軽になってから外へ
出た。
時刻はほぼ正午だった。まずはどこかでお昼を食べからにしようか、という段取りだっ
た。
海沿いに進むと、前方のどこからか騒ぎが伝わって来る。何があるのだろうと、見回す
と「CASINO」の看板。でも騒ぎはそこからではなかった。少し右に飲食店があり、その中
から男の騒ぎが漏れている。
もちろんだが、暖簾はない。ドアの間から覗くと、10人ばかりの男が、立ったままワイ
ンを飲みながら、遠慮のないしゃべり声を上げていたが、一斉にこちらを見て、場所を空
けて加わるように誘った。
「飲む? 食べる?」 とカウンター奥の男が尋ねた。
「食べる」と答えると、手で奥の部屋を示した。
奥の広いレストランに入っていくと、1組の夫婦が向き合っていた。
少し距離を置いて座った私たちに、奥さんのほうがいきなり話しかけてきた。すでにか
なりアルコールが回っている。
「ここで食事するのがいいわ。私たちはいつもここで食べるの。マスターがとってもハー
トフルなんだもの」
私は「heartful」という単語を知らない。でもここのマスターの客扱いには「心が籠もっ
ており」、だからこの夫婦はいつもここへ来るのだ、ということはよく理解できた。
「私たちドイツ人」
マスターが入ってきた。「ティータッタティー、タラタラティーティイーラ……」と歌い
ながらの入場だった。手を挙げてオペレッタの一場面のような仕草をしながら近づき、
「チケッティはどうですか」と勧めた。
「どんな料理?」
「こちらへ。お見せします」と私の先に立って歩きながらまた「ティータッタティー……」
とオペレッタの所作をする。
男たちが立ち飲みでしゃべる先ほどの場所である。カウンターの右半分には総菜が10種類
以上も大皿に盛ってあった。
「これがチケッティ」と、A4版大の平皿を私に手渡し、「あなたの好きな料理を、盛れる
だけ盛りなさい」と言った。
こういう類のイタリー食材店を私は大好きだが、実際に利用するのは初めてだった。しか
も「盛り放題」方式も初めてである。
まず小魚料理を指さすと、平皿に大スプーンで2杯、盛り込む。野菜の煮付けを示すとそ
れも2杯盛った。和え物があり、それも2杯。肉の細切れが焼き物になっているのも2杯。
貝もフクダメやアワビふう殻付きのとアサリやシシビふう二枚貝、むき身、これも2杯。
「その外にもっと何がいい?」
マスターは私の希望を尋ねながら、その合間に「ティッタラタッター」と歌う。
「キノコも好きだ」
すると、私に判別できなかった総菜を、多めに採ってさらに盛った。
そのほか何か分からない物も盛り上げて、昔の出前が片手に担ぎ上げるような形で持ち、
「ティッタラタッター」と歌いながら奥の私たちのテーブルに運んだ。
「飲み物は?」
「白ワイン」
「デカンターだね」
テーブルの真ん中には、ペン立てふうの容器に棒状のパンが立つ。脇にはナイフ、
フォーク。ナフキンを膝に拡げ、2人は白ワインの乾杯のあと、チケッティーの総菜を味
わった。この料理、私の命名は「A4版家庭料理盛り放題」。
立ち飲みのざわめきは、止むことがなかったし、ドイツ人の奥さんの方は、ヴェネチア
へはヴァカンスごとに来て、いつもここで食事をすると話した。旦那さんの方は、少し赤
らめた笑顔で聞いていても、自ら話すことは少なかった。
しばらくして若い夫婦と小学生の子供の3人が入ってきて、ハートフルなマスターの
「歓待」を受けたが、この家族はポテト・フライだけを注文し、静かに食べ終わると、すぐ
また出て行った。
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☆ [その4]、 厳かな写真はトスカーナへ ☆
ナポリ=ローマ間、約3時間の特急、ユーレイルパスで1stクラスに乗る。
私たちの他に同車両には3人連れ家族が乗っただけだった。就学前の坊やとその父親、
坊やの祖母だ。
坊やは、私が窓ぎわに置いているエビアンを見つけて、飲みたいとしきりにせがむ。
日本人の常識では、<そんなこと、ヒトサマに言うものじゃないの>と大人が制止する
が、父親も祖母も構わないでいた。
坊やは私たちに向かって身を乗り出し、親指をしゃぶるそぶりで、飲みたいと訴える。
「ヴアール(飲みなよ)」
私は気前のよいところを見せ、傍へきた坊やに蓋を外してやった。
坊やは何と、口を付けて3分の1ほども飲んだ後で私に返した。
父親と祖母は、ありがとうの一言も言わなかった。本人も言わない。
でもとてもうち解けて近寄り、通路を挟んだ反対側に移動してきた。そして通じにくい
会話が始まった。
父親はイタリア語しか話せない。私は英語と少しのフランス語を話す。
「どこへ行くの?」
「ローマ。乗り換えてトスカーナへ」
「トスカーナ地方って、聞いたことがある。いいところ?」
「妹が嫁いでいる。そこでヴァカンスを過ごしに行く。…日本人だろ? どこへ行くの?」
「ローマ。夜行列車でミラノ。それからローザンヌへ行く」
「何しに行く?」
「夫婦でヨーロッパ旅行をしている」
「ほんとう?」
「ほんとうだ」
この男、私に疑わしそうなまなざしを向け、にやけた表情を近づけながらまた言った。
「ほんとうの夫婦?」
私はなぜ何度も真偽を問われるのか分からなかった。
変な奴だな、何の魂胆だ、と思いながら、
「どうして信じないんだ」と少し声を大きくして言った。
すると彼は、私の左手を執って、
「指輪がないじゃないか」と、ますますにやけた表情になった。
「私は指輪は嫌いだ。でも私たちは35年も連れ添った夫婦なんだ。……あ、日本人は指輪
を必ずしも必要とはしない」
しばらく無言の時間。
「なんで英語を話すの?」
「なんでって?」
「ここはイタリアだよ」
今度は私の無言。
「あんたの奥さんは?」
「家で留守番」
(お祖母さんに向かって)
「あなたのご主人は(Votre mari ?)」
「ア、シエル(空に)」
「え?」
「ア、シエル(天に)」と言いながら上方を指さし、
「イレテ、トレ、トレ、ボン、マリ(彼はとてもいい夫でした)」と言葉を継いだ。
彼女が黒い衣服を纏っているのは、ご主人を亡くしたからだったのだ。
彼女は内懐から定期入れ大、二つ折りの写真挟みを持ち出してきて、私に見せ、
「セ、モン、マリ(これ、私の主人よ)」と言った。
見開きの右側に顔立ちの整った男性の写真があり、左のページには10行ほどのローマ字
が書かれてあった。
私は声を出して、それを読み始めた。
イタリア語は、終わりから2番目の音節にアクセントがある。例えば「アカデみーア」
「ベズビあーノ」「トスかーナ」「シラくーサ」「パれールモ」。
私にはどの単語も意味不明なのに、この単純な法則に従って粛々と読み進めていった。
中程まで読んだとき、何か異様な雰囲気を感じて、視野の脇からうかがうと、3人が直
立不動をしてて、祖母と父は胸に手を当てていた。
「祈り」の姿勢だった。
はっとしたのだが、今停めるわけにはいかなかった。
そのまま厳かに最後まで読み終えると、末尾に「Amen」があった。
心を込めて「アー、メ、ン」と読み納め、私も深く頭を低げたのだった。
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☆ [その5]、 聖女、シラクーサのルーシー ☆
モノクロ時代のテレビに「アイラブルーシー(I love Lucy)」というコメディー・
ドラマがあった。アメリカでも日本でも屈指の視聴者を得ている。
ルーシーをイタリア語で言えば「ルチア」。
サンタルチアは、3世紀末から4世紀ごく初め、シシリー島シラクーサに短い生涯し
か生きられなかった。キリスト教禁制下で志篤い信仰を持った。婚約者にも疑われるほ
どの奉仕と慈善が、婚約者に疑いを生じさせ、信仰を密告される。
そして権力側の迫害や強制、虐待には健気に抵抗し、殉教した。
今、「シラクーサの守護聖女」となっていて、目の悪い人には特に慕われる。いわれは
様々にあろうが、私の推察では「Lucia」は、日本語の雰囲気で言えば「光恵」とか
「光代」とかに相当するのだろう。
もう一つ、ナポリの船乗りの守護聖女でもある。
私の姻戚の1人、ダダジオさんの先祖は、3代前までシシリーのこの地にいた。
イタリア系アメリカ人と単純に理解するだけの私が、お盆の会食の場で「サンタルチア」
を口ずさんでみせたら、このことが広く深い謂われのある世界への入り口となった。
言い方を換えれば、この場がなかったら、私は実に浅薄な「サンタルチア」認識で平気
だったことになる。どれくらい浅薄かというと、「サンタル・チア」であり、「ルチア」
は「R」でも平気なら、「船乗りの歌う民謡」でも平気、要するに人間としての感性も理性
も籠もらないままの認識だった。
「この地の人で毎月、サンタ・ルチアの命日には生き物をいっさい食べないと決めている人
がいます」
ダダジオさんも、おじいさんが渡米前に知ったことを伝え聞いたのだった。それを私が聞
き、私の感性で内面に再現することができた。人間社会が「保有」するもの、「伝承」する
ものに、すべて無関心、無感動でいてはいけない。
敗戦直後、疲労感と汚れで傷だらけだった「新制」中学の音楽の時間に「サンタルチア」
を習ったとき、そのいわれが語られることはなかった。歌詞にも舟歌以外の意味を感じな
かった。
60歳を過ぎて、文字通り「遅蒔き」ながら、気づくことができた。
1700年もの時を経て、聖女が一女性として見え始めた。聖なる資質の気高さと存在の身近
さとを、併わせ持った存在として感じることができるのは、老いた私に生じた確かな進歩で
あった。
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☆ [その6]、 ミラノの朝は路面電車が ☆
39歳、私はある研修旅行団に加わり、初めてヨーロッパへ来ていた。ローマ=ミラノ間
の夜行1等寝台車が、アガサ・クリスティー「オリエンタル急行殺人事件」のそれと全く
同じだった。
夜明けの窓外には緑の水田が広がっていて、日本の田園風景と変わりなく感じた。シル
ヴァーナ・マンガーノの「苦い米」も、同じ風景の中で展開したのだろう。
でも、ミラノと聞けばすぐファッションを連想するようになったのは、あの後、どれく
らい経ってからだったろうか。
このとき、ミラノは通過しただけで、これと言った印象を残していない。
研修団旅行の後、20年経って妻と2人できたときのミラノは、それまでに知るミラノと
は大きく異なっていた。
急行列車がミラノに近づくとき、私は向かい合う男性にわざわざ話しかけ、「ミラノで
おいしい料理を教えてほしい」と頼んでいる。
それまでずっと無口でいたのに、急に話しかけたのだった。
男性も、私の知るイタリア人とは異なり、無口だった。乗ってきてから2時間半にもな
るのに、笑顔も愛想もなかった。
私のほうだって、ユセル、ボルドー、ニースとたどってきた旅にやや疲れていて、たぶ
ん居眠り半分で乗っていたのかも知れない。
窓外の景色は、田舎から都会のそれへと変わりつつあった。
「リソット」と男性は即座に答えた。
恥ずかしながら、私はリソットなる料理を知らなかった。ただ「米」の意味だとばかり
理解していたから、
「リソットをどんな料理にするの?」と、トンチンカンな質問を重ねている。
「リソットにチキンや野菜などを混ぜて炊きあげる」と、男はまじめに答えた。
聞きながら私は、スペインのパエリアのようだな、と理解した。
名称は異なるが、ニースにも炊き込みご飯があり、「fruits de mer」と言っていた。
米のよく獲れるミラノにピラフ風の料理がこの土地を代表していたのだった。
下車して宿を探すとき、ローマやナポリのように易々とは事が運べなかった。ここの
人たちは、どこかに1ひねりも2ひねりもするように見えた。
例えばナポリなら、「部屋ある?」、「あります、あります」と大きい声で答え、
「見てもいい?」、「いいですとも。ほら、鍵……マリーア、案内しなさい」と従業員
を呼ぶ雰囲気だが、ここミラノの1軒目なぞは、
「部屋はありますか?」に即答はなく、
「予約は?」と、いきなり来てはいけなかったかのように聞き返す。
「いいえ」
「幾晩?」
「2晩」
「(いくらいくら)リラです」と向こうのペースで事を運ぶ。
食事付きか、シャワーはあるか、トイレは室内か、などと確かめたまとめとして、
「それでよろしければ、いくらいくら」
「じゃ、お願い」と合意に至るが、歓迎と歓待とかの雰囲気というより、折衝や交渉の空
気になってしまう。だから笑顔はない。
結局、2晩泊まるつもりだったのを、1晩に言い換えている。
ミラノでまず観ることにしていたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」
だった。もう言うまでもないだろうが、私たちは、できるだけ「旅の基本」を守ること
にしている。つまり、地図を持ち土地の人に道を尋ね、生身の人間として行動する。
この時は、間もなくFIFAワールドカップがフランスで開催されるとあって、ここミラノ
でもフーリガンに対する厳重な警戒体制が敷かれていた。
フーリガンとは、「サッカー場の内外で暴力行為を行う集団」とされているが、単に
このような乱暴サポーターとして理解するのは間違いで、<ブレーキの利かない国粋主義
者、国家主義者を核にした青年集団>だと理解するべきだろう。
だからこそ警察は、サッカー場に限ることなく、一般社会の秩序維持に腐心する。
この厳戒態勢が、私たちには実に有り難かった。
なぜならヨーロッパにいつもいるドロボー組織が、今、遠慮しているからだった。
例えばこの日、ミラノのドゥオモ周辺の街で、かっぱらいの捕り物があった。
実にはっきりした捕り物で、私服の刑事が大きなぬいぐるみを抱えた男を抱き留めて捕ら
えていた。
犯人はこのぬいぐるみを道具にして、店で窃盗を働き、普段なら盗品をすぐさま組織的
にリレーするはずのところを、この日に限って捕らえられた、というくらい「組織的」行
動が封ぜられていた。
もうひとつ例を言えば、数名の少女が各々A3版大の紙を一斉に突きつけ、観光客が
「何事が起こったのか」とうろたえる間に、財布などの貴重品をスリ盗る「手法」がある。
これは、少女たちが自らする集団強盗ではない。どこか近くに大人の指令役がいて、
ターゲットを指示し、盗った後の散り去り方を指図し、組織的にゲットする。
この「ドロボー組織」も、今日は「本来の働き」ができないでいて、さきほど「ぬいぐ
るみダマシ盗」の逮捕劇のあった繁華街を私たちが通り抜けるとき、手にはA4版の紙を持
たない数人の少女が私たちに近寄り、掌を差し出して「物乞い」を口にし、
「お慈悲を!」と言っていた。
少女たちの後ろには、いつもなら姿を見せないはずの「指令役」が、今日は背に赤子を
背負い、何度も頭を低げながら、
「お慈悲を、シニョーレ!」と、低姿勢でへりくだっていた。
「かっぱらい」が「物乞い」に一段格下げになっていたのは、とにかくありがたかった。
名画を観るには、長い列に並ぶ。
10人ずつ区切っては中に入れるので、1時間あまりも経って、やっと私たちの順番と
なった。
展示場内は、やや薄暗く、奥正面に高さは数メートル、幅は10メートルほどに掲げら
れてあった。
人はこの名画から何を得たいのだろうか。数分おきに新たな人々が入っては来るが、会
場内に淀むことなく、また流れ出て行く。
場内にボランティアらしい係員がいた。
「質問してもいい(Can I ask you a question)?」と私は問うてみた。
「いいですとも」
「この絵には、13人の人物が描かれていると思ってましたが、私、努力しても12人し
か見えないのです。……13人ではないのですか」
係員は、表情を活き活きさせ、私に向かった。
たぶん誰も質問をせずに、ただ観ては流れ出て行くことを、やはり好ましくは思って
いなかったのだろう。私と肩が触れ合うほど近寄って、耳元で説明を始めた。
「13人に見えるのは、1人は見えないように描いてあるからです。向こうを向いてい
ます。ほら……キリストのすぐ隣り、向こう向きの後ろ姿、よく見ると分かります、どう
です? あれがユダです」
「なーるほど」
「で、絵を4等分してください。各部分に3人の人物が描かれています。そして中央にキ
リストが描いてあるのです」
最後の晩餐が13人だったから、キリスト教では13が忌み数であること、またこの絵
は人間の弱さが鋭く表現されていること、等々、絵から自らの感受性を触発されたいため
に、人々はわざわざ観賞に来るのだろう、と私は真面目に理解していたのだったが、やは
り人間様がすることには時には崇高な精神によることもあるかも知れないが、時として低
俗で意味もなく、惰性によってする行動だっていくらでもあるものである。
朝食は質素だった。ごく薄いパン2切れをラップに包み、紅茶1杯がすべてだった。
食べ終わるまで誰かが私たちを奥から見つめていた。私たちが他人の分まで手を付ける
とでも思われているのだろうか、とまで感じた。
感謝のことばもなく事務的にチェックアウトを済ませ、駅へと歩くとき、喧嘩騒ぎが
あった。数発のパンチの音の後、止めに入る人の騒ぎがあり、ポリスが両者を伴って去る
まで、私は立ち止まって見ていた。
表情もいきさつも分からないが、人の心はけっして和んではいなかった。
通りの歩道は、下が下水道になっていて、どころどころに填められた鉄格子からは、下
の汚水が鈍く光って見えていた。
路上の真ん中を路面電車が5分に上げず前方へ走り去ってゆく。後ろ姿の電車には、今
日も労働を余儀なくされた人が窓外へ虚ろな表情を向け、そのまま遠ざかって行く。
鉄格子の下に汚れたわずかの光を見、遠のいていく気のない路面電車を見たりしながら、
ヨーロッパに名のある街が必ずしも夢に満ちてはいないことを確実に記録しておこうと、
私は心を決めるのだった。
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☆ [その7]、 パリのビールはひね漬け ☆
慣れない国で飲食店に入るには、ある勇気が要る。
おおざっぱに言えば、どんな物が出るか分からないが、それを受け入れる勇気だ。
最初に「menu, s'il vous plait(メニューをください)」と言う。
メニューを出されると、その中に知っている単語を探す。そしてそれをとっかかりに不明な
ことば部分を推察しながら、妻と2人で、
「こんな意味らしいが、どうかなあ」とか、
「この値段、高くないか」などとひとしきり言い合ううち、数席向こうに夫婦が1組いて、
ポテトフライを指でつまみながらビールを飲んでいるのを知る。
「あれにしようか」
「うん、うん」と言い合った。
ボーイを呼んで、
「ポンムドテル、フリ(じゃがいもフライ)」と注文する。
「?」通じないのだ。
「ポテトフリ?」
「あ、ウイ」
何のことはない。ジャガイモはpomme de terreだが、フライにするとポテトになるらし
い。
「エ、ドゥビエッル」
「あ、ウイ」
パリのノートルダム寺院からさほど離れていない庶民的なレストランで、私たちはパリ
初めての食事をしようとしていた。現地の常識とはやや異なる時刻で、すでに午後2時に
なろうとしていた。
向こうの夫婦は、ダンナがすでに老い、ヨメはまだ若く、ダンナはしきりに自らのポテ
トをヨメの皿に移し、ヨメはそれもせっせと食べていた。ポテトだけではない。ヨメはダ
ンナのビールも飲み、さらにはお代わりを注文していた。
若い女性は生(ヴィ=vie)を謳歌し、老人は目を細め、女性の上に慈悲に似た愛情の視
線を固定していた。
私たちの前に出された「ポテトフライ」は、皿ではなく紙に盛られていた。その量たる
や、日本流に言えば、丼2杯分もあった。
いや、我が妻も若さを失ってはいなかった。
「一人前、注文すればよかったかなあ」
「かまわない。平らげてやる……温かいウチにたべようっと」
ラッパ型のすんなりとしたグラスに溢れる寸前の泡でビールが出された。
乾杯を言い合い、1口飲んだ私は、
「何だ、これ」と驚いた。酸味が強いのだ。
昔、樽に漬けた大根漬けが、もう終わる頃、(ひね漬け、というが)酸味も臭みも増し
て、いかにも限界の終末を感じたものだが、この時の味がそっくりここにあった。
「何だこれ。ひね漬けのドブ汁みたいだよ。樽を斜めにして底のを浚えて来たのじゃない
かね」
不満を口にしながら飲むビールに、ポテトフライ……。
こうして食事が進うちビールを飲み終えたが、何と、もう1杯欲しくなった。
「アンコール、アンビエール、シルヴプレ」
紙に盛ったポテトでたっぷりに満たされた胃を、ひね漬け味ビールで癒す。
そしてリラックスの極みにある身体を満足げにゆすりながら、
「ラディシオン、シルヴプレ」とお勘定をする。
パリはやはり庶民が楽しむ街だった。
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☆ [その8]、チュイルリーのマルシェとは ☆
ルーヴル近くにある「チュイルリー」公園とは、ある時、ふと辞書を引くと「tuilerie
=タイル工場」とあった。かつて近くにタイルを焼く所か職人かがいたのだろうが、今、形
跡は微塵もない。外国からの観光客がそぞろ歩きをする街になっている。
その一角に、特に注意しないと見過ごすのだが、マルシェと呼ぶレストランがあった。
私の好きなスタイルのレストランで、陳列の料理から好きな物だけをトレイに採り、最後
にレジでお勘定をすることになる。
今では、日本でもビュッフェ形式でこの形を取るものは多い。
初めどんな料理があるのか一渡り見てから取りかかるのがコツだが、どうしても採りすぎ
てしまうのが、この形式のねらいでもあるのだろ。でも外国での場合は、あまり採りすぎを
来たさない。支払いのことも考慮して慎重になっているからだ。
料理は、3つに分類できる。
1、日本にもありすでに食べ慣れているもの。
2、聞いたことはあるが、食べたことのないもの。
3、初めて見るもの。
特に3は、敬遠するに限る。食事としての実用が1、好奇心の対象は2、とし、3:1ぐ
らいでお盆を装う。最後は飲み物だが、水差し状の白ワインを取り、それでお勘定すると、
ほどよい正餐になる。
昼時は人がよく入っていて、支払いの後、さて、どこの席へ、と二人で見回しても、2人
だけにふさわしい席はない。丸く大きいテーブルが空いていたので、場所を占めた。
「ナイフとフォークでは不便だしね」と私。
「え?」
「箸はなかったかな」
「そんなもん。あるわけないでしょ」
「いや、そんことないはず」
私はレジへ行って、
「バゲット、シルヴプレ」と言ってみた。
「ア、ウイ」
レジ嬢は近くの抽斗から、割り箸を取り出し、
「コンビアン?」と問うた。
この言葉は、(物の値段を尋ねる)ときにも(数を聞く)ときにも使う。
日本語で答えるなら、ここでは(2膳)だから、私は、
「ドウ、シルヴプレ(2膳ください)」と答え、得意げにマルテーブルに戻る。
「ほら、あるんだよ。箸という言葉があるってことは、箸があるってことだ」
白ワインで乾杯して、まずポテトサラダを食べてみる。やや酸味が多いが、おいしい。
チキンなど肉料理は、カツレツなどどれも味が足りない。
「調味料か何か、どこかにあるんじゃない?」
また立ってレジ付近を物色すると、オリーブオイル、タバスコ、マスタード、胡椒、食卓
塩、砂糖などのほか、日本の銘柄の醤油まで棚に並んでいる。
私は、変だと自分でも意識しながら、醤油を手にしてテーブルへ戻った。
チキンカツは、醤油で味が付いた。
私の隣に高齢の女性がひとり、座った。前に中皿一つ、中には梅ぐらいの大きさのジャガ
イモが20個ほど転がっていた。いかにも質素な食事だった。
1人で何かぶつぶつ言っているようなので、食事時の会話を求めているのかと話しかけた。
「パリに日本料理の店はある?」
「ある、ある。たくさん。今は日本人がいっぱいいて、日本料理もいっぱいあって、日本人
はたくさん食べて……」
私たちのトレイにある数種の料理に眼を向けながら、贅沢な食事を非難しているように感
じてしまった。
この店へは続けて3度も行ったからか、私たちがトレイに採り始めると、棚の向こう側か
ら厨房の係が、
「ポワッソン? リソット?(魚だよ、炊き込みご飯だよ)」などと、わざわざ前に出した
りした。
結論を早めるが、パリでした食事の内、いわゆる「フランス料理」には一度も出会わな
かった。パリの住民でもあまり出会わないのが、日本で言う「フランス料理」ではないかと
私は認識している。 |
☆ [その9]、サクレクールの雀 ☆
パリの地下鉄を乗りこなすのは、人が言うほど難しくなんかない。構内の掲示に何が書か
れているかを知って、私は迷わなくなった。地下鉄乗車の二回目からである。
路線の終点駅名が必ず示されいる。
だからメトロ路線図を手に持ちさえすれば、迷うはずはない。
行き先への不安から解放されると、経済的な利用法へと考えが働く。
切符はカルネを買う。乗り換えを効率的にするために、「RER」も利用する。
時間がたっぷりあるときは、街中をバスに乗る。路線を知るのは難しいが、乗り場で表示
を丁寧に見ることと、いつも利用していそうな若い人に、行き先と(このバスで行けるかど
うか)を尋ねるのがいい。
私の経験で言えば、表示を丁寧に読んで、この番号のバスがいいと見てから、念のために
「済みませんが……」と働き盛り年齢のお方に尋ねる。
「行けますよ。私も乗ります」と言われれば、「メルシーボークー」。
でも何度かあったが、番号は合っているが進行方向が反対だった、という間違いをする。
「あちら側の、あの火のすぐ向こうで、この番号のバスに乗ります」と教えられると、
もう間違わない。
「火」とは「交通信号」のこと。中世からの歴史が、なんだか想像できることばだ。
こうしてバスに乗っても、ドライバーにまったく愛想のないのがいて、切符を後で買うの
か先に買うのか、コインをどこにいつ入れるのか、聞いても返事をしないのがいる。
ナポリなら、聞く前に誰かがそばにきて、ここにコインだ、とか、ここに切符をつっこ
んでパンチを入れるんだ、とか、小学生同士が教え合いっこをしてるみたいな雰囲気があ
るが、パリジャン(パリジャンヌ)は、見つめないふりをして世話など焼かない。
プラバシー尊重主義も、私のような「お上りさん」には、水くさい都会人に見えたりす
る。
道を聞けば、わざわざいっしょにそこまで連れて行ってくれる、という世話焼きの親切
心のほうが、はるかに人間性を感じる。
モンマルトルの丘に上がり、サクレクールを背にパリの街を一望にするとき、もっとも
目を引くのはアンバリッドだ。黄金の建造物がひときわ光っている。
でも私はこれを見に行ってない。アンバリッドの名称が私に深く悲しく忌まわしい
イメージをもたらすからだ。
「ヴァリデーション(validateの名詞形)」ということばがある。例えば乗車券など、こ
の日から乗れる、つまり有効化することをいう。「有効にする」が「validate」。
「アン」は反義にする接頭語。つまり「有効であったものが、有効でなくなる」意味で、
「廃兵院」と日本語訳されている。
戦争なる「この世の存在」を全身全霊でいとわしく思う私は、これを「アンバリッド」
と称しても、金色のきらびやかさで世間に見せ「廃兵院」と名づけても、一般病院より患
者が丁重に世話を受けていると思えるようにしても、受け入れがたい感覚を否めない。
「敗残兵」、「満足に存在できない残疾兵」と内面では理解してしまう。
だから、そばまで行くことはない。
ルネさんを訪問したとき、帰国前にパリの一番好きなところを見て帰ることにした。
とは、サクレクールである。言葉を分解すれば「聖なる心」の意味だが、私をまず引き
つけるのはあの白さ、それにあのとんがり帽子型の堂や尖塔である。見飽きないどころか、
いつまで「いっしょにいたい」感覚に陥ってしまう。
それまでは数度、まずモンマルトルの丘へ上がり、ついでにサクレクールを見る順序だっ
た。私は自分の足と自分の目で見るに当たって、もっとも美しい「出会い」を演出しよう
と願った。
それは、メトロから地上へ出て、いきなりサクレクールが目に入る、というものだった。
果たして薄暗く流入人口の多い街の狭い通りにいきなり出ることができた。まぶしい地
上の薄汚れた上方の丘の上から、純白の塔は迎えてくれた。
通りを選りながら、近づいて行き、丘のすぐ下の喫茶店に入った。テーブルは塔を観賞
するのに最適の場所を選び、まずトイレを頼むと、地下にあるそこの鍵を貸してくれた。
体調にも心情にも問題のない状態で、妻と二人、サクレクールの純白を眺め上げた。
納得するまで見ることにした。
喫茶店の外、丘の裾にメリーゴーランドが回っていたが、あまり客はなさそうだった。
その向こうに石段がある。
その石段に、おじいさん(おじさんかも)がひとり、腕を前に差し出し、手先に餌を差
し出して立つ。するとそこへ雀が来て、手乗り文鳥のように、おじいさんから餌をもらっ
ては食べる。野生の雀が人になつくのも、ほんの口笛で雀を安心させるのも珍しく、その
場を数人の観光客が見物する。
純白にして聖なる大聖堂のおおらかな慈悲心の海に浸されて、無心に雀を慈しむフラン
スの翁、人の乗らないメリーゴーランドも手回しオルガンの音楽に包まれ、いつまでも無
心に回っていた。
二人は、コーヒーを前にするものの、飲むために座っているのではなかった。
明日もう一日だけパリにいて、フランクフルトへ去る。
サクレクール「さん」、またいつか、会えるかもね。
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☆ [ その10 大英博物館の OK ] ☆
一日や二日で見切れるものではない。British Museumのことである。
入場に先立ち、持ち物の検査がある。係員が前の台上に鞄や手提げ、リュックなどを置く
ように示し、持ち主自ら開けて見せるように言う。
私も妻も怪しまれる物は持たないから、数秒で終わる。
その時、大男の係員が「アウ、カーイ!」と叫び、びっくりした私は大男の顔を見た。
こんどは普通の声で、「アウ、カイ」と言い、<入っていいよ>と手で示す。
「OK」は「オーケー」ではない。「アウ、カーイ」なんだと、気づいた。
入ると、無料パンフの日本語版もある。でも、場内の表示に従って、見たい物を考え
ながら進むのが、勉強にもなるし、理解も行き届く。
この日、二日目の昼前だった。
歩き疲れてしまった妻は、
「しばらくここで休むから」と、何でもない場所のベンチに座ってしまった。
私も立ち疲れてはいるが、まだ好奇心を大いに遺していた。
「30分ぐらい? ひとりでその辺を見てくるから」と、奥のオリエンタル展示の場所へ
進んだ。アジアとかオリエンタルとか呼んでも、単純ではない。30分で見終えるとすれば、
ごく一部分に限る必要がある。
「Hindhu」と示された場所へに入った。そこには一見、仏像と見えるものの陳列が多かっ
たが、仏像とは異なることにすぐ気づいた。
なんとそれらの多くは、男と女の抱擁像だった。
尋常な抱擁ではない。たくましい肉体が激しく強い意志力を持って、その眼光を初め
表情からも全身からも、レーザーが出ているかのように射出する「もの」があり、それが
中心の一点、相手の女像にするどく注ぎかけている。
相対して呼応する女体は、まずその腰を男体にしっかりと密着させ、両側から男腰を
搦めて締め付け、揺るぎなく安定させたのを根拠に上半身を斜め後ろに反らせて男の
表情を見上げる。そして同じくそのまなざしも乳首も、すべての表情も、見えざるレー
ザー光線となって愛と歓喜とを注ぎ返してやまない。
シバ神と女神?とが成す歓喜の像だった。
小さいのから大きいものまで併せて数百体の陳列を、飽きるどころか、歓喜の「気」に
圧倒されたまま、私はしばらく佇んでいた。
ややあって、少し我を取り戻し、私は部屋のいちばん大きな像のそばに歩み寄った。
その抱擁像は、御浜石のように漆黒で、全表面が何百年にもわたって人に触れられ続け
てきたのか、光沢を持っていた。
前面から数分間見てから、私は腰を低くし、その足下から「密着の中心部分」がどう
なっているかを知ろうとした。
ちょうどその部屋には、私以外に誰もいなかったので、思いきり近づき、目をそらさず
に注視した。
「そこ」は、写実主義そのものの形象だった。どこの誰よりも雄々しくいきり立つ「男」
は、知られるかぎりの優しく軟らかい「女」に迎え入れられ、深々と密着していた。「動
きの波長」さえ見えて、目どころか心までが眩みそうだった。
専門家でもない私が、偉そうにも美術鑑賞で一家言を成すことがあるとすれば、本物を
見たからである。
ここで見た像は、かつて実用として役立ったに違いないと確信する。
この確信の眼は、例えばミロのヴィーナスについても「あれは実用に役だった」と確信
できる私の成長に繋がった。
☆ ☆ |
☆ ☆[ その11 リージェントのデモンストレーション ] ☆
冬だった。
服飾に疎いわたしだが、娘からバーバリー製の土産を頼まれていた。
私はそのとき、全羊革バックスキン(ほんとうの言い方を知らない)のハーフオーバー
コートを羽織っていた。内側には、敷物のムートンのように密生した羊毛があって身を
包むから、若者がよくやっているように肌にTシャツ一枚とか、あるいは肌着だけでも、
これを羽織れば外出できるような防寒力抜群のコートを着ていた。
妻は、狐の革コート。タテに毛皮が繋ぎ合わせてあるので、数匹の毛皮でできあがっ
ており、襟元にも一匹だけ自らの口で胴を噛んで止める襟巻きをしていた。もちろんの
こと、羊よりは狐の方が数等高価である。
ピカデリーからオックスフォード方向へと歩くと、リージェントは右方向に緩やかな
カーブを作る。
その日は寒かったから、歩行者は少なかった。
イギリスは左側通行。
ほどなく前方に十数人がするシュプレッヒコールを聞いた。少年の声だった。 20秒に
一回ぐらいで「……、……!」と叫ぶ。
一列横隊に並んで通りへ向かって叫ぶその前に、あたかも指揮者が立つかのように大
きい男が、向かって立っていた。
近づくと、その大人はヘルメットを被った警官で、彼は何も言わず、ただじっと少年
たちのシュプレッヒコールを浴びるように立っていた。
「何だろう。何してるんだろう」
好奇心の強いわたしは、敢えて近くを通ろうとした。
近づくにつれて、声はますます大きくなり、やがて激しくなった。
そればかりではない。その「合唱」は、明らかに私たちへと吐きかけられていた。
好奇心は募るが、「なんと言ってるんだ」と不安な気持ちも生じてくる。
妻も、少年合唱隊のような美少年たちの激しい声を浴びながらも、いっそうそばへ近
寄っていく。
その叫びの内容は聞き取れてはいなかったが、「ファー」という発音が毎回強く叫ば
れていることに、そのとき気づいた。
「ねえ、ねえ、そばへ寄らないでおこうよ」と妻の服を引くと、
「なんで?」
「これ、動物愛護なんだよ、きっと。ファーって言うからね、毛皮、つまり野生動物を
殺すなって、抗議してるんだよ」
「……」
「早く!」
わたしは通りの右側へと妻を引っぱった。
少年たちは声をいっそう大きくして、しかもすきまを作らず、私たちを追っかけるよ
うに叫び続けた。
それは羊のわたしに向けられたものではなく、明らかに狐の妻へ向けて抗議の叫びを
吹き付けていた。
バーバリーに入ると、そこにいた客はほとんどが日本人だった。
マフラー1本ほぼ9000円。20%は税で、外国人の場合、帰国後換金できるチェック
(小切手)で返還することになっていると、店員が説明し、娘への土産を買い終えた。
「あなたも買う?」
「いや、買わない。隣の店を見る」
わたしは、この店に限らず、どこも同種のアイテムを扱っていると看て取っていた。
二軒ほど先に、マフラーを積み上げて陳列する店があり、そのチェックの柄は、バー
バリーとの差を見いだせなかった。
「スコットランド・ウールです」と店員は言った。
つまり間違いなく「本物」であるが、その「銘」はバーバリーではない。
4300円ほど、ほぼ半額だった。
動物愛護も野生動物保護も、理解できる。
でも、牛馬も狐狸も差別したくはない。ニワトリやガチョウの命も渡り鳥の命も、対
等に尊いとしてもらえないのだろうか。
☆ ☆ ☆ |
[ その12 上杉謙信と言えば ]
金田一春彦先生に教えていただいたことだが、ことばは発信者と受信者との両者の
作用で理解が成り立つことを知った。先生の名著、「日本語」(岩波新書)に書かれて
いる。
ロンドンでWest Kensingtonは、上杉謙信と言ったほうがよく通じる、とも。
この日は「上杉謙信」へ行くことになっていた。一日券を買い、バスで行く。
目的の楽器博物館に来てみると、「本日休館(closed today)」だった。
王立(royal)施設で、なぜこの日、休館なのか分からずウロウロするうち、男性が
出てきたので、尋ねると、休日のいわれを語ってくれたが、よくは理解できなかった。
「近くに何か良い参観の場所は?」と問うと、同じく王立の「科学博物館」があると言
い、場所も丁寧に教えてくれた。
たしか入館料が要らなかったと記憶する。私たちの年齢のせいか、その日に何かの
いわれがあったのか、分からない。
大きな施設だった。1〜2時間では見切れない「資料」の陳列だった。いや、例えば
カーマニアならば、1日や2日でも足りないだろう。
動力の歴史が実物で示されてあった。
風車や水車を動力とする封建社会から、蒸気機関の時代に移る。なんと高さ数メー
トルの「建造物」が、大きな動輪のはずみ車を、鉄柱のピストンが往復運動をして動か
し、数十人分の労力を一台でまかなう。
私は機関車の動輪に圧倒された少年時代の経験を持つが、ここの「陳列物」の
「それ」は、まだまだそれより幾十倍も「巨人」だった。
この巨人の剛力が産業革命をもたらして、働き自慢の男たちの仕事を町の手工業所
から根こそぎ奪ってしまったのだ。
いや、この場にはそんなコメントなんかない。これは巨大装置に圧倒されながら私の
脳内に生じた感想である。
蒸気機関車が出来、自動車が作られ、いずれもそれらが一台ごとに改善され進化して
ゆく。やがて内燃機関の改良から、レース好きの心をときめかすレーシングカーや、
おしゃれ味を加えた近代車へと、余すところなく進歩、進化の道筋を実物で展示して
いる。
場違いな告白だが、実は私は「車」を好まない。いや、「車社会を好まない」と言っ
た方が真実に近い。
だから、この陳列を「歴史」の側面に限って見たので、出口まで余さず見終えること
ができたのだ。
私がもし「車好き」で「車社会肯定論、または賛美」者だったら、冬の日が落ちて
「'xcuse me,it's the time to shut this museum」と係員に告げられるまで、垂涎
のまなざしを向け続けていたにちがいなかった。
☆ ☆ |
☆[ その13 アンタッチャブルとパブ ] ☆ ☆
そのホテルはパディントン駅に接していた。
この旅行団はすべて教育職員で、ロンドンの夜を最後に翌日は帰途の空路に就く。
だからこの夕食は最終会食のパーティーでもあった。旅行団長はパーティーの進行役
として、副団長と私とを指名し、39歳の私は、この役が食べたり飲んだりにはとても
不便であることに、遅蒔きながら会の途中で気づいたのだったが、遅かった。
終わって各部屋へと解散するとき、相部屋の町田さんが「パブへ一度行ってみたい」
と言い、他の数名が「行くならいっしょに連れて行ってほしい」と言い出した。
この団体では、なぜか「ヤブノさんは外国語ができる」ことになっていて、注文は私に
向けて発せられる。
覚悟を決めた私を含め、5人が行くことになった。
表でタクシーを停めると、車の扉が二枚、前後に開いた。
だが中には3人ほどしか座れない。無理に詰めても4人。
ドライバーが降りてきて、「This side」と、進行方向に背を向ける席、二人分を示
した。
向かい合わせで座るとは知らなかった。
「pubへ行きたい。あなたの知っている好ましいところへ行ってほしい」と運転手に頼ん
だ。
中に収まってつくづく思うことは、私だけではなかった。
「これって、アンタッチャブルが乗る車じゃない?」
「そうだよ。でも、あの映画はアメリカ禁酒法時代のニューヨークが舞台だよ」とは確か
町田さんの話だったか。
車は10分ほど走ったが、夜のロンドンのどの辺りへ行ったのかは知らない。
赤いネオン(本当のネオン)で入り口の上に「Swan」と灯された一軒に入った。
虚栄心というのだろうが、初めて入るくせに、「Hallo」などと言いながら、空いてい
る数人向かい合わせの席を見つけて座った。
そのまま数分、……待った。が、しかし誰も注文を取りに来ないのだ。
ウエイターはいないのか。
パブ内の客の動きを見ていると、飲みたい者は自分でカウンターへ行き、立ったままで
肘をつきながら飲んでいる。
私はみんなに、「ビールでいい?」と声を掛け、カウンターに近づいた。
もちろん初陣だから、先客の注文の仕方をよくよく見学してから私の行動を決める。
「Beer, 5 pints」
担当者(waiter)は、金属製の握り手(コック=faucet)を前へ押すと、ビールが
ジョッキに流れ出る。一杯が1ポンド(pound)。だが、「5 cups」なんて言わない。
”pint”と言う。
今覚えたばかりの単語なのに、私は胸を張り声を上げた。
「ファイブ、パインツ!」
担当の男性は1杯を注ぎ終えると、泡が山盛りになったまま側に置く。
5杯を一通り盛り終えて、再び最初のカップからまたスプーンで泡を掬い去り、ビール
をまた補う。
「Thank you !」、日本人は客の側からこういう物言いをする。(紳士の国と聞いている
ここイギリスで、サービスの側も受ける側も、thank you なんか誰も言わない)
だからサービス側は、しばしキョトンと訝る。
日本人テーブルに戻ってジョッキを付き合わせ、同道の旅を祝し、謝し、そして今後の
交友をも期待し合う。
<つまみは>と見ると、店員の後部の棚にサンドイッチふうのものが置かれてはある、が
しかし、小皿のピーナッツとかソーセージとか、いわゆる口取りものはない。
<sandwichは、サヌウィッジと発音すのだったなあ>と、ふと思いがよぎる。
私たち以外はほとんどが立って飲む客で、何も食べてはいなかった。私たちもビールだ
けですでにパブの初体験は十分だった。
男たちはみな静かだった。それぞれが孤独な一人男で、ただ静かに飲んでいた。
日本人だけがおしゃべりをしていることに気づいて、いつの間にか私たちも声を低く話
すようになった。
突然、ほんとうに突然、電灯が暗くなった。手元がよくは見えないほど暗くなった。
私はカウンターへ行き、
「The lamp, damaged ?」と尋ねた。
「No, it's the time to finish. 11 o'clock.」と腕時計を示した。
「11時で閉めるんだそうです」私はみんなに告げた。
<お客さま、申し訳ありませんね。11時で店を閉めることになっておりますので……>
という日本人の姿が、多分、みんなの脳裏にイメージされていたのではないか。
この時から10年を経て、もう一度、ドイツのSteinauで<終了>を知らずにいて気づ
かされたことがあった。
☆ ☆ |
☆ ☆ その14 蜀の国 成都旅行 ☆
........九寨溝と、陳可さん、張車掌など、忘れ得ない人たち
国際港は上海の大名路にある。
下船して最初の仕事は、帰路にチェックインするための船会社事務所を、まず「表敬
訪問」することだった。手続きを確認してから、気になるチベット情報を探ってもみた。
「問題ありません」
係の女性は明るく応じた。この楽天性がいい。私たち夫婦も異国のトラブル情報を
いちいちこだわらないように努めることにした。
地下鉄駅、「柳樹浦路」へとスーツケースをごろごろと曳き、軽くはないリュックも
背負った姿で通行人に問うた。
「請問一下ba。中国銀行,在na里呀(すみませんが、中国銀行はどこですか)?」
上海はうれしい。北の大都市のように,「a前面,前面(あっち、あっち)」と、厄介払
いに似た応対はしない。
銀行も親切だった。案内係の男性が書類を示し、並ぶ窓口を教えた。
隅には水と紙コップとがある。
両替した元から、二百元だけを小さい札に換えてもらった。
柳樹浦路站から上海南站へは、上海駅一つ手前で乗り換えねばならぬ。間違えないよ
うにと緊張感を伴うが、これが個人旅行にはつきもののアドベンチャーでもあり、うま
く行くと、達成感が嬉しい。
上海南站の地下に、握り寿司をばら売りする店を見つけ、夕食弁当として見繕って
買ってから、一大ドームの駅舎に入った。三階には、当日発切符を売る窓口がある。
問題なく切符が買えた。
上海から成都へは列車内で二晩を過ごす。
かつては中国旅行のほとんどは硬臥を利用していたのだが、七十歳を過ぎてからは、
軟臥に格上げをした。四人コンパートは楽に寝られるし、上段には他人が来ることも少
ない時勢になったから、いわば夫婦で貸り切った空間になる。
それに、切符を買うのに、苦労がない。
上海から成都への途中には、歴史への興味を呼び覚ます駅名が多く、いつか機会を得
てまた来るんだと気が高ぶる。午後発の列車は、昆山、蘇州、無錫、常州と停車しなが
ら夜中の南京にも停まる。
枕元を窓際にして寝ると、停車のとき、カーテンの隙間から、ああ、南京だ、など
と外を覗きはするが、妻をわざわざ起こしたりはしない。妻も多分、〈あ、徐州よ〉と
気づいても、私を起こさずに寝入ろうとしているのではないか。
商丘、開封、……三国志を諳んじてはいないが、今、その地を走っているのは、ただ
ごとではない気がする。洛陽、三門峡、西安と来て、やや長い停車時間があった後、左
に凹字を連ねた城壁を長々と見ながら郊外へ走り出るころ、進行方向、西前方に二日目
の夕日が赤く沈もうとしていた。
夜中、山峡沿いに鉄道は走っていて、川向こうに長距離トラックのライトが光ってい
たりするのを車窓から垣間見た。列車の揺れや線路の音から、峡谷や山間、トンネルな
どをいくつも抜けるようだった。
私は半ば夢の中にいながらも、蜀の国に入りつつあるのを感じた。玄宗皇帝だって桟
道で難渋したのに、私は軟臥ベッドの上で何の苦労もなく睡眠をむさぼる。人の世の
歴史と進歩とを思わずにはいられなかった。
三日目の朝だ。よく寝たと意識しても、身体は普通ではない。
旅とは常にそういう異常を伴うものだが、成都駅(北站)に降り立ったのはまだ午前
八時だった。
中国の長距離列車は、それぞれが出発地から目的地までの一運輸機関といっても
いいくらいで、一挙に巨大群衆が列車から吐き出される。
私たちもその奔流に飲み込まれたまま改札口を出るのだが、駅員に「記念にほしい」
と叫んで、切符を貰うことは今でも欠かさないでいる。
駅員は少し破り込んで渡してくれるが、そのままくれるのもいる。
ホテルに入るには少し時間が早いのではないかと思えて、駅を背に前方すぐ右の餐庁
に「早飯(朝食)」とあるのを見つけて入った。
これは個人旅だが、まるきり当てずっぽうでする旅ではない。
予めインターネットに成都の立体地図を見つけ、駅を背に右側五十メートルほどの所
にある高層の成都大酒店に投宿すると決めてあった。
その立体地図はとても良くできていて、ビルの高低や通りの広さ、広場やバス通りの
様子も実にパノラミックだったし、カーソルを動かす都度、建物の名称や必要関連事項
も浮き出る仕様になっていた。
その成都大酒店に、私がメールを入れて頼んだ内容は、
【四月二十日前後、貴飯店に投宿したいが、神戸から船で二泊二日、火車でまた二泊
二日を経て、朝、成都に着くことになる。切符の入手や私の体調の都合で、申し訳ない
が、確実な日時をご連絡できない。できないが、お世話になりたいのは、最初の二日と、
中四日(は荷物を置かせていただいて、九寨溝観光に出掛けたい。戻ってきた時)の後、
再びもう二日、お世話になりたい。標準房間(スタンダード・ルーム)を利用したい】
と言うものだった。
すぐさまメールで返信があったが、フォントが先方のと合わなかったのか、あるいは
私のパソコンが時代遅れだったのか、かなりの「虫食い」の文章だった。つまり、中国
漢字がこちらの文字に対応しなかったから、随所に空白がある。
それを私の乏しい語学力で判読した。
その虫食い文をコピーし、私は外出時にも持ち歩いて、数日を判読に懸けた結果は、
こう読めた。
【メールを受け取り、趣旨を了解した。旅行前後のそれぞれ二日、お泊めできる。ご要
望の標準房間は一泊320元でご利用できるが、私のお薦め(建議)したいのは、VIP用
の上級の部屋があり、VIPとして登録くだされば、182元でご利用いただけるので、その
ようにご準備をさせていただく。また、あなた(nin)は中国語がおできになるようで
すから、私になんなりと仰せ付けくださるように。 陳 可】
目的のホテルに入る前に朝ご飯を摂った私と妻は、九時、二軒前方の成都大酒店に入
り、フロントで、
「我是日本人,叫 YABUNO。今天可以住?(日本人です。やぶのと申します。今日、
泊まれますか)?」と問うと、チェックイン担当の男性職員は、にこやかだったが、標
準房間(スタンダードルーム)の一日320元のを言った。
「陳可,在ma(チェン・クーさんは、いますか)?」
陳可は今、勤務ではなく、十時に来るという。
私は、虫食いのコピーを見せた。
するとフロント職員は、携帯で陳可と話し、いきさつを納得したようで、すぐ、
「ああ、行、行!」と(行=発音シンとは、よろしい、の意)、VIPの部屋、182元を
了承し、9階の部屋へ案内した。
確かに良い部屋で、洗面や風呂、トイレもきらびやかだった。
私は、VIPの意味を厳密には知らない。でも、この部屋を見て、殿様待遇を受ける人
のことだろうと実感した。
荷物を置き、服を換えると、身体の変化具合が分かるほど、緊張が解けていった。
「午前の散歩を楽しもうか」
身軽な二人は、笑顔でフロントを通り、外の大通りを天府広場へ向けて歩いていっ
た。
散歩から帰る道すがら、「青年旅行社」の立て看板を見た。ホテルからも遠くない。
中には、カウンターで応対する若い女性が一人だった。
「ni好! 去九寨溝的旅行,有?(今日は。九寨溝行きの観光旅行はありますか)?」
「有,有(ありますとも)」
「我們是日本人。可以参加中国団ma?(私たち日本人だが、中国の旅行団に参加で
きる?)」
「没有問題(問題ありません)」
話しやすく、雰囲気は気楽だった。
往きと帰りにそれぞれ一日を要し、中二日を九寨溝に滞在して観光する四日旅行
がある。
「(村のホテルは、どんなの)?」
「(三つ星クラスです。外国人も問題ありません)」
「(高山だが、寒いの)?」
「(時に零下になることもあります。でもホテルでは暖房します。外套は持っていって
ください。そして、高山に弱い人には、酸素ボンベが要ります)」
酸素は「?气」、酸素ボンベを「?气瓶」という。
「(私は高山病になりやすいので、日本から買って持ってきています)」
かつて私は、南米ペルーのナスカへ行くことにして、準備を始めたことがあった。
予行の手初めにと富士登山をしたのだが、私だけが八合目で歩けなくなってしまった。
山小屋前の路傍に<へこたれ>た私は、
「ここに一人で待つから、おまえは構わずに……」と妻を見送った、という情けない
経験をしている。
そのとき妻は、二時間経って降りてきて、富士山頂の「雰囲気」を満足げに報告し
た。
そして私は三千メートル以上の高所には、この生身では耐え得ないらしいことを自覚
してしまったのだった。
「yang气瓶,我帯来的(酸素ボンベは持ってきた)。但是只有一瓶(一本だけだけど)」
女性職員はにこやかだった。
「没有問題,山上na儿都可以買(心配無用、山上のどこでも買えます)。zhe儿也nin可以
買,120一瓶(ここでもお買いになれますよ。一瓶120元です)」
見せて貰った。
日本のはピクニック用の小型魔法瓶に似て、手軽にできている。純度97%とも記され
てある。名古屋のスポーツ店で、700円で買ってきた。
ここ成都のはやや大きく、ポテトチップスの紙筒ぐらいで、帽子ふうの口当てが冠せ
てあった。純度の表記はない。
中国へ来て、日本でよりも高い物品を見るのは、めずらしいことだった。<日本の
方が安く、しかも純度が明示されている>とは、しかし口に出しては言わなかった
「参加了,一个人多少銭ne(参加すると、一人いくらなの)?」
「交通住宿観光吃飯一共85?銭。但是其他自己弁(乗り物、宿、入場料、食事、
全部で85元です。それ以外は自分持ちです)。」
「謝謝a。可能下午或者明天,我們再来約定ba(ありがとう。午後か明日、また
来て予約するかもね)……再見a!」と青年旅行社を去るとき、もちろん約束を裏切る
気持ちは毛頭ない。
「思ったよりずっと安く行けるじゃないか」と二人の足どりは軽くなって、十分後には
成都大酒店に戻り着いている。
すべてが順調に進んでいる。
満足感で明るくなった私は、陽気な足取りでホテルのフロントまで帰ってきた。
日本でなら、さしずめ<ただいまー>と声を上げるところだが、私は中国語の<ただ
いま>を知らない。
「ホイライラ(回来了)!」
大きな声を上げるとき、フロントには先ほどの男子職員以外にもうひとり女性職員が
いて、笑顔を大きくしながら、私に声を掛けたなんと陳可さんは、女性だった。
年の頃は二十代半ば、大学生の雰囲気からまだ抜けきっていないふうで、時々、英語
を交えながら話した。
「九寨溝旅行は、もう日本で予約されてますか」
部屋の感想を尋ねた後での質問だった。
「いいえ、日本ではしておりません。でも、ついさっき、大通りの青年旅行社で、九寨
溝旅行をほぼ決めてきましたが……」
「え、本当ですか。で、料金も払ったのですか」
「いいえ、まだ。今日の午後か、明朝にしようかと……」
「支払いがまだでしたら、ぜひ、こちらの旅行社でお決めいただくのがいいと思います」
と言い、私が妻に話の内容を日本語で伝える間に、男性職員と何か相談をした。
私たちも、まだ即答を返すには到らなかった。
「その料金は、高すぎることはありませんが(不太貴)、私たちのお薦めは、もっとよ
い計画です。責任を以てお勧めできるものです」
男性職員は、真顔だった。陳可さんも、同じ姿勢、同じ意見でことばを重ねた。
「どうしようか。青年旅行社のは悪くはないのだそうだが、もっといいのを責任を以て
お薦めできる、って言ってるんだ」
二人の内緒話は、遠慮がない。大声で話しても、相手を傷つけることはない。
「分かりました。あなた方を信頼します。お薦めの旅行社をお願いします」
もちろんこのことばは、きれいな日本語に書き直してあるが、私のたどたどしい中国
語で返事をしている。
「じゃあ、明朝、九時に。すぐ隣の商務室で」と約束を交わし終えて、部屋へ上がった。
船旅には風呂がある。でも列車にはない。
VIPルームの真っ白で大きいバスタブにゆったりと湯を湛え、芳香溢れるシャボンを
傍に置き、ゆったりと身を磨く。さっぱりした後に、また湯を換えて浸る。
三日ぶりの喜びだった。
広いダブルベッドに気ままな身体を預け、時差2時間も気にならず熟睡できた。
朝食にはたっぷり一時間を掛けても、まだ現地時間は八時だった。
約束の時間に商務室に入ると、陳可さん以外に三人が待っていた。
紳士はホテルの社長、淑女は副社長、そして四十歳前かと思われる旅行社の女性
が名刺を差し出した。
「中国語でも英語でも、ゆっくりと話してくだされば理解できますから」と私は予め伝
えた。
さほどうまくはない私の中国語でも、これまで実用に役立ってきた経験がある。
陳可さんは、だから十分ほどは傍にいたが、断りを言ってから席を外していった。
旅行社の女性は、A4版二つ折りに印刷された複写紙を二枚、卓上に出して、説明
を始めた。
所々の項目で問われるから、「シン(いいです)」と答えると、下のカーボン紙をず
らしてはチェックを入れる。
<不動産の契約でもないのに>と感じるほど、旅行の申し込みとしては大げさな契約
書だが、旅行社は「甲」で申込者は「乙」、「甲」は「乙」にかようかようしかじかの
責任を……などと書かれてある。費用に含まれるもの、含まれないもの、事故の場合の
保険、途中、自己都合で取りやめる場合、等々、素直に聞き、素直に応諾していた。
旅中の食事も「午餐郷土風味八菜一湯」などと、料理の品数まで書かれてある。
最後に、私たち二人はそれぞれ日付と署名とをした。
これで九寨溝旅行への参加契約が成立した。
明朝、七時半にバスがホテル前に迎えに来る。
「朝食はバスで食べていただくように、弁当を用意しておきます」と副社長が言った。
社長が何か言うと、再び副社長が、
「六時半にモーニングコールを入れますが、それでいいでしょうか」と言った。
「ありがとうございます。それで私たち、荷物をすべて持って降りてきます。九寨溝
から帰ってくるまでお預かり願います」
手筈は、すっかり整った。
代金を支払うべく、私は部屋の隅へ退き、腰のベルトを緩めて肌着に密着した百元
札の束を取り出した。
再び座り直したとき、旅行社の女性の携帯電話が鳴った。
それはやや長い話になり、声も次第に大きくなった。
数分の電話が終わった時、私の悪い予感が的中してしまった。
「外国人は九寨溝へ行けなくなりました」と女性が言った。
理由は言わなかった。
「政府が外国人を入れては行けないと決めました」と、社長が言った。
「……」
私はしばらく黙っていた。
日本でならありえない事態の変更だった。少なくとも理由を説明し、参加者である
私の了解を求めるだろう。また、急な変更には、旅行社としても当局へ抗議の行動が
あるだろうし、詳しい説明を求めるだろう。
私は、日本人の中でも平均よりはかなり強く「権利」意識を有する方だと自負して
いる。この時だって、その「意識」がなくはなかった。
でも、このやや長い沈黙はいつになく冷静な判断をするための時間だった。
数分の沈黙を経て、やおらソファーから上半身を起こした私は、誇りを失わないよう
に努め、明瞭に宣言した。
何もかも私の内面へ飲み込んでする重い宣言だった。
「我是外国人。??国家政府决定的,我同意。我?不去了(私は外国人です。
あなた方の政府が決めたことに同意します。私たち、行きません)」
「それじゃあ」と部屋に引き上げようとするとき、三人は、早くも元の柔らかい表情を
取り戻していて、
「楽山大仏や峨眉山はどうですか。二日のも三日、四日のもあります」と代わりの旅行
を薦め始めた。
社長も副社長も、それに参加しないのはみすみす宝を失うようなものです、とも言っ
て誘った。
チベットのラサに暴動があり、極めて大きな関心を、感性面でも理性面でも私に引き
起こしている。
三月十日の「怒号、銃声、人命、血しぶき」など、ロイター電の報道を、ひたすら公
表しまいとする動きも、原因を外国勢力による援助や扇動とするプロパガンダも、私の
認識は、それらを容認してはいない。
十六日には、四川省のアバ県にも暴動が発生した。
ここは九寨溝に近く、チベット族居住の観光地に外国人が入境することに、政府が
過敏に反応するのは分からなくもない。
事の是非はひとまず措くとしても、九寨溝観光をするべきかどうかについて、私なり
の事前検討をしてきたつもりだった。
例えば友好団体の見解はこうだった。
ラサ暴動の場合は、観光経済の進出と現地経済との格差が大きくなり、不満が
溜まったのだろうが、九寨溝の現地人はみな観光業に携わり、生業を得ている。経済
的な不満はないだろう、と。
中国入りしてからは、あからさまに情報を求めてはいない。この種のことで情報を積
極的に求めるのは、この国では「虎穴に入って、虎と対面する」ようなもので、危険き
わまりないからだ。
だから、さりげなく察知する努力をするのだが、船会社といい、ホテルといい、そして
肝腎の旅行社といい、「実態」をよくは知らないらしく思われた。知っていることは、
「チベット人に不埒なのがいて、政府と暴力で争った」と認識していることだった。
政府発表以上の情報ではない。
だから政府の決定に、疑いを抱くはずもなく、そこに問題を感じることもない。
私も、内面の「憤怒」を表に出すことは、慎んだ。政府は「私のもの」ではなく、また
私は「介入」するほど向こう見ずでもないからだった。
「樂山大仏、峨眉山、二日コース」を、同じように複写紙の下のカーボン紙をずらしなが
ら、「行」、「行」と一つ一つチェックを入れ、署名しては参加「契約」を終えた。
中型観光バスが各地からの参加者を、成都駅や市内のホテル、招待所で載せて回り、
最後にこの成都大酒店へ来る。八時頃に私たちを乗せると、一行はまず樂山大仏へ
向かう。
読者の各位には申し訳ないが、樂山大仏へも峨眉山へも、ご案内するつもりはない。
いや、誤解いただきたくないのは、中国人旅行団で観光した私と妻は、それなりに大い
に楽しんでいる。日本からの観光団よりは、数等も有意義で、数等も友好的、かつ
中身の濃い旅行を楽しんだことを報告する。
日本人の観光団と異なる所だけを報告しておこう。
初日はホテルで朝食をせず、バス内で弁当を食べる。夕餐(ディナー)は料亭で食べ
終えてから、アトラクションを楽しむ。だからホテルへ入るのは、もうほとんど九時で、
風呂(シャワー)に入ろうにも、適切な湯加減はもうできない。そして翌朝、六時前、
バスがホテルに来て、朝食の場へと連れて行く。
三つ星クラスのホテルに宿泊と「契約書」にあっても、実際は薄暗がりでベッドに潜り
込んだ以外の「思い出」を残すことはない。
二日目の朝食の場も、私にはとてもおもしろかった。
一行は三つの丸テーブルに就くが、「ここへ」、「こっちへ」と何人かが私たち日本人
の席を取ってくれる「仲良し」行動は、とても嬉しい。
朝ご飯を先に装ってくれたり、届かないオカズを長い箸でつまんでくれたり、親切で親
身になってくれる。自分の食べる箸で、オカズを採ってくれるとき、私の内面はけっして
「無抵抗」ではないが、敢えて笑顔で受け入れ、そのまま食べることにしていた。
みんなは食べるのが速い。すぐご飯のお代わりをする。
まだ私たち二人はは、食べ始めたばかりなのに、もう立って行こうとしている。
テーブルの上に茹で卵の籠があった。そしてそれがすぐ空になったとき、主婦と思える
人たちが厨房に向かって声を張りあげた。
「服務員、服務員!」、「鶏蛋、鶏蛋!」と。
ここまでに問題はない。が、別の主婦はこう叫んだ。
「服務員、服務員!」、「鴨蛋、鴨蛋!」
「ヤーダン」とは、家鴨の卵で、日本人の私は、この物言いに変に「国際性」を強く感
じてしまった。
前夜の観劇は「川劇」のさわり部分をアレンジしたものだった。
「変瞼」と「吐火」は何と迫力あることか。また狂言に類する「笑劇」や「雑伎」も、
エンターテイメントとして質が高かった。
観客には、ファンの常連が多いらしく、アンコール(重演)の拍手が鳴りやまず、応え
た人気俳優は舞台衣装を脱いでカラオケを歌った。
あまりに力強いその歌唱に感じ入った私は、同宿の義姉妹にタイトルを尋ねた。
「?我再活五百年」と教えられ、<覚えて帰り、唱ってやる>とファイトを燃やした私は、
成都の街中でメモを示しながら、歌詞の所在を探したが、見つけられなかった。
予定を二日も余した私たちは、成都市内観光を自由に楽しむことができた……はず
だが、事実は楽しんだと言うより、「実態」をよく観る時間を得ることになった。
成都駅と広場を隔てた向かいの商場の二階に、喫茶店がある。紙コップのコーヒー
一杯を飲みながら、外を見下ろすと、成都へ到着した朝、ホテルへと歩いたのとは反対
側のタクシー乗り場や駅へ入る人々の流れが、見下ろせる。その様子をわけもなく見て
いた。
このような「観光」を二度もした。しかもいずれも二時間余に及んで観察している。
二度もそうしたのには訳があった。単に時間を持て余しただけではなく、私の「科学的
認識」を確実にしておきたかったからである。
日本の場合だが、駅裏には「社会実態」のよく見える場所があるものだ。
例で言えば、私の学生時代の名古屋駅西地区は、人間のエネルギーがうごめいている
雰囲気だった。大阪には西成地区があり、東京には釜ヶ谷があったが、それと似通う
「人の生態」を見たものだ。
昔の名古屋の経験で言えば、物が異常に安く手に入る。どこかにアングラの匂いがす
る。すきを見せるとつけ込まれる、などなど、不法や違法の雰囲気もある。
どこからともなく客引きが寄ってきては声を掛ける。
貧困と不法、そこに身体を張って生きる人々。
今回、この「観察」に先だって、私たちは駅裏を歩いている。一番ショッキングな情
景は、赤色の多い衣服を掛けた(まとった)子守女の姿だった。
子を負ぶった婦人、しかも垢じみた人が異常に多かったが、その理由を話すには類推
より憶測が勝る。
開け放たれた建物の前を通るとき、中に一婦人が子を背に負って立っていた。
何をするでもなく、ただ立っていた。肩から先は肌を露わにしていて、問題は、その
上膊で、
「その部分」だけが異常に膨らんでいた。腕の太さの二倍にも膨らんでいたのだ。
肌の赤黒さから、高山の民族だろう。
子を背負ってでもできる女性の「かせぎ」は、哀れみで食や小銭を乞うことだろうが、
それらが二の腕の膨れあがる結果を引き起こすとは思えなかった。
私は見ないふりをして通りすぎようとした。歩幅を拡げ、無造作に放り出されている
水たまり除けの板切れを、敢えて跳び跨ぐ振りをして、前方へと急いだ。
<薬物だ>と跳びながら思いつき、すぐ取り消した。
<いや、あの膨らみは、売血だ>と。
赤みがかった衣服の高山性民族を、見ないようなスタイルの急ぎ足で「観察」しな
がら、やっと鉄道で働く男子労働者が行き来する駅裏すぐまでやってきた。
外の人通りも、先ほどの路地に比べればいかにも広い。床屋もあり、髪を刈ったばか
りの頭を軒先の側溝の上に差し出して、洗って貰ったりしていた。
食堂があり、中には十人ほどが飲んだり食べたりしゃべったりしていた。
私たちは入った。
妻は私に「日本語をなるべく話さないことよ」とささやいたのも、何かを察知したか
らに違いなかった。もちろん私にも納得できている。
適当なテーブルに座った。汚いテーブルに汚れたビニールのテーブルクロスが掛けて
ある。床の土には残り汁か食べ滓かがあちこちに散らばっている。
「牛肉面,有ma(肉うどん、できる)?」と、近づいた服務員の女性に問うた。
繰り返して書くが、私は単に肉切れの混じった汁にうどんが入るものを注文しただけ
である。つまり庶民に一般的な「肉うどん」を注文しただけである。
「有(あります)」と相手は答え、私は、
「両个(二つ)」と付け加えた。
それだけである。
店内のざわめきが「消え」た。
私の脳内の血が急に「冷め」た感覚になった。けれど、それを察知していない「ふり」
をし続けた。
先ほどの服務員は、注文を伝えに厨房へ行ったが、そこに止まり、老板(店長)と思わ
れる婦人と「ひそひそ」話しをして、なにやら指示されている。
さりげない振りを装う私の内面は、いよいよおだやかではありえなかった。
<私のことばが、ここでは異質だった、ことは間違いがない>
<このようなことはよくあることで、今までなら、服務員以外にお客までが、好奇の眼を
寄せ、
「nei辺来的ma(どこから来たの)?」、
「na国人ma(何人なんだ)?」、
「日本人ma(日本人なの)?」、
「旅游ma(旅行なの)?」、
「去什me地方(どこへ行くの)?」
などど話しかけられ、時にはもみくちゃになるはずだが>
<彼らが極度に警戒しているのは、いったい何故なんだ>
先月発生したあの暴動やそしてそれに続く事件と、関係があるに違いなかった。
見慣れない二人のことばが、普通話らしいことが、この場を氷のようにしてしまったの
ではないか。
私と妻も黙したまま、食べ終えた。あからさまではないが、みんなの視線が私たちに向
けられているのを意識していた。
立って入り口脇で代金を払うときも、服務員は静かに「十?銭」と言い、私は黙って外
へ出た。
十メートルほど歩いてから、小さく抑えて、やっと声に出した。
「誰かが探りに来たとでも思ったんだろうか」
今、見下ろす駅前の広場は、表側、つまり昨日見た反対側だった。
一般的に駅の表は美しい。ここも例外ではない。大きな駅ビルディングは、街の主人
として辺りを見下ろし、駅舎ビルディング前には広場を有する。対面する商店街はビル
内に入って商場と呼ばれ、一階は食品やお菓子以外にインターネット喫茶があった。
その二階には飲食の店があり、今、私たちはトレーの上にコーヒーを載せて、窓際に席を
取っている。
先ほど、奥にいた大学生が私たちのそばに来ていきなり言った。
「私は、日本語を学習しおります。コンニチワ」と。
ややどぎまぎしたが、
「ああ、それはいいことですね。日本語を学ぶには母音がだいじです。母音、ムーイン,
分かりますね」
すると学生はすかさず言った。
「私は急いでいます。失礼します」
まるで職員室で応対する学生のようだったが、習った日本語を試してみたかっただけ
なのだろうか。
窓のすぐ下を人が歩く。当然のことで、私に特別な関心はない。広場の真ん中へと曲
がる角に、天秤棒で担いできた大きな果物の籠を置き、売り子が通行人に声を掛け
始める。
大半の通行人は相手にせず、通りすぎる。
中には若い女性が立ち停まって果物を手に取り、何度も取り替えて選び、売り子と話
す。
値段交渉だろう。物別れに終わったふうだが、女性は果物を自分の手提げに入れて
去り、売り子は追っかけるように声をあげ、しかしすぐお金を下腹の前の「かくし」に
納める。
時々は、よれた札の端をのばしたりしてそろえ、束にして再び「かくし」に納めなお
すが、十五分も商売をしないうちに、また天秤棒で籠を担ぎ、どこかへ移動する。せっ
かく客がついたばかりなのに、なぜだろうと、初め私は訝った。
売り子のいなくなった場所へは、別の果物売りが同じ天秤の姿で、すぐまた現れ、通
行人にまた呼びかけはじめる。
同様の交代劇は、十分か十五分でなされるが、三、四人の同業仲間らしく、先ほど
立っていた女性がまた現れたと私にも分かる。
人は変わっても、籠や果物はそっくりリレーされているらしい。
<労働のシェアーだ>と、定職なき人たちの<連帯感>に私が感じ入ったのも事実だ
が、やがて質の異なる別の「発見」をすることにもなった。
ここでの路上商売は御法度なのだ。
制服の公安はほとんど見かけなかったが、私服らしい「男」が駅正面から広場の真ん
中をこちらへとゆっくり歩き始めるとき、いち早く察した売り子は、<路上商売なぞは
していない>というアリバイ作りのために、すぐさま天秤を担いで歩き始める。
駅前で荷物を運ぶ人は、他にいくらもいる。商業の中心地でもある成都は、周辺の
地から仕入れ業者の集まるところでもある。
違法行為と働く者の知恵とが、窓の外では止むことなく競われ続けれているのだった。
資本主義が成長期にあり、人権にも労働権にも政治の配慮が及ばないとき、ヒュー
マニズムの根茎が生きながらるには、駅裏では細々と賣血で日を繋ぎ、表では荷物運
びの装いで露天商を営む。
でも利用者は、根茎を絶やさぬ人情を有するのか否か。どうやら私には「弱みにつけ
込み」、買いたたいて利益を絞り取っているように見えた。だけではない。そこには正
義心も公徳心も薄れ、それぞれが自己利益を優先しているから、賣血女性に命の危
険が予知されようと、血の純度にさえ気を配ることのない、「搾取」を事とする業者が想
定された。
窓の右下は、タクシー乗り場になっていた。
広場から通りへ横切る通路脇から乗り合いの場所が始まるのだが、そのタクシーの前に
「バイクタクシー」が二、三台停まる。
料金はタクシーの半額以下、あるいはもっと安いか、交渉次第で「なんとかなる」乗り
物だろう。
これも不可解な動きをしていた。
通行人に追いすがっては盛んに話しかける。通行人のほとんどは無視して通り去るが、
両手に荷を持つ者へは、代わりに荷を持って話しかけ、乗せるとすぐ、通りへ出ていく。
客が捕まらないとき、やはり数分ほどすると、一度は駐車場所を離れる。そして、私
たちの窓から見えるほどの範囲でだけ、運転して回ってから、また本物のタクシーの前に
停める。
法と違法。権利ある者と無い者。したたかな知恵比べ。
乗り合いバスが五分にあげず駅前から出て行った。
車体には「標語」が大きく書かれてある。もっとも多いのは「文明乗車」で、「和諧社
会」もある。日本なら乗り物の中で弱者を優先する表示をよく見掛けるが、「軍残優先」
は、やや趣を異にする。深入りをさけるが、「文明」の反義語は「野蛮」であり、「和諧」
は「なごやかで調和がとれている」ことをさすから、反義語は「雑多なものが互いに
ぎすぎすしている」ことだろう。
余談だが、私の物心ついたころ、日本は標語社会だった。「鬼畜米英」「討ちてし
止まむ」「一億一心」「欲しがりません、勝つまでは」「武運長久」「七生報国」等々、
人間は本来、集団の生存形態を持つことに依存はないが、それでも個性や独自性
を発揮しては歴史を更新してきた。権力側からの一色同質の人間作りが、あるとき、
キャタストロフに陥ることは、すでにして多数の例で明示されている。
先ほどから見慣れない隊列ができていた。
駅前、右側に柵がしつらえられ、地面にしゃがまされた四列縦隊があった。
脇に荷物を置く者も多いことから、列車を待つ人たちらしい。二百人大の縦隊の前に
も脇にも、鉄道公安らしい人が数人、立ち、前後に歩く。
言うまでもないが、駅舎内には千人ぐらいは入れそうな広い待合室(侯車室)があり、
その他にも別に広くて快適で、人少ない貴賓室とか軟座侯車室もあり、さらに五百
人は収容できるはずだ。
なぜこの午後、この人たちは露天で人目にさらされながら、監視付きの四列縦隊で
しゃがむのか。
私の訝りは、まもなく了解に達した。
この駅に拉?行きの列車が到着する。その十五分前、隊列を崩さぬように再三注意
を促されながら、この国にしては異常に動きの遅い乗客の隊列が、公安にまとめられた
まま当該のホーム(月台)へと移動して行った(らしかった)。
その後は、そこにはだれもいなくなった。
「なあ、おい。ここにこうして外を見ていると、評論が書けそうだよ」と妻に述懐する
と、
「ええ、退屈しないね」と応じた。
近くで夕食を済ませから攀枝花行きの夜行列車に乗るには、まだまだ三時間あまり
を過ごさねばならなかった。
適当な餐庁が見つけられなかった。適当とは、豪華でなく、その地の風土を感じる食
堂を私は想定している。
代わりに一階の食品売り場で、食パンなど車内で食べるものを買った。そして三十分
ほどの予定で、私だけが网?(インターネット喫茶のことだが、この国ではインターネット
バーという)に入った。
外国旅行の途上、日本へ無事を知らせるとき、インターネットが便利だからだ。
一人で入ったのは、入場料が一人、三十分五元と書かれてあったからだが、教室の
二つ分もある室内は異常に薄暗かった。
受付嬢は「身??」を見せてほしいと要求した。身分証のことである。
この場は十八歳未満の入場を禁止している。百台ものパソコンを備え、そこでイン
ターネットをすることに、どんな「フウゾク」的な規制がいるのか、読者各位にご理解が
及ぶだろうか。
中が薄暗いこところからも、風紀の乱れをご想像かも知れないが、見たところ、誰一
人として隣と身を寄せ合ったり、いちゃつたりはしていなかった。強いて言えば、今、
スカイプ(skype)という、いわば「テレビ電話」ふうの通話手段がある。未知の出会い
でも、顔や声をリアルタイムに感じ合いながら、大胆な「交友」ができる。それを利用し
ている人があるようで、つい声を大きくし、他に聞こえると、周辺がクスクス笑い声を
発生させるが、それは偶発的なことで、意図的でも集団行動でもない。
私はパスポートの写真のページを開きながら、帽子を脱ぎ、薄くなった頭部を指さし
ながら、
「?看,我不是十八?以下(ほらごらん。私十八歳以下じゃないよ)」と言う。
諧謔だが皮肉でもある。私が未成年でない証拠を確認する「常識」をすんなりとは
受け入れない。
服務員少女に、表情の動きは皆無だった。空き席の番号を示し、選ばせようとした
ので、
「喜歓明亮的地方(明るいところがいい)」と言うと、その番号札をくれた。
前方、右側の窓に近い一台だった。なんとかキーボードも見える。
ところがカバーが手垢で汚れ、すり減って、ローマ字が読めなかった。
周辺の空席を二つ見つけ、そばへ寄ったが、どれももっと見にくかった。
私は若いころの「苦学」が幸いして、ブラインドタッチができる。そして外国から家族
への無事を伝えるとき、日本字を打ち出すのに苦労するから、ローマ字か英文ですること
にしている。
「yahoo japan」と入れて、待つ。
通常なら一分も掛からない。見慣れた「YAHOO」画面が表れ、右下に娘や息子の
アドレスを入力すれば、すぐさまメッセージが記せ、十分後っ・すべてが終わっている、
はずだった。
<なんということだ>
検索を遊求しても、カーソル「ヘネット造界のどこ・さまよっているのか、いつツワで待っ
てもyihoofjap疣を見つけ出してはこないのだ。
<この台、故障してはいないか>
其の商酒名や宣伝物など、試Ψにクリッ¨する「ニ、難ネく表れ擾てきツト・画面は中国
語がいっぱいにな弟。
<それじゃあ、もう一度>・yahoo japanを入れると、そのカーソルは∞行ったきり>
で羨私の要求に応いない。・
辨えられまいとき、んの世界では、『要求された○○は見つかりませ「。確認してモ・・
直してくださご」という・うな刀ッセージが返されるのが常だj、それもなえ。
<動いてくれない>のだったB5壊、6回と繰り返して、私は嬬めし。
通常のホ膜フでツヘないよ判鍛すた。
J
服務員にパソコンの番号札を返すと、料金の半額を返した。デスク前面の「・定」の
全文を改めて読んだが、返金のことヘ措く書いてなかった。
んの夜行列車は_北京をm発してきた。
一漠二日をかけて夕刻に成都λ着くと羨ほと・らの乗客ぐここで降りてゆく。やや長
い停車時間で車内も整え直し、再び攀枝花へと運行を続ける。
だから車両外側の表示はまだ「北京→攀枝花」とあるが、実質は「成都→攀枝花」
のようだった。
私たちは出発時刻の十分前には、軟臥のそのコンパートに入った。
切符を買ったとき、その部屋に別の人が来るか、どうかを私は尋ねている。
「分かりませんが、たぶん様子から見ると、あなた方二人だけになるように思えます」、
と係は言っている。
意外にも、コンパートに人がいた。私たちよりほんの少し年を取った夫婦が、下段に
座り込み、荷物もベッドの下に入れて、「自分の場」にしていた。
<席を間違えている>と私は感じ、切符の記載を示し、席の番号を指さしながら、
「すみませんが、ここは私たちの席ですが」と声を掛けた。立ったままで、である。
すると、意外な応えが返されてきた。
「ああ、構いませんよ。どうぞどうぞ。ここへお掛けください」
なんと相手はにこやかに私たちを迎え入れていた。
<困ったことだ。座席の指定制度を理解していない>
「私たちが買った切符は、○○番と□□番ですから」と繰り返して言っても、
「構いません。問題ありません。ここへお座りください」と、客人を歓待する応対の言葉
を繰り返すばかりだった。
車掌が外を歩いてきた。
「ちょっとお願い」と呼んで事情を言うと、車掌は二人を廊下に呼び出し、話を始めた。
その時間から推し量ると、二人になかなか納得されないでいるようだった。
車掌は説得するのに、なぜか「リーベンレン(日本人)」の言葉を何度も使っていた。
私たちが「何人」であろうと、指定席を占拠されていたことに違いはない。二人の正し
い指定先へ誘導するか、間違いを理解させるかするべきだろうに、なぜリーベンレンを
以て理解させたのだろうか。
二人が去ってから、私たちがそれぞれ下段を「ものにした」とき、車掌はにこやかに、
「早めに部屋の鍵を閉めたらいい」と言い、「ここをこう回せばいいのです」と教えた。
しかしそのことにも、私には疑問が生じたが、言わなかった。
窓際で私たち二人は早速、夕食の食パンを食べたが、さほど食欲もなく、すぐ軽い
服装に着替えて掛け布団を被り、横になった。
列車は動き始め、カーテンのすきからは駅が動いて見えていた。
コンパートのドアが引き開けられ、一人、そしてまた一人と四十代ぐらいのビジネス
マンらしい男が二人入ってきて、それぞれ上段のベッドにカバンを置いた。
背の高い一人は、紺の背広を来たまま、また外の通路に立った。タバコを吸うのだろ
うか。
もう一人は、上着を脱ぎ、中にいる。
「?上好(今晩は)!」と私は声を掛けた。
ビジネスマンも挨拶を返す。
私は、掛け布団を身に纏ったままで、上半身を起こし、後ろにもたれて、
「?坐(お座りなさい)」と薦めると、私のベッドの上に腰を下ろし、話が始まった。
同じ部屋で夜を過ごすお互いが、ことばを交わさないは不自然だろう。私はそう思っ
ている。
「どこまでですか」、「どこからですか」、「日本人ですか」、「旅行ですか」、
等々と、毎度あるように話が進んでいった。
彼も終点の攀枝花までだそうで、同じ道中を夜行で過ごす。攀枝花にある会社の本
社が成都にある。出張を済ませ、その日の内に飛行機で帰る予定だった。ところが、
要件が予定より長引き、電話を入れると、もう航空券がなかった。やむなくこの列車に
乗り、車内で係員に尋ねると、軟臥があったので来た、といきさつを語った。
ビジネスマンの出張には、すでに飛行機利用が当然になっていることを知り、私は
自分が時代遅れの世代になっていることを感じながら、会話を続けていた。
背の高いもう一人は、挨拶はしたものの、座って会話に加わることはしなかったし、
ややあって、通路から戻ってからは、上段へ上がったまま、すぐ横になったようだった。
私の話し相手は、<日本では男性中心社会だそうだが、本当か>、とか、<仕事
がきつく、仕事の後は飲み屋でストレスを解消するそうだが>、などと、日本の実情を
知りたいと思っているようだった。
もう寝ようか、と思うころだった。
彼はわざわざ紙に書いて、私に問うた事があった。
「あなた方はこうして中国におられるが、中国人はあなた方日本人のことをどのように
感じているとお思いですか」と。
私は即答をしなかった。
軽はずみを避けたこともあるし、対日感情を様々に慮ったからでもある。そして自分を
偽らない感じ方を、この働き盛りのビジネスマンに全面公開しようとしたからだった。
「私は色んな国を旅しました。異国の旅から様々に学ぶことがあるからです。……どこの
国にも、他国民を嫌う人も、好きな人もいます。日本でも中国でも同じです。私は中国が
好きだからこうして旅をします。中国にも私を受け入れてくださる人も毛嫌いされる人も
あるはずです。……事情はどこの国も同じです。ただ異なるのは、政府です」
彼は、私を見つめて、静かに返した。
「私たちの国にも歴史の問題にこだわる人がいます。でも、それは古い世代です。私たち
にはもう問題ではありません」
ご心配なく、ゆるりと旅をなさい、とのメッセージだった。
私の口から、
「?安(おやすみ)!」につづけて、
「??(ありがとう)!」のことばが出たのは、飾りでも社交でもなかった。
攀枝花の二日間は、忘れがたい記憶と内容の濃い報告を残しているが、別に記す。
攀枝花七時発の普通列車(慢車)は、夕方六時に昆明に着く。
他の列車は、真夜中の出発だったり、未明の到着だったり、あるいは夜行列車だった
りで、私はこれしかないと判断した。
ホテルの隣の「めしや」で、まだよく茹だってもいないような麺の朝食を摂った。
前夜からわざわざ頼んでおいたのに、客への応対がなってなかった。
攀枝花始発の列車なのに、改札と同時に「全力疾走」の徒歩競争が始まった。
私たちは、でも走らなかった。私の体調が優れなかったし、さもしい根性を自分には
容認したくはなかったからだ。
ホーム上の騒音が各車両内に吸い込まれていったあと、変に広いプラットホーム上を
妻と二人でスーツケースをゆっくりと転がして、その車両へ上がった。
中は果たして騒音の渦だった。私たちの席は、デッキに一番近く、右側は三人座席列
だが、そこだけが二人席の向かい合わせだった。
妻と私は、掲示物を貼った板壁を背に座った。
妻は、体調の優れない私を慮り、窓際に凭れて、できれば眠るようにと言った。
「一生懸命にしゃべらないのよ」と諭されてもいた。
関口智宏氏が、テレビで旅を紹介する。中国では列車内で、時にはもみくちゃになる
ほど関心を持たれ、モテている。
この若くハンサムでタレント性に富む俳優が、中国の庶民の中で引っ張りだこになる
のは、当然だろう。
しかし、しかしだ。私たちだって、うっかりするとすぐ「関口智宏」状態に成ってしま
うのが中国の「実情」であることも、報告しなければならない。
そうなると、乗りやすい私は、息を吸う間もあらばこそ、声を出し続け、相手と精一杯
の交流をしようとする「性癖」を持っている。そして疲れてしまう。
そういう性向を妻がよく知り、いちばん心配している。
体調の優れないとき、「関口状態」で疲れ切ったらどうなるのか。、彼の場合はテレビ
カメラの裏側にはスタッフがいるのだろうが、私にはいない。昆明到着時には、疲労の
困憊が訪れるにちがいないと妻ばかりか私自身も危惧していた。
朝の七時を早朝だとお感じになる人は、まだ「この旅」の仲間ではない。中国時との
時差は2時間でも、あれは北京時で、ここ成都では九時でもおかしくない外の様子
だった。
攀枝花は山に囲まれた炭鉱産業と大水力発電所の街だが、道中、列車は山間ば
かりの線路上を苦しげに走る。私は専ら窓外を眺めて、乗客とは交流を絶っていた。
一時間ほどもそうしていた。
いくつ目の駅だったか、妻が驚きの感想を伝えた。でも周りに日本語を聞かせない配
慮から、小声ではあったが、
「あれはどこ行きの線路かしら」と。
今渡って来た谷の底に横方向に走る線路が見下ろせる。私も身を乗り出して、五十
メートルばかり下を見た。
「変だなあ。こんなところに鉄道はないよ。新線にしては古いし」
女車掌がそばまできていた。
通路側の妻に、デッキへおいでと誘った。
私は立たなかったが、妻がついて行き、しばらくして戻ってきた。そばに女車掌も立っ
ている。
「さっき、あの下の線路を通って来たんだって」
つまり急勾配をループで上ったのだった。
「へええ!」
私の驚きに車掌は、もう一度、手を頭上で大きく回してループを説明した。
胸に「張 某」の名札がついていて、駅に到着するたびに乗降の管理をするが、それ
以外の時間は、すべて私たちのそばにいた。
車掌の仕事は、日本より大変だ。
乗車時、まず担当車両の乗降口のホームに立つ。乗車券を確認し、担当一両以外
の乗車券なら、乗車を許さない。
出発すれば、上がり口でデッキのステップになる鉄板を引き込める。テーブルほども
ある鉄板だから、たやすくはない。それが済むと、いま乗った客の席を確かめて歩く。
時には身??(私の場合はパスポート)を確認する。
合間を見て、数駅に一度、通路を掃除する。
それが日本では考えられないほど大変で、通常のゴミ以外に、ひまわりの種の食べ
かすなど、バケツ二杯ほどもの量を、箒で押しながら掃き進めてゆく。
もう一つ、日本と異なることがあり、デッキまで掃き進めてから、車外へ勢いよく掃き
出されるから、ビール瓶なども一気に土手の後方へと捨て去られて、それでその車両
の掃き掃除は終了する。
駅務のあとは、すぐ私たちのそばに来る。
「どこから来たか。成都ではどこを観光したか。九寨溝はどうだったか。峨眉山はどう
だった」など、すべて聞いた後で、
「これからどこを観光するか」と尋ねた。
「昆明から是非とも西双版納(シーシュアンバンナー、タイ族の街)へ行きなさい」と
言い切った。
「水掛け祭があるのです」から始まって、張車掌はその場で、
「こうやって、水を汲んで、こうやって、好きな人をめがけ、ホーラ、ホーラと
こうやってぶっかけるんですよ」
女性が主人公の祭のようだった。
張さんは、気分の乗りきった演技を見せていた。
水汲みの身の屈めようも、掬って立つ動作も、そして特に、私に向かいながら、
「すきな相手を追っかけて、ぶっかけるの」といいながら、身体ごと水掛け身振りを何度
も繰り返した。
「好きな相手」の中国語<対象>とは<モーションを掛け対象や見合いのお相手、
恋人、フィアンセ、早々の配偶者など>に広く使われる語彙である。
タイ族の生活にも日本の歌垣やかがいのようなほほえましい人類史がまだ生きている。
張さんのご好意は、彼女自身を青春に引き戻し、異国の老人を好ましい未婚青年
に見立てて演じられたのだった。
でも今回の私たちの計画に西双版納行きはなく、行く先は大理の白族だっが、それは
言わなかった。
「とても楽しい祭ですね。ありがとう。でも、私には誰も水を掛けないかも知れない」
「そんなことはありません。みんながあなたに掛けますよ。スブ濡れです」
辺りの乗客がみんな声を上げて笑った。
近くまで来て立っている者もいた。
こうして静かに窓際で静養するはずの私は、関口智宏状態になってしまった。
「もうお昼です。残念ですが、この列車には食堂車(餐車)がありませんから、私が
カップヌードルを買ってきてあげます」
私たちの意向を尋ねなかった。どこで販売しているのか、彼女は前方の車両へと移動
していき、数分後に丼状のを二つ、ビニール袋に入れて戻ってきた。
「お湯を持ってくるから」と再び、前方へ去り、よく見かける二リットルも入りそうな
ヤカンに湯をたっぷり入れて持ってきた。
「ここを少し開いて……」と自分で蓋を外し、中を覗きながらお湯を流し込んだ。
「五分後に開けて、これら(薬味)を入れたら食べられます」
私たちは、昨夜から用意していたバナナと菓子パンを、その昼食には摂らなかった。
終着十五分ほど手前の昆明西駅が近く、列車は速度を下げていた。
張さんには笑顔も冗談もなく、名刺を差し出しながら、
「何か役立つことがあったら電話をください」と言った。
「ホテルは決まってなければ昆明駅大酒店をお薦めします」とも言った。
私には忘れがたい出会いになった。
車中の出会いを、もう一つ紹介したい。
私と向かい合わせていたのは、五十代後半の男性だった。
北京に近い都市の工業学校の教授だと自己紹介した。
まず受けた質問は、年金をいくら国家から受けているのか、と言うことだった。
私は手帳を出し、人民元レートを十五円ほどに想定して計算を始めていると、結果
を見ずに言った。
「私の月給(工資)の九倍だ」
私は申し訳なく思った。働くている人の九倍の収入で「観光」を楽しんでいる。人の世
のなんたる不条理。
「日本は我が国よりも三十年、いや五十年も進んでいます。私の国では、例えば化学
の物質名など、まだまだ世界水準ではありません」
そう言えば炭素(tan)、窒素(dan)、塩素(lyu气)、水素(qing气)、
酸素(yang气)などと、この分野では、日本が辿った道とはまったく異なることが分か
る。
また経済や政治用語などとは雲泥の差だ。そして分子式や反応式など、私には理
解が行き届かない分野での不満が語られた。
話題は次に、礼儀(モラル)になったが、教授は車内にも届く声量で、日本のそれを
褒め称えた。
「孔子の教えの伝統は日本にある。感謝も礼儀も人の道も、日本には生きている。
それに引き換え、我が国は……」と、地に堕ちた「人の道」批判をやって退けた。
私は周囲の乗客に、申し訳ない気持ちを抑えられず、さりとて「先生、お言葉が過
ぎませんか」とも言えず、ただ曖昧に笑いながら、
「ありがとうございます。日本人として喜ばしいことです」と言っていた。
教授のモラル論がますます昂じ、熱が入りそうなとき、私は手で遮って、
「ですが、今、日本の若者でも、公徳心に欠ける者がたくさんいます。例えば、都会の
電車の中で、若者が弱者の特別席を占拠し、そばに老人がいても席を譲りません。
わざと寝ているふりをするのです」
私は、よほど大声で「日本だって同じです」と言ったつもりだったが、教授は肯んじな
かった。
声もよりいっそう大きくなった。
「我が国のは、ひどい。他人を突き飛ばしてでも、自分の利益を優先するのだ」
私は、話題を換えた。
「もともとあった儒教思想を、そんなにも壊したのは、いったい何が原因でしょうか」
この答えは、私には私なりにある。
でも教授の答えは意外だった。少しの時間があって、
「それは清朝です。あれは漢族ではなく、満州族が支配しました。その間に大事な物
が失われたのです」
私は<そうですか>とも<私の見解とは違います>とも言わなかった。少なくとも、
為政者たちは、儒教を大事にしたことを私は知っているからだった。
いつの間にか若い人たちが十人あまりも私たちのそばに立って聞いていた。自己紹介
をしたり、何大学で何を学んでいるとか、聞きもしないのに言ったりした。日本のことを
尋ねるのもいた。
一人の大柄な女性が前へ出て、起立不動のまま言い始めた。
「社会科学院で歴史学を学んでいる学生です。中国は女系社会から始まりました」
この女性もやはり私の意向を汲み取りもしないで、一方的に話した。
「女性が社会を取り仕切りました。母を中心に家庭生活はなされ、それを基礎として
社会の単位ができていました。女性は社会的に地位がしっかりしていましたので、考え
をはっきり表現することができました。そういう社会の中で商の文化や殷の歴史が現れ
てきます」
「請等一下(ちょっと待ってよ)」と、勢いある話をちょっと打ち切ってもらって、聞き
たいことがあった。
「どうしてそんな話を私にするの(為什me,ni対我説zhe様的話儿)?」
私に歴史を語らねばならぬ必要を彼女が感じているのはどうしてなのか。ひょっと
して、日本人の歴史観が誤っているとの彼女の「先入観」が今暴発しているのでは
ないか、と私は感じるほどだった。
「ちょっと待ってよ(請等一下ba)」と二度言って、聞き入れられず、中国の先史時代
を、まるで口頭試問に望んだ受験生のように、直立不動で語り続ける女学生に、私も
同等の大声で言い返した。
「あなはひょっとすると母系社会の人か(ni可能是从母系社会来的ma)?」と。
きょとんとした表情に変わった女学生は、話を停めた。
私(男)の言うことなんか意に介さず、女(学生)が一方的に話して構わない社会なん
か、どこにもない。もちろん人類史に一度だってそんな世はなかった。相手が日本人だ
からといって、歴史の講義を強制される理由などどこにもない。
ある駅に停まった。
そこには休暇村の看板が出ていて、二十人あまりの学生が降りていったが、彼らは
デッキへ出る前に、一人一人が私のそばで立ち止まり、自己紹介をしたり、挙手の
敬礼をしたり、握手を求めたりしてから、降りていった。
ホームでは、彼らが列車といっしょに歩きながら手を振ってくれた。
「いい絵だね」と妻に言いながら、私も身を乗り出して手を振り続けていた。
斜めの席に老人夫妻が孫を連れて乗ってきた。
足下には、紙の袋に首だけ出して入れられたニワトリがいた。
観念しているらしく、もう騒がなかった。親戚へのお土産だろうが、たぶん今夜、宴席
を酣にする役割だろう。
私は話したかった。
「何かないか」と妻に求めると、日本のアメ菓子があった。
孫に、「吃ba(食べな)」といいながら、手渡そうとすると、幼子はお婆ちゃんの胸元
に顔を隠してはにかんだ。
お爺ちゃんが、代わりに手を出し、受け取った。
もちろん謝謝(ありがとう)なんてない。それがこの社会の通常だから、構わない。
お爺ちゃんは、両の手でアメ菓子を包んだ紙を解き始めた。労働でかさかさに乾き、
足裏のような厚みの親指、黒い土か垢かを閉じこめた蛎殻のような爪、逞しく反り返っ
た人差し指の厚い爪、農作業のこまめさと器用さとでビニールの紙をはぎ取って、まず
は自分の口に入れた。異国の食べ物の安全を確かめたのだろうか。そして、孫に与えた。
口に含んだ孫は、そっと横目で私を見た。
私は笑顔を作って、坊やを見返しながら、「好吃的ba(おいしいだろう)」と言った。
祖父にも祖母にも、そして本人にも返されてくることばはなかったが、和やかな笑顔を
見せていた。
あるいは方言以外に発する術を知らなかったのかも知れなかった。
ある駅のホーにでは、中央部に一列縦隊ができていた。
停車位置とは関係もないから、十人ほどの隊列は、停車と同時に最寄りのデッキへと
左右に開いていった。
「ねえ。趣旨の理解とは関係なしに、通達がなされると、こんな事態になるんだね」
私は脈絡もなく、日本であった「廃仏毀釈」を連想していた。
友人のK君に依れば、明治政府のお達しで、お地蔵さんを谷へ落とした人たちがい
た。そして生涯、祟りを悔やんだと伝えられている。
上海では、「文明乗車」とは、「日本人のように並び、日本人のように乗車し、日本
人のように席を譲ること」と理解されていた。
この駅では、乗車するには並ぶ(排?)ようにその筋の指導があったのだろうが、どう
理解されているのだろうか。
昆明の駅ホテルはとても気に入って、その後、何度も利用させていただいた。
昆明やさらに周辺奥地へ行くいわば基地にもなった。
風邪を引いた時、危機感を持って昆明人民第二病院へ行ったり、延泊を願ったり、
遠出の間の荷物を預かってもらったりなど、何度も安心感をももたらせてくれた場所に
なった。
私が昆明を好きになったのも、帳さんやこのホテルを除いては考えられない。
☆ ☆
|
☆ その15 シンガポールの恐喝 ☆
そのころ(私の退職当時)、ヨーロッパへ直行するには日本航空が普通だった。
エールフランスやアリタリア、ブリティッシュ・エアウエイなどを利用する人もあるには
あった。
いずれも日本からヨーロッパへ直行する。直行とはいえ、アラスカのアンカレッジで
2時間ばかり降機時間はあったが。
やがて大韓航空などのソウル乗り継ぎで、少し安く行けるようになった。
娘がニューヨークに住む。二度行ったが、大韓航空とアシアナ航空を各一回ずつ
利用している。
今から話す「この時」は、私の届き得る限りの航空便情報から選んだもので、シン
ガポール航空だった。<南回り>と言った。
シンガポール乗り継ぎでパリに着く。
2週間あまりヨーロッパを歩いて、再びシンガポールに戻ってきた。朝の到着だが、
日本へのフライトは14時間後で翌朝の0時を過ぎる。
それまで丸一日の昼中、シンガポール市内を見て回ることにしていた。
チャンギ空港から外に出る。
表でバスをゆっくり探そうと思っていたのだが、すぐタクシー・ドライバーに捕まってし
まった。
それを無視してバスの方へ行けばいいのだが、どの方角へ行けばいいのか、あいに
く調べてなかった。
誰かに尋ねればいい。でも、タクシー・ドライバーたちは次々と私たちをターゲットに
して追いすがる。
「How much ?」仕方なくなって、シンガポール・ドルのレートも分からないのに尋
ねる羽目になった。
相手も心得ている。
「5 US Dollars, to sity centre.」
乗って行き先を告げねばならぬ。オーチャード・ストリートへ出よう思っていたのだが、
通りの名だけでは、<この日本人、分かってない>と侮られそうな気がして、
「ラッフル・ホテル」と告げた。
有名ホテルの正面にはドア・ボーイがいる。彼らの目の前で法外な料金請求もさ
れにくいだろう、とは私の読みだった。
メーター表示のとおりに支払って、私はチップを弾まない。
レシートがちぎられ、私は受け取る。と同時にドアが開き、ドア・ボーイが手を開い
て迎えた。
車のトランクへ向かおうとするのを、
「No, I have no laggage.」ととどめる。
ボーイは、そのまま表の通りへと歩く私たちを中途半端な表情で見送った。
私たちにとってシンガポールは初めて歩く街だった。とにかく繁華街へと歩くうちに、
とてもきらびやかな店の前に来た。
「金行」と膨らんだ金箔文字がタテに大書してあり、カービン銃の番人もいた。
内部は金のジュエリーを扱う宝石店に見えたが、入ると数カ所に天秤ばかり
が置かれてある。
ご存じだろうが、金は延べ棒で取引されるとは限らない。オンスやグラムなどの小単
位で売り買いされるケースが圧倒的に多い。1グラムが¥1,800、売り時だと思う人
は指輪やイヤリングを天秤ばかりに載せ、買い時だと思えばネックレスを秤にかけるな
り、小粒のグラム金槐を求める。
「金行」とは、このとき初めて見る言葉で、初めて見る店だったが、「銀行」が銀本位
の流通であるのと同じく、金の流通商場だってあることも理解できた。
もちろんだが、私たちは何も買わないし、売らない。私の好奇心が金細工の飾り物
とその値段とを次々と見続けていた。
店員から、誘いの言葉はなかったし、また、疎ましがられることもなかった。
でもシンガポール人たちは、ひっきりなしに店員を呼び、尋ね、売り買いを重ねていた。
壁には相場が掲示され、ちょうどその時刻だったらしく数字を取り替えていた。
昼食できそうなところを意識しながら歩いていくと、広い市場があった。
多分そこは、朝の間に賑わったのだろうが、この時刻にはほとんど人はいない。通り抜
けると何かあるだろうかと、青物も果物もない台ばかりの間を歩いていると、突然、
「エイッ!」と叫んで私の前に少年が立ちはだかった。小学校5、6年生ぐらいだった。
何を要求しているのか、と思う間に、私を見上げるようにしながら、右手で私の襟元
を掴み上げてきた。
私が振り解こうとする前に、少年は斜め後ろを見るように指さした。
数メートルの向こうに大の男があちら向きに腰を掛けていて、上半身は裸、肉付き
のいい肌の上いっぱいに刺青(入れ墨)が掘ってあった。
少年は、「エイッ!」の他は何も言わず、「それ」を見るように要求して、私の喉元を
締め上げようとしていた。
<オレたちはそのスジの者なんだ。タダでここを通れると思うなよ>と言っているのだろ
う。背中の刺青を背景に私を脅迫している図だった。
少年の手を振り払うのも、怒鳴りつけるのも、わけはないことだった。だが、そのとき、
刺青の大男がどんな行動を起こすのか。そしてその時、私は身を守るためにどう行動
し、どう叫び、など、思いは脳内を駆けめぐっていた。
妻が、いきなり私と少年の間に割って入った。ことばは何もない。
少年は手を放し、後ろに下がった。
そして、私たちは走るでもなく、逃げるでもなく、その場を歩き過ぎたのだった。
私は小心者で、しかも反応は鈍い。妻の素早い対処で、時間外で人気の少ない
市場を通り抜けはしたが、胸の内は収まってなんかいなかった。
市場を出てからも、その近辺にはとどまっていたくもなかった。
早足で15分も歩いてから、雰囲気の異なる街に出て、やっと気持ちの変化が得られ
たとき、もう1時をかなりすぎていて、お昼ご飯を食べる「べき」時を感じていた。
一軒の広東風のレストランを見つけて入った。
看板も漢字なら内部もすべて漢字だった。英語で話してみると、あまり通じなかった。
かといって、私の話す中国語の普通語(プートンホア)はまったく通じなかった。
おかずは、野菜と鶏肉があればいい。ケース内に皿に盛られてあるのを、三皿取りだし
てから、小母さんに、
「お粥が欲しい、あるか」と問うた。
お粥は、中国語では「ジョウ」という。「ジョウ、ヨウマ?」と言うのだが、分かって
くれない。
手で椀の形を作りながら「パイファン、ヨウマ(白飯はある)?」というと、
「ファン(飯)」が分かったのか、私を厨房に入るように誘った。
厨房に大きな羽釜(ご飯を炊く釜)があり、小母さんは蓋をのけて、「これ?」と私の
表情に問うた。
「オーケー」
お椀に2杯、真っ白なご飯を装ってもらって、先の尖ってない長めの箸も二膳、さらに
は卵を溶いたおつゆが、テーブルに並んだ。
ご飯は、長粒米(日本のお米とは異なる)だったが、炊きあげたばかりのご飯の匂いが
私の心を打った。
箸で野菜を採り、ご飯を掻き込み、おつゆをゆらしながら食事をするうち、なぜか涙が
出そうになった。言葉で表現できない懐かしさが、そこはかとなくにじみ出るのだった。
もちろんご飯はお代わりをした。
食事も終わりに近づく頃、私はやっと自分の気持ちを理解することができて、言った。
「なあ、おい。ご飯だろ? そして箸だろう? おつゆ。こうして食べる食事って、何日
ぶりなの?」
視野に入る漢字、ご飯の匂い、茶碗の音。
日本へはまだまだ一晩の道のりを残すのに、私の感情は故郷、東洋の雰囲気で感
傷的になっていた。
無意識の自己が発見したことだった。
☆
|
☆ その16 ローテンブルグの夢と現実 ☆ ☆
☆ローテンブルに夢の国があった。
ある日、テレビが北極圏を映していた。遅い春が来て、ツンドラにお花畑ができる。
その真ん中に寝そべってご満悦の熊がいた。
〈クマも人間と同じ感覚なんだ〉と私は感心した。
子供が中学生と小学生だったころ、伊良子崎へ旅した時、畑が一面の菜の花畑だった。
私は百姓の育ちだから、ヒトサマの畑に無断で入るには、モラルの抵抗がある。だが
子供たちは平気だった。菜の花の「海」に入って、時に潜り、時に顔だけ出して泳ぐ。
花の世界に浸って花と戯れていた。
普段は何かと口やかましい私が、一時間あまりも子供たちの楽しみに任せて、自由な
時間を許したのは、花へのある微妙な感覚のせいだろう。
桜、特に満開の桜の下にいるとき、「下照る姫」ということばが連想される。
30〜40歳代を勤めた四日市南高校は、西北の裏門へ上がる石段のの手前、入学式
のころは、「野崎詣」の歌詞のように、
「どちら向いても 菜の花盛り、粋な日傘に、チョウチョも、停まる」
と高田高吉に唄ってもらえば、なおのことだが、唄はなくても、見る人すべての人の顔
が桜色で、現実を超えている。いや、現実を抜きん出た世界に在る。
「清水(きよみず)へ 祇園(ぎおん)をよぎる 桜月夜 今宵逢う人 みな美しき」
は与謝野晶子だが、このムードも世俗の現実ではない。
いや、申し訳ない。早くローテンブルグへお連れしよう。
私が団体ツアーを好まないのは、すでにご存じだろうが、最初、ローテンブルグに
3時間ほど観光をしたのは団体でだった。
小さな街に木造の城壁があり、付近の田野へ警戒の眼を緊張させていた「遺産」を
まず観光する。
土産物を薦められたあと自由行動になったとき、偶然に入った店は私の魂を奪って
しまった。
置かれてあるのは、すべてがクリスマス・グッズだった。
どちらを向いても、クリスマス飾りの賑わいで、60歳近くなった男が現実感を失い、
妙なる賑わいと夢の世界に浸っていた。
数年経ち、私は公職を卒えていた。
この時、私と妻との個人旅行は、メルヒェン街道を、いや妻が好きなグリム兄弟に
ちなんだ場所を巡るために、まずはフランクフルトに降りていた。
一泊が二人で¥6000ぐらい、でもとても気に入った宿に、
「1週間ばかり後でまた戻るから」と荷物を預け、リュックだけの身軽さになって、
「一番札所?」ハーナウへと向かって、二人のグリム・ピルグリムが始まった。
「巡礼」とはなかなか言いにくい。
私に信仰心がないからだろうが、ピルグリムなどと言えば、人生的な探求心を求めて
の旅に聞こえるのは、これも私の管見か偏見か。
「3番札所」がローテンブルグだったか。
個人旅はおもしろい。だれも世話を焼かない。
分からなければすべてを偶然の出会いに任せ、「Excuse me」や「Bitte」を連発して
は、日々の、いちいちの問題を泳ぎ抜けて行く。
もちろん列車(Deutche Bahn)は2ndクラス。
ツイン(同行者が二人以上の旅の割引)でセーバー(有効期間中、乗った日だけカウ
ントする)パスを買えば、日本の青春切符とまではいかないが、かなりお値打ちな旅が
出来る。
DB(Deutche Bahn)の幹線から支線に乗り換え、二つほどの駅が終点のローテンブ
ルグ。
駅前へ出て、やおら地図を広げ、どちらへ足を向けるべきかと辺りを眺めるとき、中
年婦人が一人近づいてきた。
「you reserved hotel for tonight ?」
あまり流暢ではない。だからよく分かる。
「No, not yet.」と答えながらも、客引きには心を許さない。
「I have a nice room for you. Come to my house, please.」
「この人ね、家に泊めたいって言ってるよ」
私は妻に言い、
「見るだけ見ようか」
「Is your house near here ?」、「How much for one night ?」、
「contains breakfast ?」、「shower ?」「the toiletts in the room
or outside ?」
などと必要なことはすべて尋ね、でもまだ用心深い私は、
「I'll follow you and see the room. And then I'll decide.
OK ?」
「OK. This way.」
婦人は駅前広場の傍らに停めてあった赤い乗用車に私たちを乗せた。
車は町の門を通り越し、ずんずん進むので、
「Isn't it far from the gate of the town ?」と気になっていることを告げると、
「Not so far from the north gate.」
信じることにした。
住宅街の中に家はあった。
下の階には、一人、若者が机に向かっていた。
2階に案内され、踊り場にススキの穂か何かがドライフラワーにして壷に入って
いた。
部屋は申し分ない。ベッドも心地よさそうだった。トイレもシャワーも、特に
コメントはない。
「OK. We'll stay. Ahm, how much for tonight ?」
「One night ?」
「Yes, one night」
「△△Mark(\5000弱)」
「Ou Kay」
交渉は見事に成立し、私たち夫婦はくつろげることになった。
「どこか外で昼食をしようか」と出る支度をしながら、窓の外を見ると、なんと
すぐ手が届くところまで桜の枝が手を伸ばしている。
6月だったから、もちろん花はない。
黒々とたわわに実を付けている。
個人住宅の中庭に桜が二本、植えられていて、その一本だった。
窓の下、キッチンガーデンで、先ほど私たちを車に乗せてきた婦人が、青菜を
採っていた。
「ケンネン ヴィアー ネーメン?」
桜んぼを指さしながら、尋ねた。<採ってもいい?>との意味である。
「ヤー」(いいですよ)
黒く大きい実だった。
二人は手が届く色のいいのを選んでは、採った手から口へ運んだ。
いくつ食べたか。少なくとも十数個を超えるだろう。
止めたとき、また後でもいだらいい、と思った。
「うまかったなあ」
二人は言い合いながら、外出するために階下におりた。
玄関へ向かう前に、中庭を拝見、と、裏口から出てみた。
ここの主人がいた。無口そうで私より若干背の高い人だった。
「グーテン、ターク」
「グーテン、ターク」
一晩だが同居人として、礼儀を忘れない。
先ほどの婦人は、レタスふうの野菜を抱えて中に入る前に、こう言ったように
思う、
「息子が今度、大学を受験するの。いっぱい食べさせないと」と。
息子は浪人してるのかも知れないし、ちょうどバカロレアの直前勉強をしてい
るのかも知れない。
私はご主人に近づいた。
彼は、もう一本ある桜の木の傍にいた。
近づいて、私はこちらの桜には、実が一個も成っていないのに気が付いた。
「こちらの樹は、花だけのための樹ですか」
日本では実のならない桜花だけの、つまり観賞用の桜の方が多い。
「Nein. hab verkauf shon im Marktplatz」(いいえ、もうマーケットに出した)
この時のショック、申し訳なさは、私を厳しく苦しめた。
百姓出身だから余計に分かる。
作物を勝手に取って食った。
そして詫びることもなく、厚顔のままで、外出した。
ことばを知らなかったからでもあったが。
外国にあって方角を正しく知るのは難しい。
北門に近いと聞いていたが、そこは裏門に思えた。
入って進むと、町の中心は教会前の広場で、傍らに噴水と池がある。その縁に
休むともなく憩う数人の人と話した。
あのクリスマス・グッズの店へ行くための情報を得る魂胆があったからだが、
そこにいる人はみな観光に来た人ばかりだった。
私たちは自分の勝手な勘で左前方の商店の多そうな辺りへと進んでいった。
十歳ぐらいの少女が、バイオリンを弾いていた。
演奏には迫力もないし、テクニックの美しさも感じられない。本人はいやいや
弓をひいているのではないかと思われた。
私には音楽とは別の関心が湧いて、少女の傍まで行き、直立したままじっと
様子を見た。
前に開かれたケースの中には、コインが1個しか入っていなかった。
多分それは、あらかじめ自ら入れて置いたものだろう。
私が近づいたとき、聴衆は私一人だけだった。そして増えようとはしなかった。
<可哀想に>と思った。
通りかかるでもない女性がいたので、私は少女を離れ、女性に声を掛けた。
「少女の親は、なんであの子を稼がせるのですか」
親が少女の稼ぎを強制しているのではないかと思ったからだ。
「音楽を習うとは、こうして人が聴く演奏かどうかを学ぶんです。親の教育です」
この東洋人は60数年も生きながら、しかも教育学を修め、生涯の仕事は教育だっ
たにも拘わらず、少女の姿から街頭で稼ぐ貧しい家への哀れみと同情しか持ち合わ
せなかったことを恥じた。
なんと井戸の中の蛙だったことか。
***
私は10年後、民主文学でこの話を書いている。
残念なことに、きわめて残念なことで嘆かわしいが……民主文学に集う人たちは
もうそれが理解できないほど「劣化」を来していた。
プロレタリア文学の伝統を継承する会だと自称しながら、そのころすでに、例え
ば丸善にこの月刊誌はまったく置かれなくなっていたし、全国発行部数も3000冊を
切っていた。
つまり「買われない=読まれない」月刊雑誌になっていた。
そして編集局からは、読者を広げるように、と二ヶ月に挙げず会員に要請がある。
共産党の「新聞あかはた」と同じく「読者拡大」の訴えばかりがなされていた。
そのことへの批判を込めて、私が書いたのは、
「演奏して、前のケースにお金を入れるネウチがあるかどうか、試したらどうか」、
との趣旨を、この例を以て書いたエッセーだった。
プロレタリア文学の魂が詰まった「演奏」を書いているのなら、買い手も着くだろ
うし、世間の評価も受ける。「演奏」の実を云々しないで、売り上げを要請するさも
しい精神をエッセーで表現したのだったが、気付いたのか気付く気がないのか、気付
く知恵がないのか、私のエッセーに関心を示そうとした人は、少なくとも名古屋の会
員にはいなかった。
半年の後である。「しんぶん赤旗」は減紙を続けた挙句、月に8億円の赤字を計上
するようになったと、いつもは隠していることを「告白」した中央委員会は、一ヶ月
3400円に値上げしている。
案の定だが、売れない主な原因は新聞の質、報道の質に読者の評価が下っているの
であって、それ以外のことではない。
その後も、減紙の坂を転げ下っている。
民主文学も同方向に同現象をしている。
***
クリスマス・グッズ店へ急ごう。
近くの人らしいのに、
「クリスマス・グッズ」ばかり置いている店への道を尋ねると、
「ここをまっすぐ200メートル、右に曲がって100メートル、ここからはこの方角」と
教えた。
ドイツの旅はいろいろ学ぶが、ここでもそうだった。
道順を教えるのはどこの国でも同じだが、その場からの「方角」を示したのには感
心した。
クリスマス・グッズの店では、一歩入るやすぐ、数年前の妙なる美の幻想に浸るこ
とができた。
もちろん何も買わない。
大小中のあらゆるグッズが、私を夢想の中に導いたのか、夢想がグッズのそれぞれ
を夢構成の部分に取り込んでしまったか、いずれにしろほぼ一時間の正夢に浸った。
帰路、ここにも古井戸が遺されてあった。誰かが処刑されたとか書いてあった。
裏門を出て、サクランボの宿へ帰る途中、道のすぐ下で畑を鍬で耕す男性に出会っ
た。
あまりドイツ人らしくない。
「何を蒔く?」から始まって、様々に私の好奇心は質問を続けた。
この痩せた畑は教会が持ち主。
この男性はアラブのヨソの国からの流入者。
教会の畑を耕す農夫などはもうないので、耕して管理すること、採れた作物はすべ
て耕作者の物になること、の二条件と引き代えに住まいを提供してもらっている、と
言った。
日本にも耕作放棄地が多いが、参考になる良策だと私には思えた。
農民は農業を捨てても、いわゆる途上国の人には大きな価値を持つ。そういう、い
わば国家間、相互の異相の差を以て国土を無駄にしないこの国を、また一つ偉いと
思った。
余談だが、サクランボは「キルシェ」といい、教会は「キルヒェ」と言う。
売り物を勝手に食べた罪を意識する私が、若干発音の悪い外来の男性と話すとき、
「サクランボの土地とは何を意味するか」、などと、恥ずかしい誤解をしながら交わ
した会話である。
でもこういうことがあるからこそ、団体ツアー旅行などにはない自慢の体験をする
ことが出来ると、私は思っている。 ☆
|
☆ その17 ハメルンの野外劇 ☆ ☆
☆ ハメルンも大きな町ではない。
ドイツの鉄道駅は、町の中心から離れた場所にある場合が多く、ここもそうだった。
だからと言って、駅から町のセンターへ行くのに迷ったことは一度もない。
それにはワケがある。日本も見習うべきで、最近は街路の角々に表示(道案内)を
掲げる場合も多いが、ドイツはそれだけではない。
町のセンターから駅へ通じる通りを例外なく「Bahnhof Strasse(駅通り)」と名付
けている。
だから翌日、駅へ戻るときにも、川を渡り柳の下道を通り、さらには立木の間を潜っ
ても迷うことはない。
国は違うが、同じくドイツ人の街、ウイーンで番地の記載を頼りに目的場所を探した
ことがある。
電車の中で地図を広げていた私たちをすでに見ていたにちがいない。降りたらすぐ近
寄って来て、
「May I help you ?」と善意を表明してくれた婦人がいた。
「Thank you. We want to find this adress.」と番地のメモを見せて通りを歩く。
初め右側を見て、次に左側を見ようとしたとき、
「This address No. isn't there. You'll find in this side.」
なーるほど。右側が奇数番地なら、左側は偶数番地。
これなら分かりやすい。
私の住む名古屋なんか、何丁目までは分かるが、番地となればぐるぐる回らねばなら
ぬ。地図上だって大変だ。
知恵の問題だろう。
ハーメルンも例外ではない。駅から10分以上を掛けて町に着いた。
この日は土曜日だった。
だからだろうか、候補としてメモしておいたホテルを訪ねると、
「あいにく今日は部屋が空いてない。明日はいいが」と言われ、もう2、3軒で、
「Haben Sie ein Zimmer ?(部屋はありますか)」を繰り返すことになった。
やっと見つけた民宿風の宿だったが、私たちに不満はない。
リュックを降ろすと、すぐ外出する。3時過ぎに始まる野外劇を観る前に、町の観光
をしておきたい。
先ほど通った町の入り口まできて、そこを起点として記憶に刻み込んでから、二人の
「町内観光」が始まる。
すぐ発見があった。
何でもない路地。
小さな自動車が一台通っても、もし対向車が来れば困るぐらいの狭さだった。
その通りの入り口、2メートルほどの高さに、白い板のプレートの掲示があった。
「Strasse ohne Musik」、英語に訳せば、<street without music>
これを、もしも「音楽の無い通り」と訳すなら、この町を訪ねた値打ちはない。
「音楽厳禁通り」と訳して初めて歴史の教訓に触れることが出来る、と私は理解した。
この一見なんでもない通りを、前方の奥までしばらくじっと眺め続けた後、私たちは
街の博物館に入った。
これも誤解を避けるためにお話をする。
ドイツではどんな町にも「博物館」と呼ばれる施設がある。
名称を原語で「Museum」と言うが、あるいは訳し方が間違ってるかも知れない。
要は町の歴史が分かるようなものが展示されている孜設である。
大昔から中世へ、そして近代へとその土地の住民が生活を連ね重ねてきた訳で、各時
代ごとの道具やコスチューム、事件や災害などを、丁寧に観せ、時代の様子が容易に
分かるように展示されてある。
歴史実証館とでも言えば、その実態が分かりやすく想像できる名称になろう。
さてハーメルンの博物館に入った時、日本人の団体旅行者が見学をしていた。誰かが
解説をしているでもない。気楽な参観のようだった。
私たちと展示物のショウウインドウの前で出会った婦人達から、
「日本からのお方ですか」と問われ、
「ええ」と私は答えている。
「どんな団体ですか」とは、どんなコースをどれくらいの人数でするツアーなのかなど
と尋ねるつもりだったのかも知れぬ。
「いや、私たち、団体じゃないのです」
「え? お二人ですか。……そう、ローテンブルグやシュタイナウなんて、…お二人で、
…ご自由に」と会話が進むうち、周辺から
「いいわねえ。羨ましいわねえ」と、旅の内容とは関係のないことばを寄せてもらった。
そのうち、
「私もついて行こうかしら」と誰かが言い出し、その辺の仲間が同意した後、
「このあとは、どうされるの?」と聞かれた。
「今夜はこの町に泊まります。今日はこの後、3時からすぐそこの市役所、Rathausで
Pide Peiperの野外劇があるそうです。それを観ます」
「ウワー。私たちさっき来たばかりなのに、すぐもう観光バスに戻っちゃうのよ、ねー」
私たちにはそんな羨ましがられるほどの価値ある旅をしている意識もなければ、並は
ずれの特別なことをしている気持ちもない。
でも人からそういわれれば、自分の立ち位置が、なんだかハイライトの当たる舞台に
思えてきた。
ツアー団体より安上がりの料金なのに、その人たちから羨ましがられる。
それを人の側から客観的に見たとき、自分たちは人に誇れる旅をしてるんだ、との喜
びを偽らずに語っておこう。
もちろんだが、女性の誰も、私たちの後に付いて来たりたりはしなかった。
博捉館を出てもまだ野外劇には時間があるので、町の周辺に出てみた。
大きい川だった。
川沿いの道(遊歩道に見えたが、私にそう昆えたにすぎないのだろうが)の、町側には
生け垣が長く連なっていて、私の見知らぬ植物が植えられていた。
ユスラウメの半分ぐらいの大きさの、コケモモのような実をつけていた。
その赤みが私の何かを呼び起こし、半分ほどはまだ完全な赤みははなく、黄色の実が葉
に身を隠すように控えている。
家の庭に出ている女性を見つけて、問うてみた。
「ディース、ケネンヴィア、エッセン(これ、食べられる)?」
通じたのかどうか。だがその答えがもっと嬉こかった。
「ヤーボール。You can try, ~hn?」
通じただけなら、うれしさも中くらいなり、だるうが、おまけが付いた。
「ええ、もちろんよ」と言ってくれたのだ。
さらには英語で「食べてみてはどうですか」と親しみまでも示した。
「Danke shon !(ありがとうね)」
私は赤い実をもいで口に入れた。すこし酸味が薄い甘味とまじりあい、さわやかだった。
そうやって二三度食べたあと、また取ってティッシュに包みポケットに入れた。持って
帰り、日本で蒔く。
ドイツを知らない人にお話ししよう、と。
あなたに空き地があったら先ずはどう利用するだろうか。
「花を作る?」、「バスケのポールを立てる?」、「ゴルフの網?」、「花を作る?」
私なら、まず野菜を作りたい。
敗戦後、惨めだった日本人は例外なくそう考えたはずだ。畳半分以下の土地でもサツマ
イモや南瓜、その他何でもいい。まず食べる物を作ろうと考えた。
そして今、それを忘れている人も多い。
ドイツでは私のするだろうことが普遍的になされている。
中庭があれば、野菜や果樹を。垣根には食べられる果物がなるような植物を植える。
花もなくはないが、2階3階の窓に木の箱を付けて、そこに花を咲かす。
中庭や垣根の収穫物は自家消費するだけでなく、町のセンター(大抵は教会前の広場)
に出せば、人が買ってゆく。顔見知りの人が多いから、
「あの野菜はまだなの?」などと会話して、自家消費のはずが、臨時市場に売り出され
ることもある。
無駄のない生活をこの国の人は重ねてきている。第一次、第二次大戦の補償もしなけれ
ばならなかった。ソ連、東欧の崩壊により東ドイツを同朋として分け隔てなく包み込んで、
今では差違を見いだしにくいほど同等水準の生活を維持している。
これらの過程に、無駄は許されなかっただろう。
それでもそれらをすべて乗り越えて、欧州一の経済地位を確かにしている。
この国を見ていて、私には思うことがある。
日本は超巨大借金国である。ドイツのようにこまめで着実な経済行為をしてこなかった
から、そのツケが残っているのではないか。
国民一人が1000万円を借りていることになるとは、戦後70年の今、一人にして年間に15
万円ずつ赤字を作っている。
それを国債や地方債でうわべを誤魔化している。国民は裏方が楽屋裏を見せないから知
らないだけで、外の世界に<倒産かも知れぬ>と風評が立てば、たちまち楽屋裏どころか
木戸口に暴動の津波が押し寄せる。
話を戻そう。
垣根の小果実「なんとかベリー」を楽しんでから、さらに川下へ下ると、対岸へ渡る橋
があった。
鉄の弧橋は、一見、頑丈そうに見えたが、対岸へ渡ろうとすると、「冬季、雪や氷の場
合は渡らないよう」と注意書きがあった。もと鉄道だったらしく、枕木様の木材が隙間の
下に濁った流れを見せながら流れていた。
対岸に渡っても、そちらには村里もない。
もう一度渡り戻って、ラートハウスの庭へ早めに行くことにした。
いい場所を占めで野外劇を見ればいい。
市役所の裏口には広い舞台がしつらえてある。野外舞台だから屋根はない。広さは能舞
台の3倍は優にあった。
観客席は、地面である。シーツが敷かれ、最前にはテープが引かれてある。
既にテープのすぐ傍まできて座る子供と年寄りがいた。早く来て[場を取っている]のだが、
学ぶべきことがあった。
大抵の観客が高齢者とその孫に見えた。
やって来ると、なるだけテープに近く、つまり前に場所を占める。
だが次の組が来ると、高齢者は自分の孫をその場に残し、自分たち祖父母だけが後ろに
退がって、よその孫に前の場を譲る。
その次もまたその次も、来る来る観客は同じように孫たちだけを前に残し、自分たちは
後方に座る。
だからほぼ満席になるころには、テープの下から子供たちのゾーンができあがり、後ろ
には老人ゾーンができあがる。
パイドパイパーは日本でも「ハメルンの笛吹男」などのタイトルで知られる童話であり、
それがその伝説の本場で演じられる。
ここのドイツ人にとっては郷土の生んだ伝説はこの土地の子供のものでもある。
私はそういう人々の心根に感動し、敬服した。
だが、それだけではない。
子供のための劇場である。だから観客は子供を優先する。一つの例外もなしに、すべて
子供優先だったことにも感動した。
そして、それだけでは終わらない。ドイツ人への敬意はまだある。
それは観劇の始まる前からもだが、観劇中にもあった。というのは、子供たちが、時に
は立ち上がったり、声を発したり、いわゆる子供の行為をする。
するとすかざす当該の祖父母が、後方から「ヨハンちゃん。ちゃんと座ってなくちゃ」
とか、
「ここにいるから心配しなくていいよ」とか、
「人に迷惑しちゃダメ」とか、注意を与える。
だから子供たちの秩序が損なわれない。
祖父母は保護者責任はもちろん、教育責任をも果たしていた。
野外劇は時刻通りに始まった。
ナレーションは英語で、劇中のセリフはドイツ語で行われた。
ドイツ語のセリフが、ゆっくりと、かつはっきりと行われたので、もうすっかり忘れ
ていたいくつかの単語を、場面の中で聴いて私は思い出したりしていた。
ストーリーは、書くまでもないだろう。村人の身勝手が原因で取り返しの付かない不
幸が訪れる。
私は、これは現実に起こったことだと理解した。
それは笛であったのか、他の音楽であったかのは問題ではない。
身勝手でありがちな大衆には、因果応報、とんでもないことが起こることを、確実に
後世へ伝えるための意志がその劇中に生きていた。
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☆ その18 ブレーメンの遊び銀行(Spiel Bank)☆ ☆
退職後の人生に何をするのか。やはりその年齢に達してみないとわかりにくいだろう。
かつて学校卒業後、どこへ就職するかと悩んだ、と同じぐらいに本人には大事な人生問
題である。
1934年生まれの私の場合、就職と進学は今日のようにあいまいな問題ではなかった。自
力で自活する、しかも社会的に仕事をする義務があるものだ、との前提で物事を考えるか
ら、もしも就職口がなかったら生きていくよすががないに等しい、と信じていた。
それに比べれば退職後、自分の生き方は、申し訳ないほど深刻さに欠けている。
でも深刻でないからと言って、生きていかないわけにはいかない。
いや、誤解のないように。
「何もしない」ために辞める。つまりそれを定年退職と言うのだから、定職も副職も持た
ず、フリーな日々を楽しんでいても(ほんとうは)何ら構わない。
誰かに「何をしておいでで」と問われて、「アハハ、[サンデー毎日]ですわ」と答える
先輩格の方も、私は知っている。
毎日が休み(サンデー)だと理解する人があって当然。
だが本人、その境遇になってみたら分かるだろうが、行動エネルギーはまだまだある。
物に対する興味も十分ある、一度きりの人生でもう一度一旗を揚げられるのなら揚げて
みたい、と内心は思っている。
ぼやっと過ごさず何かをしオたい。そういう強烈な何かが内から身を突き上げてくる。
私は、自分のことをひとまず棚上げして、退職後、多くの人は何をするか、関心を持っ
てみているが、なんと朝な夕な散歩とかジョギングをする人が多い。
長距立を歩く誇り、す速く歩く誇り、何年も続けている継続の誇り、夫婦で歩く誇り
等々いろいろあるのを知った。
だが申し訳ない、失礼な感想しか抱かなかったことを告白し、お詫びせねばならない。
<何だ、歩くだけのことなんだ>と。
人には各人それぞれの色の価値観があり、[歩くだけのこと]に価値を見い出しておら
れても何ら構わんのだが、私の考えでは、私が価値を有すると信じることで、それを人に
も価値を及ぼすことができ、かつ後世に遺せる物でもありたいと思っている。
私は慾が深いのだろう。並みのことでは満足できない人格になってしまっていた。
それで何をすることにしたかは、ここでわざわざ語るまい。
今回語るのは、ドイツ旅行。自らタイトルして「グリム童話の旅」へ行った経験だ。
とある日、夫婦の会話の中に「グリム童話」が出てきた。
その時、私はひらめいた。
「グリム兄弟の跡をたどる旅をしようか」
「そうしようよ」
話がすぐまとまったのは、この時だけではないが、今回はこのことだけを語る。
ドイツは観光ルートとして「メルヒェン街道」というのを用意している。もちろんそれ
を利用すれば事前立案の苦労もなく便利だろうし、日本の旅行社がすでに売り出している
『ドイツ、メルヒェン街道の旅グリム○○日間』で、「セントレアーからフランクフルト」
まで何ら苦労はないだろう。
でもそうはしないのが、私の「旅行観」であり、退職後人生の価値観にも関わる。
私は自分で計画し、自分で旅をする。
_そもそも旅の枕詞は「草枕」ではないか。
慣れきった日常生活を離れ、時には難渋をするときもある。「草を引き結んで寝る」と
いうような苦労もするのが、本当の旅なのではないか。
そしてその難渋の中に「日常の世俗世活では得られない価値が存在する」からこそ在原
業平だ、西行だ、と評価する。伊賀の芭蕉だって、評価されているではないか。
「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」、
「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」、
「ついに行く道とは兼ねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
どなたも素敵な人生観ば得ておられるのは、本物の旅をなさった成果に違いあるまい。
まずは航屑料金の安い季節、6、11、2月。これらの月はゴールデンウイークの高騰期
に比べて三分の一ほどの場合もある。
さらにはヨーロッパ直行便には乗らない。
ソウル、シンガポール、クアラルンプール、ホンコンで乗り継ぐ。
30日Fix等を買えば、ストップ・オーバーには、何か所、どこどこの国や都市が可能だと
か、安い航空券にはさらに「おまけ」も付く。
「行こうか」、「うん」のあった日から、10日も経たなかった。
私のパソコンの中には、もう間がない6月にも行くために[グリム兄弟の跡をたどる旅]
の計画がすぐできあがっていた。
マレーシア航空。名古屋を10時過ぎに発って午後、一度、ペナンに降りる。
1時間あまりの降機で入国審査。再び機中に戻り、クアラルンプル空港へ着く。
大きい国際空港だ。ここで深夜のヨーロッパ便へ乗り換えるが、そこからは日本人とし
て特別の扱いを受けることはない。
[Through Pictures]シリーズの外国語学習本をご存じだろうか。
久しぶりに行くドイツ。
私は[German Through Pictures]を手にして、深夜便の待合室に座り、(自分では)小さ
な声で1ページに4コマあるドイツ語フレーズを繰り返し唱えていた。
近くにオーストリアへ戻るという数名の少年たちがいた。
オーストラリアの凧揚げ大会があったそうで、同じ便に乗り継ぐ。
私のドイツ語は、自分ではオカシイ発音でもなければ奇妙な口遣いでもない。でも少年
たちは、彼ら同士の話をやめて私のドイツ語を聞き、笑っていた。
初めは気になったが、いったん笑われてしまうと、もう平気。私はテスト前の学生気分
で、時々ページをめくりながら次々と唱えていった。
フランクフルトに着く前に、機内でもう一人、若い娘さんと知りあいになった。
彼女は、私には理解できにいようなことも言った。
彼女はドイツが大好きで、年に2回ほど行っている。
「恋人か、婚約者は?」と尋ねると、
「います」とはっきりと言った。
「一緒i行かないの?」
「いいえ。いつもひとりで」
私とは世代が違うとはいえ、「それほど大好きドイツなら、一緒に行くはずだ。そして
それが常識だ」と私は信じている。
つまり彼女は婚約者よりもずっとずっとドイツが好きなのだった,
「フランクフルトで宿を探すんだけど、どの辺りがいい?」
「むつかしくありませんよ。駅前すぐ右の通りに入れば、高くないホテルが数軒あります」
と教えてくれた。
着陸したフランクフルト空港で、彼女と私たちはおしゃべりしながら税関を出た。
私たちは、それぞれがキャスター付きスーツケースと背中にリュックのいでたちだから、
なんなく到着ゲートから到着ロビーへ出る。
出てすぐだった、
彼女は「あっ」と叫んだ。
「どうしたの?」
「荷物を取らずに出て来ちゃった」
機内預けの荷物を受け取らないで、私たちと一緒に出てきてしまったのだ。
私たちは、ここで別れた。
そして彼女が教えてくれたあたりの街に、手ごろな宿を探し当て、入ることができた。
あtむじはいるぇれた百りに、ほ「・ニに手頃な宿に入ることきできた。
ツイン、朝食付き、約6000円。
その時は気付かなかったが、ドイツの入国審査は、日本とは大いに違っていた。
おしゃべりに夢中だとは言え、彼女が荷物を受け取るのを忘れさせるほど、ヒトの流
れはスムーズだった。
つまり、日本は「書類主義〉だから、入国審査にいちいち書類を伴う。従って気付か
ずに外へ出られてしまうことはあり得ない。
しかしドイツは書類主義ではない。書類記入よりも担当官の目が入国乗客を観察して
いる。
機外へ出て通るとき通路の2、3ヶ所に担当官がさりげなく立っているが、今降機し
た中に不審を感じる者がいるかどうか、観察していたのだろう。
通路は直角に曲がるが、その一コーナーに呼び止められて立っていた数人がいたのを
思い出した。
どのように不審だったのかは、私に分かるはずはない。でも担当官には、何かを確認
しなければ通せない人物に見えたのだろう。
そして私たち二人と彼女との三人連れ日本人には、或の疑問も感じなかった。だから
立ち停まることなく到着ロビーへ出てきてしまった。彼女は荷物受け取りさえ意識の中
にはなく、私たちと一緒に出てしまったのだろう。
私はこの両者の違いを、大げさにではなく、大事な差違だと思っている。
日本人の場合、誤解を恐れずに言えば、<書類が揃ってさえいれば>信用が成り
立つ。ハンコがついてあれば、それで法的に有効になる。
かつて月ごと積み立ての貯金が満期・満額になり、受け取りに行ったことがあった。
JAバンクだが、私が毎月数千円を積み立てに行く窓口嬢(彼女とは二ヶ年の間、顔
見知りになり、冗談好きの私は毎回のようにそこで軽口を叩いている)から、その時、
「本人確認の運転免許状か保険証を見せてください」と要求されて、私はしばらくの間、
呆れ、その非合理性に猛反撃をしたことがある。
「規則ですから」と悪びれもせず、いつも笑って話す私に言った。
「あなた、私を知ってるじゃない。私、車に乗らないから免許状はない。今日、病院へ
行った帰りじゃないから保険証はない」と言うと、
「それでは、お渡しできません」だと。
「ほら、これ。今日が満期だって、アンタところから来た、ほら、この書類。私宛て
だろ? 私本人が持って来てるんだよ」
こんなことを言いながら、私は考えを変えた。
声を大きくして、
「店長さん、どなたか知らんが聞いてるでしょう。お互いが知り合ってる私に私の貯金
が渡せない規則があるんだね? いいよ。そんな金融機関、もう取引なんてごめんだ。
オレ、お金なんか要らん。帰る」
振り返らなかった。
その夕べ、店長が家まで来て[規則があるものですから]を繰り返した。
本人確認の規則とは、そもそも何のためにあるのか。本人を確認するためにある。
人が人を確認するとは、どういうことか。親が子を確認する。学生が友人を確認する。
そのときどうしているか。
何かの事情で、当人かどうか識別できなくなったとき、DNAなどを以て「親子関係」
とか「加害者」とかを確認する。
そういう特別事情もない日常的知り合いが、いちいち書類を見せろとはおかしいと思
わないのか。
だから、本人でもないのに<本人確認書類>を提出する(又は、提出できてしまう)
と、間違いが起こってしまう。
本人でもないのに住民票ができたり、婚姻届ができたりする。
話が大きく逸れた。元に戻す。
ホテルで、
「荷物を1週間預かってほしい。旅が済んだらまた泊まりたい」と言うと、実に快く
諾してくれた。
フロントの奥に荷物室があり、整理棚に並べてタグを付けた。
預かり料なんかない。
私たちはリュックだけの身軽さで旅に出る。
第一の目的地は、グリム兄弟が生まれたハーナウだった。
兄弟の父は裁判所の判事で、転勤を重ねている。だから私たちの旅も生誕した
ハーナウから順にたどり、最後の地をブレーメンにしている。
ご存知だろうが、「ブレーメンの音楽隊」もよく知られている。
実を言えば、私自身も後で気付くのだが、ストーリー中のロバも犬も猫もニワトリも、
いずれも老いて[おはらい箱]になった者ばかりだ。
つまり年老いて役立たずとなった者ばかりが、ひょんな出逢いで[役に立った]という
[教訓]を含む語りになっている。
日本に定年退職があり、制度として人は[おはらい箱]になる。
でも、どこかに自らは否定できない[誇り]を残存させていて、まだまだ何かの機会
を得て役立つことがあるのを期待している。
「ブレーメンの音楽隊」を最終地に選んだのは、意識下の私がそのように行動しようと
していたのだろうか。
ハーナウを起点にどの都市をどう旅したかは、この「世界100の街角」シリーズの中
でお読みいただくとして、ここではブレーメンだけにする。
例によってブレーメンも午前中に駅に降り立ち、候補としてメモしてあったホテルへ
と行くのだが、20分に余るほどの距離があった。
だからホテルに至る途中でも、また街中に戻ってからも、他の街とは異なりいろんな
ことに出逢っている。
街中のちょっとした広場に動物の像があったりする。上部が磨かれたように光るのは、
そこに憩う人があるからだろうが、その日は日曜日、午前の街に人は少なかった。
前方から音楽が聞こえ始めた。
バッハの「プレリュード」に載せて奏でられる「アヴェ・マリア」だった。
この曲、私は時には涙するほど心打たれることがある。
バッハ部分はアコーデオン、アヴェ。マリア部分はヴァイオリンの音色だった。
私たちは演奏に聴き入るべく近づいて行った。
聴衆は、私たち二人以外にない。その場所は、日曜日営業していない銀行の玄関前
だった。
ヴァイオリンを奏でる女性。しかも臨月と思われる大きさのお腹。アコーデオンは男
性。バッハの分散和音を器用に繰り返しながら、アヴェ・マリアの雰囲気を支えていた。
10メートルほどのところで全曲を聴き終えた私は、普段なら饒舌を妻に浴びせるのだ
が、このとき、ことばがなかった。
ヨーロッパでは母性、母の愛、慈愛、神の愛など、ことばとしてではなく実質や実体
を実感させる芸術作品にしばしば出逢える。レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」や
数多くの「マリア像」など言うまでもない。この雰囲気で聞いた「この曲」は、それら
名作にすこしもひけを取らず、私の魂をしびれさせてしまった。
言うまでもなく<楽曲がすぐれ>、<演奏がすばらしかった>からに違いあるまい。
私にはさらに加わる感情的要素があった。私の想像する世界から来るものだった。
[この男女の間柄とここに至るいきさつ]、間もな[生まれくる赤子]、[その後の生活]
など、いずれも苦痛や努力、難渋を思わせる想像だった。
でも、というか、だからこそ、生まれくる不憫な赤子への並み以上の愛を、二人は
ひたすらこの曲に込めて、素人ながら演奏したに違いない。
前に開いた楽器ケースに<お情け>を恵んでもらうには、人通りの多い場所や時刻も
他にあるのに、なれないふたりが、お腹の子のために敢えて耐え、あるいはこの日はじ
めてこの場で決行したのだろうか。
私は深くお辞儀をして、特にお腹の子の幸せを祈り、若い男女にくじけない健闘を、
(ことばではなく)心中に願ったねがったのであった。
ブレーメンには、もちろんだがロバの背に犬が、その上に猫が、一番上にニワトリが
乗って、ともに「泥棒だ!」と警戒音の鳴き声、つまり音楽隊の役割をする像が建てら
れてある。
街の中心広場である。
また随所の土産売り場にも、関連した置物などがある。
言うまでもないが、私の旅は「土産物」とは関係が薄い。
街中を歩くとき、私より10歳ぐらい年上だろうと思われる女性から英語で声を掛けら
れた。
一般にドイツ人は英語に抵抗感がなく、ほとんどの人が英語を話すが、この女性、何
となくそれら一般人とは抜きんでた英語だった。しかも分かりやすい。
「とてもお上手です。分かりやすいです」と、私も英語で言っている。
「ええ。若い頃、アメリカ人から覚えました」
これだけの会話だが、私はこの女性の背後に<そのころ>の苦労を想像した。
「空襲はどうだったのですか」
「ほとんど壊れてしまいました」
日本の都会と同じく、焼け落ち、瓦礫の原と化したに違いない。そしてドイツは降伏
し、市民生活が難民状態となる。
国は戦勝国への賠償に苦しい国家経済を背負う。
これも日本人の私には実感で理解できる。
話しながら歩いた通りは、さほど広くはなかった。
「いちばん賑やかな通りだったのです」とは、戦前にか、戦後にか。それとも両方か。
繁華街が空襲で灰燼に帰し、そこへやってくる占領軍。
仮小屋ハウスにカーテンだけ垂らした住まいや店が並んだり、難民の屯する道ばた。
粗末な食い物店。
ネッカチーフの深い女性が、米英軍人に声を掛け、ダンスに誘い、手を組んではそれ
ぞれがどこかへ去ってゆく。
「繁華街でした」ところに、もうその面影はないが、どこか暗かった。
女性は、とある路傍の飾りを指して、
「面白いでしょう?」と同意を求めたのは、手に乗るぐらいの、いずれもミニチュアの
「音楽隊」員たちだった。
取りわけロバとニワトリがはっきりとしていた。
「Brass band or orchestra of animals.」
「Yes, an orchestra by old animals.」
「We like Grimm's stories. So we've come here.」
「May I help you ? if you want.」
「No thank you. I am happy enough, to see your kindness」
女性とは、多分彼女が若い頃、生活の場だったと思われる旧繁華街で別れた。
この年齢の人には、夫に恵まれない人が多い。
一人住まいの部屋に帰ったのかも知れなかった。
日曜日というのに、私が孤独な異国男性として出逢えばよかったのだろうか。
きびすを返して、先ほどの動物ミニチュアを飾る反対側を歩きはじめたとき、入り口
にSpiel Bankと明るく表示されてあるのに気づいた。
「Spiel」とは「遊び」。「遊び銀行」とはいったい何物?
教育に社会的配慮の多いドイツ社会のことだから、子どもたちのために、遊びを加
味した子ども銀行がある……と早合点した私は、その明るい表示の下から内部へ歩を
進めかけて、……しかし内には子どものけはいがまったくないことに気づいた。
人に尋ねようか。
何でも尋ねることによって会話力もつくし人との繋がりにもなる。
「'xcuse me. Is this bank for children ?」
若い紳士は笑って答えた。
「No. It's not a bank. It is Casino.」
カジノとは、賭博を含んだ娯楽場を言う。
もちろん今では賭け事が主な場所になっている。
そして「遊び場」でもあり、「国や公共団体へ蓄財するところ」でもあるのだ。
私の素人経済学が、またひとつ前進した。
この部分を書きながら、ふと「打つ」と「たたく」を誤用した日本語を思い出した。
☆ ☆
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☆ その19 ミュンヒェンの自転車スカート ☆ ☆
妻とミュンヒェンに来たのは、この時が初めてではない。
前回のはツアーで、この街の大きなビヤホールの夕べを楽しんでいる。
妻はダンス、特にfolk danceなど大好きで、長靴ふうのジョッキを空にすることよりも
舞台前の広い床で盛んに踊る方を好んでいた。
私はドイツの唄がこよなく好きだ。「ビアバレルポカ」から様々のチロルの唄、ヨーデ
ル、最後の「別れ(muss i denn)」まで、歌詞が出てこなかったら階名ででも歌う。
「…ミソファーファーレーソーミーー」。終わったかと見る間にまたどこかから始まる。
「ドレミー、ミソファー、ファラソー、ソミレー…」、加えて手拍子。
踊り好きは両手を合わせ、腰の律動も同じ波で、舞台の楽団もジョッキの酒席も満場が
共鳴して楽しむ。
そういう経験を、できればもう一度、今度はドイツ人たちの中に私たちだけ日本人の
雰囲気で味わいたいと思っていた。
駅近くにホテルの候補をメモしていたのだが、駅を出てすぐ二人連れの女性(20代後半
ぐらいか)に話しかけられた。
タイ人だと言った。
「わたしたち、泊まったばかりだけど、近くにとってもいいホテルがあるの、安くて便利
で……」
同じ東洋人が、慣れない風体の日本人に親切心を表していいると思った。
「ありがとう。どこ?」
「ここを2、3分行ったところ」
「そんなに良かった?」
「ええ、今まででいちばん良かったわ」
真に受けていた。
「Guten Tag !」私はその小ホテルへ明るく入っていった。
「Haben Sie ein Zimmer ?」
「Ya !」
すぐ支払いを済ませ(5000円ぐらいだったと思う)キーを受け取って部屋に入った。
そこで初めて疑問を感じたのは、我ながら迂闊だった。窓のすぐ外は、隣の建物の壁。
<これくらいは辛抱するか>
ミュンヒェン着がもう午後だったので、この日は歩く範囲の散策をし、外で夕食を済ま
せて来ることにした。
もちろん前回の大ビアホールを見つければそこに入るが、なければどこかで食事をする。
ミュンヒェンの中心に大聖堂があり、堂上の時計台には大きな人形の騎士なんかが出て来
て、ひと演技する仕掛けになっており、大勢の人が上向き姿勢で立っていた。
私はアマノジャクかな。街の歴史なのだろうが、そんな時計仕掛けのために貴重な時間
を消費したくはなかった。
運が良かったのか、時を告げる鐘が鳴り始め、人は例外なく上向き姿勢になる。私たち
も堂の上方に人形騎士が出現するのを待つ姿勢になっていた。
人間とは不思議なものだ。見も知りもしない他人同士が、同じ思いでそばにいると、互い
が会話する。隔てがなくなる。
「毎時間、あんなふうに?」
「半時間ごとだ」
「歴史的に有名な事件ですか?」
「よくは知らないが、そうだと思うよ」
ドイツ人、しかもミュンヒェン市民。毎日この鐘を聞き続けながら[意味がある]とは聞い
ていても、それがどんな具体性を、となると知らないし、関心もない。
それでいいんだ。
人間は正直であることの方がだいじだよ。
町で、村で行われる[行事]には、みんな[いわれ]がある。それを知るのも楽しいが、想像
してみるのもまた楽しい。意味を見いだせば、もっと充実感を味わえる。
5分以上も掛けて演じられた時計人形劇が収まり、人はまた動きだした。
どこかいい食事場所はないか。
誤解しないでほしい。私の言う[いい食事]とは、ブランド名があったり国や民族、都市
を代表するような品質の高いものではない。
とある通りに地下へ降りる階段があった。
その両側に東洋系(タイ人に思えた)の女性が立ち、ビンゴのカードのようなものを手
渡して、入るように誘った。
「Restaurant ?(レストランですか)」と問う。
「Ya, Markte Restaurant.(ええ、マーケット式レストランです)」
実を言えば、こういうのが大好きだ。パリにもウイーンにもあった。マーケットで物を
買うような気分で、各種の食品や料理をお盆に取り、取り終えて会計をする。済んだ
ら、空いている席でゆっくり食べればいいし、食べ足りなければ、立ってまた取り、会計
を経て戻ればいい。
英語のmarketをMarkte(マルクテ、独)、marche(マルシェ、仏)という。
それにしてもビンゴのカードは何をするのだろうか。
「What purpose of this card ?」
「If you take one, it is checked on this card.
You finish to take, you pay with thiscard.」
意味は分かったが、実体が飲み込めたわけではない。
「Ahm, we'll go down and watch, O K ?…and, ah…can
I only watch and come out ?」
「Off course」
ほんとうに<見るだけ>で戻って来るつもりだった。
調理しては出すコーナーがいくつもある。どんな調理をどの程度にでも取って食べら
れる。
客はその都度、ビンゴ・カードめいたものを差し出し、中の店員は該当欄にチェックを
入れる。
「ここで食べようか」
二人の意志は、そう言い合う前から一致していた。
私は本格的なレアーのビーフ、ビール、デザートなどをお盆にいっぱい載せ、妻も好み
を寄せ集めていた。
会計が、日本円1000円に相当しなかったとは、日本で二人が外出して食べるよりかなり
お得だった。
店内は、不便ではないがやや減光してあり、席を見つけて座りジョッキを合わせ
「ごくろうさん」と言い合ったとき、ムードは申し分なかった。
ゆっくり時間を掛けて食べた後、
「明日もここにしようよ」と、内部をもう一巡して、次に食べるものを見て回った。
次の日の予定はこうだった。
ピナコテーク(美術館)、公園、明後日以降の行動(列車)を確認するために駅へ。
夕食は前回楽しんだ大ビアホール。行き着けないときはこのマルクテ。
ノイエ・ピナコテークとアルテ・ピナコテークとは、向き合って建てられてある。
アルテの方は改装中だった。
少し残念だったが、2時間後には、それが幸いしたことを知った。
ノイエ・ピナコテークはルネッサンス以降の美術作品を展示する。
妻が絵画好きで、今までパリのルーブルもオルセーも複数回観ている。フィレンツエの
ウフィッツだって3回は観ているし、ミラノの「最後の晩餐」に至るまでの経緯を書くな
ら何ページも費やしてしまうだろう。
マドリッドのゲルニカ、バルセロナのクエル公園やサグラダ・ファミリア……美術に疎
い私には[ワケノワカラヌ]代物を観るのに、一言の文句も言わずに妻には付き合っている。
ロンドンでは大英博物館も凄いが肖像画博物館なんか、人に尋ね尋ねてやっと入れた時、
[何か変だ]と感じたものだが、結局、裏口(出口)から中へ入ってしまったのだった。
かようにヨーロッパ絵画のほとんどを、ズブのどころか無知の素人として[豊富な]観賞
をしてきたこの私が、ノイエ・ピナコテークを純粋に評価するのだが、ここはヨーロッパ
随一の展示水準を有する。
専門家やその道に造詣が深い人が<このように言っている>例をしらないから、敢えて
もう一度、言う。
「ヨーロッパの近代美術を理解するなら、ミュンヒェンのノイエ・ピナコテークが随一だ」
と。
無知の私がどうしてそう言えるのか。
退職後の私は、全く白紙の状態で繰り返しヨーロッパ美術に接した。
その結果として<先入観のない>審美眼を得た(と自負している )。
一つだけその片鱗を披露する。あなたはどう反応するだろうか。
ご存じのようにヨーロッパで数多く出逢う[印象派]の特長について、あなたは何と理解
されているだろうか。
私はどのガイドの言ったことも信用しない。
というのは、[印象派]の絵は、描いた対象=objetよりも、その背景=fondの描き方に
本質が表れているからだ。
背景は、少しの手抜きもなく丁寧に<何か>が描かれている。なぜそんなに丁寧に描か
れねばならないか。それが問題である。
背景は[無]ではない。必ず何かがある。その何かの対象を描くとき、完成された絵の中
に[何か]として見えたり理解されてはいけない。
だからそこに[何かがある]ことを必死に描くと同時に、それが何物とも特定できない
ように精魂を込めて描かねばならぬ。
なぜなら[その何かは印象を残さなかった]からである。
背景に壁のヒビがあって、それを描いたとしよう。すると、ヒビへの印象が表現に混入
するだろう。
<印象ある物>を特定して描くとは、<印象のないもの>を描き出してはいけない。
しかし現実には、そこに何かがある。印象には残らなかった何かが[ある]。……という
ことを真剣に描いてこそ、本当の印象派作品が成功する。
これは私の得た審美眼(鑑賞眼か)の一例に過ぎない。
ここには書かないが、この項でもうひとつの審美眼を紹介する。
ミュンヒェン、ノイエ・ピナコテークへ来るまでに既に[見る目]を自負する私だったが、
ここの決して大きくない美術館は、私の考えをしっかりと後押ししてくれた。
その展示が、時代的特長、流派的特性を明確に捉えて展示してあった。
歴史的に有名だから、とか、評判や人気などではない。私には質的にも水準の高いテキ
ストだった。
開館時から午後一時まで、素人の私が休みもせずにじっくりと絵の<質>を理解させて
もらった。
参観者は少なかった。
人の流れなど意識する必要とてなく、少し戻ってみたり、比較したり、気になることや
疑問に感じることは、後に残さぬように納得しながら、昼食を遅くしているのも構わずに
見終えたのだった。
やはりその一部だが、その時、私に新知識があったのをここに紹介すると理解してほ
しい。
というのは、
キュービズムやシュールレアリズムについて、とても納得できたことだ。
早い話、「ゲルニカ」はなぜあんなに評価されるか、それまで私には不可解だった。
空襲(ナチスによる史上初めての都市無差別空爆)が非人道的で許されざる悪逆行為だ
としても、あの手法であの形象であんな大きな作品にしてあるのが理解できないでいた。
さらに分からないのは、美術の専門家たちが私の感じる疑問なんか少しも問題として
いないことだった。
たとえば牛を描くならもっと明確な「牛」を描けばいいし、牛を牛でなくし人を人で
なくすような悪逆は、損なわれたものなりの厳しい実像があるのだし、それを迫真の姿
で描き出せばいいではないか。何の故を以て実体とは距離を措いた形象で以て描かねば
ならないのか。
<そうだったのか>と私が声を出さんばかりに納得した作品群があった。
かりに<労働派>、または<労働賛美画>とでも(個人的に)名付けよう。そういう
類の絵画を印象に定着させることができたのはその時だった。
ナチス(ナチズム)が絵画を重んじたことをご存じだろうか。そして彼らの[ism]は
どんな形象を理想としたかをご存じだろうか。
ナチス・ドイツのシンボル・マークは「ハーケン・クロイツ」。とは[ハンマー]が二丁
交わってデザインされている。
ハンマーは<労働>の象徴で、彼らの理想社会は、労働によってたくましく成長する
人々が築くものである。農業労働にはたくましい肉体と鍬や鎌、工業労働には汗や埃に
汚れても内から活力の溢れるたくましい肉体と脚や腕の筋肉に結合するハンマーや工具。
その労働の活写が絵画になるとき、寸分のすきもない肉体の写実、有用な道具の再現
があり、賛美されるべき労働社会の構成基盤たる人間が存在する。
「Arbeit macht Frei !」は、アウシュビッツの門に掲げられた喚び掛け、
……ユダヤ人を欺き殺す美辞だったに違いないが、元を正せば、彼らの揺るがぬ信念の
ことばだったのだ。(この側面だけを見るならmarxismの労働観と変わるところはない)
さて、時代は[ハーケンクロイツ]、[アルバイト賛美]が主流という情勢下で、これに
抗い、新しい質の絵画は、どのように展開が可能だったのか。
とりわけ非人道が勢力を得ているときに、果敢な抵抗の芸術はどのような質と手法
で創出されたのか。
この疑問に答えるもの、それが他でもない、キュービズムでありシュールレアリズム
であった(のだと私には理解できた)。
だからナチズムの芸術の存在、力量があってはじめてその<anti>としての存在が
理解され得る。
例えば、牛を描くとき、農耕や運搬の力強い牛では<anti-NAZI>ではない。
子を背負って農業労働する女性も、今にも乳飲み子の声が聞こえ、レーキを曳きふん
ばるいきみが聞こえるような絵画は、如何に描こうとも労働を賛美してしまう。
そういう現実を脱出して果敢に戦おうとしているのがシュールレアリズム(超現実主
義)。
実体感覚をすっかり抜き去って描こうと言うのがキュービズム(対象を今までにない
技法で一画面に描く)。
これが私の納得できる美術展開史である。
ノイエ・ピナコテークで大きな収穫を得た私は、あの大ビヤホールへ行くことにし
た。
午後の1時や2時で、それが開いているとは思わないが、いつもの根拠のない感覚で
は、この近くにそれがあったように思えた。
通りがかりの人に、
「Is there any Beer Hall nere here ?」と尋ねている。
二人目の人が、
「すぐそこに公園があり、その片側に100人ぐらいは収容できる場所=ビールが飲める
所がある」と言ったので、行くことにした。
すぐだった。だが、ビア・ホールではなく、広いグランドの片側に長椅子と長机が広
げられ人々が後ろの店から食べ物や大ジョッキを持ってきては飲食をしていた。
「ここでいいか」
私たちも皿に盛ったハンバーガーとジョッキとを持って、立木の影の長机を陣取り、
遅い昼食を摂った。
食べ終わってみると、ここは広い公園のいちばん端に当たるところで、前方の植え
込みや花壇など、ゆっくりと楽しみながら、街の中心部へと戻り始めた。
数百メートル前方に坂道があった。
左の高いところから右の低いところへと、中年と言うにはやや若い婦人が自転車で
下って行く。
一瞬はっとして、「あれっ!」と叫んだのは、婦人がスカートを高々とたくし上げ、
腰から下は何の覆いもなくしていたことだ。
午後の日差しがこの上なく和み、生暖か過ぎたのだろうが、思い切ってまくり上げ
たスカートの下に快い風を思うさま入れて坂道を走り下る解放感に、露わな女性への
粘着など少しもない爽快感さえ感じながら、
「日本人にはできないことだろうなあ」と私は繰り返していた。
☆ ☆
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