世界100の街角で
                   藪野 豊の世界 2 「世界100の街角で シリーズ」 へようこそ
                                  
 

世界100の街角で 

(藪野 豊の世界 「世界100の街角で」 シリーズ 目次暖簾)

[コンテンツ] 21〜30
☆ 21、グルノーブルのcuisine chinoise ☆ ☆ 22、London, Shaftesbury Avenue ☆ Queen's theater "Les Miserables" ☆ 23、神戸 世界一綺麗な街 ☆     (The most beautiful street in the world)           (世界最美麗的街区)  ☆ 24、高雄(カオション)の「目玉定食」 ☆ ☆ 25、士林、故宮博物院と日本人使節 ☆ ☆ 26、バンコク エメラルド寺院と抵抗力 ☆ ☆ 27、漢字だが、読めなかったツィムシャーツィ ☆  ☆ 28、チェンマイのトクトク ☆ ☆ 29、見たことのない街角 ☆ ☆ 30、魚崎駅頭の留学生 ☆ [コンテンツ]31〜40へは ここをクリックください
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☆ ☆ [その21]、グルノーブルのcuisine chinoise

レイルパス(鉄道周遊切符)は、一日分たりとも残して終わりたくはない。  だからパリの宿で、残り消化のため新たな「一日旅行」を計画した。  今まで行ったことがないところで、これからも行きそうにないところ。 「グルノーブルを見てくるか」  行くと決まればすぐThomas Cook社の”European Timetable”でシミュレーションが 始まった。   往、Paris(Gare de Lyon)7:37=8:26Lyon8:29=10:40Grenoble   復、Grenoble14:47=15:16Lyon16:04=18:07Paris(Gare de Lyon)  朝ご飯はパンか何かをTGVに持ち込んで食べればいい。  ホテルは北駅のすぐ前、メトロのバスチーユ乗り換えでガルドリヨンまで10分見ておけ ばいい。計画は万全に思えた。  もちろんだが、予備知識はない。強いてあるとすれば、オリンピック冬の競技があった ところだということぐらい。  翌朝、予定通りにホテルを出た。すべて順調どころか、北駅のメトロに改札ゲートが開 かれたままなので、カルネを使わなかった。  グルノーブル行きTGV、リヨンまではTGVらしく快速だったが、そこから支線に入ると、 ローカル列車との差違を見出せないほどの緩慢さで、線路が曲がり、窓の下の苔やシダの 植物を見やりながらゆっくりと上り進む。  グルノーブル駅で背中のリュックを預けることにした。  昔、日本のどの駅にもあった4メートルほどの間口に、荷物を置く白く光った鉄の台を 前にしてに、50歳ぐらいの男が迎えてくれた。  そして、その時、私は[はっ]思い当たることがあって、質問をした。 「シエスタ、は何時までですか」 「シエスタ? 関係ないよ。このわたしがここのことはすべてやっている。まかしとき な。何時に来てもいいよ」  この会話が私にフランス語でできたことが、今は信じられないが、強い印象が残るの だから、この[事実]があったことは疑うべくもない。  さらには、この私は現職にあるとき、しばしばアクティブな組合運動を経験している。  職場単位の役員から、支部執行委員副委員長、県段階の青年部長など、通常のお方より はかなり労働組合運動に力を注いだ人生経験をしている。  その知識から言えば、フランス労働組合運動の中に、 [シエスタがあるんだ。2時半までここを閉めるがいいか] と言われても、 [なるほど。さすがフランス総同盟だ] と納得し感心しただろう。  だが返事は違った。 [この場はわしの取り仕切るところだ。何時に来ても客に迷惑なんか掛けない] と胸を叩いた。  労働者[魂]に驚きはしたが、それよりもこのフランスに規範よりも労働の質を重んじ る思想が健在なのに感じ入った。  労働組合では労働者の権利を言うとき、労働時間を問題にする。  延長もやむを得ない仕事には超過勤務手当を要求しなければ、勤務時間終了と同時に 労働を終えるのを[あるべき労働者の姿]とする。 もちろん私だって手当のない超過勤務に抗するべくもなく、長年に渉って時間外労働を してきた者だが、一方、手当や報酬に関わりなくてもする仕事への自負があって、たとえ 休日でも自分が必要とされれば、自分の仕事を全うする喜び(義務感、責任感、達成感も 含む)を持っている。  これは仕事=労働を愛する者が有する共通の精神だと信じている。  そして今、労働総同盟が社会の主流たるフランスに於いてさえ、廃れることなく健全に 残っている。本物の労働者魂を見た。私には同志に思えた。  右手を挙げ、「メルシー、ボークー。ムッシュー」  ムッシューを添えるのは、相手を尊重した表現のつもりである。  相手もまくり上げてある手を挙げ、「ダッコール(いいよ、わかった)」と返した。  駅構内に市街図があって、市内見学を構想(想定)する。 「これ、河が流れてるだろ? あ、イーゼル河だ。アルプスの水が、多分勢いよく流れて るよ。……ここまで行けば、ゴンドラがぶら下がる絵、河をまたいで展望台へ上れるね。 え? バ、ス、ティーユ……バスティーユ城砦ってどこかで……あ、そうか。パリのバス ティーユ。フランス革命のとき、政治犯が捕まってた……ここの名前から来てるんだろう よ。この地の殿様、ルネサンス運動後は、先覚者を弾圧するのに、城の一郭にはいろんな 人を幽閉したにちがいない。……まあ、こういう順序で行こう。降りてきて、少し遅いお 昼ご飯になるかもしれない」  駅の出札口をギッシェという。  もう切符を買う必要はないから、 「エクスキュゼ、モワ。メ、ドネモワ、ユンヌ、マップ、シルヴプレ?」  mapだけは英語だが、そんなことを意識しないで話すのもまた気楽でいい。 「ヴアラ」。どうかすると[ファアラ]と聞こえるが、[ここにありますよ]とか、[ほら、 これです。どうぞ]と表現するときにフランス人はよくこう言う。 (私は心の中で[ほら、これ]と訳している)  街は混んでなかった。 地図に従って歩きはじめると、通りは左側がイーゼル河になる。  さほど苦もなく、人に尋ねるでもなく、前方にロープウエイを見るようになった。  2人乗りの丸いゴンドラだった。  河は音を立て、白く波立つ。  その100メートルあまり上空からこの地の全景を眺め回すゆとりなぞないまま、城砦 の上に着いた。  城砦の屋上は、周辺に凹凸の防壁を巡らせている。  方角に間違いがなければ、北東の隅から遠くの景色を眺めていた。  そちらの方向にアルプスらしい山々が見え、谷がその奥深くへどこまでも入っている ようだった。  2人が「あれ、アルプスだと思うよ」などと、指を差して話しているだけではない。  近くにはヨーロッパ人が何組もいて、同じ景色を楽しんでいた。 「オリンピック競技があったのは、あの谷の奥ですか」  いちばん近くの人に尋ねてみた。 「いいえ。ここから少し向こうの右に入った辺りです。こちら側と向こう側と2ヶ所が 会場だったようです。見えませんがね」  私は妻にそう翻訳したと記憶する。 「スイスはどの方向ですか」 「よくは私も分かりませんが…………この谷のまっすぐ奥でしょう」  その他、日本の話や旅の話をしたようにも思う。  天気はあまりよくなく、ときどき冷たいものが当たっていた。  しぐれ雨だったのか、あられだったのか。でも寒いとは感じなかった。  思いつきでやって来たのに、いいところまで来られた。  雪解け水が城の下方を流れ去り、今や中世の息苦しさなぞ忘れロープウエイで風景を 観賞する。見る景色の中に敵対する恐怖心もない。防衛する心配事もない。  もちろん人民を支配の策を練ることもない。  人類は時を経、命の犠牲を経験して、今や遺跡の上に安住を見出している。 「降りようか」  毎日旅していて、それでも毎日、昼食のことは忘れない。欠かさない。  私には理由がある。  旅に熱中して、一食ぐらいとばそうか、適当に済まそうか、というようなことが重な ると、それが健康を損なう原因になる。  時差8時間ものヨーロッパにいること自体、意識してはいなくても我が身に苦痛を強 いているはずだ。  ロープウエーで街に戻り、駅まで歩く途中にどこか昼ご飯が食べられる所を見つける ことにした。  だが、オリンピック基地を経験した街にしては食堂をあまり見かけなかった。 「CUISINE CHINOISE」と横書き大書の店があった。「中華料理」の意味(フランス語) である。  実はこの旅では、その時まで一度も中華料理を食べていなかった。  食べない意志があったからだ。  外国へ来て「日本料理」を食べる、なんてことを私はしない。  わざわざ外国へ来て日本料理を食べる理由がない。外国へ来れば外国料理を食べるこ とに徹してこそ、本物の外国旅行だ。  そういう考えの延長線上に、「東洋料理」を食べない意志が働いていた。  フランスでは、思いの外にしばしば「cuisine chinoise」を見かけるのだが、この時 まで一度も入ってはいなかった。 「中華にしようか」  考えが変わったからではない。この日は日帰りでパリに戻る。食堂を探すのに時間を 費やしたくはない。ともかく食べて、と考えたからだった。 「ボンジュール」  先客のいないレストランに入ると、内部が思いの外に広かっただけではない。数ある テーブルの後ろのしきりは、東洋風の衝立で、明かりが点けばその格子から明かりが漏 れる雰囲気。すべて木製、濃い紫の漆ラッカーで塗られていた。 「ボンジュール?」   出てきたのは40歳前ぐらいの主婦。多分、この店を取り仕切る女性。中国人に見えた。  私には[ある]エネルギーが湧いて、 「チョングオレン、マ?(中国人ですか)」  中国語による会話が始まった。  当初、オリンピックを機に進出した中国人かなと思ったが、当たってはいなかった。 「中国で大学の経済学部を出ました。オリンピックよりずっと早く国を出てきました」  いわゆる社会主義を嫌って出てきたと思える話だった。  メニューを見て注文したのは、麻婆豆腐と八宝菜だけなのだが、彼女は奥の厨房に それを伝えてからも、そのままずっと私たちと話した。  その時、2つ、意外に感じたことを記そう。  1つ、私たちを故郷から訪ねてきた人のように接して話をしたこと。  2つ、お茶が振る舞われたこと。それは料金の対象ではなかった。知人の訪問に出す 茶と同じだったこと。  つまり、これらはフランスのレストランで一般に見る習慣とは明らかに異なっていた。 「こんど、国へ帰るのはいつですか」  次の春節、と答えるかも、と思ったが、半ば予想が当たったように答えた。 「いいえ、もう帰りません」  祖国はもう捨てた、とか、故郷なんかなくなったの、と明確には言わなかったが、 「社会主義」を称する革命を逃れての出国に違いなかった。  私どもとは明らかに国は違うが、「革命」を経ていない東洋人は、彼女にとって 「同郷人」だったのだろうか。  私は胸のどこかに切ないわだかまりが[むず]と動くのを感じながら、 「いつまでも元気で幸せに暮らしてね」と中国語で精一杯の励ましをしてから、 丁寧にお辞儀をして別れた。 「謝謝nin,再見!」と互いに言い合った。  パリ東駅近くでパリ最後の食事をしようとしたときに入った店も、この時と似た経験 をしている。  店主とは互いに東洋人の心を通わせた。  この人の故郷はカンボディァ。ポルポトの非人道暴政を逃れてひたすら生きた挙げ句 の店だった。  そしてこの店には「cuisine oriental」、つまり中華風のお総菜を置いていた。  項を改め、別のタイトルでお話しすることにする。 「ポルポトが死んだはずはない パリの総菜屋さんの怨みと善意」の項を予定している。

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 ☆ ☆ [その22], London, Shaftesbury Avenue ☆ "Les Miserables" in Queen's theater


    The Musical "Les Miserables" in Piccadelly Circus Are the stories written in English difficult to understand for you ? In England there's a popular proverb, "Where there is a will, there is a way." This is one of the very simple saying. I'm now writing English sentences under this thought. So you'd better read my sentences also under the same meaning. At that time when we (my wife and me) went to London, we used to walk every day to watch any place we wanted to visit. It was only before one day when we went to watch "Les Miserables". We finished to watch several exhibition rooms of British Museum, and at the front of the gate, entered in a shop where sells many kinds of knitted clothes to find Fair-Isle sweater. First I asked to a man who welcomed us, "Do you have any Fair Isle sweater ?" "Yees !", he replied at once. I was touching the sweater he showed me, and asked again, "I've heard, the Fair Isle isn't taken off the oil from the material wool. So if it is covered with snow or rain, it cannot be wet. But I cannot feel it now. --- Is this the true Fair Isle ?" I knew it was not polite attitude to ask thus, but to my fingers the wools were felt very light. The man said, "Fair Isle is one of a brand design name, not the materialas you said of. If you want a real Fair Isle sweater, you have to go up to a northern island more far than Scottland. There are knitters who have their technique to combe with oilful wool and to knit with traditional way." Off course I didn't buy any sweater then. Then a telephone on the desk suddenly rang. A girl who just came late and just sat by it, took up the receiver, and asked and answered. "What day's ? what kind ? how many seats ? ……yes, yes, I can deliver them to your hotel. OK ?" In fact, the conversations on this telephone were spoken in Japanese. Japanese travellers in a hotel were asking her to buy the tickets of "Les Miserables" Hearing the dialog, I was not easy to know each ticket costs about 20 thousand yen. The girl worked there as a part-time worker. When Japanese traveller came and asked to buy tickets, she used to assist them with her Japanese language. The table conversation was over, and I (off course in Japanese) asked her. "Are 'Les Miserables' tickets expensive like that ? " She answered, "Japanese travellers generally want high class seats. ……But there are several kinds of another classes. If you want to watch it, I can show you how to buy another low priced tickets." "Oh, how can I get them ?" "You go to Piccaderry Circus with your self and find the theater. Yes you get off at Piccadely Circus and on the Shaftesbury Avenue you can find Queen's Theatre." I memorized it. "Behind the entrance you can find tickets' window. You say Matinee and you may pay perhaps 3 thousand yen for one person." "Thank you. We'll go there now."  The theater could be found easily, and I said, "Do you have any Matinee ticket for tomorrow ?" He, saying "Look", pointed the list of seats outside with his finger. "I'll adovise here, stall." In the most back of the central passage there were two seats on the left side. "Oh, nice place !". And I payed about 6 thousands yen. I didn't know the word of "stall" then, but stall is really suitable place to watch drama and to hear orchestra. The center passage let us open the space to see both performances. As you know, under the stage there's the orchestra box. The orchestra was half covered with the stage. If the angle of an audience wasn't good, conductor and orchestra were never seen. In addition I was very pleased that the ticked was very cheap. In Japan no one can find such a cheap one. Drama is performed in home land as the real one. So the Japanese travellers don't think any question and want to buy high class ticket. Next day we sat in the stall seats. Theater was full of audiences. Music began performance with thick volume. Before the curtain was open, I already got enough excited. Even the dry ice gass took me in the world of drama. Music and songs reminded me my ancient days. Labourers' songs contains several these songs as the parody song. This was my slight discovery then. As for drama or musical, I don't write about it here. Musical now began to perform Finale scene. Most audiences stood up and someone shouting or calling to the stage. All were in the same excitement. Needles to say, me too and my wife too. People around us were taking photo, some one shot the flash and shutter. I have no such morality. There was no thought to do so. But too many such cases I saw, I also took my handy video camera out of my bag, and shot the final stage scene. Curtain was drawn. Still audiences in the exitement. I also still was standing. Suddenly I was caught by two young men by both arms. There's no time to shout or claim. They took my viedo camera and brought it somewhere in the thearter bureau. They must be staff and didn't allow me to take photo, I thought. Ten minutes or so passed. A man came to us and asked us to come to manager's room. My feeling then was as if an climinal's. My heart was full of despair. Manager first asked me but gently,"Did you take video through whole musical ?" "No, only that Finalee. I'm sorry." There was short time without any saying, and then he said. "In any theater if you take photo your camera will be taken. Understand ?" So saying he returned my video camera. "No, I won't do any more." I bowed my self to approgize him.

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☆ ☆ [その23] 神戸 世界一綺麗な街 ☆


100の街角か予定の3分の一にも達していない。  でも書きながら、私が見た最も美しい街はどこだろう、とこの時は思った。  2013年4月25日朝、場所は神戸の「旧外国人居住地」と称される街だった。  その前後、ホテルは私たちが泊まったのだから高くはない。  支払いは8500円、朝食のバイキング付き、部屋はダブルベッド二つ、インター・ネット も含めてすべて揃っている。  ルミナリエこそないが、百貨店の角を折れると、すっきりした高層ビルの1階はすべて メンズのも絵ディーズのもブランド商標のウインドウが続く。  街路の敷石もオブジェも、芽を吹いたばかりの街路樹も、私を高級感の中に浸らせて いるまま、イタリア国旗が通りの上に差し出されているホテルに入った。 「こんな雰囲気の街で泊まったことってなかったなあ」   二人の実感だった。  夕食は久しぶりに来た神戸にふさわしく元町近辺、ガード下のどこかごく庶民的なとこ ろで食べることにした。  1軒目、香りのいいKorean cooking。中をうかがうと誰もいなかった。  夕方5時、少し早いとはいえ、客も入っていない(評価の)ところへ私たちは入らない。  2軒目、中華。外看板のメニューは気に入ったので、ガラス戸越しに中を覗くと、ここ も客がいない。  これら1軒目も2軒目も値段を表示した「お勧めメニュー」がない。  私たちは入店前に安心が得られないと入らない。  3軒目、「中華」とあり、中に女性客が2人、食べながら話している。  入った。  彼女らは中国語で会話していた。在日の中国人か華僑か、とても熱の入った言葉の やりとりの割には休まず食べていた。  20代前半に見える小姐(シャオジエ)が注文を聞きに来た。  国内にあって夕食は極力カロリーを省く。それぞれが一皿を注文することにした。  妻が餃子を言うと、「焼き餃子ですか、水餃子ですか」と問う」。  もちろんだが、「焼き」と答えた。  私は壁に貼ってある「蜂の巣のセロリー和え」に好奇心が湧いていた。 「蜂の巣」とは何だ。巣ごと取った蜂蜜でなどで何かするのか。 「蜂の巣の、何です?」  巣なら(fengfang)、巣の材料を成す部分なら蜜蝋(fengla)。 そんなモノが食えるのだろうか。  私の質問の意味が分からず、小姐は老板(ラオバン)に聞きに行き、戻ってきた。 「牛の胃です」 「分かった‥‥」 「辛いですが、いいですか」 「辛くないようにして」 「これは四川料理です。辛くないようにはできません」 「仕方がない。それでいい」、  妥協したのは、珍しい食べ物だからである。 「牛の胃壁ね、何番目のか知らんが、内側に六角形の皺が詰まっていて、それを蜂の巣に 見立てだんだろう。辛いのは困る言っても、四川料理は辛いのが本命だからできないそう だよ」  妻は生ビールのジョッキ、私は芋焼酎のオンザロック(実態は氷水割りになっていて、 それが気に入らない)、杯を合わせて飲み始めるうち、旅の疲れも解き放たれていく。 「服務員a!」と、私は小姐を呼んで、「我們去過四川成都。在那里我説、听説這地方菜太辣。 我吃不慣。請減佐料ba。所以naル都我不覚不太辣」  小姐は奥へ行き(多分)私の言うことを老板に話した。 料理は、だがその辛さよりも硬さが、私の歯に合わなかった。  食べ残した大部分を紙に包んで持ち帰ることにした。  帰るに当たっても、少し会話を練習した。 「ni們来日本以后几年了?」 「7年了」と老板が顔を出して答えた。 「从na辺来的ma?」 「福州来的」 [なんだ、本場の四川じゃないんだ] 「喜歓日本ma?」 「很喜歓」 「好。我去中國、那几都旅游了。……我們很喜歓中国人。但是不喜歓政府。去了什ma国家 也一様。人們很喜歓」  老板も「我們也一様na」  これだけの会話だって、酒が入っていたとはいえ、国際親善と人類の将来とを考えてい る。微々たることではあっても、役立とうとしての努力だった。 「na加油ba!」 「南京町を通って帰ろうか」  遠回りをすることになるが、最近見ていない南京街を見ることにした。  8時になっていただろうか、もう街は暗かった。  開いている店は3分の1もない。稀な通行人を呼び込もうとする小姐。  私は買う気もないのに好奇心からその一人に問うた。、   しかもPerth(西オーストラリア)へ行った帰りの寄り道、ストップ・オーバーだった。  そしてとても印象深い旅になっている。  stop-overとは、本来は途中下車の意味、乗り継ぎを利用し、しばらく滞在することだが、 この時は4泊もしている。  当初、初めてのところだから、台北だけを楽しもうと思っていた。  きっかけは台北駅でした偶然の「会話」から始まる。  台北に大規模な地下街があり、さらにその下に地下鉄MRTと国有鉄道とがある。  駅に近い地下街は特に入り組み、商店が連なる。  やっと駅に行き着いたのも、乗車の意図からではない。単なる見物だった。  駅に貼ってある広告などを見ているとき、後ろに何かの掲示物を見る人の気配を感じ、私 はその人の邪魔をしないように身を避けた。 <この人は何を見ているのだろう>と視線の先を見ると「敬老票」の表示があった。 「シーシェンマ?(なんですか)」  台湾人の親切心の表現は日本人と同質で、言葉こそ違え、違和感はない。 「60スイイーシャンダレン(60歳以上の人は)クーイーマイピャオ(切符が買えます) バンジア(半額で)」 「Oh、ウォーメン、ワイグオレンイエ(私たち外国人も)クーイーマ?(買えますか)」 「ナールヨウ、ショウピャオチュ(あそこが切符売り場)ウェンバ(聞いてみなさい)」  窓口だ。 「チンウェンイーシャーバ(ちょっと済みませんが)ウォーメン、ワイグォレン(私たち、 外国人)。ラオレンピャオ(老人切符を)クーイーマイマ?(買うことはできますか)」 「クーイー、クーイー(いいですとも)。ランウォーカンカン、ニンダフーチャオ.(私に パスポートを見せれば)ナ−シン(それでいいです)」 「シエシエア(ありがとうね)」 「ブーシエ(いいえ)」  国有鉄道時刻表を見つけて、その場で計画を作り始めた。  台北=高雄、泊。高雄=台東(など太平洋側を回って)=台北。つまり1泊2日、台湾一 周の旅。  敬老票とは乗車券ばかりか特急券も半額になると知った。  明くる朝7:00、宿で食事を終え、8:30の高雄行き特急に間違いなく乗るために、地下道 への降り口から2度も、駅まで歩いてリハーサルをした。  もちろんまだ新幹線が開通する前である。でも電化された鉄道の特急列車は快適だった。 困ることも迷うことも何もない。指定席に2人は座った。  途中、やはり日本と同じく検札を受けることになる。  私たちは中国(大陸)で何度も列車の旅をしている。そして、それらはとても楽しく、私 は大好きなのだが、台湾では同じ中国語(ここでは国語という)を使って会話しながらも違い があることを、この車内で気づくことになった。  車掌が乗客に敬意を表して接していること。もう1つは乗客同士のモラルだった。  高齢の女性が途中駅で乗り込んできたとき、荷物を持ってあげている男性がそれを座席の 傍に置いて去るとき、おばさん(高齢女性)は、 「シエシエニーア(ありがとうね)」とお礼を言ったのである。  荷物を持ち運んでもらったんだから当たり前じゃないか、と思われるだろうが、 <台湾はやはり違うなあ>と私がすぐ感じたことから両者の差異を察知いただければいい。  車窓の景色が次第にトロピカルになる。棕櫚や蘇鉄からバナナのような広い葉になって いった。  高雄は「たかお」として地名を知っていた。 かつて海軍に採られていた父が、戦艦は沈んだが陸に泳ぎ着き、敗戦後、高雄で武装解除、 ここから復員してきたところだからだ。  父を偲んで1度は行きたいと思っていたところだ。  午後、まだ日差しの暑い時刻の高雄駅に降りた。  まず宿を探すが、駅の案内所などを頼らない。そのまま街へ出て宿を数件、前を通ったり 覗いたりして、そのうちの1軒で交渉することにした。  時間がまだ早いからか、話も早い。5000円ほどで朝ご飯付き、ツインルーム。シャワーも もちろんあり、駅にも近くて申し分ない。  早くきめることができたので、夕食とは関係なく散歩することにした。  海産物仲買屋ばかりのような街に出た。ハマグリが大きな網袋に入って積まれてあった。  なぜか日本のハマグリのような模様は見かけず、茶色一色のが多かった。  日が暮れると、大通りに車はなくなり、夜市(ナイトマーケット)になる、と聞き、いっ たん宿に帰ってから、その時間になったら再び出て、夜市で食事をすることにした。  ホテルに帰ると、観光バスが着いていて、まだ乗客は中に座ったままで、観光業者らしい 人が宿の主人と<宿泊交渉>をしていた。  私のヒアリング力はよくない。にもかかわらずその交渉を聞いてしまった。  乗客は多分、雑多な個人が申し込んだ観光団だろうが、みんながツインに泊まること、 1部屋約8000円にすること、その条件を交渉人は呑んで、バスに戻っていった。  やがて乗客は各自の荷物を持ち、宿に入って来た。  賑やかな宿になった。 「団体さんたちね、ウチよりだいぶ高い料金で泊まるみたいだよ」 「うっそう」  ロビーにいて聞いてしまった私だって、にわかには信じがたい成り行きだったし、変な話 だが、私たちはヒョンなことで現地人観光客よりずば抜けたよい条件でこの宿に泊まれたこ とになる。  知らなきゃ何でもないことを、知ったためにとても幸運を喜ぶことになった。  南回帰線を過ぎている。  日暮れは思いの外に早く、夜市の大通りへ繰り出すことになった。広い通りの両脇だけで なく真ん中にも店の台が出ていた。  土産を買わないismの私どもは、見る店がいくらあっても長居はしない。  どこで夕食にするかが心中のメインテーマだった。  スナックふうに食べるならいくらもある。数ヶ所をはしごするのも面白かろう。  だが外国にあって食べる場合、食べてみないと分からない場合が多い。辛かったり、見た 目だけでは分からない。  それでいろいろと尋ねてみるのだが、尋ねれば尋ねたで<いい>とか<おいしい>とか答 えるにきまっている。  聞かなくても向こうから声を掛け、薦めるのも多い。  1店舗の食堂があった。  入ってみると、「目玉定食」とあり、目を形どった絵があった。 「シーシェンマ?(これ、なんですか)」と尋ねると、 「チーバ(食べなさいよ)。エンチンヘンハオ(目玉はとてもいいよ)」 「ヤオヨンマ?(薬用なの)」 「トイ(そう)」 「シェンマエンチン?(何の目玉)」 「x△◇○ダ」 「え?」 「ヘンターダユィ(とても大きい魚の)エンチン(目玉)」  私は字を書いて見せた。「鮪?」 「トイ、トイ(そうそう)チョーガ(これです)」 「ライイーガバ(これひとつ、頂戴)」  中皿いっぱいに載っているのは、マグロの目玉とその付近の肉だった。  兜焼きという料理が日本にはある。あれでも目玉だけを取り出せば、お茶碗にいっぱいに なるだろう。  皿の真ん中に目玉焼きが載っている程度のことを想像している人は全く間違っている。 大きさもだが、ボリュームが全く違う。  そういう煮付けにご飯とおつゆ、香の物の付く定食で、夕食にした。  この国も食にはすべて「薬用」のいわれがつく。医食同源なんて日本の外で言うとき、特 別の食べ物を言うのではない。どんな料理にだって、味や好みの他に(というよりそれ以上 に)薬用としての存在理由がある。ないものはない。  日本の場合、例えば、シジミ汁は肝臓に良い、黄疸に良い、などとは言うが、毎日飲む味 噌汁に刻みネギを入れても特別なことは言わない。  台湾(韓国も漢民族もだが)なら、味噌は長寿にいいとか、ネギは風邪を引かないとか、 (酒の)飲み過ぎにいいとか、つまりすべてに薬用(効用)を言う。  これがあちらで言う「医食同源」の意味である。  日本では医食同源を称するスペシャルメニューと味覚を楽しませるご馳走、さらにはカロ リーだけ(もし言うなら)云々する食品とに分化している。  満腹の私たちは、もう宿へ帰るだけになった。  night-marketで会話を楽しみながらの冷やかしだったが、うっかり買いたくなるような スナックの類(点心、日本では飲茶とも言う)の屋台が連なっていた。  明けて、東岸を北上する。  日本列島は東側がよく発達しているが、台湾は西側が表、東は裏の感じがする。  ただしそれは鉄道便に関してだけの比較。1本で通る列車はなく、一部分はディーゼル特 急だったりした。  台東では次の列車待ちに降りたのだが、予め調べてないから、昼食のため見つけた食堂に 入った.  何度も呼んでやっと奥からおばさんが出てきた。2、3のメニューは 「すぐにはできない」と言われ、あり合わせのおかずで昼食をする感じだった。  これでも、もし尋ねれば、この漬け物の効用は、とか、お茶の薬用は、などと答えたに違 いない。  駅舎前の通路上にいっぱい果物を広げる商人がいた。  そのとき初めて食べたのがsugar-fruitsである。  列車待ちの女性が、日本語で話しかけてきた。 「どこで日本語を習われましたか」 「大学で習いました」  インテリ女性である。もちろん私はそれを褒める。  私の中国語も褒めてくれた。台湾で通用する官話は、中国大陸の普通語(プートンホア) とほぼ変わりないが、台湾では「国語(グオユー)」と呼ぶ。書けば繁体字、つまり日本の 旧漢字だが、音声上の違いは日本人に濁音と聞こえる部分が、ここではしばしば清音に聞こ える単語があることぐらいだった。 「これは釈迦頭(シャカトウ)という果物です」  なるほどお釈迦さんの頭髪は縮れてクルクル小さい丸粒ができている。緑色の握り拳ほど の果物はそのとおりだった。 「こんなに甘いのですよ」  女性は売り子に了解も得ずに、大きいのを取り上げ、2つに割った。  中には真っ白いブロックがいくつも詰まっていた。  私にためらいがなくはなかったが、口に入れると、癖も嫌味もない甘み、しかも濃い甘み だった。 「英語ではsugar fruitsという名です」と、さすがのインテリジェンス。  試食に義理を感じただけが理由ではなかった。 「1山いただこうか」と売り子(シャオジエ)に向かい、 「チョーガ(これ)」と6個ほどの盛りを指し、売り子が袋に入れるとき、 「トゥオシャオチェンナ?(いくらなの)」と言うと、インテリ女性は、 「△?X☆▽」と小姐に言った。  多分<まけて上げなさいよ>と言ったに違いなかった。  ここは大陸ではない。漢民族だが礼儀作法も慎みもある人たちだ。私の側にも値引きを口 にする気はなかった。  小姐は、結び終えようとする袋の口を再び解いて、もう一個、入れ添えてくれた。  すでにこの時までに、台湾の人たちには日本人びいきが多いことを感じてもいた。  日本語が無理なくその口から出る。  私は日本にあって、日本人がもっともっと友好の情を持たないと失礼なのではないかと感 じていた。  私たちの実態は、好意を無視していながら、無視していることに気付いてもいない。 「日中友好」と文に書き、口にも出して盛んに言う。 「友好」とは、平易に言えば仲良しだ。  誰がほんとうの仲良しか、日本人は素朴、純朴な子供心を忘れて、理念ばかりの判断をし てはいないか。大人の義理心で「友好」を唱えていないか。  特急列車の右側に見る太平洋は文字どおり静かだった。 「太平」の名が付く理由も、ここで見ればよく分かった。  途中停車駅の「花蓮」の手前から、田圃に石がごろごろあったりするのを見るうち、今ま で会話もせず静かに座っていた近くの女性乗客が、 「ひどい地震があたところです。とてもよい温泉です」  外国人への心の籠もった親善だった。 「残念です。次回には必ず来ます。台北から逆に回ると列車でどれくらいですか」 「特急で3時間ぐらいでしょう」  大きな岩が、川ばかりか田圃のあちこちにあるのは、まだ地震の傷跡が地元の農業にも観 光業にも痛々しく残っている証しだった。

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☆ ☆ [その24] 高雄(カオション)の「目玉定食」 ☆


台湾へは一度しか行っていない。 しかもPerth(西オーストラリア)へ行った帰りの寄り道、ストップ・オーバーだった。  そしてとても印象深い旅になっている。  stop-overとは、本来は途中下車の意味、乗り継ぎを利用し、しばらく滞在することだが、 この時は4泊もしている。  当初、初めてのところだから、台北だけを楽しもうと思っていた。  きっかけは台北駅でした偶然の「会話」から始まる。  台北に大規模な地下街があり、さらにその下に地下鉄MRTと国有鉄道とがある。  駅に近い地下街は特に入り組み、商店が連なる。  やっと駅に行き着いたのも、乗車の意図からではない。単なる見物だった。  駅に貼ってある広告などを見ているとき、後ろに何かの掲示物を見る人の気配を感じ、私 はその人の邪魔をしないように身を避けた。 <この人は何を見ているのだろう>と視線の先を見ると「敬老票」の表示があった。 「シーシェンマ?(なんですか)」  台湾人の親切心の表現は日本人と同質で、言葉こそ違え、違和感はない。 「60スイイーシャンダレン(60歳以上の人は)クーイーマイピャオ(切符が買えます) バンジア(半額で)」 「Oh、ウォーメン、ワイグオレンイエ(私たち外国人も)クーイーマ?(買えますか)」 「ナールヨウ、ショウピャオチュ(あそこが切符売り場)ウェンバ(聞いてみなさい)」  窓口だ。 「チンウェンイーシャーバ(ちょっと済みませんが)ウォーメン、ワイグォレン(私たち、 外国人)。ラオレンピャオ(老人切符を)クーイーマイマ?(買うことはできますか)」 「クーイー、クーイー(いいですとも)。ランウォーカンカン、ニンダフーチャオ.(私に パスポートを見せれば)ナ−シン(それでいいです)」 「シエシエア(ありがとうね)」 「ブーシエ(いいえ)」  国有鉄道時刻表を見つけて、その場で計画を作り始めた。  台北=高雄、泊。高雄=台東(など太平洋側を回って)=台北。つまり1泊2日、台湾一 周の旅。  敬老票とは乗車券ばかりか特急券も半額になると知った。  明くる朝7:00、宿で食事を終え、8:30の高雄行き特急に間違いなく乗るために、地下道 への降り口から2度も、駅まで歩いてリハーサルをした。  もちろんまだ新幹線が開通する前である。でも電化された鉄道の特急列車は快適だった。 困ることも迷うことも何もない。指定席に2人は座った。  途中、やはり日本と同じく検札を受けることになる。  私たちは中国(大陸)で何度も列車の旅をしている。そして、それらはとても楽しく、私 は大好きなのだが、台湾では同じ中国語(ここでは国語という)を使って会話しながらも違い があることを、この車内で気づくことになった。  車掌が乗客に敬意を表して接していること。もう1つは乗客同士のモラルだった。  高齢の女性が途中駅で乗り込んできたとき、荷物を持ってあげている男性がそれを座席の 傍に置いて去るとき、おばさん(高齢女性)は、 「シエシエニーア(ありがとうね)」とお礼を言ったのである。  荷物を持ち運んでもらったんだから当たり前じゃないか、と思われるだろうが、 <台湾はやはり違うなあ>と私がすぐ感じたことから両者の差異を察知いただければいい。  車窓の景色が次第にトロピカルになる。棕櫚や蘇鉄からバナナのような広い葉になって いった。  高雄は「たかお」として地名を知っていた。 かつて海軍に採られていた父が、戦艦は沈んだが陸に泳ぎ着き、敗戦後、高雄で武装解除、 ここから復員してきたところだからだ。  父を偲んで1度は行きたいと思っていたところだ。  午後、まだ日差しの暑い時刻の高雄駅に降りた。  まず宿を探すが、駅の案内所などを頼らない。そのまま街へ出て宿を数件、前を通ったり 覗いたりして、そのうちの1軒で交渉することにした。  時間がまだ早いからか、話も早い。5000円ほどで朝ご飯付き、ツインルーム。シャワーも もちろんあり、駅にも近くて申し分ない。  早くきめることができたので、夕食とは関係なく散歩することにした。  海産物仲買屋ばかりのような街に出た。ハマグリが大きな網袋に入って積まれてあった。  なぜか日本のハマグリのような模様は見かけず、茶色一色のが多かった。  日が暮れると、大通りに車はなくなり、夜市(ナイトマーケット)になる、と聞き、いっ たん宿に帰ってから、その時間になったら再び出て、夜市で食事をすることにした。  ホテルに帰ると、観光バスが着いていて、まだ乗客は中に座ったままで、観光業者らしい 人が宿の主人と<宿泊交渉>をしていた。  私のヒアリング力はよくない。にもかかわらずその交渉を聞いてしまった。  乗客は多分、雑多な個人が申し込んだ観光団だろうが、みんながツインに泊まること、 1部屋約8000円にすること、その条件を交渉人は呑んで、バスに戻っていった。  やがて乗客は各自の荷物を持ち、宿に入って来た。  賑やかな宿になった。 「団体さんたちね、ウチよりだいぶ高い料金で泊まるみたいだよ」 「うっそう」  ロビーにいて聞いてしまった私だって、にわかには信じがたい成り行きだったし、変な話 だが、私たちはヒョンなことで現地人観光客よりずば抜けたよい条件でこの宿に泊まれたこ とになる。  知らなきゃ何でもないことを、知ったためにとても幸運を喜ぶことになった。  南回帰線を過ぎている。  日暮れは思いの外に早く、夜市の大通りへ繰り出すことになった。広い通りの両脇だけで なく真ん中にも店の台が出ていた。  土産を買わないismの私どもは、見る店がいくらあっても長居はしない。  どこで夕食にするかが心中のメインテーマだった。  スナックふうに食べるならいくらもある。数ヶ所をはしごするのも面白かろう。  だが外国にあって食べる場合、食べてみないと分からない場合が多い。辛かったり、見た 目だけでは分からない。  それでいろいろと尋ねてみるのだが、尋ねれば尋ねたで<いい>とか<おいしい>とか答 えるにきまっている。  聞かなくても向こうから声を掛け、薦めるのも多い。  1店舗の食堂があった。  入ってみると、「目玉定食」とあり、目を形どった絵があった。 「シーシェンマ?(これ、なんですか)」と尋ねると、 「チーバ(食べなさいよ)。エンチンヘンハオ(目玉はとてもいいよ)」 「ヤオヨンマ?(薬用なの)」 「トイ(そう)」 「シェンマエンチン?(何の目玉)」 「x△◇○ダ」 「え?」 「ヘンターダユィ(とても大きい魚の)エンチン(目玉)」  私は字を書いて見せた。「鮪?」 「トイ、トイ(そうそう)チョーガ(これです)」 「ライイーガバ(これひとつ、頂戴)」  中皿いっぱいに載っているのは、マグロの目玉とその付近の肉だった。  兜焼きという料理が日本にはある。あれでも目玉だけを取り出せば、お茶碗にいっぱいに なるだろう。  皿の真ん中に目玉焼きが載っている程度のことを想像している人は全く間違っている。 大きさもだが、ボリュームが全く違う。  そういう煮付けにご飯とおつゆ、香の物の付く定食で、夕食にした。  この国も食にはすべて「薬用」のいわれがつく。医食同源なんて日本の外で言うとき、特 別の食べ物を言うのではない。どんな料理にだって、味や好みの他に(というよりそれ以上 に)薬用としての存在理由がある。ないものはない。  日本の場合、例えば、シジミ汁は肝臓に良い、黄疸に良い、などとは言うが、毎日飲む味 噌汁に刻みネギを入れても特別なことは言わない。  台湾(韓国も漢民族もだが)なら、味噌は長寿にいいとか、ネギは風邪を引かないとか、 (酒の)飲み過ぎにいいとか、つまりすべてに薬用(効用)を言う。  これがあちらで言う「医食同源」の意味である。  日本では医食同源を称するスペシャルメニューと味覚を楽しませるご馳走、さらにはカロ リーだけ(もし言うなら)云々する食品とに分化している。  満腹の私たちは、もう宿へ帰るだけになった。  night-marketで会話を楽しみながらの冷やかしだったが、うっかり買いたくなるような スナックの類(点心、日本では飲茶とも言う)の屋台が連なっていた。  明けて、東岸を北上する。  日本列島は東側がよく発達しているが、台湾は西側が表、東は裏の感じがする。  ただしそれは鉄道便に関してだけの比較。1本で通る列車はなく、一部分はディーゼル特 急だったりした。  台東では次の列車待ちに降りたのだが、予め調べてないから、昼食のため見つけた食堂に 入った.  何度も呼んでやっと奥からおばさんが出てきた。2、3のメニューは 「すぐにはできない」と言われ、あり合わせのおかずで昼食をする感じだった。  これでも、もし尋ねれば、この漬け物の効用は、とか、お茶の薬用は、などと答えたに違 いない。  駅舎前の通路上にいっぱい果物を広げる商人がいた。  そのとき初めて食べたのがsugar-fruitsである。  列車待ちの女性が、日本語で話しかけてきた。 「どこで日本語を習われましたか」 「大学で習いました」  インテリ女性である。もちろん私はそれを褒める。  私の中国語も褒めてくれた。台湾で通用する官話は、中国大陸の普通語(プートンホア) とほぼ変わりないが、台湾では「国語(グオユー)」と呼ぶ。書けば繁体字、つまり日本の 旧漢字だが、音声上の違いは日本人に濁音と聞こえる部分が、ここではしばしば清音に聞こ える単語があることぐらいだった。 「これは釈迦頭(シャカトウ)という果物です」  なるほどお釈迦さんの頭髪は縮れてクルクル小さい丸粒ができている。緑色の握り拳ほど の果物はそのとおりだった。 「こんなに甘いのですよ」  女性は売り子に了解も得ずに、大きいのを取り上げ、2つに割った。  中には真っ白いブロックがいくつも詰まっていた。  私にためらいがなくはなかったが、口に入れると、癖も嫌味もない甘み、しかも濃い甘み だった。 「英語ではsugar fruitsという名です」と、さすがのインテリジェンス。  試食に義理を感じただけが理由ではなかった。 「1山いただこうか」と売り子(シャオジエ)に向かい、 「チョーガ(これ)」と6個ほどの盛りを指し、売り子が袋に入れるとき、 「トゥオシャオチェンナ?(いくらなの)」と言うと、インテリ女性は、 「△?X☆▽」と小姐に言った。  多分<まけて上げなさいよ>と言ったに違いなかった。  ここは大陸ではない。漢民族だが礼儀作法も慎みもある人たちだ。私の側にも値引きを口 にする気はなかった。  小姐は、結び終えようとする袋の口を再び解いて、もう一個、入れ添えてくれた。  すでにこの時までに、台湾の人たちには日本人びいきが多いことを感じてもいた。  日本語が無理なくその口から出る。  私は日本にあって、日本人がもっともっと友好の情を持たないと失礼なのではないかと感 じていた。  私たちの実態は、好意を無視していながら、無視していることに気付いてもいない。 「日中友好」と文に書き、口にも出して盛んに言う。 「友好」とは、平易に言えば仲良しだ。  誰がほんとうの仲良しか、日本人は素朴、純朴な子供心を忘れて、理念ばかりの判断をし てはいないか。大人の義理心で「友好」を唱えていないか。  特急列車の右側に見る太平洋は文字どおり静かだった。 「太平」の名が付く理由も、ここで見ればよく分かった。  途中停車駅の「花蓮」の手前から、田圃に石がごろごろあったりするのを見るうち、今ま で会話もせず静かに座っていた近くの女性乗客が、 「ひどい地震があたところです。とてもよい温泉です」  外国人への心の籠もった親善だった。 「残念です。次回には必ず来ます。台北から逆に回ると列車でどれくらいですか」 「特急で3時間ぐらいでしょう」  大きな岩が、川ばかりか田圃のあちこちにあるのは、まだ地震の傷跡が地元の農業にも観 光業にも痛々しく残っている証しだった。

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☆ ☆ [その25] 士林、故宮博物院と日本人使節 ☆


 空港の観光案内所で紹介を受けた宿だったが、庶民的だし気に入っていた。 だが、1つだけトラブルがあった。  5000円ばかりのツインルーム、中に寝間着が1着しかなかった。  当然私は、「ハイヤオイーチャオスイイー(寝間着、もう1着ほしい)」とフロントへ言い に行った。  すると、「料金には1着しか含んでない」と答えた。 「え?」  今までウイーンで枕1つの部屋を経験したことがあるにはあったが、それ以外にこんな経験 はない。  多分習慣の違いなのだろうからと、クレームなどせず、「あ、そう」引き下がるとき、フロ ントのおじさんは、「チンドンイーシャー(ちょっとお待ちください)」と言った。 <空港観光案内所が言ったことなのだから、そのようにします>というような意味のことを言 い、睡衣(スイイー=寝間着)をもう1着手渡してくれた。  私は空港で睡衣が何人分ある部屋なのか、なんて話は少しもしてはいない。  フロントは敢えてこういう解釈で、睡衣を出す理由を作ったのだろう。  台湾一周の次には、どんな観光がいいか、私はこのフロントおじさんに聞きに行った。 「士林(シーリン)を知ってますか。街も賑やかだし、故宮博物院も近いですよ。地下から 電車(MRT)も出ています」  故宮は蒋介石政府が台湾へ逃げるに当たって、内蔵する宝物の大半を帯出している。  だから、天安門広場の向こうに見える北京の故宮は、広大な敷地と建造物はあっても、それ だけに過ぎない。  本物の宝物は、ここ台北でしか見ることはできない。  私たちの滞在日数はわずかだが、とても充実した台北滞在になることを喜び、朝食後すぐ 地下の電車駅に行き、士林(その地域にふさわしい発音を心がけ)切符を買った。  電車はすぐ陸上に出、左手に海を見るようになった。行き先は基隆(キールン)で、敗戦 時、父はここから手紙を寄せたりしていた。  海岸にはマングローブ様の木が生えていて、海は岬か島が入り組んで、海岸基地にふさわし く思える(こういう景色は前日の一周旅行ですでに知ったことだが)。  士林は電車が地面に出てさほど遠くないところにあった。  降りて、駅員にだったか通行人にだったかに、一度だけ、「グーゴン、ツァイナーリア? (故宮はどこですか)」、と尋ねている。  迷うことはない。すぐ故宮院へ行き着いた。  広い階段を上がり、入場券をどこで買うのか探すために、職員らしい人に問うと、なんと、 こんなすばらしい答えだった。 「今天(チンティエン)、不要費(ブーヤオフェイ)」(今日は無料です)  何かいわれのある日だったのだろう。  幸運を喜び、適当に進むうち庭園に入ってしまった。美しい庭園が嫌ではないが、この日の 観賞の目的物ではない。  再び戻って、チケット売り場の前から中に入った。  そして、結局は飽くことなく足が疲れて休まねばならなくなるまで、よくよく見続けること になった。  それら宝物はどんなすばらしさだったか。それを1つ1つ書くにはスペースも時間も足り ない。  いくつかに絞ってここに紹介しようととも考えたが、それも辞め、1つだけを書くことに する。  数知れぬほど私を魅了する宝物を見続け、身体の疲れでやむなく目を離すまで見続けなが ら、私は日本人としてたった1つの絵しか紹介しない。いや、<しか>と書くのも不本意で、 この1つをこそ紹介せずにはおかない絵である。  この絵は、初めてではない。どこかで見た記憶がある。あるいは写真か何かの模写だった のだろうが、今、本物を見ている。  横幅2メートル、高さ40センチほどの横長の絵。皇帝の前に謁見に来た各国の使節が30人 あまりも立っている。  それぞれがそれぞれの民族らしいコスチュームを着けている。  帽子の形、髭(鬚、髯)の形、もちろん衣服の色、柄、形。いずれもその民族国家を代表す るものに違いなく、正装の身なりで皇帝に謁見しているのだ。  顔だって鼻の高いのや目の青いの、面長のや丸顔のもいる。  洋の東西から各民族が皇帝のご機嫌をうかがい、太平の世を言祝(ことほ)いでいる図だっ た。  中に日本の使節もいた。いや、私にはそう確信できる1人がいた。  髪が頭上に束ねられてはいたが、多すぎる乱れ毛が気になっただけではない。ひげを整えた 形跡はなく、むしろ出るべきではないところへ出てしまった感じさえしていた。  衣服は、着てはいたが乱れていて、脛(すね)から足がはみ出していた。そして、私の最も 気になった部分が活写されていた。  裸足だった。  日本人使節をもっと具体的にここで紹介するのもよかろうが、私はしない。絵とは一幅の絵 全体が1つの表現である。  これは皇帝の威徳を称える図に違いない。画家や皇帝の意図もそこにあるはずだ。  だが、私は日本人で、絵画の総体とは別なものを受け取り、こだわることになった。  ずばり言おう。  皇帝に謁見する各民族は高い文化を持つものから未発達の民族に至るまで各種あるが、未発 達低文化の典型が、他でもない、我が日本民族だったのである。  日本使節は世界の中心舞台へ出るに当たって、履物もなく伸び放題のひげで、髪も身なりも 整える習慣のない民族であることが、活写されていた。  唐代の絵だとすると、この日本人使節は、私どもが歴史で知る姿ではない。衣冠束帯がない はずはない。  でもあの国のあの頃、その国の人や世界の人がイメージする日本民族の姿は、いまだ文化を 知らない裸足の民族だったことも事実だろう。  三国志の前半は魏志、その末尾に帯方、楽浪から海を渡れば在る倭人の国が書かれている。  他の史書によっても倭人のイメージはさほど変わるところはない。  20世紀末、私は自分の目でほんとうの世界を見ることができるようになった。  現代の世界に於いてさえ高度に発達した文明国もあれば、裸足で上半身は裸、身の汚れにか まわない民族がいることをも知った。人前にあっても糞便に慎みを知らない民族が存在するこ とも、この目で見て知った。  でも、私自身は物事をけっして固定的に硬直した考えで見ないことにしようと思っている。  それこそ文明人たるゆえんの一つではないかと認識するからだ。


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☆ ☆ [その26] バンコク エメラルド寺院と抵抗力 ☆


時には旅行客2人とガイド1人という恵まれた旅行団になることもあり、このときコース の最終観光地はバンコックだった。  各地に着くごとにそれぞれ別々のガイドがリレーしては交替する。  バンコックへは午後遅くに着き、レストランで夕食を済ませてからホテルに入ると計画さ れていた。  そこは特別変わるところのないレストランだったが、時刻がまだやや早かったせいか、他 に客はいなかった。  テーブルに就くと、小女(こおんな)が二人、傍について世話をするのだが、男である私 の両脇に二人が就き、男性だけを世話する形になった。  一人の小女は日本語ができ、私に何かを話しかけるたびに「……社長」、「社長……」と 言う。  お茶もビールも、その他の小物も、日本でなら「はい、どうぞ」と差し出すところを、 <……をどうぞ、社長>。  このサービスぶりは、日本のある場所を思わせるものだった。  残念ながら私は<そのような場所>にあまり詳しくはない。けれども夜の遊びがどんな 雰囲気でなされるかぐらいを知る経験はなくもない。  ビールを一口飲むや、「社長、どうぞ社長」とすぐ注(つ)ぎ足す。  一瓶が空になる以前に「社長、お代わりを言いましょう、社長」と促す。そのとき小女は 私の腕に触れ、脇に寄り、時には太股に手を置いたりもする。  一つだけ違うのは、小女自身は飲まないことだった。  本場の日本なら顧客の了解もなく高い飲み物を注文したり、自分も飲んだり、次に いつ来るかも分からないのに、高いアルコール瓶をキープしたりする。  小女たちのことばや振る舞いから、それらを「どこ」で学び、それを通して日本語ができ るようになった経緯などとてもよく想像できた。  心配はしないでいただきたい。  この二人観光団ツアーはすでに料金が支払い済みだから、夕食を終えればもう何の問題 もなく宿へ向かい、ガイドはチェックインを済ませた。 「有名ホテルです。○○階にお部屋を取りました。明朝9:00にロビーまで来てお待ちして ます」  男性ガイドはそう言ってから帰っていった。  ホテルのボーイが私たちの荷物を持って案内したのは、10Fを越えるほどの高い部屋で、 すでに西陽は沈んではいたが、眼下にメコン川の泥水が広い川幅にゆったりと移動してい た。 岸に接して100メートルおきぐらいに生簀(いけす)の網があり、そこにはさざ波が立っ たり魚が跳び跳ねたりしていた。 <虫が入ってはいけないが>と思いながらも、窓の外を眺めているとき、室内の電話が 鳴った。 「はい、ヤブノ、です」  外国にあって予測しない電話などあると、心臓に悪影響があるかと思うほどショックも あるもので、瞬時に悪夢も生じさせたりする。 「お部屋を替わっていただきます」 「えっ、なんで?」 「替わっていただくことになっています」 「いや、ついさっき帰ったガイドと一緒に、フロントで決めたばかりの部屋です。なぜ替 わるのですか」 「私には分かりませんが、替わっていただきます」  フロント女性の声だった。  これでは議論して分かり合えるはずもない。 「すぐご案内をします」  替わった部屋からは、メコン川の風景は全く見えなかった。  翌日は水上マーケットとエメラルド寺院の観光が組まれてあった。  フロントへ来たガイドに言った。 「お互いが確認して決めた部屋だろ? 入ってすぐ替わってくれとは、信用できないね。 こういうことはあんたたちのために言うが、けっしてあってはいけないよ」  納得されたのかどうか。  でも私の方は早く忘れて、今日の観光の方に浸りたかった。  川縁(かわべり)に船が来た。  これで川を遡って水上マーケットに至る。  船尾には3メートルもあろうか、先端にモーター・スクリューを付けた棒を船頭が握り 操る。  モーター部分は、カバーなどなく裸だから騒音が大きくて互いの会話もままならないし、 濁った(汚)水をはじき跳ばしながら進む。  最初、この推進装置は、もと草刈り機だったのではないか、と思った。  でもそれにしては推進力も強く、モーターの爆発音も大きい。 <分かった。古トラックなどディーゼル・エンジンの中心に柄を付け、舵と推力にしてい るんだ>と確信するようになった。  話は逸れるが、桂林(中国広西省)で川遊びするときの竹筏ボートは、間違いなく草刈 り機を代用している。刃の代わりにスクリューを付けている。私はこの目で見、柄を握っ たから間違いなくレポートできる。  裸エンジンは轟音というより爆音を上げながら汚濁の河水を大きく飛ばし回して溯り、 川辺の集落付近まで来ると、手漕ぎのボートが10艘以上も近づいてきて、大魚に 小判鮫がくっつくように寄り添う。爆音は萎えて、やがて船は静止状態になった。  小舟には青々としたバナナ、パパイヤ、マンゴー、ランプータンなどが積まれていて、 菅笠ふうのものを被った主に小母さんたちが、高いトーンで何かを叫ぶが、残念ながら 私にはタイ語がまったく分からない。  私が手を出さないのを見ると、多量の果物を抱えるようにして「センエン、センエン」 とくり返す。  日本人の1000円は、何をするにも通常ポケットから容易に出るお金なのだ。  日本人には小遣い銭だろうが、異国にあっては大抵どこでも「幸運にありついた」結果 を生じさせるほどの大金なのである。  ナポリでも黄山でもそうだった。外国旅行をする日本人は、tipの端金(はしたがね) 程度と理解する。それが、私に言わせれば大きな間違い、さらに言えば外国の庶民への 罪作りとなる。  例えば、中国へ行ってダマされた、などと相手の民度が低いとばかりに言うが、あの国 にあってあの国固有の売買慣習を知らずに安易に1000円を出す。先方には、日本人はその ような「高価なお金」を何のためらいもなく差し出し、「値切る行為」なんて全くしない 民族だ、との誤った認識を与えてしまっている。  だから、先方では<誤った認識>だとは思いもよらず、対日本人にふさわしい売買行為 をする、と信じて行動する。  すると日本人は、<こんなものが1000円もした>とか、<最初、1000円と言った代物に 手を出さなかったら、最後には5つ1000円にすると言うので、買った>等と言う。  時間が経つと、最初は<吹きかけられ>ていて、後ほど<本値に近づいた>のは信用のない 商売だったのではないか、と認識する。  でも、元は日本人の1000円小遣い意識のなせる業にすぎない。  私はここでももちろん買わなかった。  妻が果物好きであり、どの果物も新鮮さに溢れ、日本では手に入らないものがいっぱい あった。  でも買わなかったのには、二つ理由があった。  一つ、メコン川の汚濁水。いくら新鮮でもこの汚濁水の飛沫を防止してはいないし、売り 子にそういう意識もない。意識がないのに罪はないが、食べる私たちに抵抗力は全くない。  二つ目に、日本ではO157が恐るべき毒菌となっている。でも、タイにはどこにでも大 腸菌など各種を区別せず、いっぱいいる。大腸菌同士が生存を競い合い、しのぎ合っ ている。  だからタイの人は、この汚濁水を飲んで、つまりO157を飲んでも下痢をせず、もちろん 腹痛もない。東欧の人がヨーグルトを食べ、その菌が人体の悪い菌の働きを邪魔だて するのと同じ結果になる。  想像で言っているのではない。  川縁(かわべり)の集落へ上がったとき、英語の通じる人と会話を試みた。  現地の人の飲料水は、第一に雨水である。だからどの家も屋根から落ちる水を大き な瓶(かめ)に受けている。  えっ、ボーフラ? 中に泳いでますよ。ボーフラは毒ですか。人を刺しますか。悪病を媒 介しますか。根拠のないエセ医学知識はダメですよ。  蚊は要注意(特にマラリア)。だがボーフラは全くなんでもない。蛋白質を提供してくれ る小動物だ。  雨が降らないことがあるとどうするか。  井戸水なんて発想はない。  瓶(かめ)の中にメコン川の汚濁水を汲んでおく。すると、どの程度かは知らないが、 沈殿が起こり、上層部と底の部分とに汚濁の違いが生じる。そして、上澄みの部分を 引用にする。だから困らない、とは私の会話した村人の説明だった。  医学でも科学でもない。To see is to beleive.  人間の目を信じ、経験を信じ、親たちからの言い伝えを信じ、知恵を受け継いで、乾 季も旱魃(かんばつ)も渇えることなく生きてきた。  今の医学が何と言おうと、O157に人間は負けはしなかった。  これは事実であり、発症した日本人のようなひ弱な「生き物」には、よく認識してもらっ た上で、自らの文明に欠陥があることを認識し直していただかねばならぬ。  私は、自らのひ弱さを知る身として、買わない。少なくとも生食することを避けていた。  水上マーケットの次はエメラルド寺院だった。  寺院はパゴダとでも言おうか。タイの寺院はドンガリ帽子の型をしている。すべてタイルに 覆われ、金色に輝く。  近寄って見ると、それぞれが金や宝石の色をしている。  こんなにまで飾られているのは、権力者の信仰心と民衆の仏陀への畏敬の念(寄進の心 を産み出す)からくるものだと思った。  集合時刻に近く、妻と互いに寺院をバックに写真を撮っていると、現地人の女性が <一緒に撮ってあげましょう>と身振りで好意を示した。 <コップンカップ(ありがとう)>と○○の一つ覚え。カメラを渡してシャッターを教えると、 場所とポーズに忠告があって、二度のシャッター。  再び<コップンカップ>と言いながらカメラを受けとるとき、 <二回で○○バーツ>とお金の請求があった。  私はこの種の「商売」が、仇よりも嫌いだ。  商売とは双方の合意で成り立つものだ。好意や善意に見せかけて、実は商売だった、 というような行為を、私はサギと呼ぶ。 「You didn't say before you took photo. I don't pay.」  もしこれが正規の観光行為なら、正規の業者のクレームなり要求なりがあるはずだ。 びた一文払うもんか。もし払えば<日本人はシャッター代を請求すれば簡単に支払う民 族だ>とのご認識を与えてしまう。  私の行為は少なくとも<日本人にも事前の納得なくシャッターしても、バーツの小銭す ら出さないのがいる>との認識を与えるだろうし、それは、日本にもタイにも、互いに対等 な人間関係を形作ることに役立つだろう。  グローバリゼーションとは、今、旅行好きが考えているような安易な道なのではない。シン ガポールだってマレーシアだって、異民族が一国家を創るに当たって流血の争いを経ながら 今日の次元へと高まってきていることを、それこそ正しい歴史の理解の上で学ぶべきだろう。
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☆ ☆ [その27] 漢字だが、読めなかったツィムシャーツィ ☆


 簡単な漢字だが、ワープロですぐには引き出せない。
「尖沙咀」は「tsimshatgsui」と読む。

 香港の方の誰にでも「tsimshatgsui」と言えば、知らぬ人はない。それくらい誰もが
知る地名、バス停、駅名でもある。

 外国旅行に安いフライトを選ぶ私には、ひとにはない体験をする。
 この時、キャセイパシフィックは乗り継ぎに6時間もの空き時間があった。

「乗り継ぎが長すぎるから」と降機するとき、空港構内でできる食事券をもらっていた。
 でもすぐ食べるには先ほどの機内食と近すぎるので、外へ出て短時間の観光をすること
にした。
 まだ啓徳(カイトック)空港時代だった。
 外へ出ても8時間以内に戻れば、もう一度、空港使用料を取られることはないと聴き、
安心して出ることにした。

 アジアは日本以外どこでもだが、空港を出ればタクシーの客引きがしつこい。
 私はタクシーよりバスがいい。
 バスなら現地の庶民を見、話し、触れ合う。
 それがほんとうの国際性を身につけることなのだろと認識している。

 タクシーの勧誘を振り切り、観光案内所の前に行った。ホテルを紹介してほしいのではない
と予め断ってから、
「数時間で行って帰られるのはどこか」と尋ねた。

「ツィムシャーツィです」と答えられて、
「How is it written ?」

 私のノートに「尖沙咀 TSIM SHA TSUI」と書き、簡単な地図には「香港side」と「kuoloon」
とが向き合ったこちら側、つまり九龍側にあると教えられた。

 私は発音を間違わないように、
「Tsim Sha Tsui」と3度、4度唱えて覚えた。

 バス停で乗車するにあたっても、車掌に、
「ツィムシャーツィ(へ行く)?」と確認してから乗った。

 ここ香港は、広東語が話され、繁体字が書かれる。
 香港だって、「シャンガン」ではなく「ホンコン」だし、空港名の「啓徳」も、「チードゥ」
ではなく「カイトック」と言う。
 同じ漢字を用いてもこれくらいに発音の差は大きい。

 バスに乗ると、車内放送が、録音されていて、それが流され始めた。
 奇妙なことだった。普通語(プートンホア=標準語)が流されるのだ。

 もちろんだが、乗客のほとんどが分かることばではない。ただ、本土の標準語だとは分かる。

 ある種の「しらけ」を感じていた。
 私はプートンホアだけを習っているから、車内放送のなにがしかが分かる。

<広東語ですればいいんだよ>
 日本人の私が言わずもがなだが、この「やり方」に、私は思わず不満をつぶやいていた。

 なぜこんな「ちぐはぐ」を起こしているかというと、2000年、マカオとホンコンが宗主国から
返還されたからだった。そのとき、広東語地域はその言語を認める、とも言っている。北京中心
のプートンホアをわざわざ庶民の乗るバスの車内に響かせる必要はあるまい。

 ツィムシャーツィは、香港のいちばん香港らしいところだった。船着き場で、すぐ近くにペニ
ンシュラ・ホテルという第一級の国際ホテルがあった。以前、娘に頼まれ、日本で流行し始めた
ルイヴィトンの鞄を買うために列に並んだ記憶がある。
 でも泊まりはしなかった。私が泊まるようなクラスではないからだ。

 ロビーは広く、天井桟敷のような高いバルコニーがロビーの上に突き出していたり、さながら
高級品商店街の一角のような商店部分もある。奥まったところから音楽の演奏が旅のムードを醸
し出してもいる。

 外へ出ると、港の波がひたひたと上下する波の水をコンクリートに当てていた。

 あてもなく近くの商店を見ていて気づいたことがあった。

 特に衣服には例外のないくらい特価札がついていた。
 割り引を表示するのに、漢字では「折」を使う。「8折」とあれば「80%」に割り引くという
意味だ。

 私の驚きは「8折」ではなく、「5折」と赤札の付いた女性の衣装がとても多かったことだ。

 そのころすでに薄々は気づいていたが、この時、私ははっきりと知った。
 21世紀の経済問題は、第一に「生産過剰」であること。
 そして、この問題を正面から見つめていない学者もその論述も、私は本物とは思わない。

 気になったのは、値引き札ばかりではない。客がいなかった。高級ブランド品やそれに近い流
行の先端衣装ばかりが陳列されてあると(素人の私には)見えたが、それらをその意識の眼で見
る麗人の姿は、少なくともその日、その辺で一人も見かけなかった。

 売り子もいなかったが、特別な日や時刻だったわけでもないのに、香港の中心地、しかも空港
で観光地として推奨のあった場所にしてこれだから、世界経済の一つの窓口から、その内実が見
えたに等しかった。

 もっと外に出て、下町へ来てみた。

 ここは東洋の下町によくある雑多な風景(人々が大勢行き来する)があった。

 空港への帰りを気にして、バス停と時刻とを確認してから、記憶にある「いいとこ」を探し当
ててみようと、雑多な建物のある方向へ行った。

 路地を二本、入って左右を眺めたが、記憶にあるような場所はない。

 尋ねることにして、あまり急いでいない人に近づきながら、はっとした。
<請問、一下ba !(ちょっとすみません)>と、ここでは言えないんだ。
 咄嗟に「スキュースミー」と、その人をとどめたまではいいが、またためらうことになった。
 
 お粥のことを中国語普通語では「ジョウ」と言う。英語では?

「シュースミー。Is there any rice gruel restaurant near here ?」

 rice gruelが、かつて私の味覚を魅了したお粥と同じものかどうかは知らないが、その人は
そこいらの高楼をぐるりと見回しながら、

「OK, there are many. You find that red sign ?  n? You go there and step up to 
the 2nd floor. OK ?」

 食べないことが分かっているのに、私はその大きく赤い字のナントカ楼へ上がって行くと、
小姐が、
「ニン、ライラ !(いらっしゃいませ)」と叫び、座席へ案内しようとした。

 私たちは本土からの中国人と見なされたのだろうか。
「Oh,no, not now. Afterward we'll come here again. Can I look around a little ?」
と許しを得てから、粒々が柔らかく見えダシ汁の色が漂う上に香菜(シャンツアイ)がパセリ
のようにちりばめてあるのを、今も食べている人の脇を通り抜けながら、お膳を覗いた。

 点心を載せたリヤカーよりも大きいワゴンも、向こうの方ではゆっくりと押されていたり、
注ぎ口の長い如雨露(じょうろ)様の陽気で、お茶を注ぎ添えて回るクーズ(スボン)姿の小姐
もいた。

 次にまた来ることがあったら必ずこういうところで食べるぞ、ときめて、レジの前を、
「再見a!」と手を挙げて通り抜け、表へ戻った。

 実は、「次の機会」があったのだ。
 Perthへ行った帰りに香港でストップオーバーしたとき、空港でホテル紹介を依頼しながら、
「朝食は要らないから(We don't need breakfast)」と言うと、応対者はなにやらメモした
が、ホテル代が特別に安くなったわけでもなかった。

 どこかいいところでお粥を食べたいがために、ホテルでは当然付いているに違いない朝食を
辞退したのだった。

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☆ ☆ [その28] チェンマイのトクトク ☆ HTMLのバージョンを宣言する
    [空港のハプニング]編 関西空港からだったが、格安とはいえ<これほどまで>と思えるような破格のFlight Ticket があった。  理由は、電話で尋ねても分かるものではない。その旅行社の店頭で細部を検討すると、帰国 時、深夜に到着するので、大阪までの鉄道便がない。 「若者たちはロビーで夜を明かします」と説明があった。  私たちはもう若くはない。  お金を少し追加して、早朝付く便に換えてもらった。  この時の旅行記はあちこちに書いた。というのは、様々に特異な経験をしたからだが、しか し私たちには初めてのところへ行くに当たっても、もはや一抹の不安や迷いさえないどころか、 むしろ慣れた日常茶飯事の気分で出掛けている。  タイ航空と言ったか。  バンコクに降りるに当たって、日本人アテンダントに丁寧に尋ねている。 「バンコクでチェンマイ往きに乗り継ぐには、構内のどこをどう行けばいいかね。乗り継ぎ時 間は1時間半ほどだが」  彼女(アテンダント)は手描きの図にすべてを示した。 「機内から出るとここです。ここから、2〜3分あるでしょうか。この辺りの待合室でお待ち になればいいはずです」 「ありがとう。よく分かりました。この紙(図)、もらっとくね」  社交辞令ではない。心からお礼を言ったのだった。  無事に着陸。誰もあわてず、押すでもなく押されるでもなく、楽に機外へ出て構内の通路へ と進む。  次に行くべき待合室へは、どの方向を目指せばいいかをすでに知っているから、私たちに迷 いはまったくない。  通路を左折した。  上の標(めじるし)には「Domestic」とあったから、<当然だ>と思ってその方へ進む。  その時はまったく気にも留めなかったが、通路へ出たすぐのところにA4版ぐらいの用紙を胸 の前に掲げた男が一人立っていた。  ローマ字で誰かの名が数名、記されてあったように思う。  くり返すが、私にはその記名表に注意を向ける必要をまったく感じてはいない。 「Domestic」を目指して奥へかなり進んで、待合室に入った。  まったくの無人で、係員もいないし何の表示もない。  バケツとモップを持った小母さんがやって来たので、私は<念のために>と、 「Can we wait for this flight here ?」とゆっくり発音して尋ねた。  小母さんは私たちの搭乗券を手に取って、丁寧に読んだ。 「No, you can't. You have to go over there.」 何と今来た道をすべて戻り、さらに旅客案内がある。そこで尋ねなければならない。 <アテンダントに予め尋ねてあったのは何だったんだ>  不満はあっても、言うべき相手も場所もない。  きびすを返して歩いているとき、構内放送があった。 「…………yabuno…………、x○○◆…………」、「yabuno…………、x○○◆…………」  タイ語の単語には、yabunoなんてのもあるようだ、と感じて、特別の反応を示さないでい ると、しばらくして再び同じ放送があった。 「えっ ?」と思うとき、無線通信機を身につけた女性が、私たちの方へ全速力で走って来 て、数十メートル手前で叫んだ。 「(Are you)Mr. YABUNO ?」 「Yes.」  はやく、はやく、走ってください。  手を取らんばかりに走らせ、通路の途中にある地面へ降りる扉から走り降りた。  そこにはジープに乗った二人の男が私たちを待っていて、座席に就くや身体がいきなり反り 返るほど急発進し、広い駐機場を「暴走」して、機体から降ろし出されたタラップの元まで 来た。  情況はもう分かっていた。  私たち二人が、タラップを上がり機内に入ると、すべての乗客は例外なく着座し、笑顔の乗 客は一人もなく、私たちの着座を待っていた。  バツが悪い、とは、このことを言うのだろう。  機体が上空に上がって、ベルトサインが消えてから、私は回ってきたタイのアテンダント嬢 に、やっと「I'm sorry.」と小声で詫びた。  もちろんだが、私の心の中は初めて見るチェンマイへの期待感より、失敗したことへの反省 のほうが大きい。ことば少なにおとなしく乗っていたから、外の下界の景色などで印象に残る ものは何もない。  チェンマイ空港にはホテルから迎えが来ているはずだった。  いつものように機は滑走路を走った後、エプロンに横づけされ、おとなしくしたままの私た ちも機外に出た。  入国管理に特別の問題はない。  荷物受け取りの場所を尋ね、行くと、男性職員が一人だけいて、作業をしていない。  荷物ベルトは停まったままだったから、仕事はない。  私たちが近づいて立つと、 「What hotel, today ?」と、素朴な英語で問うた。 「Why ?」 「Baggages didn't come yet. So we'll deliver your baggage to your hotel. Please write here your hotel name.」と言いながら、メモ用紙を出した。 「えっ ? I won't tell you our hotel's name. We'll stay here and wait for my baggage. I'll take it by my self. What time will the next flight come ?」 「One hour later」 「OK. We'll wait it around here.」 要するに今会ったばかりの他人にホテル名を告げ、大事な荷物を届けてもらえると、私は信 じないことにしている。自分の物は自分で持つ。外国旅行の鉄則。  さて1時間をどこかで腰を下ろして…………、と周囲を見るとき、すぐそこに2人の娘さん がいた。日本人だ。 「ホテル名をメモされませんでしたが…………」と私に言った。 「もちろんですよ。そんなプライバシーをよく知らない他人になんか言えるもんですか」  やや言い過ぎだったか。 「どうしよう。私たち名前も電話も住所も、そしてホテル名もみんな書いて渡しました。どう したらいいのでしょうか」    咄嗟の判断は、実は難しかった。 「あの人にもう一度、あなたは空港職員ですか、って尋ねてごらん。そうです、と言うときの 表情をよく見てね。信用できると思ったら、信用されたらどう ?」 「信用できなかったら ?」 「私たちと同じように、1時間、ここで待つから、と言って、メモを取り返したら ?」  二人は、「言うの、むつかしいわね」と言いながら、係員の事務所へ向かって行った。      *     *     *     *     *             [民族文化]編  外国旅行の魅力の一つは、その国の文化を知るところにある。 「文化を知る」と簡単に表現するが、「知る」とは意味内容が広く深く、その質まで感じるも のである。  私がネットで探して予約してあった宿は、民族伝統様式で建てられてある戸建て方式の建物 だった。  空港で出迎えたのは、30歳ぐらいの無口な男性で、予定より1時間も遅く出てきた私たちに 自分のコメントは何も言わず、黙ったまま、私たちと荷物とを載せ、走り出した。  やがて市中に入ると、通りには車が秩序を保ってはいたが、車間を置かないほど混んでいた。 トラックや乗用車、バスは言うに及ばないが、バイクもまた多い。  さらには「トクトク(tuktuk)」と呼ばれるバイクの後部に座席をつけたタクシーふうの ものが、その隙間を抜け目なく走る。  大通りを外れたかと思うと、すぐ藪かげの道に入った。  抜け出たところが、公園の中庭のように開け、片側に船型に棟を高く反らせた勾配ある屋 根の(仮称)バンガローが数棟あった。  フロントのある建物前で降り、チェックインを済ますと、長い布をまといつけたような服 装の女性が、「This way !」と、その右端のバンガローへ誘った。  入り口には左右から三段ほどの段(ステップ)がある。  それを上がったところで、 「Here, you take off your shoes.」と言った。  私に抵抗感があったのではない。  しかし、何故か瞬間的に「えっ?」と声を発してしまった。 「Ah, never mind. Never mind.」  だから靴のまま入室したのだが、床は、幅が5cmほどの竹でしつらえてあった。裸足で居心 地いい床だった。  壁の表面も天井も、至るところが茶色くなじんだ竹の肌で作られていた。  ベッドは、籐(とう)なのか細竹なのか、テーブルやチェアー、いずれも籐(とう)に見え たが、籐や竹を日本文化の感覚で分類している私が間違っていたのかも知れない。  ひとわたり利用の仕方を聞き、女性職員が出て行くと、私たちはすぐ裸足になった。  つまり、靴を脱いだだけではない。ソックスも脱いだ。  足の裏はひんやりとし、竹の窓からの微風が心地よかった。 「昼寝だね、まずは」  掛け布団の、敷き布団の、そんなことばも要らぬげに、ベッドに身を投げ出し、天井の竹を 見た。  細い竹の数本ずつを区切るかのように、やや太い竹が組み込まれ、バンブー・カルチャーが 天井をいっぱいに広がっていた。 「いいホテルだったね。伝統的ってことばがあったのは知ってたが、こういう造りになってた なんて、予想もしなかったよ」  ひょっとして私たち日本人が、普段はなんとも思っていない畳だって、異文化の人が初めて 知るとき、こんな思いがするのだろうか。障子も襖も天井も、そして雨戸も。仏壇や神棚。  物の価値とは、一元的に見ていてはいけないことが分かる。外国の生活を経験しなくたって、 それくらいは気づいて当たり前のはずだが、嘆かわしいことに凡人は五感を経てから驚き、そ れからやっと一つの進化した認識に至る。 「ちょっと散歩しようか」  先ほど出迎えの車で入った藪の道を歩いて大通りまで行こうとした。  その藪かげ道に、桐の樹のような掌状の葉の樹がある。そこいらにイヌがオシッコしたり、 大人だって立ち小便しそうな雰囲気だが、その「桐の樹」の幹に、ひょっこりと実がなって いる。  枝からではない。樹の幹にいきなりナスの5〜6もの青い実がぶら下がる。  見ている内に、 「おい、おい、これ、パパイヤだよ」 「ほんと? ええ? そうみたいね」  だとすれば、イヌだって、立ち小便だって、果物作りに大いに貢献できるんだ。  楽しい国に来た。  本来的で本物のリサイクルがまだまだ存在する国へ来たんだと実感する。  ホテルは朝ご飯付きで注文してあった。  タイ式と洋式とがあり、私たちはもちろんタイ式を選んでいる。  バンガローホテルの広い中庭より一段下がったところに、食堂はあった。  建具はない。いわば四阿(あずまや)の開けっぴろげの客亭にテーブルが十脚あまり、置 かれてある。  その向こうには広い川が流れているから、朝の川風に吹かれながら、流れのようにゆった りと朝食を摂る。 「あの川の名は(The name of this river)?」と尋ねると、 「メナーム。チャオプラヤー」と教えてくれた。  が、「メ」とは「川」の意味とこのとき初めて知った。  だから「メナム川のチャオプラヤー」とは支流の一つなのだろう。   「メナム」とか「メコン」は、本当は「ナム川」、「コン川」。  他にも詮索すればいくらでも同類はあるのだろうから、言語学はこの辺で放免にしようか。  洋式朝食は、コーヒーか紅茶にトースト、コンフィチュール、その他、眼の青い人たちが 食べるために準備されている。  タイ式のメインは、やや深みのついた中皿にお粥が入っていた。  ただのお粥ではない。出汁(だし)のおいしさを湛えた上に辛みがついていて、その香辛 が口腔内や鼻腔内を、やさしくはないが、ひどくもなく刺激し、時々、冷や水で口内を慰め ながら、また続きのスプーンでお粥を掬っては食べる。    朝の涼しさは、川の流れとともにゆるやかに頬を通りすぎて行く。 「今日はどこを見て回るかな」などと別の目的へとあまり気を向かせたくはない。  つまり、あるがままでここに居たい心地になっていた。 「こういうところで、例えば1週間逗留して、小説を一編書き上げるなど、してみたいね」  つぶやきは私の本心だったが、実現させることはなかった。  街中には夕刻からnight marketがはじまる。  3時すぎに行ってみると、もう準備が始まってはいるものの、やはり日が暮れて明かりが 灯るころからがいい。  少し順序を変えて、別のエピソードを一つ。  night marketを見終えて、バンガローホテルに戻ってきたとき、中庭の私たちの建物の前 で、ほとんど同年配に見える西洋人夫妻に逢った。 「Good evening !」と互いにあいさつ。でも、それだけで終わらなかった。 「Are you Japanese ?」 「Oh yes. Are you ?」 「German.」 「Oh, von Deutchland.」 「Sprechen Sie Deutsch ?」 「N…………n, ein wenige.」  かくして日独2組の60代夫婦の立ち話が始まった。  バンガロー建物が並ぶ前で、背面には藪のような木立、空には月があった。  何かのきっかけで話がDeutsches Lied(ドイツの歌)になって、奥さんが 「Viegendlied(ブラームスの子守歌)」を唄うことになった。  私も知っている。  ただしドイツ語で通して唄う力はない。 「Guten Abend, gute Nacht, mit Rosen bedacht,…………」 「眠れよ 吾子(あこ)、 汝(な)を めぐりて…………」  それぞれがそれぞれの連れ合いに優しく声を和す。  お互いの顔は、月夜に白く浮き、月は雲を抜けて走る。 「…………眠れ、今は、いと安けく、…………」 「morgen fruh, wenn Got will,…………」 (※fruhのuはウムラウトが付く)  まったく異なる音声だが、メロディは寸分たがわず宵の空気を汚すことはない。 「…………訪いくるまで」 「…………wirst du wieder gewecht.」  満足だったのは私だけではない。もちろんご夫妻もウチの妻もだった。  ドイツ人とともに夜のしじまに最もふさわしい歌を共に楽しめたからだった。  ご夫妻は、この地に息子さんが駐在員として来ていて、毎年、この地を旅し逗留させてく れる、と言った。  子が親に楽しみを作ってくれる。それがどれほど親に幸せをもたらすかは、私たちもよく よく知っている。子どもが生まれ育ってからの歴史をすべて丸ごとの思いにして、本物の 幸福を実感させてくれる。 「おやすみ。Auf Wiedersehen !」 と別れ、バンガローに入ってからも、私の心の中には、 「…………朝の…………ひかり…………射し来るまで」とWiegenliedがくり返されていた。      *     *     *     *     *             [ナイトマーケットとカントーク]編  街には毎晩、ナイトマーケットが明るく並ぶ。ほとんどの人が、見るでもなく買うでもな く、ぞろぞろと行き交う。  私たちも例外ではない。  時に衣服を手に取ったり値段を見たりはするが、土産を買う気がないから、眺めて歩いた 挙げ句に夕食のできそうなところがあれば、「この辺にしようか」と、入って食べる。  夕食は大食しないがいいとは、妻の「しつけ」で、レストランに入っても、スナック程度 に食べるだけだった。  じゃあ滞在中、毎夕出掛けたマーケットは何だったかというと、売り子や店内で商品を見る人 たちと話すのが楽しかったからである。  大部分が何でもない話だが、時々はタメなる話もする。  例えば、バンガローは1週間予約していたが、ホテルに替わるとして、どこがいいか、と言う のもこんな出会いの人に聞き、街でいちばん大きなホテルに移り替わったが、バンガローの半額 ぐらいの値段(もちろん朝食付き)だったり、街には別に(昼間の)大きなマーケットがあって、 そこへ行けば何でも買える、などと情報を得ていた。(マーケットのことは最後に書く)  滞在の終わりが近づいたある日、「カントーク」を観に行くことにした。  この地へ来て、観光と言えばまず紹介されるのが、トレッキングや象公園などを含む一日観光、 そして民族舞踊を観る夕食パーティー、つまりカントークだ。  替わった大きなホテルは、日本の大ホテルに少しも劣るところなく、申し分のない部屋に行き 届いたファシリティーで、広いロビーの各コーナーに各種業種が窓口を開いていた。  朝食も、私にはきわめて贅沢な選択ができ、ゆっくりと十分に食べるので、しばしば昼食を忘 れそうになる。  観光案内のコーナーがあり、男女の職員を相手に、用心深い私は念入りに確認して、一日旅行 を申し込んだ。 「これ以外にお金を必要とする場面は一ヶ所もないんだね。いいね」とくり返している。    しかし、翌日、会社の車ではなくマイカーで表れたドライバー兼ガイドは、お構いなしに、 「どこどこへはどうか」とか、「ここはいくらだ」と、何度も「自分独自」の観光ガイドをした。  でも私は、その辺が他の方々とは違う。  契約に入っていないものを、いくら勧められても諾しない。  象公園で象の芸やゲームを見物し、象に乗ったり、また植物園で南国の珍植物を観賞した。  さらには少数民族村に入ったが、ガイドは彼らの村に入るとき、住民の人権など眼中にない らしいのを知った。  鶏が放し飼いにされてある粗末な住まいに、複数夫人なのか、姉妹なのか、ガイドを怖れる表 情で、カマドを覗かれても食生活を触られても、拒否をしようとはしなかったし、嫌悪の情を押 し殺していた。  もちろん私に異文化に対する興味のないわけがない。むしろ人より旺盛な関心を、人類の歴史 との関わりで持っている、と自負する。  でも、このとき、この民族村に長居したくはなかった。  人権無視は、もっとも見たいない厭わしい現象だからだ。  次の観光場所を督促する私に、ガイドは、土産を買うように薦めた。いや、それ以外には行動 がないかのような督促だった。  そうなると私の意志力はかえってたくましくなる。一品たりとも買わなかった。  一日の行程を終えた帰路がまた気に入らなかった。町はずれに工業団地か、特産物村かがある。  タイシルクや土地の宝石、金銀細工を作る工場が多くて、観光客を特に招く政策が為されてい るらしく、 「お土産の見学をしてから帰りましょう」と、ドライバーは予まっているかのように言った。 「行かない。何も欲しくはない」と言っても、 「行き帰りの車賃はサービスできます」とくり返す。 「早く帰りたいんだ」  私は声を大きくして言い、やっと諦めさせた。  製造工程を見学させ、いかにも作ったばかりをのものを安く販売する、と思わせ、それで観光 の実益を上げる、という産業団地だ。  この旅では、三度もこのような勧め方を受けている。  ホテルに帰った私は、真っ先にあの観光案内業のコーナーに行った。 「We've come back now.」 女性職員はもちろん私たちを覚えており笑顔で迎えた。 「You've said, after I payed you the fare, we wouldn't need any other money. You remenber ? The driver didn't drive sightseeng car. He drove his own car. And ………… and wanted us many fares we've not scheduled. You understand ? I dislike veru much the things I can't trust. The business must be trusted by guests. I tell you.」  そんな説教をする気になったのだから、よほど腹の虫が収まりかねていたのだろう。  だから「カントーク」を申し込んだのは、この業者へではなかった。  夕暮れとともに始まるのだが、観客席は舞台に近い方から等級が決まっている。でも早く入っ たせいか、最前部(日本で言えば「かぶりつき」)に次ぐ前の部分の席に案内された。 「脇息(きょうそく)」という道具をご存じだろうか。  日本では武士などの座席に、瓢箪型の内側に曲がったような、高さ30センチばかりの肱を掛け る台がある。  あれがあった。  座布団は、あった。  あったが布団ではない。藁と縄で丸く平らに編んだ敷物だった。  もちろんだが、私たちはタイのしきたりも作法も知らないから、妻は正座し、私はあぐらで座 布団ふうの編み物の上に腰を落とす。  前にお膳がある。  このお膳の説明はむつかしい。絵を描いた方がはるかに早いが、ことばで説明する。  高坏(たかつき)の形をしている。藁で作った高坏の上面は、日本のお膳よりかなり広い。 その上に、十種ほどの料理が小皿に盛られて載る。  料理はすべて味だけを試してみたが、よく言えばほとんどすべて異味だった。が、けっして 珍味ではなかった。  その中に私にも食べられるものが2種、あった。  一つはもち米のおこわご飯。もう一つは鶏肉の唐揚げ。  一皿を食べ、皿を高坏の上に戻すと、すかさず民族衣装の女性が盛り直す。  私は鶏の唐揚げしか食べないのだが、唐揚げを何杯お代わりしたのかを覚えていない。  食べ終わってお膳に唐揚げがなくなることはなかった。  座敷舞台には、バックミュージックとともに舞踊が始まった。  脇息に凭れ、高坏のごちそうを食べながら座敷舞台を鑑賞する、これは殿様の楽しみだと思っ た。  男女が踊るしぐさは、とても面白かった。料理とは違った珍味も異味も同時に楽しむような 思いだった。  手足の所作にととどまらず、その衣装は帽子がまずパゴダの形をしている。被った面(めん) の眼はギョロリと飛び出、左の観客や右の客を眺め、目を留め、所作をする。  女性は、指の先が所作の見所だった。  指の反り具合が尋常ではないのに、さらには指先に金色の長く細い星をとんがり棒をつけて いる。  右に反らせ左に伸ばし、男の足拍子とともに美女たちは妙なる指の美を踊った。  どうやらこの舞踊は、ドラマでもあるらしかった。音楽はともかくことばがいくらかでも分 かれば、それが恋のドラマで、身分差の故に悲劇に終わったのか、苦難を乗り越えてのハッピー エンドなのか、あるいは誰しもが願う幸せな世界を表現していたのか、少しは理解ができたの かも知れなかった。  宴が終わって会場を出るとき、日本のよりは形も音もかなり大きく演奏される笙(しょうの 笛)が、舞台の奥からまだ鳴っているのを聞いた。      *     *     *     *     *             [はかなき命との出会い]編  旅ではいろんな多くjの人に出逢うが、いつまでも印象に残る人はあまり多くはない。    ナイトマーケットを見終えて食事をするとき、ほぼ同年配の日本人夫妻と同じテーブルに就 いて話した深い印象を語ろう。  先ほども書いたように、私たちの夕食は、スナック程度にしか食べないから、いきおい聞き 役に回ってしまう。  夫妻は、行き先を定めてはいなかった。  でも間もなくチェンマイを発ち、チェンライへ、その先は、ラオスかミャンマーへと国境を 越え、さらに中国の雲南省、景洪(ジンホン)や昆明(クンミン)へと、行ければ行くだろう、 と言った。  ご主人はほとんど話されず、奥さんが主に話された。 「糖尿なんです。毎朝、あ、息をしてくれている、と思います」  その日も共にある「いのち」の感じて、続く限り、どこまでも旅を続ける、と言った。 「おウチの方はいいんですか」 「息子に言ってあります。続くところまで行って、本人の楽しみの限り旅するつもりです」  お二人がチェンライへ行けたか、その先へも行けたか、また今でも旅を続けているか、 もちろん私たちは知らない。  でも、この人たちの旅は、何か、命とか「生」とかの重要部分を象徴していると感じた。     *     *     *     *     *        [パパイヤは なぜは だめなのでしょうか]編  チェンマイの市場は、その規模に驚いた。食料品はもちろん、雑貨、医薬品等々、今、何を 問われても、私の記憶のイメージには「どの辺にあった」と言えそうに思える。  印象が強かった二つを紹介すると、味噌屋さんがあった。  日本の(本来の)味噌屋さんと同様に、店頭には、はんぎり(桶の三分の一ほどの深さの 容器)に富士山型に味噌が盛られ、ヘラで滑らかに山を形作る。  それがいくつも並ぶ。つまり、日本でなら、白味噌、赤味噌、ミックス味噌、糀味噌などなど それぞれ名称がつくだろう。  と同じように味噌の山が並ぶ味噌屋さんがあった。 「ちょっと嘗めてもいい(Can I try just a little)?」と言えば、 味噌屋のおばさんは、ニコニコと愛想しながら、ヘラ(シャモジ)に少し付けて、差し出す。  日本の味噌とどこが違うのか、分からぬほど同じ味で、しかも赤みそに近いのや麦味噌に似 たのや、塩味が濃くて、料理に使えば範囲が広そうなのや、各種の味噌を店先に出す。  でも、でも、である。  日本の味噌がここに入ったわけでも、影響したのでもない。  味噌の材料は、大豆ではないからだ。  材料は、川魚とか川海老で、これを長時間塩漬けにし、混ぜる作業の後、できあがった「味噌」 である。  魚醤(ぎょしょう)とかしょっつるなどの調味料をご存じだろうか。その類で類推されたい。  ひしお(醤)はもう古い言葉になったが、これをジャンと発音する中国や韓国・朝鮮では、 ジャンヨウ(醤油)、コチュジャン(コチュは唐辛子、従って唐辛子味噌)などと、豆による ジャン(醤)=味噌が日本も含めて主に用いられる。  原材料が豆ではなくても、仕上がった味噌は川海老なのか他の物なのか区別が付か ない。  滞在中にもっと早く知っていれば、味噌汁にはどうか、おでんにはどうか、煮込みにはどうか、 と好奇心が様々に働いていただろうと思った。  もう一つだけ紹介しよう。  とてもいい香りがする店がある。  どうのようにいい香りかと一言では言えない。  麝香、抹香、栴檀、香辛料、慾料…………近づくと、カウンターの後ろに印度系の男性が座っ ていて、好奇心の強い私の応対をする。 「どこが悪いですか(Is there any bad pain ?)」 男性の後ろには小抽斗が数十もあるタンスに、それぞれ香料か薬品かの名が記されてある。  もし私がどこかの部位の痛みを言えば、該当する小抽斗から薬料を取りだし、調合し、処方 してくれるのだろう。  香りがいいのと、男性の引き締まった眼光に医療の自信を感じ取った。  単なる好奇心でカウンタへ凭れたのを申し訳なく思った。  やはり果物屋さんが多い出口付近へ、最後には来るのだが、南方系の果物は、どれをとっ ても私を魅了しないものはない。マンゴスチンやドラゴンフルーツ。切片の試食を勧められると、 例外なく楽しませてくれる。  その日は、帰国の3日前だった。  私たちはパパイヤの店先に立って、ヘチマほどもある青さも強さも保っているのを10個ほど、 今ではないが調達できるか。土産にしたい、と小父さんに話していた。  今でないのなら、必ず準備しておく、と小父さんは約束した。  1個がヘチマほどもある。こんなパパイヤは、あまり見掛けない。それを土産にしようと、 土産を買わないことにしている私たちが決めたのである。    その足で、かばん屋さんへ行った。  スーツケースに「こう並べると7本は入るかな」などと、店頭で妻と想定し合って、スーツ ケースを新調した。    作りもしっかりしており、曳き具合も申し分ない。  帰国の前日、私たちは市場に行った。  何と、市場は休みだった。  粗い板戸の隙間から、果物屋を覗くと、すでにパパイヤが置いてあった。 「あれとあれ。こちら側のあれもいい」などと、覗きながら決めた。  明朝、一番で果物屋に行く。パパイヤを買ったら、すぐ空港へ行く。そう決めて、滞在最後の 一日を楽しんだ。  当日、朝、予定通り小父さんに声を掛けた。  新調したスーツケースを見せ、「We want to fill this suits case.」と 言うと、私が選び妻が選び、それを小父さんが手にして「これに換えたらどうか」などとアドバ イスをする。 「これもいいよ」と自ら持ってくる。  詰めるのに、私は一々を新聞で包むことにしている。  小父さんはどこかから新聞を持ってきた。そうやってスーツケースに入れると、保護するだけ でなく、隙間が埋まり、曳く時のケースは落ち着く。  結局、サイズは大、鮮度は申し分なし、のパパイヤをいっぱいに詰めて、来るときは一つだけ だったスーツケスを二つにして帰国することになった。  空港へ行くにはまだ少しだが早すぎた。 「トクトク(tuktuk)で行こうか」  トクトクとはバイクタクシーである。  街中の狭い通路にも、人混みにも臆せず入れる乗り物だ。  後ろに二人が座り、足下にスーツケースを置けばいい。  市場を出るとすぐ何台も通る。その中で中年過ぎの、家族持ち、つまり安全運転が想定される 人を選んで、手を挙げた。 「空港まで行けるか」 「もちろん」 「二人だが、いいか。荷物もこれだけ、一緒だ」 「構わない」  要する時間と費用とを尋ねた。  問題ない。どころか、思いの外に早く、<いいのか>と思えるほどに安い。 「空港に近いところまで行くのか」 「タクシーの着くところまで行く」 「じゃ、頼んだ。安全に頼むよ」  大通りへ出るまでは、凸凹もあり人混みもあり、交差点もある。  足下に両股でしっかり挟んだスーツケースにも注意が要る。  大通りに出たら、早くなった。  大型自動車もトラックも、排気ガスを大きく吐き残しながら追い越して行く。  小父さんは、それまで喉元に垂らしていたガーゼのマスクを、口と鼻の上に引き上げた。  信号で停まるごとに会話したことを記す。 「車が大量に通ので、排気ガスが肺を冒す。交通警察は、年間に5人死亡するが、そのうち4人 は、肺の病で死ぬ」  小父さんは家族が要るので、排気ガスに気を付けているのだ、と言った。マスクのことである。  空港に近づき、道は構内に曲がりは要り、タクシーから下車する場所、そのもので降りた。  料金は、事前に言ったとおりだった。  めずらしく、私はお釣りをチップにした。  小父さんの喜びの表情を、嬉しく思った。  チェンマイでチェックイン、バンコックでも問題なく乗り継ぎ、土産まで携えた二人はいい 気分で大阪の関西空港に降り立った。  荷物の回転ベルトにもほどなくスーツケースが出てきた。 「先ずは検疫だね」  入国に当たって、何も隠すことはない。太鼓判をもらったら、大手を振って南海電車に向かう。 「検疫」とある表示へ行った。  中に二人の税関職員がいて、若い方が、 「何を?」と問うた。 「パパイヤを」と答えると、 「どこから乗られましたか?」と問うた。 「チェンマイから、です」  すると、若い職員は、すぐには返事をせず、年上の50代ぐらいの職員をうかがった。 「チェンマイは、東南アジアでしたかねえ」  変なことを言う税関職員だ、と私は思った。  チェンマイはタイで、と東南何アジアに決まっている。 「東南アジアから、直接、来られたのですか。ヨーロッパから乗り継ぎだったとか、では?」   「いえ、直接、来ましたよ」  そして二人は急に言語表現が変わった。 「まことに申し訳ありませんが、…………東南アジアから果物を持ち込むことは禁じられており ます。病虫害の関係で、そういう法律になっております。…………全部、ここに置いていって いただきますが、いいでしょうか」 「ええっ?」  しばらくは何もできずに立っていた。  やがて知らなかった法律のことよりも、なぜそんな法律があるのか、大きな疑問を残しながら、 「致し方ありません。知りませんでした」  日本の果物屋でこんな立派なパパイヤは見られないはずの選りすぐりを、一つ一つ新聞紙を 開いて、台に乗せた。  悔しさを忘れて、放心状態だった。  空の新スーツケースと同じ状態で大阪へと戻ってきた。  私は、この時より法律なるものが本来の精神を失っていると思えている。  現在(2013年)TPPに議論が沸いているが、法律とは、本質は「正義」を表さなければなら ない。  東南アジアの果物だけ、どうして病虫害の危険性が言われるのか。  種明かしをするまでもなく、この法律は日本の果物農家の過「保護」を、エセ正義でくるんで いる、と確信するようになった。

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☆ ☆ [その29] 見たことのない街角 ☆

   世界的に有名な童話の古里を訪れたいと思った最初はグリム童話である。  ドイツにはメルヒェン街道と名付け、コースを設定し観光客を待つ。町の数では一口に言えな いくらい多い。  そのコース最後の町、ブレーメンはもう書いた(No.18)。  途中に、グリムの作品ではないが、「パイドパイパー」のハメルンがあり、それももう「ハメ ルンの野外劇」のところに書いた(No.17)。  当初から「それ」を目的として旅を計画したのは、エクトール・マローの「家なき子(Sans Famille)」だった。 これも「ユッセル、車内掃除のラスコー紹介」として、別項に書く(No.30以降)。  そのころの私の心情は、<次はピノキオだ>と考えていた。  ヨーロッパに絵画や建築の美を求める人は多い。私もそれらの多くを見、質の高さと庶民との 身近さに敬服してもいる。  さてピノキオは、木工のジュゼッペ小父さんの話のはずだが、人間になりたい作り物のピノキオ の方が主人公になってしまっている。  実はこのことが私の心を引きつける。  人が物を作ったり育てたりするとき、人のやさしさをどこに感じるか、ということの本質を実に よく浮き立たせている。 単純なことで話せば、畑にトマトを育てキュウリを成らせるとき、人はいつの間にかトマトの心 になって小粒を大粒にし、青いのを赤くする。  キュウリの蔓があらぬ方に伸びるとき、人は思いやりに満ちた手を出し、棒を以てその成長方 向を固定してやる。  雌花が付けば、孕んだ若い女性へのいたわり心と同じものが人の内面に膨らんでいる。  ジュゼッペさんの心だ。  でもピノキオの里を訪ねる前に、私は様々の問題(agingなど)が生じ始める「年頃」になって しまい、実行するには至らなくなった。  そんな時期のある日、ある不幸が幸いして、当初の予定にはなかったのにアンデルセンの里、 オーデンセ(コペンハーゲンから列車で1時間半)を訪ねることができ、滞在するもできた。  その報告は、いずれどこかのページでするはずだからここでは端折るが、行きたいと思い続けて いるピノキオの里へは、2013年の現在、ほとんど叶えられる展望なぞない。  でも、こんな街だろうと思う場所へ行ったことがあり、今では私の想像の中に勝手に作り上げら れている場所がある。  イタリーではない。ブリュッセルだった。  ピノキオではない。バイオリンだった。  蚤の市を見た後、何も買わなかったのにいろんなことを思った。  糸が切れてもいないのに、こんなところに投げ出されていたマリオネットたち。よく見ると人形 の塗りがはげていたりする。  分解して油を差せば再び動き始めそうな古びた時計や、何年の間、家庭の団欒と共にあって、 みんなの食膳で役立ってきたか分からぬほど、いや78歳の私よりもずっと長年月にわたって食膳 を守ってきたはずの道具などが、再び誰かの目にとまって、もとの役割を果たす日が あるかも知れないと。  反面には絶望を見せながら、健気にも偶然にあるかも知れない希望のチャンスまで耐えていた。 蚤の市を見終えて街の中心へと坂の路地を下るとき、傍らに、 「ヴァイオリン、修繕」と書かれた家があった。  フランス語で書かれていたに違いない、その原文をここに再現できないのに、私の記憶には 「ヴァイオリン、修繕」と確かに刻み着けられている。  好奇心の強い私は、その修理小父さんと会話がしたくなっていた。  ドアを押すと鍵が掛かっていた。窓ガラスは透明で、中に一つ置かれた台の上に、艶のよくない ヴァイオリンが一器だけ置かれてあった。  工房はあまり流行ってないな。そう見えると、余計に小父さんと話したくなった。  どこが故障なのか、まずはそれを探すだろう。ちょっと詰め物か何かして、弓を当て引いてみる と、なんと鳴るではないか、というような喜びの発見の後、 <よし、おまえ、もとの美声に戻してやるぞ>と言いながら、小父さんの手は工房の作業に掛かり 付けになる。  すると、日が暮れても、翌日が明けても、小父さんと道具が様々な動きで働き続け、それ以後、 仮にお客さんが入り口から呼んでも、一度や二度では気づかず、奥さんがサンドイッチを持って 来ても、すぐには食べず、しばらく待たせてから、膝掛けの埃をはたいて、やっと食べ始めるが、 その間も何かを考えているようで、奥さんの話しかけにも上の空。  食べかけのサンドイッチを横に置いたまま、ヴァイオリンの腹をとぎったげんこつの中関節で コンコン……響きを確かめ……こうした長い作業の中でヴァイオリンという<物>が次第に心ある 音を発する楽器へと再生を遂げて行く、のだろう。  その翌日、近くまで来たので、私は「ちょっと」と妻に言い、一人でその工房の家の前に来てみ た。  その日も、閉まっていた。  窓の中は昨日の様子と変わらなかった。  小父さんはもう辞めたのだろうか、たまたま二日続きで休んだだけなのか、またはするべき仕事 もない寂しい境遇なのか。  私の想像には大げさに言えば、悲哀の色が加わっていた。  21世紀の現代、物作りの世界は、国の如何を問わず、どこにもこういう寂しい現象が起こって いるのかも知れなかった。  


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☆ ☆ [その30] 魚崎駅頭の留学生 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
住吉川添いに15分下ると、阪神魚崎駅に至る。  右岸の上にはモノレールが走り、左岸は車の道と遊歩道の2本が通る。  左手に高級住宅を見ながら、右手には時々段差のある川の流れを見て歩くとき、何がキレイかっ て、足下のpavementが、だ。  いつかここへ私の親友を誘おうかと思いながら、一つだけ不満を感じた。  用件がある人、子連れの人、それぞれ快よさそうだが、家の回りで花をいじるとか、日向ぼっこ をするとか、ご近所でづきあいの談話をしているなど、外でヒマにしている人を見かけない。  日本の良さを、だからと言って否定はしないが、外国にはそういう出会いのできる場が多いよう に思う。  もちろん中国や韓国もだが、ヨーロッパにも花を愛で、畑作りにいそしんでいる人が各所にいる。  私はそういう人と話して、私のkitchen gardenの話を語り合うのが好きだ。  人種や文化を越えて、人が愛好し大切にすべきものを互いに確認することができるからだ。  品性があるのはもちろん私の好むところだが、品性なぞありそうにない文化の所でも、話しかけ てみると、実に素朴な会話ができ、心が通じ合うものだ。  たとえばドイツの田舎、小川の流れに釣り糸を垂らす男がいて、私もしばらく同じ浮子(うき) を眺めているうち、「What fish ?」とか、「Was fur ein Fisch ?」などと言う。  すると意味の分からない答えや問いが戻ってくる。  私の釣りの知識では、Schubertの”Die Forelle”しか知らないから、 「Forel Fisch ?」と言ってみる。  するとまた何かわけの分からぬことばを言いながら、私の足下を見て、靴下(socks)をはいて ないのに気づき。 「You, catch cold(風邪、ひくよ)」と注意する。  こんな出会いでも、この男性とはその後、2、3度、文通している。そして、それがドイツの 田舎、ほんとうの田舎を知ることになる。  世にあるの大抵の外国知識は、叉聞きや書物からなどの不確かなものを、自分では「確かな 知識」だと誤認している傾向が強い。  譬えれば、食ったことのない食品について知っているにすぎない。  きれいな神戸に、偶然の出会いが少ないことは、ほんとうの日本が他国へ伝わるのにあまり便宜 を供していないことになる。  実態見聞や実体験で、もっと私どもは自らの社会を知り、自らの環境を改善、改革することを 当然としなければ、良い明日はないと思う。  魚崎駅は2Fが駅舎になっている。モノレールへ乗り換えるための広い通路もある。  そこに数人の若人が屯して、エスカレーターを昇り終えたばかりの私に近づいた。 「神の信仰云々」と書かれたパンフレットを差し出して、私に語りかけてきた。 「信じれば明るくなる」と。    私は、20歳そこそこのその若者を正面から、眼光鋭く見続けながら、言った。  自分の頭を自分で指さしながら、だ。 「私は十分もう明るい。頭の中にも心の中にも暗いところはない」と。 「えっ、ワタクシ、よくわかりません」と言いながら、若者はグループ仲間があちらにいるのだろ うか、助けをもとめるそぶりをした。 「ニーシーナーグオレンナ(君は何国人だ)?」 「タイワンレン(台湾人です)」 「ナーウォーシュオグオユー(じゃあ、君の国の言葉で話そう)」 「(君は自分で物事を考えなさい。誰かが言ったから、自分はそうする、というのではなく、自分 で考えて正しいと判断したら行動しなさい。私は君のことがとても心配だ)我担心尓」  多分、私の言葉が下手だったからだろう。顔をしかめていた。 「Can you understand English ? I mean, you have to think by yourself. Someone says, so you obey. It's not your thinking. Even the God says something, you have to think about it by yourself again. The most important thing for you, the young man have to make nice future, better 21st century for human being, we have to think the best idea.I and you, too.」 彼は、聞いていた、ように思えた。  その時、後方から彼らの仲間の年上女性からと思える声がして、彼は私を制してそちらへ行った。  一瞬だが、戻るのを待って「説教を続けようか」と思ったが、すぐ結論が出た。 <言うだけのことは言ったんだ。それこそ自分で考えればいい>  私は切符の自販機に近寄り、切符を買って下のホームへ降りた。  振り返らなかった。

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