藪野 豊の世界 2 「世界100の街角で シリーズ」 へようこそ
[コンテンツ] 31〜40 ☆ 31、Three Tales in Madrid☆ ☆ 32、プラド美術館 別館 のゲルニカ☆ ☆ 33、フリーマントルに歴史を見る☆ ☆ 34、「家なき子(Sans Famille)」の原点、ユセル☆ ☆ 35、ラスコーの壁画は、c'est magnifique !☆ ☆ 36、スイスの3情景☆ ☆A☆ルツェルンは花橋の宿 ☆B☆アインシュタインと懺悔 ☆C☆チーズフォンデュの真実は☆ ☆ 37、初詣は「Bonne Anee !」 ☆ ☆ 38、経済力の差を感じるとき、(中仏米)☆ ☆ 39、上海へは新鑑真号か? ☆ ☆ 40、天津の暴力バス ☆ [コンテンツ]41〜50へは ここをクリックください
☆ ☆ [その31] Three Tales in Madrid ☆ HTMLのバージョンを宣言する @ パエリアはパエージャとも言う。 イタリーでならリソット、南仏ならフリュイドメールと呼ばれる料理の仲間だろう。 魚介類や鶏肉、野菜などの炊き込みご飯だと理解していたし、それで間違いではなかったのだが、 サフランでまっ黄に色づけされている、とは知らなかった。 サフランには薬効がある。 最終のディナーだった。炊きあげた大きな器(鍋)から各自で取るとき、私は欲望をむきだしにし て、多量に多数回、取った。 満足極まってホテルに戻った。 そして「事」が起こった。 貧血だろうか、立っておれなくなり、しゃがみ込んでしまった。部 屋の中でだ。周囲が昏い、暗く 見える。 「どうしたの?」 心配げに額に手を当てる妻。<どうした?>と見つめる大学生の息子。 「わからん」 弱々しく答える私。 よろよろとベッドに近づき這い上がったとき、妻か息子か、紐を緩め靴を引き脱がせた。 急病人をどう扱うか、二人は迷っているに違いない。 私は二人を枕元に呼んだ。 「よく分からんが、大変な貧血らしい。辺りが昏く見えるが、意識はある。で、お前たち、予定通 り、帰国しなさい。明朝、このままの状態だったら、私だけがこのホテルに止まって、治るまで 待ってから帰る。そうしよう」 そのまま私が寝入ったあとで、二人がどんな話をしたかは知らない。 時差が9時間もある。10日間程度の旅で体内時計に大した変化はなく、真夜中か未明には、目覚 めてしまう。 「どう?」 隣に寝ている妻が言う。 「何ともないな」 ベッドを降りて立ってみる。 「何ともないよ」 昨夜は何だったのだろうか。 そのとき私は調べてなかったが、サフランの効力、いや<効きすぎ>だったかも、と思った。 それ以外に思い当たることは何もない。 <サフランの摂りすぎは貧血の副作用を来す>というような知識を得るに至る経験だった、 と勝手に納得して、その時はこの件を落着させている。(※この知識が正しくないことは、後日、 調べて分かったが) A ツアー旅行だったから、「ホテルのロビー、8:30集合」などと行動が予定されている。 私は何でも10分早く態勢ができていないと気が済まない。また、大学生の息子の範たらんともし ている。 ほぼ15分前に携行品を持ち、ロビーへエレベーターで降りることになった。 上から下りてきたエレベーターが目の前で停まり、私たち夫婦が入ろうとするとき、談笑しなが ら二人の若い日本人女性が後ろから乗り込んできた。 そのとき、第二の「事」が起こった。 エレベーターの中にはすでに中老夫妻が乗っていて、若い女性たちが乗るとき、大きな声で、 「クワートロ、クワートロ」と叫んだ。何か、叱っている感じの声だった。 残念ながら私にはスペイン語を咄嗟に理解する能力もないし、また理解しようとする意志をその 時は持っていなかった。 だから聴き流していた。 エレベーターのドアが閉まり、「ガタッ」と一振動があった。 そして、何秒待っても動こうとはしなかった。 床とは5cmほど下がっていた。 でもわずか5cmの差とはいえ、扉はまったく動こうとしない。回数を示すボタンも上下ボタンも まったく反応しない 私たちは、エレベーターに閉じこめられしまった。 スペイン人夫妻は、何か文句を言っているようだった。 <どうすればいいんだ> 私は見回した。 製作会社名など示されてあるそばに、「4△□※」と掲示されてあった。 「定員4人だよ、これ」 私は思わず叫んだ。 夫妻が「クワートロ、クワートロ」と叫んだのは、娘さん2名が乗り込んだからだった。 「4人しか乗れないって書いてあるよ」 娘さん達にもよく認識してもらわなくちゃ、と私も声を 上げた。 二人は黙って俯いていた。 インターホンらしい蜂の巣状の小穴群があった。 「ペル、ファヴォール(お願い)」 私が声を発するまでもなく、旦那さんの方が、口を寄せて、 声を入れていた。 数秒が経ってから、返事があった。 旦那さんは、蜂の巣を指さしながら、「モメントーー(少し待てと言っている)」と、しぐさを 交えて私に伝えた。 「グラーシアス」、 スペイン語でこれが正しいかどうかは知らない。謝意を表したが、これから 技術者を呼び、エレベーターを直すには長い時間を要するかもしれない。 ツアー一行は、でもエレベーター事故を知るだろうから、置き去りにされることはないだろうけ れども云々と、考えてもせんない憂いを脳内にめぐらせていた。 なんと、それはすぐ杞憂となった。 10分程度だったように思う。 私はそれ以降、どこのエレベーターでも定員表示を見ることにしている。 ところで日本では定員4人などという小人数のには出合わない。 また人数で表示してあるのは、利用者として判断の拠り所になるが、重量で表示してあるのも かなりある。 日本の某ホテルで、「重量じゃあ、乗っていいかいけないか判断できないよ」と、一度言った ことがある。 フロント嬢は、きょとんとしていた。 B スペイン観光でスペイン人ガイドがしばしば口にしたのは、盗難や詐欺に気を付けろ、とい うことだった。 彼自身も脇にたばさむ書類入れ風の鞄は、実はダミーで、ねらう側には高い技術があるから、 盗られることを前提にした対策をするのだ、と言った。 国王のパレスが庶民に近い。 イギリスのバッキンガム宮殿もそうだが、庭に王族がおられれば、声を掛けられそうだった。 (別項に書くが)その日、プラド第2美術館のゲルニカを見たあとで、しばし、大広場の自由行動 になったときのことだ。 マドリッドのスペイン広場にあるのは、「ドン・キホーテ」。 これはお読みになった方も多いだろうが、もちろんフィクションだ。だが、その銅像が広場に ある。 作者のセルバンテス、馬にまたがるドン・キホーテ、さらにはお供のセルバンテスが驢馬に乗る。 スペインを代表する文学作品なのだろう。日本で言えば、さしずめ「源氏物語」級なのか。 でもこの彫塑は、何を表現したいのだろうか。ゲルニカに比べてあまりにも写実に徹している 「意図」を測りかねて見ていた。 気が付くと妻が傍にいない。 50mほど離れて、私たちより10歳ぐらい若く見える男女(日本人夫妻に思えた)と話をしている。 近づくと、どこか特別なところへ案内してあげる、そこには何やらかにやら見るべき物、買うべき 物がたくさんあり、彼らもそういう価値ある場所を自分で見つけたのだ、と言っている。 「どうです、ごいっしょに」 みたいなことを、懇切に勧められていた。 「集合までそうは時間がないので」 と、妻は事情を言って断っていた。 「残念ですね。でも、何時のフライトですか。それに遅れないようにご案内できますよ」 私は意を決して、 「どなたなの? 知ってる方なの?」 妻は、失礼な物言いをする私をなじる目つきをしながら、小声で言った。 「今、ここで逢った人」 「行こう。迷子になるよ」 私はさらに大声を出して、広場の出口へと大股で歩きはじめた。 数分後、「知ってる人に出会ったのかと思うぐらい親しげに、いかにも親切そうに話してたよ」 と妻に言った。 異国にあって、騙すのは異国の人とはかぎらない。
☆ ☆ [その32] プラド美術館 別館 のゲルニカ ☆ HTMLのバージョンを宣言する 「ゲルニカ」の実物が見られるのだ、と興奮気味だったのも事実なら、ピカソは反戦平和を象徴 するアーティストと認識していたのも、私にはまぎれのない事実だった。 開館30分も前に会場に着き、開門を待ちながら、期待感を募らせていた。 前庭には、柘植(ツゲ)によく似た灌木の植え込みがあり、形良く刈り込まれてあった。 肌にはさほど寒いとは感じなかったが、小さな丸い葉は、霜で白く縁取られている。 スズメがそれをついばんでいた。 柘植の葉をスズメが食するのを見るのは初めてただった。霜を水分としているのだろうか。 スズメたちが私に「スズメ」だとためらいもなく判別できたのは、日本のスズメとの差異を感じ なかったからだ。 私は却ってそのことを不審に思い、彼らの面相をよくよく眺めると、頬にある黒い斑点が、日本 のそれよりかなり大きい。 多分、日本に連れてきて放ったら、「さえずり」が通じなく、「面相」に違和感があり、素直に は仲間入りができないだろう。 開門された。 入った通路の突き当たりに、その大きな「名画」が掲げられてあった。 もちろん私は、後ろから来る人々への心配りも忘れ、それを見上げ、見入った。 いや、見入ったというより、心して緻密に見つめた。「名画」の名画たる理由を、私なりに見出 そうと努力をしていた。 ところで、私と同時代を生きる日本人は、どこかで一度は「ゲルニカ」を見知っているはずだ。 例えば、歴史の教科書ででも中学校の美術教科書ででも、また一般の図書であっても、近くの 都市の展示、展覧会ででも見た経験を有する人は多いはずで、今見上げる大絵画を、「ゲルニカ」 そのものだとただちに認識するはずだ。 「そこ」までに問題はない。 私が今から言わんとすることは、この絵の評価である。 美術や絵画に専門性の片鱗も有しない私だが、今から言わんとすることは、人生の大半を真面目 に生きた人間としての「真面目な感想」であると同時に「真面目で真剣な評価」であることを、予 め言っておきたい。 先にも言ったように、この絵は反戦の一象徴のように「評価」されている。空襲という精神も魂 も生きるものの尊厳も、がらくたのように破壊してしまう<殺戮>に対する抗議である、と理解さ れている。 そのことには、いささかも異論を持ってなんかいない。 だが、だが、と言わねばならぬのは、どうしてだろうか。 「牛」はなぜ牛のリアリティーを失って描かれているのか。人々はなぜ「生身」だった証(あかし) を生々しく残して描かれないのか。その他の景物もすべて、それらが衣食住の日常にあって人間 の尊厳と共に在ったときの姿を生々しく残したままでいながら、そういう生々しい部分部分が無残 にもがらくた以下に破壊され、その「こころ」が容赦もなく踏みつぶされている残忍さを描かない のか。 キュービズムの名の下に実体のリアリティを抽き去って描くことを一方で評価する考えがあると して、(後述するが)それはそれなりに評価する。 けれども、空襲という非人道を描くとき、それが表現する「対象=もの」に、キューズビムなる 「意匠」が、時には「ふざけ」や「馬鹿馬鹿しさ」、あるいは「気取り」、……かりに敢えて良く 評価をしようとしたとして、「pedantism」になってしまっている。 非人道の実態をまじめに見つめ、学ある人も学なき人も人はすべてへegaleな存在だとの認識が、 表現者にあるならば、あの絵は違っていなければならぬ。非人道行為への抗議が激しければ激しい ほど、「破壊された実体」をあくまでリアリティを以て描くべきだろう。 大きく描かれている牛くんに代表して言ってもらおうか。 「あれはオレの姿じゃない。オレの姿を描いたことは分かるが、オレの脳漿が飛び出し、鮮血がほ とばしり、四肢が無秩序に折れ散った実体を描いてくれてはいない」と。 観点を換えて述べる。 キュービズムが評価される理由は何だろうか。専門学習の経験がない私には、平安時代がなぜ鎌 倉時代に変化を遂げたの、理由をまったく知らないのと同じくらい分かってはいなかった。 プラド美術館でゲルニカに出合ったこの時だってほんとうは分かっていなかった。 それが分かったのは、ミュンヒェンのノイエ・ピナコテークへ行った時だった。 一冊の美術史を読むよりはるかに明快な答えを、私はそこで得ることができた。 キュービズムが最も対立し対抗すべき芸術とは何だったのか。 ナチズムの美術がそれだった。人間を描くとき、リアリティを強烈に伴っている。 そのシンボルは「ハーケン・クロイツ」、つまりハンマーの十字架だ。 だからそれらを全否定する立場が、すなわちキュービズム。実体を描かない、労働を美化しない、 それらの総体としての国家社会主義に通じる描き方をしない。 私は、ハーケン・クロイツ絵画を否定しようと意図した流れであることを、大いに評価するにや ぶさかではない。…どころか、なければならない「流れ」だと信じている。 でもそれは、キュービズムにして可能だったのだろうか。 ここが最大の疑問であり、すぐさまゲルニカ過大評価の「いかがわしさ」を言いたくなる。 また、美術史ご専門の方々の耳に逆らうだろうが、ナチズムと戦った流れの一つにマルキシズム がある。 そしてマルキシズムの中で力強く生きた絵画は、私に言わせれば、リアリズムや労働、協調を描 き出すものであった。 21世紀も深まった現代、このような形象表現の芸術は、一方に写真も加わり、リアリティを本質 に据える実体本質に迫るものと、意匠を主眼とするデザインとに大別される。 平和な世にデザインの側面では、美術世界は限りなく多様に展開されている。 例えば日本では、いかなるに人も、どの女性にも(もちろん男性にも)、また建造物にも(イン テリアーも含め)多様な芸述性を見る。 でも、このデザイン世界で「のっぴきならぬ切迫感」を追求したものには、いまだお目に掛かっ たことはない。 だが、リアリティ追求を旨とする絵画や写真、特に報告(報道)写真など、きわめて人道的良心 を呼び覚まさずにはおかない作品には、しばしば出合う。 そして、それらはいずれもキュービズムの流れを汲むものでは決してないことも、素人の私には よく理解できている。
☆ ☆ [その33] フリーマントルに歴史を見る ☆ HTMLのバージョンを宣言する 西オーストラリア州はオーストラリア大陸のほぼ半分を占める。首都はパース。私たちが外国の街 で最も好むところだ。 パースから電車で海へ向かう。スワン川の河口にフリーマントルがある。 駅で降りると、一見、地味な街に見えるが、希有な機会に恵まれたために行くことができた日本人 が、気軽な判断をするのは、大反対だ。 と言ってみたところで、街に特異なものがそうゴロゴロとありはしない。やはり歩いて見つけよう ではないか。 街に博物館がある。様々なものがあり、この地でなければ見られない物が数ある中で、私が特に報 告したいのは、引き上げられた沈没船(難破船)の残骸だ。 イギリス人が乗り込んできた当初の船はもちろん木造船。沿岸海底から拾い上げ、組み立て復元さ れた船は、5分の1もその姿はない。 けれども船底(ふなぞこ)の龍骨(りゅうこつ)をはじめ、船体木材の湾曲や反(そ)りを以て造 り上げられた巨大な木造船の面影と、その中で絶えず叫びながら激しい行動をする毛むじゃらな海の 男たちを想像させるものを十分に有している。 映画や物語などに昔の航海記があり、大きな帆を上げた木造船や一本式の遠めがね(望遠鏡)を 右目に当てながら揚々と指揮するキャプテンを、すぐイメージしがちだが、この木造船の実物は、 「そんな悠長な情景」の再現を許さない。 1、屈強な男達が、それぞれ銃眼のような穴から突き出した櫂(オール)に取り就き、鞭をもった使 役担当の男の名のままに、休みなく、機械的にくり返す漕ぎの作業。 互いの会話も許されず、時には漏れるに任せた垂れ流し排泄物の中で、荒波のために終わる見通し もない厳労働が続く日々もあっただろうか。 時には外に異常な騒ぎがあったかと見る間に、乗り込んできた異文明の男どもが抜刀のまま飛び込 んできて、事態を認識する間もなく血しぶきの惨劇が展開され、思いがけぬ運命が開けた、か、ある いは閉じたか。 海の外、はるばる外用の広がりを見やるにも、手すりもない梯子を十段以上も手足でよじ登らねば ならぬ。 無事に着いた先々での荷揚げ、積み荷の重労働だって、作業のさなかにある男が荷物ごと、ばった りと船底に倒れ落ちても、それを構うことすらできない苛酷さの連続。 誰かが叫び声で知らせても、「おい、あいつ、海へ捨てろ!」と上役、使役者の指揮で「処理」が 済ませられる。 私のイメージは、もちろん想像の世界での展開で、事実ではないが、沈没船にづいて、そういう イメージが湧いてきたのは、前近代的世界観、人生観で言えば、海に生き海に死んだ魂が、私の意識 下に働きかけた結果だったのかも知れない。 展示物には、引き上げられた年月と使用されていた推定年月が説明されているに過ぎない。 フリーマントルで、「初めて来たのだが、観光するにはどこがいいか」と問うと、例外なく答えら れるところがある。 海岸にある囚人収所跡である。 すべて粗末な煉瓦造りの小部屋が、例外なくその窓を西方の海上(だけ)を眺めるように造って ある。 一部屋は6畳もない。入り口ドアがあったと思われるところ以外はすべて壁であり、ただ窓が西の 大洋を見せているだけだった。 イギリス本国からは、囚人が送られてきて、ここに繋がれた。 何十人、何百人、いや何千人と来たに違いない。 その罪状が何であったかを知るものが残っていない場合が多いと聞いた。 近くには「法廷」が保存されてあった。英語ではcourt of justiceと言う。 法廷で罪人を裁き、あるいは赦し、量刑をする。 イギリス人の場合、それは神の名においてなされ、英国王の権威の下に裁決が下される。 そういう「装置」が今も残っている。 フリーマントルまで流刑された「罪人」が「贖罪」ののち、再び法廷に引き出され、帰国を許され たり、自由を得たであろうことを想像するのは容易であり、私のささやかな人道的願望でもある。 だが、「十年の刑を減ずべき顕著な貢献を見出すには未だ到らない」とか、「十五年の刑期を」 終えたとはいえ、現状は未だ罪状を償いきれたとは言えない。三年の刑を付加する」などと絶望的 な判決もあったに違いない。 私がこのようなイメージをためらわずに書くのは、彼らの怨みが私の脳裏に甦ったという可能性 だけにすがっているからではない。 歴史からの教訓を正しく受け止めて、このようにイメージしているからだ。 ところで、日本人は「歴史認識」が乏しいそうだ。 この見解が、たとえ隣国にあろうと、文明未開の国にあろうと、私はそれを非難するつもりはない。 ないばかりか、そうかも知れない、とさえ思っている。 だいたい、歴史認識の行き届いた人や国がどこにあるのか。 私の場合、母かたの先祖をたどれるだけたどって、やっと鼠小僧次郎吉の時代まで見ることがで きた。わずかに200年ばかりに過ぎない。 父方はと言うと、祖父の梅松久兵衛までである(100年あまり)。 自らにDNAを授けてくれた先祖の歴史だって、わずかにこれだけに留まっている。その先は、しい て言えば大まかになる。250万年先、何国の誰と、500万年先、今は滅亡した猿人のどこが私に関わり があるのか、もし知っていたら化け者だろう。 鎌倉時代、元と高句麗が日本を攻め、対馬からは人を連れ去った。 でも今、対馬に「わしの先祖を拉致した誰やらが憎い」と言う人はいない。 許したからだろうか。 そうではない。 時間は物にも人にも変化消滅をもたらす。 自然律である。 歴史認識から、この「自然律」を排除するわけにはいかない。 ついでだが、もう一つ言う。 親が罪を犯した。その親が子を遺した時、子は当然共犯者だろうか。 子が親の犯罪を意識するに達していないほど幼いとき、それでも子は共犯者の位置に立つのだろ うか。 祖父が犯した罪、生まれてもいなかった孫は、成人して罪を償うのが当然だろうか。 「歴史認識」として最近、よく聞くことばの何と不当然の理を要っているのか自らが分からない人 が、声高に「歴史認識がない」と罵っている。 分数計算を知らない人が、「分数計算してみろ」と言っているとして、言われた人にどうしていい か分かるわけがない。 ところで「開拓」の目的を以て犯罪者を使役に供した例は、世界にいくつもある。目的のためには 犯罪者を、<創り出す>ことまでしている。 ひとのことばかりも言えない。北海道もそうだった。 シベリアもそうだったし、敗戦時に道理も人道もないやり方で日本兵に強制労働を強いた。 この理不尽な手法に日本人が協力サインを出している。 その真偽をめぐって、一国会議員が「自殺」をしている。 パースの場合、イギリスから送られた犯罪者については言うに及ばず、その他、原住民が開拓労働 に携わっている。 強制だったのかどうか、私が書けないのは、パースに一葉の写真が残っていて、一群の男性達の中 にイギリス人もいれば現地人もいる。 現地人は一連の鉄鎖で首を繋がれたまま立っている。そしてその表情が少しも苦悩を表しては いない。 英国人と同じ立場で写真に収まることの誇りなのか、事業を成就した一同の誇りを表しているの か、鎖に繋がる男性達には明るさや喜びの感情が見とれるものの、苦悩など否定的感情は見出せない のだ。 パースのキングズパークに保存されてある写真だった。 パースで知り合ったもと日本人、Clerk政江さんから、一冊の本をもらった。 「A fortunate Life」という。 これを読む人が「悲惨」とか「苛酷」ということばでレジュメするとすれば、私はその人の読解力 が乏しすぎることを指弾しなければならない。 野生動物が日々、サバイバルの連続でやっと「生」を保ち得るに等しかった人の一代記である。 それでありながら、自らの人生を「a fortunate life」と認識している。 開拓の陰に存在する現代人の安易な想像を、はるかに超える事物に、よくよく思い致すこと を怠って、軽々しく「歴史認識」などと論じる輩は、一度、ほんとうの鏡を見るがいいのではない か。
☆ ☆ [その34] 「家なき子(Sans Famille)」の原点、ユセル ☆ HTMLのバージョンを宣言する usselを「ゆっセル」(平がなを高く発音する)と発音しては、通じない。 フランスでは「ユせール」と発音して、はじめて駅名として理解される。 人間の言語を「発音」とだけ認識している人は、数学で言えば「加減」則しか知らないに等 しい。 発音に加えて調音も要る。「加減」則の次に「乗除」則があるに等しい。 日本語にも、関西弁の場合「はシ」は橋、「ハし」は箸、「はし」は端(edge)というよう に、どのように発音の高低を相対的に組み合わせるのがいいのか、コミュニケーションの手段 としての有効性を見るとき、そこに大きな意味がある。 中国語ならは、単語に短いのが多いせいもあってか、「くウ」なら「ズボン」、「クう」な ら「苦い」、「くう」なら「泣く」など、どれだけ覚えたってきりがないほど調音のある言語 だ。紛らわしいが間違っては困るのは、「マい」は「買う」だが、「まイ」は「売る」など、 高低を抜いてここの言葉はあり得ない。 usselに場合、英語読みに慣れすぎた私には、何ら疑わずに「ゆっセル」をくり返した。 紙に書いて見せ、「オー、ユせーる」と車掌が言って、やっと乗った列車が間違ってなかっ たと知った。 私たちは山間部の駅に降りることになった。 さて、事前知識の手ほどきをする僭越をお許し願おうか。 「家なき子」(フランス、エクトール・マルロー作)の主人公は「レミ」と言う。 書き出しに「私は捨て子だった」と書いてある。そして捨て子だったことも知らずに、 (この事件が起こる)7歳のこの日まで母に育てられた。 父は出稼ぎの炭坑夫で、時々しか家に帰らなかった。 「捨て子」のことをフランス語では「infant trouve」と言う。直訳すれば「発見された子」 の意味だ。 だから、ほんとうは「捨てられた」子であるよりは「他人が見つけて育てた」子という意味 に近い。 私はこういう言い方が気に入っている。 余談だが、駅に「遺失物」があるのは日本だが、フランスには「objet trouvee(発見され た対象物)となっている。 遺失しても誰にも発見されないとき、「そこ」に集められることはないのだから、こちら の方がよい表現だと軍配を上げたくなる。 怪我で炭坑の職を失った父(養父)が突然帰って来て、家計のために養子のレミを旅芸人の ビタリスに売ろうとする。 母は肯(がえ)んじない。養母であることもレミに告げたがらない。 養母が所用で留守の間に、運悪くビタリスが来て、レミを買ってしまう。 ふるさとのシャバノン村をはるかに見下ろす峠から、レミがゴマ粒のような「我が家」を見 納めているとき、狂ったようにレミを探す母の動きが見えた。 峠を越え、町に着いた。 そこでレミは初めて大道芸をすることになる。 猿のジョリクール、三匹の犬、カピとドルチェ、セルビーノ、そしてレミの演じる役割は、 賢いジョリクールと対照的なアホ役として笑いの場面を創り出すことだった。 レミには周囲の喝采にも帽子に投げ込まれるコインにも、まったく感情は動かない。 思うことはただ理由も分からず引き離された「母」のことばかりだった。 彼女がどんなに優しい母だったかを描写する二つのことが、私には感銘を残す。 一つは、いじめに対する母の強い態度。周囲からのいかなる侮辱も「我が子」にはけっして 許さぬとの毅然とした宣言と、レミに向かって「おまえは少しも悪くない」ときっぱり言って いたこと。 もう一つ。雨の日や風の強い日、寒い日には、スカートの中にレミを囲って保護したこと。 私は、スカートがそういう役割を果たすものだとは想像もしたことがなかった。 私も男の子として、母のふくらかなスカートの中に保護されているのを想像するとき、どん なたぐいの暖かさなのか、言葉を超えて理解できる。 母から引き離され、ビタリス老人一座が初めて大道芸をしたのが、このusselだと書かれて ある。 私と妻は、ここを訪ねてきたのだった。 フランスの田舎は、私の想像とどこか質が違っていた。ussselに近づくにつれて、景色は なだらかな山すその起伏が続く。 牛が放たれここそこに寝そべっている。 その牛がホルスタインとはまるで違っていた。羊のように白くて、それよりほんの少し大 きい程度の牛だった。もちろん斑もない。静かな置き物のような牛だった。 だから牛飼いが、どこかで見張りをしているでもない。 ussel駅(gare d'ussel)を降り、改札を出る。 降客を出してしまうと、改札口はすぐさま閉まり、出札口にも周囲の窓もカーテンを下ろし たようだった。 私はうかつにも、このような事態の意味に気づいていなかった。 駅前に十数軒ある家のどこかに、宿泊できるところがあるにちがいなく、まずはそこへ 一泊を頼んで荷を下ろしてから、町を散策しようとしていた。 一軒め、Hotelとあるので、入ろうとした。 だが、ドアは開こうとしなかった。たまたま留守ネのi、・るいはしもた屋簡のか。 私は2〜3回、「ボンジューラ!」と叫んナ、反応・ないので、次のHotelを見つけに行・ た。 駅銭通閭ェとぎれるとこ・ノ、それはもった。 そのホ菊ルは入「闌ツェすでに開いてやた。 フランスでは普通 「ナテル」と呼ぶホテル、田舎なら、それ以外に「オーベルジュ」と 呼ぶqやどや」が・る。区別する各・の定蟻を弾らないが、何となく「やヌや」ゅ「屠テル」 の感じの違いはあるィ ここにの、それでも「ホテル」の感じがあった。 入って、「Jon jour !(こんにちは)」と大声で叫んだ。 フロン・には誰ツ閧「なかったゥらツセ。 私は声を蛯ォくし、もう二虹、「Bon jour !」と尻上おりに叫んでmたが、何の反応も ・いので、盗人のように足をそっと進まツケて、奥へ入っ監みた。 部憶に通える廊下・Gうだった隠 「Bon jour !×……こんな大声でも返事がない。 「hallo !」……「Is there anyo~e ?v……「Quulq'un =」…c「S'il vo5s plais ?」 ……「Ron jour !」 シュタイヂウへ行ったときをそうぜ・たぐ,あの事は「Outen Ta' !」の3朔ほどは、小簿 ・んが出トきた。 ァだが、・こは誰ゃ・ない。郷の反応もない。 私にはホテルを見つける以外のアイデアは浮かばなかった。 「駅へ戻って、どの辺に宿があるのか聞いてみよう」と妻に言い、駅へ戻った。 何と、先ほど降りたgare d'ussel(ユセル駅)は、構内200坪ばかりのスペースを除いて すべて閉まっていた。 役務員たちの場所もカーテンが降りている。「○の中のi」はインフォメーションのマーク だが、そこもカーテンが降りている。げんこつで3〜4度、叩いてみたが、もちろん反応は ない。 「どうしたらいいかなあ」と言いながら、妻とベンチに座るとき、今し方駅すぐ前に自家用車 を停めたばかりの中年男性が一人、駅に入ってきて、私たちの近くに座った。 ☆ ☆ ☆ 「Excusez mois,……(すみませんが)」 私に思いつくことは、こう問いかける以外にはない。 カタコト・フランセーズで、どのように話しかけたかを、ここに再現することは不可能な のに、その時は不思議にも私の言った内容が、この人に通じている。 「この近くにホテルかオーベルジュか、ないのでしょうか」 「ありませんねえ。ここから町まで15分ぐらい。そこにはあります」 駅前タクシーなんて、一台もない。さらに言えば、子イヌ一匹うろついてさえいない。 自らの鈍さを自覚するのが遅い私も、<そうか。シエスタだったんだ。本物の完璧な シエスタなんだ>と気づきながら、話した。 「実は……妻もですが、子どもの頃に読んだ”家なき子”について知りたいと思い、ここに 来ました。この辺りの人はこの物語をご存じですね」 「もちろん。世界的に有名だし、私たちも誇りに思っています」 「ビタリスさんに買われたレミが、初めて青空ドラマをしたのが、この町でしたね」 「そうです。そこへ行きたいのですか」 「はい。住み慣れた家のあるシャバノン村なども見たいのですが、それは明日のことにして、 今日は初めてドラマをしたところを見たいのですが、どうするのがいいでしょうか」 男性は左手の時計を見ながら言った。 「私の車で<そこ>までお連れしましょう」 <まあ、何と嬉しいことを>とことばに する間もなく、 「でも、申し訳ないが、戻って来るのを手伝うことはできません。列車の時間まで十分で はないからです。そこへ行くのだけ、私の車で連れてってあげます」 「Oh, merci beaucoup. Je ne sais pas de mot convenable de vous remercier. ねえ、この方、大道芸の場所へ車で連れてってあげるって」 「ほんとに? ありがとうございます。ご親切に」 「De rien. avec plaisir(なんの、なんの。喜んでお助けしますよ)」 一方、私は<あなたの列車は何時発?>とも尋ねないで、彼の車に乗った。 タクシーが通常、走るよりはやや速いか、と思える運転だった。 「日本人ですか」 「はい」 「この広場でドラマは行われました」 彼はまじめだった。物語がフィクションであるとは微塵も意識していない様子だった。 「向こう側にアポテケ(薬屋)があります。そのすぐ前でした」と言いながら、車を薬屋の 前で停め、私たちを降ろした。 「この辺りです」 手首の時計を見ながら、 「私にはもう時間がありませんから、駅へ戻ります。さようなら」 「ほんとうにありがとうございました」 私たちは心からお礼を言ったあとで、私たちも同様にフィクションとは意識せずに大道 ドラマがここで行われ、見物客の泣き笑いのあと、回ったジョリクールの帽子に、それぞれ コインや紙幣を入れる様を想像してみた。 それはイメージされた実話だった。 悲しいあの物語のスタート地点をこの目で実地に見た場所だった。 ☆ ☆ ☆ 町には違いなかったが、さほど便利さを伴ってはいなかった。 昼食のためのレストランはやっと探したが、宿は見つけることができなかった。 レストランの小母さんに、さきほどの親切な男性と同じ話をしたあとで、レミのふるさと、 シャバノン村のことを訪ねると、もう一人のウエイトレスと何やら相談してはいたが、 「すみません。私たちには分かりません。町のこの方角(指で差して)に観光案内があり ます。そこで尋ねたらどうですか」と教えてもらったのが、最大の収穫だった。 何を食べたかは記憶していない。 食後、私たちはその観光案内所に行くと、運動会か何かの催しができるくらいの広い芝生 の原っぱの片側に、一段と高い場所を作り、その上に案内所があった。 ノックして入ると、小母さんが一人いた。 「Bon jour, Madam」と、丁寧な挨拶をしてから、 「Nous sommes venu du japon(私たち日本から来ました)」 それ以下は、男性やレストランの小母さんにも話した同じことをくり返した。 「レミのふるさと、シャバノン村へはどうやって行けますか」 「行けません。その村はありません」と小母さんは言った。 「……ここにあるパンフレットを差し上げましょう」と、数冊のパンフを手渡してくれた。 <読むのは大変だなあ>と思いながらも1冊ごとに開いてから、まとめてリュックに収納しよ うとすると、 「英語でのパンフレットもあります」と言いながら、また数冊を手渡してくれた。 後で少し時間を掛け、この「観光案」で貰ったパンフレットを読んだが、都合8冊もあった。 私にはすらすらと読む力はない。 文中に見つけたのは、<ヴィァデュック・ドゥ・シャバノン(シャバノンの陸橋)>と書か れた2ヶ所があったことだ。 つまり、近くの山中に高速道路が走り、山岳の山と山のあいまを跨ぐ大陸橋(viaduc)に その村、Chavanonの名を残す。 名を残すが、あのとき、母が狂ったようにレミを探したあのシャバノン村は、今はもうない。 開発は、村里ばかりではない。人の想いまで、どこかへ持ち去ってしまう。 実在したシャバノン村は、かつてこの大陸橋の下方に実在した。 ところで、マローは「家なき子」を書くとき、主人公のレミが育った村も初めての大道芸の あったユセルも、その後のストーリーのすべても、すべて実在の場所に基づいて描いたのだろ うと知ることができた。 フィクションを実地の上に構成したのだった。 ☆ ☆ ☆ 町から駅へ戻る道を急いだのは、山地のため日暮れが早いおそれがあったからだった。 通行人に、早め早めにと、道を尋ねながら歩くとき、 「あのスーパーマーケットを過ぎて、次のfeu(火)のところを右に回りなさい」と教えてく れた主婦がいた。 交差点の信号を「feu(火)」と言うのだ。 日本でフランス語を習う間に見つけてはいなかった単語だったが、交差点に「火」があった 歴史を容易に推察できる。もちろん、灯りはガス灯か油の灯りだったろう。 <ことばには人間の歴史が生き残っている>と、考えながら、いつになく足の運びに力を込め て、努力の連続を意識して駅にたどり着いた。 ※ この項、次の[その35] "ラスコーの壁画は" に続く。
☆ ☆ [その35] ラスコーの壁画は、c'est magnifique !☆ HTMLのバージョンを宣言する ussel駅へ戻った私たちは疲れていた。 しかし、疲れてはいても、ここに宿が見つけられなかったのだから、さらにボルドーまで行 く必要があった。 二人は待合室で「Continental Timetable」を開き、即製の旅程を組むことにした。 ボルドーまでの列車は40分ほど後にあり、駅付近で夕食を摂るとしても、ボルドー=ニース 間の夜行列車にはゆっくり間に合う。 「ホテル代わりの夜行列車だ」 こう妻と決めて、出札口に行き、ボルドー発夜行列車の寝台 指定を依頼すると、すぐ取れた。 こんなにたやすく買えた寝台指定券なのに、二枚を手にした瞬間、私はクレーム気味に質問 を始めた。 「ユーレイルのセーバーパスは、一人と半分の値段になるはずですが、どうして二人分なの ですか」 でも出札係は、ていねいだった。 「乗車券はそのとおりですが、寝台の指定券はそのように書いてないのです」と言いながら、 足下の抽斗(ひきだし)から分厚い冊子を出し、読み返している。 「やはり書いてありません」 「そうですか。日本でパスを買うとき、すべて一人と半分の値になると聞いてきました。帰国 したら、今日のことを言います」 納得できないが、二人分を支払って、待合室でもうしばらく待つ間、妻に、 「2人分じゃなくて、1.5人分の値になるというのがセーバーパスのセーバーたるゆえんだよ」 と言うと、 「そう。2人分、出したの?」 「うん。ここで議論しても仕方がないだろ」 △ △ △ 二人のところへさきほどの出札係が改札口から出てきて、私たちの前に来た。 <何か分かったか>と思う間も与えず、 「ほら、あそこ(と改札口の外、向こうのプラットフォームを指し)の3輌の列車、あれがボル ドー行きです。いちばん後部に1等(le premier)のシートがあります。どうぞ」 特別な扱いで案内してもらったようだ。気になる外国人乗客を早めに見えないところへ行か せたかったのかも知れない。 「Merci,beaucoup」 発車までまだ20分以上もあるのに、私たちは改札口を出、線路を2〜3跨いでから、3輌連結 の列車に乗った。 最後部に仕切りがあり、18人分ぐらいのゆったりした座席があった。 誰もまだ乗っていないはずなのに数人の、しかも鉄道の業務員らしい男たちが座っている。 私たちが乗ってきたのに気づいて、座席を立ち、前方へ移動した。仕事の合間をここでくつ ろいでいたのだろうか。 私たちだけになった。 進行方向の右側に陣取り、景色を見る態勢になっていると、バケツとモップを持った車内 清掃の男性が一人、私たちのすぐ傍まで移動してきて、手を停めて休んだ。 その態度には、明らかに私たちへの興味が見てとれる。 話しかけてみたくなった。 「ボンジュール。この辺の山地でションピニオン(茸)は採れますか」と問うてみると、 「いいえ。今は採れません。秋になるといっぱい採れます。この辺り、どこでもよく採れま す。兵隊がいて、彼らはいつも茸採りをしています」 この男、饒舌だった。 足下にバケツ。モップをタテにし、柄(え)の上に両の掌、その上に顎をのせた姿勢で よく話す。日本のあるお笑いタレントによく似た表情だった。 「茸よりも、ラスコーの洞窟へ行きましたか」 「近いの?」 「この線で行けば、簡単ですよ。観られます」 「そう。今回は予定してないから、こんど来たとき、是非観ますよ」 「あれは絶対に観なきゃあ。あの絵は普通の絵じゃない。こんなに(その時、上から両手を 大きく拡げ)大きく描かれています。C'est magnifique !」 古代人の描いた驚異的な絵画を、私の俗っぽいことばで表現することはできない。 この清掃係の表情と拡げてる両手、「セ・マニフィック !」の言葉に籠もった表現力…… 「富岳百景」で太宰治が、見えない富士を説明してもらったとき、「良い富士を見た」と 書いている。 今、私もすばらしいラスコー壁画を観させてもらった。 パースのキングズパークから風景を見下ろしたとき、見知らぬオーストラリア人が、 「Panoramic !」と言ったのも思い出す。 異国の名所は、それぞれにふさわしいことばがあるものだ。 ☆ ☆ ☆ ボルドー駅には、夜行列車が停まっていた。 私たちはパンを買い、ワインの並ぶ構内販売をいくつも見ながら、列車に入った。 下段だった。 動き出すとすぐ、男性が手かごにペットボトルの水を持ってきて、 「パスポール、シルヴー、プレ」と言う。 「Pour quoi ?(どうして)」 「車掌です」 <私服じゃ、車掌かどうか分からないじゃないの> 彼は身分証を首から下げているのを示した。その時、夕食に飲んだのか、ワインの息が あった。 パスポートを手渡す。以前は一晩預けていたからだったが、車掌は確認して自らの書類に 何か書き込み、すぐ返した。 ペットボトルを差し出すので、「買わない(No thank you)」と言うと、 「Free. For you(無料です。どうぞ)」 無料ならばと、「Merci」 車掌は寝るまでにもう一度、回ってきた。 「明朝の朝食、予約しますか」 「いいえ」 ☆ ☆ ☆ ニースの朝、駅前のどこかで朝食を摂ろうと改札を出た。 表には果物屋や飲み物屋などが並ぶ。 一台の配達トラックを警官が見張っていて、戻ってきたドライバーに、 「こんなところに駐車したらだめじゃないか」みたいに叱った。 するとドライバーが、警官に口答えした。 「仕事(travail)なんだ。どうしていけないんだ」 激しいやり取りではないが、口論だった。 日本人の私に<さすがフランスだ>と思わせたことが二つあった。 一つは、相手が警官であろうと、臆せず言い返していたこと。 つまり人はすべてegal(対等)だという考え。 もう一つは、仕事(travail、労働)は、他のどんなことより優先するとの認識。 だからこの口論は、数度のやり取りの後、警官があっさりと引き上げてしまった。 もし日本でならどうだったろうか、と私は想像した。 <仕事だろうけれど、ここは駐車禁止だよ>と警官が言い、駐車禁止のところへ車を停める 者が悪い、と人は思うだろう。 でもここニースのように、規則やきまりはともかく、労働(仕事)を優先する考えの方が、 私には質的に優れていると思えた。 近くに、中の広い食堂がすぐ見つかった。 私たちは、コーヒー、紅茶とサンドイッチのセットになっている朝食(petit-dejeuner, 直訳は、小さい昼食)を注文した。 予定しているミラノ行きの急行まで時間はたっぷりある。 出された朝食を食べている最中に、妻が小声で、「うしろの席を見てごらん」 と言うので、何だろう、と振り向くと、 一つおいて後方の席に、男性が二人向き合って、私たちとおなじ朝食を食べ始めていた。 そのうちの一人は、夜行列車の車掌だった。 私と目が合った。 「ボンジュール、ムッシュー」 互いにegalな人間同士だった。
☆ ☆ [その36] スイスの3情景 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 孫たち3人を連れてスイスへ出掛けた。 孫たちそれぞれに学校での日程が異なり、10日間しか準備できなかったは残念だった。 やり繰りして一日でも有効に、と学期末当日、大分から大阪まで来させ、難波で一泊、朝食 後すぐ開催空港へ向かう予定を立てた。 生憎イラク戦争下にあり、郷土に用心深くなっていた私は、一度乗ってみたいと思っていた KLMを辞め、オーストリア航空に乗ることにした。ウィーンで降り、Zurich(uは上に‥が付 く。つまりウムラウト)へと乗り継ぐ。 自分の好みを優先するほど私は身勝手ではないが、ヨハン・シュトラウスの里、ウイーン も大好きだし、ここの機内食のビーフの焼き具合も好みにぴったりだった。さらにはZurich 空港は、そのすぐ地下に鉄道(Bahn)が走っている。 でももし私たち夫婦だけでする旅なら、スイス・パスとTimetable、それにガイドブック があれば、日程なんか少々は前後したってどうってことはないが、今回は孫を連れている。 無事故で帰着すべき責任を背負っている心理状態にあって、予め乗るべき列車も日毎の宿 もすべて予約してあり、それを日程表にもしていた。 また孫たちへの教育的配慮もある。日程表は「教材」にもなろう。 Wien=Zurich間はやや小さい飛行機で飛ぶから、窓から雲間に見るアルプスの峯々の姿は 思いの外に近く、景観に満足することができた。 機内で軽食を食べ、Zurichに降り立つ。 地下すぐに複線の鉄道があるが、どちらが上りか下りか、簡単には区別が付かぬだろうと、 いつものように杞憂症候群に陥りながら、 「Wo ist das Bahnhof zur Zurich ?」と空港内の職員に尋ね、ドイツ語会話の 舌慣らしを試みた。 「Just over there.You can find the station bureau.(すぐそこに駅事務所があります よ)」 実は機内でスイス・パスを孫それぞれに渡すとき、私は思いがけないことを発見していた。 3人のうち一人、つまり孫娘はまだ小学生で、切符は小児用のはずだった。 日本で旅行社から買うとき、孫娘のは小児の金額を支払っている。 ところが着陸も間がない機内で、すべてのレイルパスがadult(成人用)になっているのを 発見した。 「いいじゃないの」 と妻は言い、私も一瞬だが、得をしたように錯覚したが、思い直した。 「国有鉄道に乗るだけなら、何も問題はないのだけど、私鉄とか他の交通機関を利用するとき にね、パスを見せれば割引があるんだ、20%とか50%とか」 「いいじゃないの」 「よくないよ。大人料金を割り引くのか、子ども料金を割り引くのか、大違いだよ」 例えば500円の私鉄が250円になる私鉄なら、子どもは250円が180円になる。 些細なことを言うのではない。スイスは国鉄以外に何本もの登山(電車)鉄道もあれば湖 (スイスではSee『海』と言っている)の船もある。各種の入場料だってある。 旅行中にどれほど割引を受けるか、分かったものではない。 国有鉄道(SwissBahn)の事務所には出札口があった。運良く人は混んでいない。 「すみません。日本で買ったスイス・パスですが、この子、12歳なのに間違えてアダルトに なってるんです。変更できないでしょうか」 係員は親切だった。 パスポートを見て、すぐ子供用のに換えてくれた。 切符を変更してもらえば、目的を達したことになる。それしか予想してなかったのだが、 係員はお金(スイスフラン)を数え始め、プリンターの打ち出した計算書の上に約半額分を 載せて、差し出した。 けっして悪人なんかではない私だが、<日本の旅行社の間違いに、料金のことは含んで いないから>なんて言わなかった。 妻は「なんでお金がもらえるの?」と不思議そうに言う。 「あとで話すよ。……From which platform can we go to Zurich Haupt Bahnhof ?」 「Just over there, you go down to the platform No.2」 すぐ前に地下へ降りる階段があった。 殺風景とは言わないが、そっけない普通のプラットフォームが二つあった。 言われたplatform No.2にすぐ列車(電車)が来て、私は孫たちを先に乗せてから、 最後に荷物を挽きながら乗車した。 次男は要領がよい。走るのも速い。さっと4人のスペースを見つけ、そこにリュックを置 いてみんなを手招きしている。 一行は5人。4人が向き合って座り、私だけが通路を挟んだ座席に着いた。 前にいる西洋人と目が合って、微笑んだ。 「Kennen wir gehen zur Zurich Haupt Bahnhof?」 「Ya」と西洋小母さんが言っただけでなない。周囲の乗客が私のドイツ語に拍手をした。 <好意で迎えてもらった>と、私は胸が熱くなった。 「Next station(次で降りるのですよ)」と、小母さんは教え、自分は降りていった。 この日始まったばかりのスイス旅行が、周辺異国人んじょ好意に支えられて成功すると いうことを象徴していたのだろうか。 このあと私は、たえずどこでも見知らぬ人に、「Bitte !」と声を掛けは物を尋ねている。 地図だけを頼りに歩くなら、かなり時間を要すると思われるところでも、こうして、日本 で場所を尋ねるのとそんなに大きな違いがないほど、行動できたのだった。 ☆ ☆ ☆ スイスの行動を長々とは書くまい。 印象に残った部分にだけ小タイトルを付けて語ってみよう。 ☆ A ☆ ルツエルンは花 橋 の 宿 ☆ ルツェルン(Luzern)を訪れたお方は、この橋を知らずに帰られることはあるまい。 スイス・バーン(国鉄)のルツェルン駅を出れば、すぐ前は海(See)、観光船の乗り場で ある。 大型の観光船が碇を降ろしている。 この湖の景観の中で、過去には大戦の処理について鳩首会談したとか聞くが、私は戦争と いう残酷、無残、非人道をの事態を、平和のためという大義名分を認めはするものの、それ を聞きたくも見たくもない本能的拒否感をどこかで感じる。 多分、判事の方やその他法曹界の人道主義者でも、巨悪犯罪に関わるとき同様な感覚があ るのではないか。 そういう厳しい人類史と、もしも無関係だったら、この湖を船で存分に楽しめるに違いな い。 湖に注ぐ河(ロイス川)がある。 「海」に接するところだから、川幅が広くかつ深く、それでいて透明に澄んでいる。橋の 上から大河や流れ、水と山々をいつまでも無念で眺めたくなるところだった。 駅とは河を隔てた街筋を、数分溯って、予約の宿にたどりついた。 入り口から見ると、中はバーのようでもあり、社交の場でもあるように見えた。 でも番地に間違いはない。「Gutan Tag. Wir sind…」と言いながら、予約時に受け取っ たファックスをデスクに示した。 外国の宿を日本から予約することを、私はほんとうは好まない。 まずその必要を認めないし、次いで現地には日本で紹介されてあるのより、ずっと安いの がいくらでもある。その他の理由もあるが、言わないことにする。 でも、何度も書くが、この時は孫を伴う責任があり、この日も宿を事前に予約していた。 よく利用するガイドブックが紹介する高額でない宿へ、私がファッkスを送ったのだが、 就寝前に送り、寝床にはいると、5分もしないうちに我が家の電話が鳴り、ファックスが出 始めた。 寝間着のまま立って灯りを点け、見ると、さきほど私が送ったばかりのファックスがその まま出ている。<何だ。そのまま戻って来たのか>と訝る間もなく、ファックス文面のうえ に太字で「OK」と大書されてあるのが見えた。 こうして予約が成立した宿に、そのファックスを見せると、デスクは料金を受けとりキー 2本を手渡した。 やや細長かったが、けっして狭くはなく居心地の良い部屋だった。一つは孫たちが使う。 もう一つは私たち夫婦が。 「キーね、中に置き忘れないように気を付けるんだよ。私たちがノックしたら開けてよね。 誰か分からんから、誰ですか、って言うんだよ。おじいちゃんだ、とか、日本語で言えば 開けても大丈夫。頼むね」 長男が、「僕が持つよ」とキーを手にして、部屋に入って行った。 時差は8時間ある。 「やれやれ」と荷を下ろすとすぐ、ノックがあった。 「わたしよ」 孫娘だった。 「どうしたの ?」 「ねえ、おじいちゃん、おばあちゃん。外はすごいよ」 この河口に架かる大橋に娘は感動していた。 橋は屋根を葺き、腰高の囲いを付け、流れに直角ではなく斜めに架かる。 しかも腰高の囲いには色とりどりの季節の花々が、箱に植えて飾られ、花電車の花どころ か花に埋もれた大橋の景観を作る。 「すばらしい眺めね」 孫娘は、宿すぐそばの景観に酔って報告に来たのだった。 高校と中学の男の子たちも入って来た。 「おじいちゃん、どうやってこんないいところのホテルを予約したの ?」 「すごいところだね」 と二人が言った。 孫たちは、自分たちのことばを超えた感動を味わっていた。 私も孫たちのこの心情を損ないたくはない。 <おじいちゃんね、こんないいところだなんてちっとも思わず、ファックスしただけなんだ> とは、一言も言わなかったし、以後も予約時の「真実」を一切告白しなかった。 帰国してからだが、一度だけ、 「あんなすばらしいところを、おじいちゃんは君たちのために予約したんだよ」と自慢したこ とがあった。 ここに懺悔しておく。 「早く寝るんだよ」と孫たちへの忠告にもかかわらず、就寝中の私たちの部屋を孫達がノック した。 「どうしたの ?」 「ダマされた」 ジュースの値段が高かったと言うのだ。自販機の表示より高かったことを憤っていた。 子どもたちもそれなりに英語を努力し、<Juice,please>とか とか言って買ったに違いない。 その結果、ダマされた、と理解したのだろうが、多分、入り口付近のバーのカウンターで ジュースを注文したからだろう。 「おじいちゃんといっしょに行けばよかった。こんど行くときは言いなよ」と言っておいた。 ☆ ☆ ☆ 気持ちのいい朝だった。 花橋をゆるりと渡るとき、歌舞伎の花道をそろりそろりと進むよりはるかに気分の良いこと に思われた。 この孫たち3人が初めてヨーロッパ旅行をしたときのことを後々まで記憶していて、祖父母 と渡ったルツエルンの花橋を、いつか大人として思い出す日があるだろう。 私は橋の上でその日をイメージしながら誇らしい想いになっていた。 ☆ B ☆ アインシュタインと懺悔☆ 孫娘はまだ小学生のくせに、「スイスで何を見たいの ?」と予め私が尋ねたとき、 「ァインシュタイン・ハウス」と答えていた。 私は計画の中にベルンを組み込み、アインシュタイン・ハウスを見るように予定していた。 その日は日曜日だったことも知らず、私はうかつにも「その通り」を歩き、人に尋ね、 「今日は休館日だ」と告げられてしまった。 でも私は諦めなかった。 雪除けの庇が長いアーケード街の軒先をくぐりながら、<ひょっとして特別な見学を許さ れるかも知れない>と勝手な願いを抱きながら、「そこ」まで行ってみた。 何でもない一軒に、ノート半分ぐらいの細長い標札があり、単純な黒書きで「Einstein Hous」とあった。 そのすぐ下のドアをノックすれば、普段の日なら入れるのだろうか。この日は、ドアに開 けられる気配なぞ微塵もなかった。 「残念だなあ」と言うと、末娘は、その標札も含めて付近を撮影していた。この旅行のため に用意してきたポラロイド・カメラだった。 わざわざベルンまできて、これだけで済ませる理由はない。 私はガイドブックを開き、近くにある大聖堂を訪問することにした。 正直なところ、私にはさして興味がない。特にイタリア旅行ではサンピエトロ寺院をはじ め大伽藍を見ている。今回の行程には教会を組んでなかったので、一つはよいだろう、と その時、判断したのだった。 さほど迷うこともなく、尋ねることもなく、容易に大聖堂に近づき、中に入った。 例によって静粛にして厳粛な大聖堂が「そこ」にあった。 孫に説明する何ものも私は持ち合わせてなぞいなかった。 孫娘が私の袖口を引いた。 「ねえ、おじいちゃん」 「ん ?」 「あの柱の、四角い穴は何なの ?」 右側の壁の柱のすぐ横に、B5版大の穴があった。 穴の前には、椅子が一人分、壁に向けられており、ここに座る人は、その顔を穴に付き入 れるしかない。 「あの穴 ? あれはザンゲをするところなんだ」 「ザンゲって ?」 孫娘は問いを重ねた。 「うーん。たとえば、ウソをついて人をダマした人が、後悔しているとするね。そうすると、 心の中に<私は悪いことをしてしまった>という後悔の気持ちが残るね。時には苦しいだろ うね。そんな時にね、ここへ来て、この窓口から告白するんだ。<神様、私は人をダマしま した。私はウソをついてしまいました。お許しください>とね。……正直に心から神様に告 白するところだよ」 「ふーん」 孫娘の反応は意外だった。深く思うところがあるように、いつまでもその古びたザンゲの 窓口を見つめていた。 その姿が、ただその姿が、私の心を打ち、今も印象深く残っている。 世間一般にはまだ罪を知らぬ幼さにある孫娘が、人間社会には罪悪を神に告白する行為が 存在することを知った時の、内面に深く刻み込まれた「良心の形」を、深淵で静粛な聖堂の 中に立ちながら、私はひしひしと感じていた。 人は身の汚れをいかに清めていくか、私も孫娘も心底感じた「時」だった。 聖堂の表に出、砂地の広場のベンチで休憩するとき、私には軽い目眩発作があった。 一瞬だが、この発作が重大事につながったらどうするか、という心配はあったが、すぐ収 まった。 スイス旅行は、まだ2日を残していた。 ☆ C ☆ チーズフォンデュの真実は☆ スイス最後の夜、チーズフォンデュを食べることになっていた。 孫たちも「チョコレート」フォンデュなどよく知っているから、期待しているはずだった。 観光予定のすべてを終わり、「じゃ、夕食のチーズフォンデュだ」と通りへ繰り出し たまでには問題はなかった。 ところが1軒目のレストランも2軒目も、「Have you any cheese fondue ?」の問いに、 「No」とそっけない。はっきりと否定する。 3軒目も4軒目も、そして、もう通りの外れになる辺りまで来ても、「No」だった。 「駅へ戻ろうか」 駅構内には、その辺の食堂街よりはるかに多くの飲食店がある。 最初にサンドイッチの店に入って、「Wo konnen wir finden das cheese fondue ?」 「There's no such retaurant around here in the station」 「Where can I ?」 「I don't know, but you try this direction」 さっきまで探しに探した方角だったが、仕方がない。私たちはもう一度、探索を始めた。 2本目の路地を右に折れてすぐだった。店の前の露天席にフォンデュをたぎらせている 2人の女の子、しかも日本人を発見した。 ふたりはしたたかに酔っていて、「ここのフォンデュ、おいしいですよ」と言う。 私たちは店に入った。やっと見つけた、と感じた。 もちろんチースフォンデュを注文した。 コンロの上の鍋、やがて煮えたぎるチーズ。大皿にはサイコロ状のパン?が山と積まれて あった。 火箸ほどの串棒にパンのサイコロを差し貫き、溶岩流のようなフォンデュから引き抜いては 「フーフ」と吹いて口に入れてみる。 チーズの味や匂いはもちろんするが、それよりも強く刺激したのはワインの匂いだった。 とてもきつい。 とろけたチーズにワインを注(そそ)ぐ。チーズを入れ足す回数よりもはるかに多くワイン を注(つ)ぎ足す。 さっきの女の子たちが顔を真っ赤にしていたのは、そのためだった。 「ぼく、食べないよ」 長男が言うと、「こんなの、酔っちゃうよ」と次男。 末娘は、「子どもが食べるものじゃないんじゃない ?」と責める。 「いや、スイスの名物料理なんだ。一切れだけでもたべてみい」 「いやだ」 3人は口を揃えた。 私たち老夫婦だけが食べるわけにもいかない。私は立って奥へ行った。 「'Xcuse me,my children can't take any alcohol. Is there any other nice food for them ?」 小父さんは、「How about Nugget ?」と言った。 私は戻って、「ナゲットがあるって言ってるけど……」と言うと、 「それがいい(そのほうがいい)(わたし、大好き)」などと言った。 「ナゲットって、どんな料理だい ?」 私の知らない食品名を、子どもたちに常識らしく、 「チキンをね、これくらいに揚げてあるの」 さすが孫娘は調理の仕方で教えた。 「あ、そうか。フライド・チキンとか、マクドナルドにあるチキン・ナゲット、あんなのか」 「うん」 やっと腹に収まった私は、再び奥へ行き、 「’Xcuse me, Nugget and potato-chips, three」 「OK」 出されるのは早かった。大皿に3人分のポテト・チップスとナゲットが盛られてあった。 私も味見をしたかたのだが、ひとかけらも食べなかった。 注文したものを残すことができない私の性癖からして、こちらのフォンデュもパンのサイ コロ切りも、食べるよりも残す方が多そうに思えて、私は盛んに串刺しフォンデュを吹いて は食べ、食べてはまた差していた。 後で気づいたことを書き残しておこう。 チーズフォンデュのある店を探すのがどうしてあのように難儀だったのか。 それは私に知識が欠けていたからだ。もしも「スイス料理の店は?」と尋ねていたら、難 なく行けたに違いない。 スイスにも各国の料理がある。日本に譬えれば、うどん屋、そば屋、フランス料理、イタ リー料理、中華そば(料理)、各種がある場所で、寿司を食べようとして、軒並み「すみま せん。寿司あります?」と尋ね歩いても、すぐには行き着けないだろう。 <日本料理の店、あります?>と言えば、早くたどり着ける。<寿司屋、あります?>なら、 もっと早い。 もう一度、スイスへ行って食べるなら<スイス料理>の在処を尋ねるだろう。 もうひとつ。 あんなにアルコール度のきつい料理だとは知らなかった。フォンデュの鍋に 次々に注ぎ足すから、濃厚なアルコールに浸すことになる。サイコロパン2個を1串に差し たとして、弱い人なら2串で顔が赤くなるだろう。 幸い私は酒に強い飲み助だから、パンなどで浸して食べると、チビリチビリと飲みながら チーズを食べているのと同じことになった。 これがスイス最後の晩餐になるはずだった。 でも私の無知が災いして、子どもたちの良い思い出を作ることができなくなってしまった。
☆ ☆ [その37] 初詣は「Bonne Anee !」 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 初めてヨーロッパへ行ったのは39歳、教職員の研修旅行団に加わったとき。 「ヨーロッパ9日間」と銘打って、ロンドン=ローマ=ナポリ=(ミラノ経由)=ジュネーブ =(フランクフルトは見ないで)アルトハイデルベルク=ロンドンと回ってきた。 旅行団を<結成>しているから、団長、副団長が<統率>する。 教師が修学旅行団を<引率>するのと同じ形がきっちりできあがっていた。 団を離れた個人行動は、許されない。<危険だ>との理由で団長が首をタテに振らないか らだった。 でもこの旅行、観光バスばかりではない。飛行機以外に列車もある。夜行列車もある。 列車で旅するとき、私はできるだけ近くのコンパートに移動し、現地の人との会話を試み ていた。 ジュネーブはコルナバン駅という。ここに着くころには30名に余る団体に、 「ヤブノさんは、英語もしゃべるようだ」と噂が立っていて、 「国語って聞いたけど、なんで英語が話せるの?」と尋ねられるたりするようになった。 そんなとき、コンパートでしゃべっている相手がフランス人だと、 「フランス語も話せるの?」と驚く団員ができたりする。 でもほんとうは、私のフランス語なんか、いわば「katakoto francais」で、深い話なん かできてはいない。 だが嬉しかったのは、団内に英語科の教師もいる。いてもヨーロッパのど真ん中では、英 語よりもフランス語の方が良く交流できる場面もしばしばあり、英語の先生と雖も目の青い 人とはあまり話さない。 一般教科の先生や事務職員の方が、私のそばまで来て、 「こう聞いてくださる?」とか、「何か言われたけど、聴いてくれない?」とか頼まれると、 調子に乗りやすい私はすぐ出掛けていって、 「Je sais parler francais un peu」などと言っては用を足していた。 ドイツのハイデルベルク(Alt Heiderberg)の宿に入ってすぐ、2人の男先生が私と物 理の先生に充てられている部屋に入ってきた。 「水が飲みたいんだけど、ここの水道水、飲んでも大丈夫か尋ねてもらえませんか」 同室の物理の先生は、私より数歳年上で、英語は話さないが、文章を一字一字書くような ドイツ語(Deutch)なら話す。彼に頼んでもらった方が、彼のプライドのためにも良かった のかも知れない。 乗りやすい私は<お安いご用>とばかり、すぐフロントへ行った。 「Konnen wir trinken alles Wasser im Hotel ?」 「Ja, Jawohl. Bathroom, even toilet, konnen trinken」 戻って、「みんな飲めるって言ってますよ。風呂だってトイレだって問題ないって」と報 告すると、 「水道水ね、とってもカルキくさいんだ。ペットボトルでも買いに行こうかと思ってね」 同室者は理科の先生だ。 「カルキで殺菌してあるから、大丈夫なんだよ」と言う。 ドイツ人の科学性は、見た目や味の感覚で水質を言わない。消毒してあるから安全なんだ と言っている。 ☆ ☆ ☆ 話は前後するが、ジュネーブに着いたのが12月31日。翌1月1日は、自由行動と記されて いたのに、モンブランへのオプショナル・ツアーが新たに加わった。 私は反発を感じていた。 旅程に従いお金を用意している。<オプショナル等と称して予定外の出費を要求するな> と思った。 でも、ほとんどみんながモンブラン行きを申し込み、私と長崎県の女先生との二人だけが 不参加だった。 朝食時、私と彼女は、一日の行動費としては多すぎる額のスイスフランをもらい、 <気を付けて1日を過ごしてください>と言い残された。 ホテルの朝食係員に、どの辺りを 見るのがいいだろうかと尋ねたところ、レマン湖畔と (140米にもなるという)超高噴水(Jet d'Eau)、イギリス庭園(Jardin Anglais)かな、 ※ 英語でジュネーブ湖(Lake Jeneva)、フランス語でレマン湖(L'ac Leman) と言い、 「お昼に食べるといい。今日は街の食堂が開かないだろうから」と、パン、サンドイッチ、 チーズ、コンフィチュールなどをパラフィン紙に包んでくれた。 女先生は、39歳の私よりかなり若く、まだ独身。クリスチャンで、ジュネーブのプロテス タント大本山で新年のミサに出たい、と言った。 「じゃ私もご一緒しよう」と言ったのは、もちろん信仰心からではない。 マルチン・ルッターが宗教改革し、プロテスタントの本山がここにできている。そういう 歴史的関心はかすかにだが私にもあった。 大伽藍に至るには、大きな、しかし急ではない坂道を、チャペルの周りをぐるっと回りな がら登ることになる。 宗教心とは、どこの国でも同じ傾向らしく、若年層よりも高年齢層の方がご夫婦で手を携 えてミサに向かう幾組かに出逢い、追い越した。 私たちも、他人同士だが2人の男女。 いささか若い2人に、高齢夫妻たちが必ず声を掛ける。同じことばだった。 「Bonne annee !(ボナネー=良いお年を)」 数回繰り返すうち、私たちも負けじと大きな声と笑顔とで「ボナネー」と、その都度、言 うようになった。 坂の途中だから緩やかな歩調で進む。 「ヴニュデュジャポン?(日本から来たの)」と尋ねる人もあった。 「Nouveaux maries ?(新婚ですか)」と聞く人もいた。 <Non>と真実を答えれば、他人がなぜ一緒にミサへ詣でるのかを」言わねばならぬ。 面倒なことはしない。正月一日、めでたい日だ。 「ア、ウイ(そうです)」と笑顔を返していた。 ただし女先生には<夫婦ですかって聞かれました>なんて一切言わない。 彼女は何かの挨拶ぐらいに思っていただろう。 ミサが始まった。 賛美歌の小冊子が配られる。 ビショップかプリーストか、聖職者の位階は知らないし、知る必要もないが、堂内中央の 大柱の中ほど10米ほどのところで、厳かに祈りのことばがいましも出されていた。 その声はドームの天井から韻々と反響して降ってくる。 まさに天上の声、神の声だった。 ひとしきり有り難い(はずの)ことばがあると、賛美歌が歌われる。 私は手にしている冊子の何ページが今歌われている歌なのかと、ページを繰る。 ラテン語は知らないが、楽譜なら容易に読める。節回しが合うところを開けばいい、と 考えて、ページを返すうち、左隣の西洋人が、自分の開いている本を私のと取り替え、 <ここ>と指を当ててくれた。 <Thank you>と声を出すわけにはいかない。すこし頭を下げたが、スイス人にその動作の 意味が通じたかどうか。 歌の後、再び「天の声」がひとしきり「下っ」てきて、また賛美歌となる。 すると隣の夫人は、またもや私の本と自分のとを取り替える。 ラテン語はローマ字読みをすれば、発音に苦労はなく、楽譜は複雑ではないから、いわゆ る初見(しょけん)で歌に和することができる。 そうやって滞りなくミサに参加した。 信仰心が無にちかい私でも、心を洗われていた。 いちばんよく心を洗ったのは聖歌隊の歌だった。 上階十数米のところに聖歌隊がいて歌う。聖堂ドームの奥壁に反響した「天上の歌声」が 降りてくる。まさに「聖」歌だった。 次には(途中で気づいたのだが)中央柱(ビショップの真下)の根本(ねもと)のところ にうごめくがごとく座る小さな男性がいた。どうやら前に鍵盤があるらしい。 私は<はたと膝を打つ>思いで気づいた。 彼の指先の動きは、聖歌隊上部に大きく立ち並ぶパイプに直結しており、すべてが天上の 聖楽を醸しているのだ、と。 頭のテッペンを丸い禿(はげ)のように剃り、質素な服装でする演奏が、ミサ会場に清澄 な精神を降り注いでいた。 それらの総体すべてが、ミサを受ける全員の汚れを清め、まだ瞑目のまま「おことば」を 聴いている人々の前に、小川で小魚をすくったりする手網(たも)と同じものが、通路から 長い柄(え)で差し出される。 手網が前に来た人は、次々とコインや紙幣を入れている。 同行している女先生の前に来ると、彼女はスイスフランのお札を入れた。 次の私は、だが、ためらわなかった。 何も入れずに、持ち合わせがないかのような身振りをすると、手網は再び動いて、先ほど から何度も賛美歌集を持ち替えてくれた女性の前へと行った。 彼女も畳んだお札を入れていた。 ミサが終わって、ビショップが降壇した。 そのとき気づいたが、中央の柱に、番号が5つほど、それぞれ白い札に書いて掲げられて いた。 「Quel nombre, la ba ?(あそこのナンバーは何)」と尋ねてみた。 「Ces sommes les nombres de ce livre(この本のナンバーです)」 つまり、賛美歌のナンバーは、予め柱に掲示されてあったのだった。 見聞とは、知識の泉である。
☆ ☆ [その38] 経済力の差を感じるとき、(中仏米)☆ HTMLのバージョンを宣言する [100の街角]を書くはずなのに、1年経ってもまだ[38]話にしかならない。 歳はやがて79になる。<ゆるりとマイ・ペース>なんて気持ちではいけないんじゃないか。 とまあこんな焦りを感じてしまう。 でも数多くの国を、ヒトに引率されて、ではなく、自らの計画、自らの力、自らの目で見 てきたこの身は、「これがほんとうの姿だ」と言いたくなる見聞をいくつも持っていて、そ れらを公開せずに生を終えてしまうのは、もったいないだけでなく、存命中の後輩方に対し て果たすべき義務を勤めないことになる。 一方、世間には「したり顔」に外国見聞をひけらかす人々が多くいる。 私の真面目な良心はそれらの人々に、「ウソ抜かせ」、「自分でほんとうに確かめたのか い」、「科学的観察ができてないじゃないか」etc、と溜まった鬱憤を噴き出しそうになって もいる。 以上のような私の義憤が、特にこの項目を書くモティーフになっていることを、心あるお 方に、まずはご了解いただきたい。 早い話だが、「モティーフ」の一語を例にあげるだけでも、今、日本の中心部で文学者 (または評論家)を自称する人の中に、原義の<motif>からズレた定義を以て、(偉そう にも)文学を説く人がいる。 「モティーフ」とは、作品を書く「きっかけ」であり「これを書きたいと自らの意欲を誘う 動機」である。どのような作品にも、だから「モティーフ」は必ずある。 今、例示した<自称文学者(評論家)>は、自分の無知を自覚できていないから私の言論 には特別の関心を持たないのだろうが、そういう言論無知、かつ用語不認識の人に、分かり やすい具体例を示しておく。 △△例1。家が貧乏で徴兵された父の生還、復員までの3年間に、一日2食で辛抱した日が 幾十日あっただろうか。今、私が人前で話す機会があるごとに<戦争をしてはなりません> と言うのは、この経験が然らしめているのである。 問。<戦争をしてはなりません>と話すモティーフは何ですか。 ◆ 普通の善良な常識人にこの答えが分からない人はいないはず。 △△例2。75歳を過ぎたある日、わずか1cmの高低差しかない部屋の敷居につまづき、骨折、 入院をした。退院後、すぐ大工さんに依頼し、部屋の手すりをつけていただくことにした。 問。<大工さんに手すり工事を依頼するに到ったモティーフは何ですか> ◆ これも通常の常識人は答えに困ることはない。それほどモティーフとは、ことばはフラ ンス語から来たものであっても、今、私たち通常の認識力のある日本人には理解に困ること ばでも用語でもない。 ところが、さきほどの<自称文学者(評論家)>はとなると、次のような文章が平気で書 けるほどピントを外している。 ▲▲「候補作の人物像は、細々(こまごま)と丁寧に描かれてはいるが、そのモチーフの表 出がかなり弱い欠点を持っている」 だって。 私には「モチーフ」ということばの語意をしらない人の文章に思えている。 ▲▲「静かに幾度もそのモチーフがくり返されるうちに、描写の対象が浮き立ってくる包容 力のある文章だ」 って。 え? これは音楽家が交響曲などにある、部分部分のテーマかフレーズを「モチーフ」と 称することがあるが、その用法と間違えてるんじゃないの? [38]のテーマからずれて、「エセ文学者、エセ評論家」論になってしまった。許されよ。 退職後初めて釜山へ行った時、駅前のアリランホテルでコーヒーを飲んだ。35円だった。 中国で初めてコーヒーを飲もうとしたのは、吉林省延吉市の街である。やはり30円ぐらい だった。初めからミルクも砂糖も入っていて、自販機で買うミルクコーヒーの味だった。 <砂糖を入れないで(別加糖,不甜地)>と言ったら、変な顔つきでしばらく見つめられた。 日本では今(2013年)でも100円を下回るコーヒーはない。 その頃(とは1999年、中国へ赴任する前)、名古屋で普通の外食で昼食を摂ると、1000円 程度を要していた。 中国(吉林省龍井市)で普通の外食をするとき、3〜5元(45〜75円)だったし、ニュー ヨークでは7〜800円ぐらいだった。イタリーもフランスも、またイギリスもドイツも、 ニューヨークの昼食よりは安かった。 念のため繰り返すが、私は高級レストランやその国を代表するような名料理を対象にして 論を立ててはいない。ごく一般の庶民が普段、行っては食べる昼食を互いに比較している。 私自身の見聞(体験)から抽き出した科学的結論を言おう。 @コーヒーの値は、それを飲む人たちの生活水準で決まる。 昼食も同じ。庶民の所得水準に合わせてその値が決まる。それ以外にはない。 A経済水準は、<米国が第1位、日本が第2位>と言われ、また信じられているが、日本の 方がアメリカより高い水準にあることは確かである。 日本の庶民は、世界で第1位の経済水準の中に生きている。 経済力や経済水準が物に書かれ、メディアが論じ、それを<常識>として疑問を感じない、 という<現代の常識>に、私は今、もの申しているのだ。 78歳を終えようとする私は、退職後、無為に生きてきはしなかった。 いや科学的に言おう。 反面は無為に暮らしてきた。つまり、好き勝手に生きてきた。 でもその残りの反面は、現役にあっては(繁忙の故に)自分の目で見ることができなかっ たこの世の実体を我が目でしかと見てきた。 後者の方だけを説明すれば、<常識に一石も二石も投じるような実体見聞>を提供する ことができるようになった、と自負している。 その中から2項目だけを上述したが、言えば他にいくらもある。 フランスの列車で大学の若手研究者夫婦と乗り合わせたことがあった。 ポスト・パウロ氏と自己紹介した旦那のむつかしい研究タイトルは分からなかったが、若 い奥さんはモニュメント(石碑、碑文)の研究だと分かった。友にギリシャ人でトゥルーズ 大学に勤める。 話の成り行きで給与のことになった。日本円とフランス・フランの計算をお互いにし合っ たのち、退職前の私の給与も後の年金も、ともに現役のこの人たちの給与をかなり凌い でいることが分かった。 またある時(2002年)、中国四川省と雲南省の境目辺りの列車中で向かい合った中国 紳士は、工業専門学校の先生で、日本人が身につけている儒教精神を羨ましがり、失って いる中国人の現実をしばし憂えた後、私の年金の話になった。 その年、中国はGDP世界第2位、日本を追い抜いたとメディアが騒いだ直後だった。 1元は14.5円。私の年金や在職時の給料など、……実は、大きすぎる差異を見せつけて 余計な感情を与えまいと、私はいずれも控えめな数字を紙に書いた。 この先生、あと2年で定年退職するそうで、その方面の関心は高い。理系が専門だけあっ て、計算(換算)は実に早かった。 「日本の水準は中国の約9倍です」と明解な結論を出した。 この見聞に基づいて、今、あの国の恐るべき環境汚染や種々の事故を伝え聞く時、<さも ありなん>と感じるのは私だけだとすれば、日本の指導層、特に政治やマスコミの分野に関 わる人たちの<世界認識力>がとても劣化していることを反省するべきだろう。 初めてヨーロッパ旅行をした39歳、つまり40年前、コンパートメントの中でスイス人と会 話した。 <みやげにはスイスのどんな時計がいいか>と私が質問したら、 <日本製の方がいいのに、なぜスイスの時計を買うのか>と、向かいの紳士は聞き返した。 私はみやげを買わない主義だが、その当時の日本人は<スイスなら時計>と誰しも認識 していた。 だから私には彼の見方が意外だったし、日本製が世界水準のトップにあるらしいことをそ の時初めて知った。 私の手首には、大学入学時、姉から譲ってもらった女性用シティズンがあった。 <これですよ>と見せると、紳士はじっと見つめる。常には見がたい物を見る目つきだった。 その時、厚手のオーバーを着込んだままの中年婦人が座っていて私はこの人に話しかけて はいなかった。英語が通じなそうにないほど無口な地方女性に見えていた。 その人が、突然、私ににじり寄って膝の上に顔を差し出し、左手首の小さなシティズンを 見つめた。 かくして、日本の技術水準の実相を、すでに私は40年前に感じていた。 中国で日本語教師をしたのは、1999から2001年である。吉林省延辺大学農学院、とは 農学部だが、その中に日本語専科がある。 学生諸君には日本語を「研究」や「学習」することより、「できる日本語を身につけ」て 日本に行けるようになるという具体的目標がある。 だからきわめて「学習意欲」が高い。 毎朝6時に始める散歩から、すでに学習「意欲」の高い学生が待っていて、雪の中だって 腕を取り手を握り、1時間のルートに同行する。 授業が終わるとすぐ教壇へ来て「これ、聞いてください」と日本映画からの録音を聞かせ、 自らのヒアリングに役立てるP君。 ある日、妻が見かねて、 「12:30には食堂の窓口が閉まるから、質問時間を変えてほしいの」と言ったら、校門外の 民間食堂で席を取り料金は向こう持ちで待つことにした、と言ってきたり…… 夕食後の教員宿舎に訪問してくる学生は、妻が着てからは、 「もう9時で入浴時間ですから」とお引き取りを願うようにはなったが、ご主人のもとへ行き たい一心のCさん(外語科の事務職員)からは半年で話せるようにしてほしいと毎晩通われ たり、育種科教授からは、彼の指導生徒40名へ週一回、夕食後の日本語授業を頼まれたり、 延吉市の日本語学校からは、任期後の着任を依頼されたり、まさに「引っ張りダコ」だった。 私は、自分の指導力や指導性が優れているからだと思いたいが、かりにそれもあると許容 しても、これらはみな「日本へ行きたい」「行けるようになりたい」一心での行動だったの だろう。 なぜこれほどまで、他の国でなく日本へ行きたいのか。 ずばり言いすぎると他国人には傲慢やうぬぼれに聞こえるかも知れないし、日本人からは首 をかしげられるかも知れない。 でも客観的に様々の異国を体験し、見聞して、ひいきに陥らぬよう注意深く分析して、その 上で断言しよう。 私の知る他国(20ヶ国を越える)で日本に優る国を知らない。 経済は日本が一位。米国ではない。ホノルルとニューヨークを自分で歩き、街を見、そして 食べた。それを根拠にして科学的に導き出した結論だ。 エチケットやモラルも、日本が一位だ。 中国と比べているだけではない。ロンドンのチューブ、ダブルデッカー、タクシー。フラン スのメトロやTGVの乗客風景。オーストラリアのクリッパーにだって劣ることはない。 シンガポールのガイドは、とても優れていたが、料金とは別に「個人営業」を始めた。 釜山は、モラル的には日本に近い。が、計画性や臨時変更に対する客への思いやりはいまい ちに思える。 話を戻せば、ここで日本は経済が第1位だと言えばいいのだが、経済に限らず他の分野でも 日本は1位にあると、少なくとも私には認識されている。 但し誤解はいけない。 日本に問題がない、とは思わないでほしい。重大な問題から日常の問題に至るまで、数多く あることに気付いている。 でもそのどれを採ってみても、今から言う1問題以外は、他国に劣るところはない。 一つとは、「財政赤字」である。 いや財政赤字そのものを言っているのではない。私はモラリストである。 自分の作った借金の始末を、次世代に送り残すことを許すようなモラルを持たない。気取ら ずに言おう。「許せない」 「景気が好転したら消費税を認める」だって? それは日本人として誇りある思考法か? 借金をしていて、「儲かったら返しますわ」と平然と言える人に「良識」はない。 この点についてだけ、今、日本はヨーロッパ、特に消費税の高い国々の思考法に劣ってお り、恥を知らねばならぬ。 ドイツに代表してもらって、日本人に気付いてもらおうか。 第一次大戦後の補償があった。また我が国と同じく第二次世界大戦後の償いをした。さら には、国が二分されて戦後もずっと自主・自立権を奪われていた東ドイツの同胞を、西ドイツ と区別も差別もなく同国民として抱え入れた。 そしてなお今、ユーロ圏に牽引車として活躍をしている。 個人生活の段階で見てみよう。 家庭菜園や垣根が、日本とどう違うか、日本の為政者は気を付けて観察しくるといい。 日本には「都市計画」という言葉があるが、ドイツには「田舎計画(coutry design)」 という言葉だけなく、政策や公務がある。だから「地域格差」を大きくしない配慮を不断に 努力している。 つまり、「借金を次世代に」なんて考えてはいない。だからこそ、19~20%もの「付加価 値税」や「サービス税」に甘んじている。 例えば食堂で席を取って食事をすれば「付加価値」「サービス」税がかかるので、テイク アウトするとしよう。 それでも9%の「付加価値税」はかかる。 日本人のあなたはこの「高」税についてどう思うか。 2012年の5、6月、私はあの国を歩いていた。 現代は情報の時代、日本のニュースも毎日、(インタネット経由で)聞いている。ちょうど 消費税論議で湧いていた。5%が8%になると言う値上げ案だった。 曰く、「消費税値上げは亡国の道」……こう言った(複数の)政党はヨーロッパ、特にドイ ツをよくよく見てきてほしい。 曰く、「消費税は経済を疲弊させる。景気を良くすることが先だ」……と言った(複数の) 政党もドイツを見てほしいのは勿論だが、国会議員たる人、自らの子や孫に借金を残すことを 念頭に世論をリード願いたいものだ。 それとも「限定相続」が国民世代間でできるとでも勘違いしてませんか。 <けったいな側面もあるんだ>と、私は誇りある日本人としてこの2ヶ月、痛感しながら旅を していた。 ※「Die Letzte Reise」をもお読みくだされば幸甚です。
☆ ☆ [その39] 上海へは新鑑真号か? ☆ HTMLのバージョンを宣言する もともと船旅は嫌いでない。飛行機は着陸10分前から目眩発作が起こるので、結果、船旅が多くなった。 中国へは以下の通りだ。 ○下関=青島 オリエントフェリー 水、土曜日下関発、月、木青島発 往、船中一泊、復、船中2泊 乗船時間最短 料金最安 朝食無料 ○神戸=天津 燕京号 火曜日神戸発、土曜日天津発 往復とも船中2泊 最長 料金最高 2日とも無料 ○神戸=上海 蘇州号 金曜日神戸発、火曜日上海発 往復とも船中2泊 2日とも無料 ○大阪(または神戸)=上海 新鑑真号 火曜日大阪or神戸発、土曜日上海発 往復とも船中2泊 2日とも無料 私も妻も、これらいずれにも乗っている。どれが最もよいか、一概には言えないが、最下に記した航路 を一番多く使った。 青島への船は大好きだが、下関で乗船するには前泊をするか、早朝から新幹線で行くかしなければならぬ。 木造部分多く、船内を案内してもらうと、かつては国賓級が乗ったという豪華客室がある。 このラインに二隻あるから、貴賓室はそれぞれロココ調とビクトリア調でしつらえてある。 かつてローマ=ミラノ間を乗った夜行列車が、アガサクリスティーの「オリエンタル特急殺人事件」に 書かれたのとまったく同じで感動したことがあったが、船のロココ調貴賓客室も、見るだけで心を奪われ てしまう。もちろん今では誰も乗る人がいないから、船内案内で見せてもらえることになる。 最下等の雑魚寝席でもけっこうしずかで安らかに眠れる。 興味深いのは帰路。午後乗船を終えても出帆しない。しても港付近でほとんど一夜を過ごしてから 翌早朝に動き始める。そして無料の朝食を二度食べ、三日目の早朝、下関に着く。着くが、しばらくは 接岸しない。8:30の頃合いを見計らって接岸する。これは港湾職員の勤務に合わせるためだろう。 職員が乗り込み、検疫書類などを作り終えて、下船する。そして「入国許可」や「下船許可」の書類 を船に届け、乗客はそれから下船を始める。 接岸から下船まで、ほぼ1時間を要する。 私たちの場合は旅行だが、長年、家族と離れる事情を持つ人が久しぶりに帰国するようなとき、どの ような思いで待つ60分だろうか。 日本人が日本に入国、つまり帰国する。問題をさほど感じない。 中国人が日本に入国するとき、パスポートばかりかビザや就労(実習、見習い、就学)などの許可証 を提示しなければならない。 終戦後によく見かけた風景のように、入国する中国人の若い人が、鍋釜を持ち抱えて税管を通る。 多分、お米や調味料、下着類、漢方医薬(中薬)など一切を抱え込むのだろう。 私の帰国時に偶然、出逢った一場面を紹介しよう。 前夜、「最後の晩です。カラオケは無料です」と船内放送があり、普段は縁のない私までもが加わった のだった。 大学を終えたばかりの女性集団がいた。日本語もあまり上手ではなかったが、もう一つの高卒集団より は、カラオケの利用には数段、慣れていた。 高卒集団に音痴が多かったことは私の印象に残るが、大卒集団は自国だけでなく日本の歌もリクエスト したりしていた。 下関の税関を通り抜けるとき、一人の大卒女子が停められていた。 5kg以上もある白米のビニール袋を台に乗せて、質問を受けていた。 困った表情の大卒女子。次第に声を大きくして詰問を繰り返す港湾官吏。 私が通訳を買って出た。 「お手伝いしましょう。どう言えばいいですか」 「お願いします」とすぐ言ったところを見ると、職員は私を同行者と見たのかも知れなかった。 「食糧管理法があるのです。一年間に100kg以上は持ち込めないのです。だからこれまでどれくらい持ち 込んだか尋ねているのです」 簡単なことだった。 「日本へ着たのは初めて?(ニーライリーベン、ディーイーツーマ)」 「ディーイーツー(初めてです)」 「リーベンジョンフー、ブーユンシュー。ニーナーライ、イーニィェン、イーパイコンチンイーシャンダ ダーミー。ニーメイヨウウェンティー(日本政府は1年に100kg以上のお米を持ってきてはいけない、と 言っています。あなたは問題ありません)」 若い女性の顔に明るさが戻った。 「初めて日本に来たそうです。これだけです」 秤に乗せられていた米を指さして職員に言うと、 「ありがとうございました。助かりました」と、こちらも笑顔を返してくれた。 神戸から天津へは「燕京号」が往復する。 乗船費にはいずれも朝食を含む。船旅が退屈かどうか、乗ってみるのがいちばんよく分かるし、飛行機 にはない空間、付き合い、過ごし方、そして見聞もある。 私には、飛行場で降りてすぐ中国語の世界でまごつくよりは、2〜3日、船中でやり取りする会話が、 向こうへ上陸してからの口話を滑らかにする。目的地の予備知識だって、また思いがけない話にも出会 える。 この船を利用したとき、日本では見られない見聞があるので、それは次の[40]番めの話としよう。 大阪(南港)から上海へ「蘇州号」が出る。 大阪の南港で出国手続きを待つ間に、すでに中国の雰囲気に包まれたりする。もちろん会話の練習にも なるし、この人達の日本旅行がどれほど満足だったか、問わずに分かるほど雰囲気に解放感があり、みや げの見せ合い等で話が弾んでいる。 大阪(南港)からと神戸港、ほぼ交互に上海へ出る「新鑑真号」がある。 私はこの船にいちばん多く乗った。 なぜか。当時はあまり考えずにいたが、今振り返ると、 1、神戸から出港するそのムードがいい。 2、クルーの愛想がいい。親切だ。 3、気安い雰囲気もよく、日中の両国人を問わず知り合いが多くできている。 「鑑真号」とは「鑑真和上」にちなんだ名称で、そのきまりを知らないが、熊本の川内(せんだい)港に 臨時寄港することがある。 その理由は、鑑真和上が漂着と言っても過言ではない上陸をした場所だという。井上靖さんの「天平の 甍」にその辺の事情は譲るとして、日本の仏教界からの要請に応えようと、当時は禁制だった日本渡航を 743年から試み、4度の失敗をする。遭難もすれば拘留もされる。751年には失明した。754年、やっと 和上の念願が叶った。いや日本の仏教界の大願が叶ったのだった。 話はそこで終わらないが、この場は「新鑑真号」を語るところだ。 普段は下関、瀬戸内を通り抜けるが、長崎、熊本沖を回って川内港。40分ほど停泊の後、四国沖を 北上し、和歌山、大阪港へと戻ってくる。 船旅は、けっして退屈しない。 景色だけに限って言えば、瀬戸内からの眺め、特に大橋を下から見上げるのは、壮観だ。船内放送もあれ ば、ロビーには通過予定時刻が掲示されてある。 中日(なかび)はほとんど海ばかり見るが、未知の人との交流日でもある。時々、遠くに船を見たり島 を見ると、様々に想像する。船内行事が催されることもある。三日目の早朝には、もう海の色が変わって いる。 泥水だ。長江が膨大な汚水を押し出す。船が河口を溯り始めていても、それが海やら川やら分かるはずも ない。 やがて岸にクレーン群が見え始め、船端すれすれに鉱物資源などを乗せて走る小舟を見るようになると、 船は支流に入る。 両岸が見えるようになり、川端で物を洗う婦人がいたり、両岸を跨ぐ大橋の上を上海の市内バスが走る。 両岸には隙間がなくなる。雑多に船が繋がれ、大小さまざま、形式いろいろの荷揚げクレーンがひしめ く。 最後にあの「東方明珠電視塔」(通称上海タワーと言っている)が見えるてくると、間もなく上陸 かと心が浮き立ってくる。 気の早い人は、ロビーの下船口へスーツケースを並べたり、リュック姿で立っていたりする。 水は、もう汚水ではない。泥水、まっくろ、巨大なドブ。 上海タワーの対岸に着岸する。 中国語では港を「港口(グヮンコウ)」と言い、埠頭を「碼頭(マートウ)」という。 ここは港口であり、同時に埠頭でもある。 上陸すぐの通りを「東大名路(トンターミンルー)」というが、「大名」に私はこだわっている。 中国語では、「小名(シャオミン)」とは幼名。長じて正式に「大名(ターミン)」を持つ。 でも私には、「大名路」とは、日本の大名(だいみょう)に響いている。その昔、数ヶ国の租界が近く にあった。日本人租界も例外ではない。連想をあながちに否定もできまい。 先に記した「蘇州号」も同じ碼頭に接岸する。 2010年頃には、両船とも乗客の大半が中国人となり、若干の若者と私たち夫婦ぐらいが日本人という ようなことになっていた。 下船すると、大部分の人は迎えの車がある。ない人は20台以上も並ぶタクシーに乗る。 キャスターを曳いて歩くのは、けっして大げさに言うのではないが、私たち夫婦ぐらいになっていた。 多分、中国人からも、一風変わった日本人老夫婦に見えていただろう。 私たちは1、2週間の旅をすることはまずない。1年間の往復切符を持っている。 だから期間中に、何かの大事情が起こって急に帰国を必要とするときに備えて、船会社の事務室を、この 身を以て尋ねることにしているのだ。愛称を「表敬訪問」という。50m先に高いビルディングがあり、その 何階かにそれぞれの船会社の事務室がある。 およそいつ頃、帰国するが、何時頃までに「ここ」へ来れば、乗船券をもらえるか、などと尋ねると、 「30分ぐらいですかね。15前でもいいですよ」と言ったか言わぬうちに、「出国手続きもしていただかねば なりませんし」という。話しながら考えている。 「顔つなぎ」ができればそれでいい。 次は近くの中国銀行だ。地図で示してもらって、銀行へ行く。 反日運動前だから、親切だった。行内に案内係がいて、換銭(ホアンチェン)ならどの窓口、とすぐ教え てくれる。 終われば、「お水をどうですか(ホーシュエイバ)」と、隅に置いてある大きな給水器を示す。 <お茶はないのか>などと思ってはいけない。きれいな真水をサービスするのだから、もてなしを有り難く 受けとらねばならない。そして、飲みながらやおら「(地下鉄の)楊樹浦路站へはどう行けばいいですか」と 問うのだ。 1時間後には、私たちは上海南駅の切符売り場で、その日の夕刻に出る列車の切符を買っている。 たいていの場合、2晩の夜行列車に乗ることが多かった。 お話を一つだけしよう。 この時、鑑真号で60歳を少し過ぎたSさんと知り合った。 昼食で相席になり、午後のほとんどをこの人と話した。 「陽朔以外には行く気はしない」と言い切った。年に数回、行くという。 「帰ってきたら、ずっと勤めていた造船関係の会社にアルバイトに行く。小遣いが溜まったら、すぐまた 陽朔へ」 私たちが昆明の話をしようが、大理の良さを語ろうが、麗江の景観を言おうが、彼の言葉には何の変化も 起こらなかった。「僕はね、陽朔以外に関心はないね」。 四国の故郷に姉がいて、帰国時はそこにいる。 一年のうち、陽朔と四国と、どちらに長く生活するのだろうか。見せた写真には、都会人ではない女性や 少女達が何人も微笑んでいたし、持っていくみやげは、荷物の大半だった。ホテルと言うよりは常駐する宿 があって、周辺住民とは知り合う仲になっている。でも、本格的に中国語を話せない。名詞を数多く知って いた。 中国の広西省に桂林(クイリン)という夥しい奇山の聳える景勝地がある。日本からの観光は、奇山を見 ながら漓江下り(りこうくだり)をするのが常だが、経験ある人は、桂林から始まる船旅が終わり、接岸・ 上陸するところが陽朔(ヤンシュオ)という街である。 漓江下りは4時間を要するが、桂林から40分の路線バスで容易に行ける街だ。 さてSさんの話に触発されて、昆明へ直行せずに途中、桂林で降りた時のことを話す。「奥森というホテル は僕の知り合いだから、そこへ泊まるといい」の言葉通りに、もう暗くなった桂林駅を降りた時、すぐ客引 きに捕まった。 「もう決まっているんだ」と言っても引き下がらない。 駅構内に果物が拡げられていて、赤ん坊の頭ほどの黄色い果物が並んでいた。 「これ、何?」 「ヨウズ」 「どんな字を書くの?」 「柚子」 夏みかんよりはるかに大きい柚子だった。 「酸っぱいのだろう?」 「いいえ。甘いです」 水を買って飲むよりは果物の方がはるかに安心だ。 「リャンガ(2個ちょうだい)」 買い終えると、先ほどの客引きが、また誘いの言葉を言い始めた。 「私たち、そぐそこの奥森(アオセン)へ行くこことになってる」というと、客引きは、 「アオセンへ誘いに来たのです」だって。お互い笑った。 こじんまりしたホテルだった。Sさんは「僕の名前を出せば、100元で停めてもらえる」と言っていたが、 私はツインのダブル部屋を80元で一泊することになった。 フロント小母さんは、英語もできるし中国語普通話もできた。 部屋で早速、大柚子(私の命名)をむいで食べた。 ぜんぜん酸っぱくない。グレープフルーツぐらいジューシーで、それよりほんの少しあっさりしていた。 「帰りにもまた買おうか」と長い列車と船旅を予想して言い合った。 翌朝、陽朔へ行くバスを、フロントの小母さんに尋ねた。 街にバスセンターがある。あるが、この駅前からは少し安くて便利な路線バスが出ていると教えてくれた。
☆ ☆ [その40] 天津の暴力バス ☆ HTMLのバージョンを宣言する 下船の天津新港から天津駅へは、バスでほぼ1時間を要するが、例によってかの国は複数の バス(会社)がある。 乗ったのは安い方のだったのだろう、マイクロバスだった。皆、下船客だから荷物は多い。私と妻は(真面 目に)バスを待ち、乗って荷物を膝前に引きつけて坐っていた。 入国審査(immigration=パスポートチェック)と税関(customs=荷物検査)を通過した順に 港湾施設から出てくる。観光バスへ向かうグループ、家族や友人が待つところへ小走りする人たち、そして 私たちのように路線バスに近寄る人、港湾施設前の広場は、今、下船客がそれぞれの路を行き始めていた。 ヤードは日本に比べればかなり広い。 観光バスや自家用車はすでに出て行き、バスが残った。バス内はほぼ満席に坐っている。でもほとんどが 荷物持ちだから、車内が広くはない。 女車掌は切符を売り始めた。 私は間違いをしてはならぬと「ティエンジンジャン、リャンチャン(天津駅2枚)」と言い、買った。 周囲を見ていると、行く先を誰も言わない。どうやら直行するので、言う必要がなかったようだった。 売り終えて、発車となった。 ヤード内を半分回って、門外へ出る。 門にはレール付きの開閉式柵があるから、用のない時は湿られているに違いない。 門の外はすぐ道路になる。その道路を50mも行かないところに、第一のバスストップがあった。 ここで男性が6人ばかり、バスに乗り込んできた。荷物の様子から明らかに先ほど下船した人たちだった。 みな中国語で話している。一人が他の仲間に何かと話していたから、彼は初めての旅ではない。あとの 5人は彼に連れられて今バスに乗った、という様子だった。 再びバスが動いて、女車掌は荷物を避けながら、彼らに近づいた。切符を売るためである。 一行の中心となる男性が、女車掌にクレームをした。 告白するが、中国人同士の「やりとり」を即座に理解するほど私にヒアリング力はない。でも「もめごと」 となると、事態への関心が倍加し、何ごとか、と聞き耳を立て好奇心をふくらませ、内容を想像する。 問題はこうだった。 一行は港湾ヤードの始発駅から乗ったのではない。ここまで歩いて乗っている。始発駅と同じ料金は おかしいではないか、と。 女車掌は、様々に説明していた。 双方の声が高まり、緊迫感さえ生じている。でも双方の理解はできそうになかった。 ここで一息入れて、中国の(日本にはない)バス事情を話そう。 始発駅で乗ると料金が高い。普通はバスセンター(チーチュア・チョンシン)に切符売り場の窓口があり、 もちろんそこで買うのだが、保険を含む料金になっている。その他の駅(バスストップ)は車掌から買う ので、保険はない。だからバスセンター施設を離れて乗れば、料金がいくらか安い。 このグループの中心人物は「ここで乗るより、外のバス停で乗ろう」と仲間を連れてきていたのだった。 バスの中のディスカッションに戻ろう。 車掌は、運転手の方へ声を発した。 バスは停まり、運転手はそばのドアからいったん外に出、一般乗降ドアから再び車内に入ってきた。 グループに近づき、一言、「イーヤンダフェイ、ヨウイーチェンマ?(同じ料金で文句あるのか)」。 男性は、ふたたたび自分たちの乗った場所が始発からではなかったことを言い始めたとき、言葉はぐっと遮 られた。 運転手が男性の胸ぐらを掴んで、喉元へ突き上げ、締め付けたからだ。 車中の誰も止めには入らない。シンとして固まっていた。 <文句があるなら降りろ>と引きずり出すかと、私は思った。事実、西安で<ここで降りろ>と、駅でもなけ れば近くに村里もない場所で主婦が下ろされたのを、それまでに見ている。 胸ぐらを締め上げられた男は、抵抗を止めた。 「ツーダオ、ツーダオ」 直訳すると、<知っている、知っている>だが、日本で起こったとしてふさわしい訳をすれば、 <分かった、分かったよ>が適訳だろうか。 天津駅まで40分以上を要する。 この一団は、立ったままで、しかも一言の会話もなく乗りおおせた。 ばかりではない。乗客すべても会話が全くなく、動かない空気とともに運ばれていった。 この事態を不愉快に感じていたことは確かだった。 どこの国であれ、暴力で解決することを好んではいないことを信じるに足る事件だった、と私は思うのだ が、読者の皆さんはどうですか。