藪野 豊の世界 2 「世界100の街角で シリーズ」 へようこそ
[コンテンツ] 41〜50 ☆ 41、陽朔の西街の名は ☆ ☆ 42、20元札の写真現場☆ ☆ 43、ナポリのタヴェルナ音楽とデウスの姿☆ ☆ 44、ウィーンの森とオペレッタ☆ ☆ 45、ミラノ=ヴェネツィア間、濃霧中の疾走☆ ☆ 46、マドリ、航空ストを避けるには☆ ☆ 47、Christchurch Family STAY☆ ☆ 48、中国旅行は香港から始まった☆ ☆ 49、吉林省龍井市で物乞い ☆ ☆ 50、吉林省龍井、農夫の心根 ☆ [コンテンツ]51〜60へは ここをクリックください
☆ ☆ [その41] 陽朔の西街の名は ☆ HTMLのバージョンを宣言する 中国の名勝の一つに桂林(クイリン)がある。もし飛行機で降りるなら、雲の下には一帯に 夥しい石筍とも見える奇巌が何百と突っ立っているのを発見する。 空からでさえこのとおり。漓江の両岸広く奇山のないところはない。 桂林とはまず、そういう類の奇形の山々が観光地になっている。 象鼻山というのが、名勝中の名勝、他に負けない奇岩で、その辺りからから漓江下りの船 が出る。流れに乗って4時間ほどを要するが、行けど下れど尽きない奇山を、「これでもか、 これでもか」とばかりに観る。 大抵の観光船は、船上レストランを持つ。団体は食事も楽しみ、観光のメインと心得る。 船は陽朔に着き、ここで観光バスに乗り換え、桂林に戻る。 そういう旅にかつて私は疑問を持たなかった。 39話に書いたが、Sさんに言わせれば<この陽朔以外の中国のどこに魅力があるのか分か らない>そうだから、紀貫之ではないが私たちも「シテミントテ」陽朔に入ったのはある年 のゴールデンウイーク直前だった。 桂林駅前からの路線バスは、何でもない日常生活を運ぶ雰囲気で、それでも私たちには 左右方向にも前方にもトンガリ山が続くから、運転手のすぐ後ろの席に乗ってしゃべると (日本と違って、「話しかけないでください」なんて発想もない)地元民の何十倍も乗車が 楽しめることになる。 陽朔に着くまでに、少なくとも2ヶ所のリゾート、保養所の類を見た。 その都度、<いつかここでゆるりと…>と思うが、<一生は長くない。いちいち来てみた いと思っていたら、願い事の何百分の一も叶えられない>と、すぐ打ち消す。 陽朔は、予め調べていたが、宿の候補を決めてはいなかった。ここにはいくらもあると素 朴に信じていたからだった。 この街のメインの通りを「西街」というが、これは方角に基づく街の命名ではない。その ことがこの街らしさを表している。 この「西」とは「西洋」のことだ。つまり英語で言えば、「European Sreet」である。 中国は面白いところで、東洋ということばを使わない。 「中医(チョンイー)」とか「中薬(チョンヤオ)」は「漢方医」であり「漢方薬」である。 対して「西医(シーイー)」,「西薬(シーヤオ)」は「西洋医学医者」,「西洋医薬」である。 この西街の中央脇部分に、バスセンターがあり、観光バスも路線バスもここに降り着く。 さて中国に例外を知らないのだが、私と妻がバスを降りるや、リュックを整えスーツケー スを一歩ひきずる前に、もう客引きが来る。 「ホテルは決まってますか」と口々に言う。言うだけではない。荷物を運ぼうと、もうヒト のものに手を掛けている。 しつこくて強引とも言える客引きだが、人間、だれしも話せば分かるはずだから、私はこ れをチャンスと理解し、話をする場合の方が多い。 「いくらだ」,「ここから遠くないか」,「ツインなのかダブルなのか」,「食事付きか」, 「風呂かシャワーは」,「部屋を見てから決めるが、それでいいか」などと、少なくとも数 人に聞くことにしている。 この時は2人目の客引きだった。食事は付かないが、日本円で1000円もしない。 部屋を見ることにした。 荷物を持たせて、歩く間に「あんたは少数民族か」と尋ねている。骨相に確信があったの だが、彼女は「違います」ときっぱり言った。英語もできるようだった。 ダブルベッドだが、実に広い。民家を改造した感じが残っていて、隣近所の民俗が見聞に もなるかと、すぐ諾した。 「三晩、泊まりたい」というと、 「二晩はこの料金でいいが、三日目からゴールデンウイーク(黄金周=ホアンチンジョウ) に掛かりますから、この料金です」と書いた数字は、倍額だった。 「分かった。じゃ二泊にする」 三泊めも客にしたかった彼女の表情を見ないようにして、部屋の隅に荷を降ろして、 「鍵は?」と手を出した。 話をうまく決めるには、こちらが主導権を持つことである。 観光でいい見聞を得るには、まず地理に明るくなければいけない。道に迷う不安があって は、人情はおろか風景さえ印象に残りにくい。 宿を出て通りに入る時、目安を2つ記憶し、気の向く方向へ歩き始めた。 なるほど「西街」だった。他の街より外国人の姿を良く見かける。だが、日本で見る外国 人とは、かなりの違いを感じた。 いずれも極めてラフな姿で街にとけ込んでいる。服装にもそんな感じがしていた。 店が多く、飲食店も多い。 外の看板に英語ばかりか、曲がりくねったアラビア文字ふうのものもある。 タイやインドもだが、私には言語の区別さえつかぬほどの異国文字が飲食店のメニュー看 板の脇に書かれてあったりする。 市場があった。主に地面に野菜や魚、肉類が並ぶ。敷物や低い台は勿論あるのだが、私に は地べたに広がっているように見える。 宿に台所があれば、こんな安い食材のいいところばかりを選んで、心ゆくまで食べてやり たいなあ、などと、いつもながら売り物の間を、買いもしないのに「これ何?」とか「どう やって食べるの?」なんて聞いたりするして見て回るのだった。 この広い市場の奥に数軒、食堂(餐亭)があった。もう昼にはやや遅い時刻だが、 「食べようか」とその一軒に入った。 テーブルの上にはメニュー(菜単=ツァイダン)があったが、<どれにしようか>と検討 する暇がなかった。 ウエイトレス(以前は小姐=シャオジエと言ったが、今は服務員=フーウーユェンと言う) が、私の持つメニューをさっと引き取り、変わりに同じ料理絵のものと取り換えた. 「イングリッシュ・メニュー」と叫んで。 客を異国人だと見て、中国語では分かりにくかろうからイングリッシュメニューを、との 「好意」かと、一瞬錯覚したが、私の食べようと思っていた候補の一つが、すでに値段まで 私の目に残っていた。 イングリッシュメニューは、それより50%も高かった。 見なけりゃよかった。見たくない<側面>を、まともに見てしまった。 「出よう」 私は立ち上がりながら妻に言った。 「何で?」 「出てから言うよ」 店の小姐にも老板(ラオバン=店の主人)にも、普段なら笑顔で愛想良く言うことにして いる<シエシエ>も<ツアイチェンア>も一切言わなかった。 振り向きもしなかった。 このあたり一帯は、米の粉を材料にした中細の麺がおいしい。冷や麦よりは太く、うどん よりは細い。日本のように四角くない。丸い。湯面(タンミェン)とは「スープうどん」の 意味だが、彼らはだし汁に辛みをつけている。 桂林でもここ陽朔でも、朝ご飯はいつもこれにしていた。告白すれば、丼に3倍ぐらいは 食べていたのではないか。 桂林では泊まった宿では食べないで、大通りの向かいの観光客団体が食べる朝ご飯を食べ に行く。するとグループの真ん中にはざるに盛り上げた米の粉うどんが出され、小鍋には出 汁(スープ)、脇には辛い薬味や刻みネギが出ている。 ざるから丼に採っては出汁を掛けると、いくらでも腹に入る。 ビーフンとも呼ぶ人があった。「米粉」の地方弁読みだろうか。 薄暗くなる頃から、通りに灯火が入る。ナイトマーケットの様相を呈する。夜は外出しな い主義の私も、ここでは西街だけを一夜に一往復した。 紙コップの飴湯ふうのもの、アイスクリーム、きなこ餅ふうのもの、お腹を壊さないよう にじっと観察してから買う。一つ買えば妻と半分ずつ食べた。 街に笛を売る人が2人いて、1人は実にうまく叙情を醸す。縦笛も横笛もすべて妙なる音 曲になる。フールースという笛は、瓢箪に3本の竹笛が付いている。 かなり心惹かれたが、買わずに帰った。 翌日は、西街を突き抜けて船着き場まで行ってみた。 岸壁の背面は巌石に大きく「陽朔」と刻字され、朱が入っていた。 ゴールデンウイークが始まろうというのに、漓江の水位が低いからか、観光船が下って来 ない。 接岸の仕事がなく、魚釣りをする男。上陸客に絵はがきを売りつける女性が所作無げにし ていた。 絵はがきを見せ、妻が興味を持ち、私は水位が異常に低いのではないかと、環境問題のス パイでもないのにいろんな質問をぶっつけていた。 女性は、なんと観光客に売りつける半額で妻に絵はがきを売り、私とはメールと住所の交 換をした。 船着き場の上は、土産物売り場が長く連なっている。客が少ないから、両側から大声で 「マイバ、マイバ(買いなさいよ)」と声を聞く内に、楽器屋があった。 観光地の楽器屋にネウチ物があるはずはない。でもちょっと弾いてみてやろうと、二胡に 近づいた。 私が手にするたびに、「これはいい(ハオティン)」だと小父さんは言っていたが、一丁 だけ実に「好聴(ハオティン)」な二胡があった。 5分ほど弾いてみて、買いたくなってしまった。値も高くはない。 だが貼ってある皮に、ニシキヘビの模様が無かった。 「シェンマピー?(何の皮)」と尋ねると、小父さんは、 「ユイピー(魚の皮)」と答えた」 どんな魚の皮か知らないが、安物楽器に似合わず華麗な音色だった。 今は買わずに帰ったことを後悔している。 この時この界隈で3度昼食をしているが、2度は同じところへ行った。 釜飯屋さんだ。 私より5歳ぐらい年長だから、日中戦争を十分に知っている世代だ。そして私たちを日本 人と知った上で、はなはだ友好的だった。 釜飯は、注文を受けてから火に掛ける。吹きこぼれるまでの時間に、話しをする。 「イングリッシュメニューはいやだよ」 小父さんは十分に好意を示しているので、私も心を許して思ったことを言うと、 「ウチはね、あんたにそんなものを見せないよ。ほら、これ」と、卓上のイングリッシュ メニューを引き上げ、すこし汚れた中国語メニューを見せた。 お客を見て値を変えるのは、ここ陽朔だけではない。 以前、フランスのパリでもあった。入り口に黒人の見張りがいて、近づくと中へ大声で、 「アリベドジャポン!」と叫ぶ。すると、売り場では値札が一斉に付け替えられる。 団体で行った翌日、私たちは個人として行ったから、そういうからくりが分かった。 バブル経済のおかげで日本人庶民が世界の至る所に出向き、土産を漁る。 取れるお金なら、知恵と手練手管で取ろうとするのは、どこも同じ。陽朔にはまだ残って いた、と言うのが正しいか。 釜飯は、横川のと同じ大きさで、一食分にちょうど良く、熱々のご飯に染みこんだ出し汁 もトッピングのおかずも、なぜだか懐かしかった。 ひょっとすると、その昔、日本軍が飯盒で炊いたご飯の形式を残しているのではないか。 小父さんは2回とも、「ツァイライバ(また来てよ)」と言った。 私も「イーティンツァイライ(きっと来るからね)」と言葉を返している。 床屋の話をしよう。 中国の床屋さんは上手で早い。しかも安い。 裏通りを歩いていて、床屋の前を通るとき、男の子が前のどぶに頭を突き出し、洗面器の 水で頭を洗ってもらっていたりする。 もちろん日本と同じように袖付きの椅子、前に姿見で理髪してもらう人もいる。 吉林省の農学院では、3元だった。理髪と顔剃り、洗髪のすべての値段だ。 上海ですると、200ぐらいを要した。 中に値段表があり、 「カット5元,洗5元,理髪(整髪)5元,割(剃ること)5元,吹(ドライヤー)5元」と表示。 女性用に「熨」「染」などの項目もある。 客は、必要な項目を申しつけ、金を払えばいい。 だが、特に女性の場合、「整髪にこれがいい」と流行の美容薬などをすすめたり、髪型を 勧めたりする。 セットしながら、鏡の中の姿と会話する。 妻が美容室に入って、そういう目にあったことがあり、通訳係の私は、 「表に50元とあったから入ったんだ。それでやってくれ」と、その都度、「オススメ」を断っ ていたのを思い出す。 中国では「床屋」とは言わない。「理髪」とは「理髪店」と言う。 陽朔で床屋へ行った頃の私は無知だった。 何に無知だったか、というと、理髪店には、床屋でもなければ病院でもないものがあると いうことを知らなかった。 「〜のがある」どころではない。場所によっては「〜の方が多い」のだ。 中国の街は同業の店が並ぶ。だから「理髪」とあれば、6軒も7軒も並んでいて、入ろう と思うとき、どれを選べばいいのか、迷ってしまが、その並んだいくつかの店は、少女が門 口に立っていたり、中のソファーに居並んでいたり、理髪の仕事に携わっていそうにない店 が多いことに、以前から気づいてはいた。 青島でも上海でも、その他の城市(都会のこと)でも。 理髪の看板で「性産業」を営むのを知ったのは、今の話よりかなり後のことになる。 だから陽朔では邪心があるはずなく、まともに理髪しようと、数軒が並ぶ場所へ行ったの だが、なかなか入る気がしないのだ。 あと2軒かと見る程度の店には、男性職員が二人と小母さんが一人の陣容だった。 「ニーハオ。シンマ?(こんにちは。いいですか)」と頭を指さしながら入ると。 「シン、シン(いいですとも)」と迎え入れてくれて、鏡の前の床屋台に私を誘い、地蔵さ んの前掛け様のものや、首回りの紙、そして前身を覆って<さあ始める>とばかりに頭に霧 を吹きつけ、職員は櫛と鋏(はさみ)を執った。 ここまでしてくれたのは若い男性職員だった。 「どんな髪型をお好みですか」と20ばかりの写真一覧を見せた。 「私はね、自分の好みはない。お・ま・か・せ、なんだ。君が好きにやってください」 店の中の3人が声を上げて笑った。<おまかせ>という注文が面白かったに違いない。 何故だか分からないが、理髪師は小母さんに代わった。 鏡を通して私と小母さんとが会話をしながら理髪は進行して行く。 「日本人ですか」 「そうだ。どうして分かるの?」 「一見して分かります。服装からも」 「ことばが下手だからでしょう」 「違いますよ、ねえ(みんなは笑った)、よく分かりますよ。標準語だもの」 「中国の理髪はとても上手。だから大好き。中国へ来るたびに理髪している」 「そうですか。日本より上手ですか」 「上手、上手。それに親切。……日本よりずっと安いし……」 「安いからですね?」 みんなは笑った。 最後に笑ったのは私のことばだった。 「もうこの歳だしね、ハンサムになれないと思ってたけど、ほら、とても美男子になれた。 ありがとう。今度来たら、さらにもっと男前になるかな」 会話がとぎれなかった。笑いを交えながら理髪を終えた。 とても楽しい床屋だった。 日本円にして100円ほどを支払いながら、私はとても満足していた。
☆ ☆ [その42] 20元札の写真現場 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 陽朔滞在中に、特に注目を浴びている名勝があると聞いた。 20元札の裏に、その写真がある。ここからバスで30分あまり下った小さな町からそれを 見に行ける、とも教わった。 猜疑心からではないが、他のもう一人にも確かめた。滞在予定はあと半日だった。無駄 なく「それ」を観、カメラに収めるためだった。 午後のバスも数本ある。バスセンターでは「行って観て帰る」には十分との情報で、やや 小さい田舎のバスに乗った。 降りて漓江が流れているはずの方向へ歩く。 ロクでもない土産売り場や飲食店ばかりを通り抜けるのはおもしろくもない。脇へ逸れて 住まいの少ないところを歩くことにした。 何の樹か大きく繁って陰を作る。傍らにあまり大きくない流れがある。所々に畑があって、 下肥の匂いがする。 鼻をつまむところだが、畑で下肥の匂いを嗅ぐのは、何十年ぶりだろうか。懐かしささえ していた。 橋の下をくぐると、傍らの川が漓江の本流に流れ込むところで、川幅が広く、池のように 淀んでいた。 大淀と呼ぼうか。 先ほど天秤棒で下肥を担いでいった農夫が、もう仕事を終えたのだろう、水の中へ「こえ たご」を入れては中を洗っていた。 小魚が寄っている。時々、身をくねらせるのか、銀鱗が光る。 これも懐かしい光景だった、と思おう間もなく、数メートルと間をおかず、主婦が洗い物 をしていて、<あれっ>と思った。 手かごに白い蕪(カブ)を入れている。もう一つの籠には洗濯物を入れていた。 農夫が長柄(ながえ)の下肥用の杓(しゃく)で川の水を汲み、「こえたご」を洗うから、 その波紋が主婦の足下にも、もちろん手元にもひたひたと波寄せる。 でも、互いが何も気にしていない「ところ」が、私たちはとても気になった。 仮に、の話だが、流れの上手で主婦が洗い物をし、下手で農夫がコエタゴをゆすいでい ても、その近さなら、感覚が許さない、と思えた。流れも無いに等しいほど緩い。 申し訳ないが、私はすでに「先進国人」になりきっていて、農夫にも主婦にも近づかない ように、わざわざ草の上を遠回りし、川の下手へと移動したのだった。 漓江の大河は広く、そのわりに力強く流れて行く。 大きい観光船が、下り行く。上り来る。その半分は、「屋形船」では表現がたりない。 「御殿観光船」とでも言おうか。 対岸は200メートル級の奇岩が突っ立ている。数本立つうちの最寄りの流れは、縁に なり、青く深まっている。観光船はそちらを悠々と進む。 下に石を見る瀬には、小舟が上り、下りを今しも10艘ほどが走る。 この小舟、私は数え方を知らない。筏(いかだ)と呼んでもいい。 太い竹を20本ほど2段に束ねてある。長さは15メートルほど。その竹筏の上に椅子が固定 してあり、日覆い(屋根)がしつらえてある。 観光客は竹筏の椅子に座り、船頭は船尾、つまり竹の株(根本側)に舵とスクリュウを兼 ねた棒を持って操舵する。 音が大きい。 私ははたと膝を打った。 「草刈り機だ!」 草刈り機のローター部分にスクリュウ式の鋼板を取り付け、船を操舵し ている。結構速い。また流れの強い大河なのに、溯るのも速い。観光船に負けない。 その代わり、「草刈り機」は「ブーン、ブーン」と音を上げている。 流れの上の風景と流れの向こうの奇岩山の数々を丁寧に見たが、手に持つ20元札の写真 になった奇岩山は見あたらなかった。 「もっと下ろう」 先ほどくぐった橋を渡るとき、戻ってくる学生に会った。 シャッターを所望して、「この山はどの辺?」と尋ねると。 「よくはしらないけど、もう1時間ほど行ったところだそうです」 「君たちは見てきたの」 「いいえ。もう戻らないといけないので」 若者は素直である。グループでいると互いにウソを言わない。外国人に敬意を失わない。 彼らとは反対に私たちは奥地へ入っていく。 カメラだけを持った中年男に出逢った。 いい景色を探しているんだ、とは言ったが、20元札の奇山はどれか知らないという。 路は次第に大河を離れ始めたので、ときどき茂みの中を掻き分け、川と山とを確認しなが ら、進むうち、道ばたの何でもないところで、蜂蜜を売る農婦がいた。 「20元札の景色、どこか知らない?」 「知らない。…1本買ってよ」 ペトオボトルに自分で詰めたのだろう、ボトルの口の辺りが粘っている。 「その景色を訪ねているんだが、どこまで行けばいいかなあ。この先はどうなの?」 「何もないよ。家もないよ。ずーと行くとね、日本人が1人、ここへ来たのが住んでいて、 田舎の娘と仲良く暮らしているよ」 「何年ぐらい?」 「もう3〜4年かなあ」 「いいねえ。私もそうしようかな」 「奥さんどうする?」 なんだかにやけてそう言った。 もちろんこんな会話を妻は知らないから、蜂蜜をいじっていた。 「今度来たら、どこかで住みたくなるかなあ」 「1本、買ってよ」 「旅が長いんだ。今度にしよう」 路はほんとうに人気のないところになった。1時間以上も経っている。帰れるかどうか 不安にもなってきた。 「川を見ようか」と左の蜜柑畑に入って、畦か渠かを200メートルほど入ると、川岸に出た。 小砂利が見える瀬の流れと向かいの奇山を見ながら、蜜柑畑の端に腰を下ろした。 駄菓子を食べたが、水を持って来るのを怠っていた。目の前を流れる水が、なんだか美味 しそうに見えたりする。 「ザ、ザー」と浅瀬に老男性が筏船を乗り上げてきて、エンジン音を下げた。 「安くしとくから、乗らないか」 100元であのバスできた集落(か町か)まで行くという。 舗装もしてなく、ゴロゴロ石の道路を、今から1時間も戻ることを想像すると、つい乗り たくなってしまった。 「よし。乗ろう。だが、行きは乗らなかっただろ? 帰りだけだ。半額にしな。いい?」 「わかった」 「もう1つある。流れが速いから危険だ。安全を守ってくれ」 「これでいいだろう?」 赤みの濃いオレンジ色の救命胴衣を2着、見せている。 「よしっと。乗った」 孟宗竹を20本束ねた筏の上に「玉座」の椅子がある。2人はそこに落ち着くまでふらふら と揺れながら、何ごとも起こらないことを念じていた。 小父さんは、今日は客が少なく、早めに帰るつもりだったのかも知れない。人がいるはず のない川岸の男女を見て近づいたら、なんと異国人だった。 たとえ片道でも2人で100元などと言う安値は知らない。 草刈り機の回転音を揚げながら、竹筏の観光船は大河の中程を堂々と走り始めた。 観光船とすれ違ったりすると、大きな波が押し寄せる。そのたびに筏の上にも水が上が る。私はそんな波で数度、靴をぬらしながら、「筏観光」を楽しんだ。 途中、一ヶ所は河が湾曲していて広い砂利の場所があった。 「休憩するから降りていいよ」 つまりトイレ休憩のつもりだろうが、どこかで立ち小便を するしかない。妻はそれもできまい。 土産屋が数軒あったが、みんな閉まっていた。 「写真を撮ってよ?」 私はシャッターを教え、竹筏の上の「玉座」に妻とツーショット、 「川とあの山、もう一つあっちの山、それだけ取り込んで撮してよ。いいかい?」 ポーズに注文もある。2度ならず3度取り直して、記念にした。 その場で近くに見る任意の奇山を指定したのだが、日本に帰ったら、 「ここねえ、20元札にも印刷されてる景勝なんだよ」と言うつもりになっていた。 川上で「こえたご」を洗い、数メートル下手で蕪を洗う。 私もそれを「不衛生」呼ばわりをする人格になっていることを、その後、何度か考えた。 かつての自然がそのままの姿を保ち続け、環境リサイクル、つまり、植物も動物も、微小 生物も、互いにバランスを持って生きてきたのは、下肥を畑の肥やしにしていたことと大い に関係があるのではないか。 下水道を作り、すべて一ヶ所に集め、浄化の名のもとに化学薬を混ぜ、川や海に捨てる。 その結果、どんな野菜を食べ、水を飲み、<作り物の衛生>を論じているのか。 私の少年時代は、糞尿すべて肥やしにする時代だったことを、敢えて肯定する気になっ ていた。
☆ ☆ [その43] ナポリのタヴェルナ音楽とデウスの姿 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 私はナポリに夢があった。主に歌からだろう。 書きながらも、私の脳裏には「遠いところへ、船出のときにゃ……サンタ・ルチア……」 のメロディーが繰り返され始めるくらいだ。 教職員の研修団体(39歳時)がナポリに近づくとき、女性ガイドがソフィア・ローレンの 話をした。 その前も後も、そして今も私は彼女のファンである。私より3ヶ月先輩の同い歳、誇るべき 1934年生の仲間である。 名女優は庶子だというが、周囲の人は神様の授かり者と寿(ことほ)いでいると聞いた。 氏(うじ)や育ちが如何にあろうと、庶民はその出世に賛辞を惜しまない。 ローマからアッピア街道を下るときの話だった。 やがて一行は昼食会場に入り、テーブルに就くとメイン・ディッシュはスパゲティ・ナポリ タンで、「もっとください」とは、イタリー語で「タント、タント」と言えばいいと言う。 私は関西弁が好きだが、「たんと食べな」などと言うから、「たんと、たんと」は関西で 普通に通用する。食堂を「タヴェルナ」と言うのは、耳に逆らうが覚えやすい。 タヴェルナに入り、日本人団体が席に就いた。ウェイターが腕に大盛りのスパゲッティ を支え、各テーブルの「タント、タント」の呼び声に、にこやかに応じていた。 やがて楽団が入ってきて、前口上もなく奏で始めた。 アコーデオンにギター伴奏がつき、小節の効いたカンツオーネが唄われる。 タヴェルナ専属のトリオなのだろう。 音楽の道を知る人(例えば音楽教師)は、声楽を云々する時にむつかしいことを言いがち だが、この唄い手は、日本で民謡が唄われる時の小節と同じ唄い方で、私は持論に意を強く して聴いていた。 <ホラ見ろ。人間、どこの民族でも一緒なんだ。発声や歌唱法に学問があって構わないが、 それよりも人間本来の能力の方がはるかに魅力があるんだ> 食事代は予め旅費に含むが、アルコール代はその場の自弁となる。 誰かがワインのボトルを1本注文し、回してきた。 私もコップ1杯をいただいたのが効を奏したのだろうか、アコーデオンを弾きたくなって しまった。 楽団がそばまで来たとき、「I want to play accordion」と言ってみた。 「I'll ask our boss. So wait a moment」と答え、しばしあって、 「You can play」と肩から下ろし私に預けた。 旅の恥は掻き捨て、と思ったわけではないが、私は両肩につり革を貫し、弾くことにした。 曲は「世界は二人のために」 「愛、あなたと二人、花、あなたと二人……(ミドー、ミミファソラーララー。レファー、 シシドレミーミミー)……二人のため、世界はあるの(ドードシーミシラー、シーシララ レラソー。ドードシーミシラー、シーシララシシドー)」 自慢だと受けとらないでほしい。20代の私はかつてアコーデオンをよく弾いた。 本格的に習ったことはないが、楽譜も読めればフレーズに適切な和音も分かっている。 アコーデオンは、右手にピアノやオルガンと同じ配列のドレミファ鍵盤が並ぶが、左手は そうではない。 倍音と長調・短調の和音が、それぞれボタンになってまとめられている。 例えば5列ボタン(ベースと言う)の楽器なら、ドの倍音の列はミ(とミの倍音)、 ド(とドの倍音)、ドミソ(Cメジャー=ハ長調の和音)、ドミ♭ソ(Cm=Cマイナー、ハ短調の 和音)、ドミソシ♭(C7=Cセブンスの和音)、と5つのボタンが並ぶ。 もう一段下に下がれば、5つのボタンすべてヘ調(ドを基本にする音の仲間を、すべてヘを 基本にする仲間)にずらす。もう一段下は(ヘ調をさらにヘ調に)ずらすから、♭が2つ付く 変ロ調の仲間になる。 今度は一段上に上げると、ハ調がト調(ソを基本にする音の仲間)にすべてがずれるし、 二段上げれば、ソをドと読み替えたときのソだからニ調(レを基本とする音の仲間)にすべて が移動する。 つまり#を2つ付けたニ調になる。 因みに「120ベース」とは、このようなボタン120個を備えるから、♭が4つ付く曲でも# が4つ付くものでも、和音付きで奏でられる。 でもC(ハ調)が最も簡単なことは論をまたない。 退屈な話だったかも知れない。失礼。 私はアコーデオンを抱えて立ち、ワインのエネルギーで快く演奏を始めた。 旅行仲間の手拍子も嬉しいが、ギター伴奏の男性が、私の左側に回り、左手の指の動きを 観察しながら、即興の伴奏を付け始めた。 誰かが小声で唄っている。 昼食会は大いに盛り上がった。 楽士たちの邪魔をしたのだろう、と思われるお方は、邪推である。 彼らは私に、 「グラーツィエ、シニョール! サンキュー、サー!」と幾度もお礼を繰り返した。 唄い手の帽子には、日本の1000円札が、たっぷりと入ったからであった。 ☆ ☆ ☆ ところでナポリの土産にカメオを買う人が多い。 朝、ホテルの外に売りに来ていて、「モシモシ、カメオ……」と叫んでいる。 近づくと「センエン、センエン」とか、「ヤスイ、ヤスイ」などと言って勧誘する。 一行は、カメオ製造工場を見学した。 芸術の国、イタリーだ。カメオは手彫りである。 膝の上に前掛けふうの布を広く敷き、ホラ貝をしっかりと固定しながら、右手の工作刀で 彫ってゆく。 すると楕円状にヴィーナスが現われ、麦の穂などをあしらえながら、被った粉を払い、次 第に細かいペーパーで磨かれてゆく。 一行のほとんどが即売場へ入り、ガイドは引っ張りだこで買い物の仲介に励んでいた。 私は買わない。 彫りの工匠が作業する右側の工作室を見ていた。 中にひときわ目立つ美男子が、今しもホラ貝を彫っていた。 単なるハンサムではない。逞しそうな身体つきと顔立ち、髪の縮れ、それに瞳(ひとみ) は円(つぶ)らで、所作の一つ一つが澄んだ美しさを持っているかに見えた。 <デウス>だ。 ギリシャ神話やローマ神話によくあるデウスだった。 譬えを替えれば、フィレンツェ、ウフィッツの門に立つダビデ像のモデルだった。 私はこの若い男性に畏敬の念さえ感じ、惚れ込んだ眼差しを注いでいた。 そして、何と予期しないことが起こった。それこそハプニングだった。 目を上げたデウスが、私の方を直視したのだ。 最初、私よりも後ろに彼が見る誰かか何かがあるのか、と思ったから振り返る。でも壁し かない。まぎれもなく私を見つめている。 胸が高ぶりはじめる間もなく、デウスは彫刻刀を放して手招きした。 私は何が起こるのか計りかねて、どぎまぎしそうだった。 一瞬の変化が起こった。 デウスは左手のホラ貝、それは握り拳二つ分ぐらい、を持ち上げて私に示した。 右手でそれを指さし、<これだよ>と表示している。 一歩近づこうとしたとき、デウスは抑えた声を出した。 「センエン、センエン」 神が神通力を失って地に堕ちることは、よくある。羽衣しかり、久米の仙人しかり。 今、私のデウスはホラ貝を1000円で買わないかと言っている。 畏敬から軽蔑へ一瞬にして転じた経験は、しかし、初めてだった。
☆ ☆ [その44] ウィーンの森とオペレッタ ☆ HTMLのバージョンを宣言する 「ほんとうの音楽が聴いてみたい」 妻がこう言ったとき、私は即座に元気よく、 「じゃウィーンへ行こう。すぐにだ」と言っていた。 クアラルンプール経由でウィーンへ行く。「No1トラベル」という外国人がよく利用する 旅行社へ行くと、金(Jin)さんという女性が「私のお客さんよ」と周辺に言うくらい、私は その頃、いつも彼女のお世話になっていた。 Fixで10日あまりの格安航空券はすぐ予約でき、大きいスーツケース1つに思いつく物品 を詰め込み、クアラルンプール乗り継ぎでウィーンへ来た。 早朝に着陸、空港の地下駅から乗った列車は難なくウィーン駅に着く。 駅近くに見つけたホテルは、居心地が悪くはなかったが、ダブルベッドなのに枕は1つ。 もう1つほしいと言っても、なぜか頑として「この部屋は1つなんだ」と聞き入れない。 1晩しか泊まってやらない、と決めたが、明けて朝食に出てみると、案外に内容豊富な食 事だったのに驚いた。 次に見つけたホテルは、2晩めから1週間滞在。外からは倉庫に見えたが、中の5〜6階 はゆったりとした客室で、しかもバスタブが全身を伸ばせるほど大きかった。 「ここに最終日まで泊まろう」と、交渉すると、看護婦さんのような管理人が、すぐ承諾し てくれた。 入り口は暗証番号で開ける。エレベーターが6階へ着くまで建物の内部が見える。 ほんとうに倉庫そのもだった。 駅に近い。駅の表はすぐ長くて広い公園に続き、緑が多くモーツアルトがヴァイオリンを 弾く像が建っていたりする。 何だか私が生活するにはやや上級にすぎる生活がある街に思える。 街を自由に楽しむためには、地理に明るくならねばならぬ。この方角に何があり、あの方 角ならホテルに戻れる、という感覚が得られてやっと、地図と認識とが一致する。 one day ticket や 3 days ticket が、タバコ屋や雑貨屋で買え、市内の列車、路面 電車(トラム)、路線バスのいずれにも、1日を24時間とくっきり数えて、乗り放題になっ ている。 幅2.5cm、長さ5cm弱の硬い紙の切符、つまり日本でも一時代前の国鉄の切符はみなこれく らいに硬い紙だったし、表にピンク色の模様があるところも同じだった。 そして、そこに英語、ドイツ語、仏語があるのに驚きはないが、なんと対等に日本語が書 かれてあった。 使い勝手の良さは例えば、トラム(市内路面電車、3両連結)で市街地北端まで行き、 さらにバスに乗り換える。 バスは市街背後の山裾地帯へ上がってゆき、昔、お城があった地点からウィーン市全景が 見下ろせるところまで行って、たっぷり景観を楽しんだ後に戻ってきても24時間になるはず もなく、翌朝、再び10時すぎまでトラムなどに乗れることになる。 市内に日本人向けの案内が掲示されていた。 「ウィーンの森、1日観光」、バスで回るという。日本語ガイド付き。9:00出発、修道院見 学や森散策、昼食も含んで5000円ほど。 申し込んだ。 観光バスに30人ほど、全員が日本人、ガイドも日本人。 その説明を奇異に感じをことを記しておこう。 「……ウィーンの森観光っていうのに、これはウィーンの山じゃないか、どこに森があるん だ、という方が多いのですよ。先日も国語学者だと仰る方がみえて、森はないね、とご不満 のようでした」 ガイドをする合間にそう言ったのだが、ガイド嬢に見解には、山と森の区別区別を明確に 示さなかった。 一日おいて私たちは 1 day ticket でトラムの終点から丘の終点までバスで行ってみた。 何年か前に初めてきたときも感動的だったのでその話をここに挿入してみる。 ……挿話…… 丘の上が終点であるとは知らずに北たのだったが、あまり人気(ひとけ)の ない広場に降りたのは、私たち以外に一人、地元の小母さんだった。 どこかを見てすぐ同じバスで戻ろう、と初めは思っていたのに、そのとき、広場脇の教会 から正装の数十人が一斉に出てきて、一見で結婚式だったと分かった。 異国の結婚式やそのふんいき、新婚夫婦の晴れ着も見たくて、去りゆくバスに関心を 残さず、祝宴前一行の写真を撮ったりしていた。 「ウエディングはここでよく行われるのですか」と中の一人に尋ねると、 「ウィーンでは二ヶ所、ここともう一つは一つはシュテファン聖堂(Stephansdom)です。 え? 聖堂はあそこ(前方100m)から見下ろせます。ドナウ河が2本、とてもいいヴュー ですよ」と教えてくれた。 11:00をやっとすぎた時刻だったが、「昼ご飯、食べられたら食べてみよう」と言い、右奥 のホテルらしい建物に入ってみた。 客はまだ誰もいなかったが、レストランは開いていた。 ひと渡り見回ると、大衆的なレストランで、入り口すぐにあるショウウインドふうの容器 に、総菜数種が入っていた。 いちばん目を引いたのは、直径が3cmもあるような太いソーセージで、長さは12〜3cmも ある。 「あれを一つ取って、2人で食べよう」と決めて、注文をした。 「This one, one, please」 これ、1本ください、の意味である。 「And this bread, and this bread」 2種のパンを1個ずつ。 太いソーセージは、肉にしては赤黒すぎた。フォークで抑えナイフで切ると、中に細かく て赤い筋が混じる。 「これって、牛の血を腸詰めにしたものみたいだ」 正直、私が無心であった訳ではないが、 少し切って味わってみると、岩塩の塩味の良さ、香辛料の香り、いずれも初賞味にして 深く印象に残るものだった。 2人はもちろん残さず食べ終わり、「もう1本取るかい ? 残れば持ち帰ればいいじゃ ないか」と言ったほど気に入った。 丘の東外れは下方にウィーン市街が広がっている。先ほどのシュテファン、「第3の男」 の観覧車などは難なく見つけた。 左側をまっすぐに大河が流れゆき、そのすぐ右に半分ほどの河が併行して流れる。 ドナウ川とドナウ運河とに呼び分けているそうだ。 ……挿話 終わり…… 今回はだから、この丘の上でまで来た2回目で、1回目とは同じ経験をしなかった。 私はいつも不思議な幸運に恵まれ易い人間だ。 終点で降りた私たち以外にもう一組の夫婦がいた。ほぼ同年輩に思え、話しかけてみよう という気になったのは、ご主人の方は、片足を引きずり不自由の身で、奥さんが腕を組んで 少しも急がず歩き始めた。 「リハビリですか」と私は声を掛けた。 「ええ。わたしたち毎日1回、ここまで来て歩きます。こんなに歩けるようになりました」 奥さんのことばはかなりドイツ語の混じった英語だったが、半年前にご主人が脳の血管障 害で半身不随になったこと、毎日、バスでこの丘の頂上に来て散歩することなどを話した。 ご主人は何も話さなかった。奥さんとも話さなかったのは、ことばがまだ不自由に違いな かった。 「この庭の奥からは街が展望できますね」と私が言うと、 「わたしたち、いちばん展望のいいところを知ってます。城跡が残っていて、その展望台か らです。20分ほど歩きます」と言った。 「いっしょに行ってもいいですか」 「いいですとも」 2組の夫婦が歩くことになった。 バスの始発場所をすぎると、幅4mほどの道が森の中へと続いていた。そしてすぐ<ああ、 これがウィーンの森、なんだ>と感じながら、その山道を歩いた。 ご夫妻はゆっくり歩く。私たちも急がない。舗装のない裸地面の道だから、路傍に雑草も あれば、野草に珍しいものを見つければ、樹木の間に入って採集すればいい。 <発見>があった。1植物の発見だったが、私には歴史に関わる大発見だった。 この植物の葉っぱを少しむしって、指先で揉み、匂いをかいでみると、正しく牛蒡の匂い がした。 つまり、ウィーンの森の雑草には牛蒡(ゴボウ)があった。 私の意識が、突如、大戦中の捕虜のことに及んでいだ。 敗戦直後、軍事裁判があったことはご存知だろう。その中に捕虜虐待の罪で処刑になった 人がいる。オランダ人捕虜に「草の根を喰わせた」との証言があったからだそうだが、日本 側はそれを否定、食べさせた野菜のすべてを上げて、心当たりがない、と抗弁している。 その<野菜>の中に牛蒡がある。 私の認識の連鎖がこの時、たちまちでき上がった。日本軍人はオランダ人捕虜に<野菜> の牛蒡を食べさせ、オランダ人は<野草の根>を喰わされたと理解した。 この食文化の違いは、やはり罪なるのだろうか。 敗戦から70年を経た21世紀の今、いまだに犯罪視どころか敵対までする。人類の愚かさ、 人類史の浅はかさ……また別項で述べようか。 ここと似たような山道は日本にいくらでもある。時にはワラビを採りキノコを探し、ツツ ジを見て歩くところは<森>の中ではないのか。 ウィーンの日本語ガイドは<ほんとうの森>の意味を知らず、国語学者は、森を歩かない ツアーに参加して「森」と「山」とを混同していると批判した。 問題は、自らの足でこうして歩いてみればいいだけのこと。 切符1枚さえ持てば、森へも街へも、山へも河へも行けるようになっているウィーンを発 見するだろう。 自らは労せずして分かった気になっているのは、知識人ではない。 リハビリのご主人を扶けながら歩く奥さんは、 「脳の出血があったとき、死ぬと思いました。ひたすらな努力の結果、こうして2人で毎日 歩けるのを幸せに思います」と話した。 急に前が開けた。 丘の端だった。街を見下ろす中世の城があった場所だ。 ドナウ河とドナウ運河が河面を光らせ、シュテファン大聖堂はすぐ見つけられた。 あの観覧車は、通常見るものの大きさではない。 私たちはまだまだ多くの市内見物をしたいが、日程が足りるのだろうか、心配していた。 「右の方を見て。高い山が終わっています。これはアルプスの東端です」と奥さんが言う。 ザルツブルグの辺りに違いない。 「ずっと向こう、地平線のかすむ辺りは?」と問うと、 「Slov△◇○×…」と奥さん。 「スロヴァキアですか」 「Nein, Slovenia, Slovenia です」 ゆっくりと発音してくれた。 ご主人は何も言わないが、奥さんと同じ向きで同じ対象を見ながら、その説明に頷いてい た。 「じゃ私たち、これで戻ります」と言うと、 「わたしたち、ここに2時間ばかり、いつもいます」 「いい人に出逢えて嬉しいです。リハビリの結果がとても改善されるように祈っています」 「わたしたち、いつでもあなた方日本人カップルとの出逢いを記憶してますよ」 別れて再び森の中を歩くとき、私の記憶の中に「壷坂霊験記」が響いていた。 「…妻は夫をいたわりつーー、夫は妻を慕いつつーー」 倉庫ふうホテルの部屋に電話があった。何と日本人の女性だった。 フロント前の小さなロビーで会うと、 「お宅さん、語学がおできのようで、お願いしてほしいことがあるの」と60台と思える3人 の頼み事だった。 「さしてできる訳じゃないんですが、何でしょうか」 「バスタブにお湯が少なく不自由してます。もっとほしいって言って頂けないでしょうか」 「」 「私たちの部屋、5Fですけど、大きなバスタブにたっぷりでますよ」と言いながら、フロン トの奥を覗いて「Bitte」と呼ぶ。 「They want much more hot water for their bath」と彼女らを指さしながら言うと、 ナースふうコスチュームのフロント担当は、 「Japanese always use too much water(日本人、いつもお湯を使いすぎるんだから)」 としかめ面をしたが、願いを叶えるとも何とも言わずに引っ込んで行った。 日本婦人は、私のことばが大したことなかったので落胆したのか、確認もせずに終わった からか、<ありがとう>の一言もなく、部屋へ引き上げていった。 あるいは<好まれざる客>だったのかも知れない。 本場で本物の音楽を聴く。その様子を紹介すべきだろうが、文章化するのは実にむつかし い。「ウィンナワルツ」とか「ヨハンシュトラウス」についてご存じの方ならお話はしやす い。だが、なぜウィーンが本物なのかは、知らない方は現地へ行っていただくしかない。 辻音楽もたのしんだ、大道芸人もすばらしかった。そして至る所でコンサートの誘いが あった。 入場券を買いコンサートに入ったのが3回。 内訳は、ごく普通の一般的なオーケストラコンサート、中世コスチュームでするオーケス トラとバレエのコンサート。さらに特記すべきもう一つがある。 いずれも<ウィンナワルツ>がふんだんに聴けた。 NHKがニューイヤーコンサートをする。<あれ>をイメージしてもらえばそう差違はない。 差違はないが、私には大きな質の差を2点感じ取って来た。 1つは、どのコンサートも入場券は、ほぼ3000円で、非の打ち所のない音楽鑑賞を楽しめ たこと。もう1つは、オーケストラの雰囲気が、実に愉快で楽しさに溢れていたことだった。 日本のコンサートは、これに比べれば真面目、固さ、きちんとしてofficialに感じる。 彼らのは音楽によって解放された人間性、とくに感性の解放が演じる側から発せられ、会 場の聴衆に伝播してゆく。 ******* ****
☆ ☆ [その45] ミラノ=ヴェネツィア間、濃霧中の疾走 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 旅から帰って土産話をするとき、相手にすぐ飽きられてしまう場合がはなはだ多い。 いや、相手は、「もう聞き飽きた」とか、「もういいよ」なんて言わずに辛抱しているの が分かるから、そんなときは私の方ですぐ辞める。 辞めても「続けてほしい」とか、「それでどうなったの」などと請求されないことからも 十分飽きられていることが分かる。 その理由を考えると、旅をしてきた私には旅程のすべてが新しい体験だから、自己体験の 新鮮味を紹介しているのだが、聞かされる方には興味も関心もない、あるいは、話されなく てもすでに知っている<意識>があるからだろう。 とすれば、日常ではあり得ないような<特殊>で<特異>な、いわば異常体験を話すのな ら人の聞き耳を刺激するだろう。 この項も人生に2度とはない、いや1度だってあるはずのない体験が2つも含まれる。 だからお話をする。 絵に譬えれば、カリカチュアなどという描き方に、特長をデフォルメする手法がある。 デフォルメすれば当然、思い切って省略する部分もあるだろう。 文章にもその手法がほしいのだが、評論家には実にケチなのがいて、<手法>としての描 写に対してまで<○○が描き出されてない>だの、<△△の描写に客観性がほしい>のと、 アラ探しやらイヤ味やらを書くのが<本文>だと勘違いしている自称評論家を、今まで何人 もお見かけした。 敬愛する読者各位に申し上げるが、あなたの興味や関心を喚び起こす文章にケチをつける 知識人は、けっして本物の評論家ではない。 文章を<表し><論じる>からには、あなたが興味や関心を喚ぶいわれについて述べない のは、少なくとも狭い視野の持ち主だ。断言する。 <このとき>、12月31日、しかもかなりの夜更けだった。 乗っていたフライトはヴェネツィアへ降りることになっていたのに、霧が濃い上に空港の 事情もよくなくて、ミラノ空港に降りることになった。 何らかの事情で予定しない空港へ着陸を余儀なくされた経験は何度かある。 釧路→帯広、アンカレッジ→付近の空軍基地、ソウル金浦→釜山金海、いずれも濃霧のため だった。 着陸も大変らしく、時間を掛けたが、イタリー人やスペイン人に混じって空港構内に入る と、グランド職員から説明があった。 こういう夜中であろうといつであろうと極度に緊張する。 「ヴェネツィアまでバスが代行します」 <代行>なんて単語は知らない。でもBusとかAutobusは、広くヨーロッパで使われる。 すぐバスが出る。 私と妻は早く乗るべく、普段の謙虚モラルをかなぐり捨て、急いでバスに近づいた。 こういうとき、高齢であることはありがたい。 人を押し退けたり、割り込んだりしないでも、密着すれば<前へ>場所を空けてくれる。 結果は1代目のバス(観光バス)の2列目、左側に席を得た。 観光バスはドライバーが低い場所で、乗客は高い場所の左右各2列に座る。 最前列は、前に腰の高さの鉄棒があり、その次の4人の左半分が私たちだった。 代行バスは運転手以外の職員はなく、ずぐ走り出した。辺りは濃霧のゆえか、街の灯も見 えない。 やがて郊外をひた走り、時速は100キロを超えている感じだった。 前2列の席だから進行方向がよくよく見える。よく見える、とは<見えない>のがこのと きの実情だった。 昼間の飛行機が雲の中に突っ込んだのと同じで、郊外の畑も田圃もまったく見えない。 前方の3メートルはやっと見えるが、その先は濃霧に閉ざされていた。 運転手には何らかの方法で前が見えるのだろうか。見えない前方を意に介さないかのよう に突っ走る。 ときたま路傍に停まっている車が、わずか数メートルでいきなり現れる。見えてすぐ停車 できる距離ではない。 追突が起こらないと<信じ>て走っているのだろうか。それにしても時速100キロのとは、 乗っている私には恐ろしいことだった。 旅行保険に加入しているから大丈夫、なんて心境になれるはずはない。急ブレーキの時、 どこへどう身をかわせばいいかを考えたが、足下へしゃがみ込む以外に思いつかず、ひたす ら前の席の背もたれに手を当て力を込めていた。 バスは飛行機の代行である。もともと夕刻のヴェニチアに着くはずだったのを、なるだけ 長くは遅らせない<努力>をするのだ、と割り切っているらしく、濃霧の高速をひたすら走 りに走っている。 どうやらこの情況を怖れているのは私たちだけだったのか、それともロマンス系の人々は すべて<神の思し召しのまま>だと割り切っているのか、安全運転を要求するでもない。 前列右から二人目、30歳くらいの女性が何か叫んだ。 バス前面上方のデジタル時計を見て叫んだのだった。 大晦日の夜は、間もなく新年を迎えようとしていた。12:56。 私の腕時計はまったく正しい。バスの時計は2分ほど進んでいたが、この女性、おかまい なくこの表示に注目した。 イタリー人もスペイン人も、0:00 になった瞬間、新年の始まりを祝い、周囲の誰彼と言 わず祝い合い、抱き合い、さらにはキッスをする。そのキッスは頬や額にする愛想キッスで はない。文字通りの<くちづけ>なのだ。 あと2分もすればみんな立ち上がって、声を発し抱擁とと同時に口唇を合わせる。 バスは濃霧の中を驀進していて、どの瞬間にあたら命の終わりであろうともおかしくない という崖っ淵にあって、 「Happy New Year!」「Bonne Anee!」「Buon Capo d'Anno!」「feliz ano nuevo!」 と熱狂的に喜べるのだろうか。 11:59の点滅が00:00に変わると同時にその女性は立ち上がった。 右隣の男性と叫び合いながら<口づけ>をした。次いで通路を隔てた左側の女性、つまり 私の前席の女生と叫び合い抱き合ってキッスをした。間をおかず前列、左端の女性にも同じ ことをしたあと、何と左斜め後ろの私に向き合った。 もちろん私も<覚悟>を決めていた。私にできる外国語の新年挨拶は「Bonne Anee!」 である。 「ボンナネー!」 私も両腕を拡げて応えた。 次にあるはずの抱擁、そして<くちづけ>。 女性は私が東洋人であると見てか、<するべき>動作にブレーキが掛かったらしい。 私の右手を握って振りながら「Bonne Anee!」を2度繰り返した。 そして、私にはそれで<おしまい>だった。 通路を隔てた私の右隣の男性へどんな行動をしたのかは、記憶にない。彼はヨーロッパ人 だったから、抱擁も口づけもあったのだろうが、その情景が私の記憶にほんのちょっぴりだ に残っていないことは、単に握手だけに終わってしまった新年の<挨拶>が、私の記憶中枢 に異常な刺激を与えた結果かも知れない。 だが誤解を避けるために敢えて付記しておくが、寂しかったとか疎外感を残したとか、そ ういう類の印象は少しもなかった、という事実を記しておく。 真夜中、2:00。ヴェネチアのホテルには、もう夕食もなくただシャワーを浴びて就寝する だけだった。
☆ ☆ [その46] マドリ、航空ストを避けるには ☆ HTMLのバージョンを宣言する 1990年代半ばのイタリーやマドリは、労働者側の勢力が強く、今(2014年)の日本から見 ると、当時の私たちはもっともっと見習うべきではなかったかと思える場面にいくつも出逢 っている。 そのころ日本では<55年体制が終わった>と称して、労働側が力を発揮しないようになり 始めていた。 それまで国の政策にも影響を及ぼしていた総評では、その中心部隊だった公務員共闘、国 労などでは恒例の闘争を<消化試合>のように行ってはいたものの、背水の陣を構えたり全 職域的な共同闘争を組むなど腹をくくった賃金や労働条件の改善などに取り組むのは、もう 元禄時代の武士のように萎縮してしまった。 ところがイタリーやスペインでは、この時も観光バスで見学して巡ったのだが、バスには ドライバイー以外に日本語ガイドが同情していた。 その日本人ガイドの善し悪しはともかくとして、観光地の先々でさらに<現地ガイド>が 添乗する。 例えばトレドに着くと、その土地のスペイン人ガイドが乗ってくる。 一番前の最もよく外が見える座席を陣取る。 にもかかわらず、この現地ガイドがガイドすることはない。気を付けて見ていると、ドラ イバーが道を聞いたりすることがあるにはある。ほんとうのガイドが質問することがないわ けではないが、いずれもガイドするに当たって必要なことでもなさそうである。 私が出過ぎないように気を付けて聴き取ったことによると、現地ガイドは地域ごとに組合 を作っている。そしてそれぞれの地方が現地ガイドを同乗させていない観光バスの観光は許 されない規則になっている、ということだった。 職能集団による組合は中世、ギルドと呼ばれ、自らのテリトリーで他人が利益を横取りす るのを許さない、という制度だったと理解しているが、日本でも遡れば自らの利益を保護す る職能集団組織はもあった。 入会権や漁業権として今に残るものもあるし、職能集団の免許、武道集団、囲碁などの ゲーム集団、珠算や書道などの段級など、いずれもそれらの名残か、あるいは進化したもの だろう。 いずれにしても共通していることは、取得している技能を他から侵されない、あるいは既 得権を保護することを目的としていることである。 総評に力があったころ、結集する組織労働者の労働条件を保護し、かつ改善することにけ っして消極的ではなかった。 ここマドリへ来てみると、観光ガイドの組合が業界に占める地位を他から侵されないよう な制度になっていることが、行く先々で示されていた。 言わずもがなだが、自らのことばではガイド役ができない外国人の観光に対してでも、例 外を認めず自らの集団の権益を守り抜いてしてた。 労働者が自らの労働条件を守る(あるいは改善する)とき、この<やり方>を何人にも譲 歩してはいけないだろう。 私は観光客としてスペインへ行き、自らの利害損得とは反対にガイドという職業の権益保 護の方法に、改めて気づき、持ち帰ってきたのだ。 その夕、べ、夕食の席で日本人ガイドから話しがあった。 旅程中は毎夕食時、ホテルやその周辺見物、翌日の日程などについて話があるのはいつも のことで、その夕べも<そうだろう>と思っていた。 「…少し大事なお話になります」と日本語ガイドは前置きして、話し始めた。 「明日は航空会社のストライキが予定されています。出発前から分かっていたのでしたが、 賃金上げの要求は、前日までに解決するだろう、とこの地の観光会社の見解を信用して注目 しておりましたが、今に至るも解決をみておりません。明日はフライトを取りやめる、と会 社側も申しております」 食堂内に、「えー!」とどよめきが広がった。 「で、ーーで、よくお聞き下さい。明朝は4:00に起床」 食堂はしーんとなった。 「4:30には荷物をドアの外に出し終えてください。4:50、ホテルロビーに集合し、バスに乗 ってください。いいですか。5:30、マドリッド空港で搭乗開始。5:40、フライト」 「すみません。もういちど」と言いながら、メモを用意する者もいた。 「今、プリントを用意してます。1時間以内に部屋までお届けしますから。…4:00起床。そ して4:30、荷物、ドアの外へ。いいですね」 航空労働者のストライキの様相について話されることはなかった。 ただ、ぼやぼやしているとストライキに巻き込まれてしまう。だからスト開始時刻前に飛 び立たねばならぬ。 まじめさでは世界に名のある私ども日本人は、4時過すには例外なく荷物を出し置き、早 朝バスに誰一人として遅れる者はいなかった。 暗い駐機場の機内はすでにランプが明るく、スチュワーデスがいない代わりに男性職員が いて、機内持ち込みの荷物を軽々と棚に上げていた。 言うまでもないが、何らの支障もなく次の観光地へと早々と飛び、観光日別状程に別状は なかったのだが、<ストとは何ぞや>と考えるとき、判然としないのだった。 ストとは経営者に、現状の労働条件を拒否する、という対抗手段で労働者側の要求を通す ところに、その行使理由がある。 日本語訳も、だから「同盟罷業」だ。 でもこうして航空会社側が予定通りの仕事が果たせてしまえば、少なくとも私たちの乗っ た便は、ストでなくて済んだことになる。 これを一般には「スト破り」という。 だがそこに<判然としない思い>を残すのは、乗客に及ぶ損害についてだ。 公共事業やサービス業など、労資の対抗の外にある者を必然的に巻き込んでしまう。 マルクスの理論は、労資の関係を明確に説き<は>した。そして産業革命で地に墜ちた人 間の尊厳を回復させたのも事実。 だが<労>と<資>の対立する2元だけで論を組み立てているところが、20世紀の前半ま での人類史でならいざ知らず、20世紀後半や21世紀ともなれば、多様な人間存在や各様の行 動様式からくる3つ巴、4つ巴の社会問題の解決には、公理はおろか定理にもならない古び た論理になってしまったのではないか。 学問とは、常に書き換えられる前提に立ってこそ真理に迫れる。 論理とは、必ずアンチテーゼによって展開され、だからこそ弁証法が成り立ち、Aufheben (アウフヘーベン=止揚)が可能となる。
☆ ☆ [その47] Christchurch Family STAY ☆ HTMLのバージョンを宣言する 東京にロングステイクラブができたのは、退職後に海外生活を夢見る有志の結実だった。 私も退職を予定するころからこの会に所属していた。 コスタリカにペンシオナードという制度があり、退職者が制度の条件をクリアーすれば、 住宅が提供される。すでに米国など先進国の退職者はかなりの数が受け入れられており、も ちろん日本人も歓迎されるべくコスタリカ中日大使館、領事館は、詳細なガイド書類を準備 して希望者に対応していた。 私の問い合わせに大使館は大封筒いっぱいの資料を送ってきたし、入会したばかりのロン グステイクラブの先輩会員からも、勧めや励ましの手紙や資料が届けられ、退職にまつわる 事務作業と併行して、私は条件クリアーのための書類作りにも手を着け始めていた。 1993年3月である。 クラブ会員からは2人が<お薦め>の手紙だったが、3人目の方は違っていた。 「世界でいちばん住みよいところ」の著者、鈴木れいこさんのご夫君からの電話だった。 *(この著書、外国旅行好きのお方にはご一読を是非お薦めしたい) 「わたし○○新聞の記者をしてましてね、……コスタリカには2年間住みましたがね.2~3週 間滞在したからって、知ったようなことを吹聴する人がいるんですよ。……この国の実態を 知ってから、お考えになるのがいいですよ」と長いお話を届けてくださった。 ご夫妻、実はスリランカ滞在で宝石研磨を修得され、北海道の白老の研磨アトリエから長 電話でお話しくださったのだった。 折角の自由を得た老後生活のスタートを誤ってはいけない、と私は以後、慎重になること を決め、スリランカ行きを思いとどまった。 人生はいくつもの帰路があるが、このときも大きな分岐点だった。 その秋、ロングステイクラブはクライストチャーチ短期留学を会員に示していた。結果、 15人ほどの参加で実施されることになった。 東京組と大阪(関西)組とが合流し、クリアストチャーチの中心ではなく、東側にある NewBrightonの語学スクールに4週間席を置くPartTimeコースだった。 一行が語学校に入るや、ホストの人たちが待っていて、組み合わせごとに自己紹介をした あと、それぞれが傍へ寄って挨拶する。 私と妻が並んで立つ傍へは、JuneとPeterが来て、妻のJuneが挨拶した。 「Nice to meet you, ……」 その時のシーンは、自分たちの場合しか覚えていない。 二人はすぐJuneとPeterの車に乗っている。 Juneは、「What is your short name ?」と尋ねた。 私は、誤解のないように願うが、国粋主義者でも民族主義者でもない。 ないが、日本人として独自の姓も名も持つ。ロンだのヤスだの、ケイだのサムだのと、 ペットのような呼び名には馴染まない。 「We have no short names.」 場が白けたのかも知れなかった。沈黙の時間。 「Yuta-ka? Keiko, call me June.」、「Call me Peter.」 2人はshort nameを名乗った。 June & Peterの家を、私はwhite houseと名付けた。木造の2階建て、すべてペンキで 真っ白だった。Peterが自身で仕上げるのだそうだ。 入るとすぐ2Fへ案内された。広い部屋にツイン・ベッド。トイレも風呂も、そして執務 机とくつろぎのセット、つまり台所の他はすべてがそこにあった。 荷物を置くと、すぐ階下に降りて台所に入った。 Juneは台所仕事(洗い物や片付け)を当番制にしているので、週2回はやってほしい、 と説明された。洗濯機や洗剤、鍵の在処と外出時の戸締まりと鍵格納場所、私たちも家族と して不自由なく自律できるようにとのオリエンテーリングだった。 こうしてすぐ<家族>になれ、気楽で楽しい3週間が過ごせたのだが、毎日の生活に2つ だけ、不慣れなことがあった。 一つはPeterが帰宅すると、応接間で必ず1杯やる。 文字通りの1杯で、「Yutaka, whisky ? brandy ?」と尋ねる。 彼自身は、いつもウイスキーをシングル、ぐいと飲み干す。 私は日によって適当に言っていたが、<好み>の定まっていない人間は、この人立ちから 見れば、やや奇異なことのようだった。 日本人なら<風呂に入ってくつろぐ>などと言うと同じように、スピリット1杯が気分を 解放させる。 「How was today?(今日はどうだった)」と少しは会話もするが、そんなことはどうでもい いらしく、Peterはすぐ傍らのギターを抱えて唄いだす。 それは敗戦直後、駐留軍放送がよく流していたウエスタンミュージックのようだった。時 にはカウボーイソングなど聴き覚えのある唄もあった。 私たちの様子を見ていて、「You can go upstairs and relax (階上でくつろぐ)?」と 言う。 2、3日すると、私たちの方から、「We'll go up and relax.」と言うようになった。 自らの感情に<スナオ>に従うことを改めて自覚したからだった。 もう一つ異なる生活習慣は、食事前の<祈り>だった。 「いただきます」に代わる祈りがある。クリスチャンではないが、逆らわないことにした。 Juneが祈りを唱え、他は握り拳を重ねて最後に「アーメン」を言う。 Peterが祈る日もある。 そして1週間も経たないうちに、 「Yutaka, you pray this time.」と<おはちが回って>きた。 私が引き受けたのは、この祈りにはパターンがあり、私にもできそうに思えたからだ。 <…今日1日、無事に過ごすことができました。神のお陰を感謝します>を骨組みにして その他、当日あったことのいくつかを交える、という形だった。 妻は、「そんなん、私はできんわ。ちゃんと言うといて」と言い、 「My wife can't speak English, but can pray in mind.」と伝えた。 夕食はミーティングであり、1日のまとめと生きていることへの感謝を以て締めくくる のは、けだし、とてもよい習慣だと感じた。 June & Peterは最初、私たちをモールに案内し、ある大きな衣服の店に入った。2人は ここがとても気に入っているようで、自分たちのあれこれを見て買ったあと、 「とてもいい店ですよ」と利用を勧めた。 気になることもあって店の人に尋ねると、服はすべてがセカンドハンドだった。 私たちは1着だって買わなかったし、買いに来るつもりもなかったが、日本の現状と比較 すると、海外ではリサイクルが当然のように活用されており、人類史の一部として実に良い ことだと感じた。 かつて教職員研修旅行団体でロンドンへ来た時(39歳)も、現地ガイドはまず「2nd Hand Clothes Shop」を案内し、あたかも新品のようにきちんと陳列されているのに感心したこ とがある。 また初めてニューヨークを訪れたとき(59歳)、長女が自分の服を求めるのも兼ねて、この 種の服店へ私を伴った。 日本人は私も含めて衣服のリサイクルに社会的意義を認めにくい。言葉の上でも「古着」 と称し、着「古し」た「用済み」のもののように認識しがちで、2014年の現代でも、名古屋 にこの種の店がなくはないが、きわめて少ない。 食材を買わないから、私たちはモールへ来ても買わねばならない物はなかった。 通学にはバスを使う。 クライストチャーチの中心街は、あの大地震でTVによく映し出された辺りへとそれぞれ異 なる会社のバス路線が放射状に郊外へと通じる。 その1本を利用して、家の近くからNew Brightonまで20分ほど、回数券で乗る。 学校には主に東洋系の学生が在籍していた。香港、マレーシア、シンガポール。スペイン や他のヨーロッパ系もいるにはいた。日本の若者ももちろんいた。 その中に60代の10名ほどが在籍するのだが、もちろん若者と混在(というか同学、同席) はしなかった。aged studentsは1まとめ(1クラス、1コース)。午前中で授業を終える。 午後はない。週に1回ほどactivityがあったが、いわゆるクラブ活動ではない。 近郊を回る小見学旅行だったり、マオリ文化の一部として歌と手慰み、ダンスなどを教わ った。 ハワイアンソングやダンスとどこか共通しており、馴染みやすく、今でも覚えている。 こういう形の在籍は"Part Time"と呼ばれる。まじめに日本語訳すれば「定時制」だが、 日本に実在の定時制高校とは、多くの点でその質が異なるので、私は、<在学時間のすべて に>ではなくて、<部分だけ在学する>コース、つまり Part Time の語をそのまま使う。 誤解が少ないからである。 若い女性先生がこのクラスのすべてを担当した。 テキストを朗読し、発音をチェックし、exerciseや質問があり、テストも宿題もある。 授業展開が実にうまい。飽きさせない、というより緊張感を絶やさない先生だった。 髪のウェーブが、中世音楽家のかつらのように白色の顔を取り囲み、ドラマのアクトレス にも等しい語りが、分かりやすい英語で為された。 exerciseは主に、与えられた語句を用いて例文を作ることだった。 60歳を過ぎた男の述懐だが、授業のこの部分がいちばん好きだった。2日目以降は、次に 指名されたら、<こんな場面>、<こんな考え>を言ってみよう、と期待して臨んでいる。 意外なこともあった。 「Using "can" or "can't(can not)", make sentences.([できる]、[できない]を用い て文章を作りなさい)」 私はすぐ手を挙げた。最初の指名者にはなれなかったが、2番目の指名。 「Can you go abraod ?」 私は大声で答えている。go abroad(海外へ行く)がすぐ連想で きたからだが、先生のコメントがあった。 「In this country this kind of saying is not polite(この国でこういう質問をする のは礼儀に叶っていません)」と。 私は先生のコメントがすぐには理解できなかった。<Why ?>と口先まで出かかったのを 辛うじて止めながら考えた。 挙げ句、理由をこう確信している。 June & Peterも、家族ぐるみで付き合うその友人たちも、ほとんどがスコットランドを 故郷とする。そして故郷へ帰ったりイギリスへ行くことなどは、夢のまた夢、遠く故郷を離 れ地球の南外れに入植し、新天地を拓いてきた。 私のいい加減な英国史の知識でも、産業革命や新天地を求めざるを得ない暗い過去があっ たと認識している。"go abrod"なんて、成金の日本人は平気で口にするが、この地の人に はよほど成功した人以外には、考えも及ばないことなのだろう。 成金日本人が「あんた、海外へ行ける?」とは、失礼で傲慢な質問なのだ。 あるとき New Brighton の町の本屋に私と妻が立ち寄った。私は中に入って高い書架を 順に見ながら掘り出し物を見つけようとしていた。 英文の書籍は本の背に横書きだから、タイトルやテーマを読み取るのに時間が掛かる。 小半時もしてから表に出てみると、外のワゴンセールに雑多に本が積まれている前で店員 さんが妻に何か盛んに言っていた。 まさかトラブルでは、と私が近づくと、店員さん(女性)は開口一番、 「I'm sorry I'm from Ireland. So your wife can't understand my pronunciation (ごめんなさいね。わたしがアイルランド出身で発音が奥さんに理解できなくて……)」と詫 びはじめた。 このことから2つのことが類推できる。アイルランド出身の人たちの劣等感。客には自己 主張を優先しないという外地に生きる苦労の伝統。 私にはここの人たちが、世代に渉っていじらしく思えてきた。 「Don't mind, don't care. I can understand well and I can learn real language from you. Thank you.」 第1週の週末、June & Peter’s には家族ぐるみで付き合いをする友人たちが来ることに なっていた。 当初は、私と妻の歓迎を兼ねてパーティーをするはずのようだったから、3組のスコット ランド夫妻がやってくることになっていた。 「Yutaka,you invite your friends to this party ?」と金曜日の出がけに言われ、私は 学校でみんなにそれを伝えた。 昼休みだった。 私が要件を伝えたあと、みんなはそれぞれのホスト家庭のことを話し始めた。 「ヤブノさんとこが、いちばんいいみたい。台所も当番制でしょ? 友達づきあいに参加す るでしょ?」などと言って、羨ましがった。 不満も多々語られた。例えば男性2人が滞在しているホスト家庭は、 「そこにあるアルコールは、どれをどれだけ飲んでもいいんだ。だが、それ以外は何にもな いね」と言ったり、大阪から来ていた婦人、Aさんは、 「ウットコ(わたしとこ)な、毎晩、カップラーメンなん。ジャーにはご飯、あるよ。ある けど、その他はカップラーメン。毎日、それなん」とこぼした。 私より年上の女性をホストする家庭が、なんとサービスに気が回らないのか、と感じた。 話が時系列からは前後するが、短期留学?を終えるに当たり、ホストを交えたパーティーが 学校で行われた時、私は真っ先にAさんのホストに、 <カップラーメンだけじゃいけませんね>と<言ってやる>気になって近づいた。 ホスト夫妻は、しかし、そんな無教養な人たちには思えなかった。 近づいた私が声を出す前に、向こうから私に訴えることがあった。 「Mrs.△△ we are always anxious about her. She says nothing. What food she likes. What kind of cooking she wishes. We can't understand. How do we do ?」 そのとき初めて気づいたのだが、Aさんは、英語で話しかけられると、何はともあれ、まず は「Oh」と言う。 そして次の言葉が伝えられると、彼女は多分、理解できていないだろうに、例外なく 「Yes, yes」と言う。 つまり「Oh, oh」か「Yes, yes」しか言わない。それでコミュニケーションが成立してい ると認識している。 分かった。私の想像は、ホストの方が、 「何か好きな食べ物は?」と問えば、Aさんが 「Oh,oh」と言い、自らfishともchickenともcabbageとも言わないので、日本人なら カップヌードルを食べるだろうと、 「How about cup noodle ?」と言えば、 「Oh, oh」とか、「Yes, yes」と言っていたに違いない。 若者たちが、しょっちゅうカップルードルで安上がりな食事をしているのを、夫妻はアジ アの好みと理解していたに違いない。 問題はAさんが自己表現する手段を持たず、また自己の欠陥を自覚してもいなかったことに 依るのだ、と感じた。 翌日、fish&shipsが初めて出された、とAさんから聞いた。(話は時系列に戻る) 週末ごとにJune&Peterは友人たちとパーティーを催した。 歌とダンスで盛り上がる。私にも何かするように言われ、私はギターを抱えて唄った。 「I wish I was a sigle again(独身に戻れたら)」というカウボーイソングだが、 「…for I was a single, my pocket would jingle.So I wish I was a single again (なぜならわたしが独身だったとき、ポケットのお金がジャラジャラ鳴ったもんだ)」と唄う ところで、男性がやんやの拍手をした。 女性側は、苦笑いをしたわけではないが、拍手はなかった。 敗戦直後の駐留軍放送が、ひょんなところで<男性の国際親善>に効果をもたらした。 June & Peterが連れて行ってくれた場所に「Labourers' House」という施設があった。 さすが「ゆりかごから墓場まで」、幸せをもたらそうという福祉国家である。日本語訳を すれば、「労働福祉会館」である。 広く大きな建物には1Fに飲み食いする場とスロットルマシンで遊ぶ所とがあった。 私たちもまず<labourer>登録をして中に入り、ジョッキのビールを飲んだ。 Peterはスロットルもうまく、いつもモウケてくる、とJuneが言ったが、その日はしなか った。 地下に降りて行くと大半が広いホールで、ビリヤード台が10面以上も置いてあった。 Peterはキューを執り、慣れた手捌ききで、すでに卓に就いていた仲間とゲームを始めた。 私はゲームを知らない。撞球のテクニックもない。ましてや得点の数え方も分からない。 でもせっかく連れてきてもらって、そっぽを向いているわけにもゆかず、時には、 「you want to let that ball push ?」とか「What situation you want to make ?」 とか言ってはいたが、やがて座を外し、館内のすべてを見て巡った。 ここは、ほんとうの労働福祉会館だった。 労働を終えて、アルコールを飲み、パチンコに興じ、マージャンに賭けて余暇を楽しむ日 本の労働者にとっては、これらの楽しみは巷間に商業として営まれている。例えば、鈴鹿市 でも駅前にはそれらの業種が軒並みに宵の灯火を放っている。 ここクライストチャーチのLabourers'Houseには、それらのすべてが一大建物の中にあっ て、余暇を享受せしめている。 だからPeterをはじめ多くのLabourersが余暇を楽しみに来る。 ここには<ほんとうの>労働者<福祉>会館があった。 日本の労働福祉会館。それは、集会、会議、学習会などオフィシャルな行事や催しにしか 使用できない。しかも、予め場所を予約し、公務員が使用時間を管理し、使用料金を取って いる。 だから季節によっては室が取れなかったり、逆に使用者のない日があったりする。 一労働者が<今日はあそこで楽しもうか>と思う対象の施設ではない。 日本の福祉行政を口にする議員族の見聞が狭いのか、知恵がないのか、名称を真似ても実 体は似て非なるモノであることを知った。 わずか4週間の短期在学にも修学旅行があった。 ニュージランドの自然のすばらしさを満喫したのはもちろんだが、イギリス伝統の技術、 例えばアッシュバートンの家具、造園業や公園の構成、レース編みデザインなどいくつかを 知った。 郊外へ出ると、運転免許のない私だって大型バスが運転できそうに思えるほど交通量は少 なく、湖があれば橋を架けずに道路は大回りをして自然を保護していた。 島の南端にはフィヨルドがあり、船で観光すれば、高所からのカスケードが白線をほとば しらせていた。 近くの岩場にオットセイが憩い、船が立てる波の中へいっせいに跳び込む。 また、観光バスが休憩する場所に限らず、至るところで野生動物が人間を怖れ逃げること はなく、また歯向かいもしない。 原生林には、寄生植物のサルオガセの固まりが乱れた糸を垂らしたり、1センチ角ほどの 細かい葉をたくさん着ける大樹に近寄り、よく観察すると「柏」の樹だったりする。 植物の遠い歴史、変遷を生き抜いた世代の結果を、実感することができた。 June & Peter家の最後の晩餐は、妻の啓子が腕を揮った。 魚屋の海老を解凍して、テーブルの中央に<海老天>の山を盛った。 2組の夫婦が、互いの成果を確認し、喜び合う至上の機会となった。 最終日、空港へ向かうバスを待ちながらあるホステルにいた。 <この何の樹 気になる樹>の歌とともにコマーシャルで見るような樹に似た大木が庭に傘 を拡げていた。楡の木だ、と小父さんは言い、自慢の花木の鉢を並べ、長いホースを地面 に曳きながら潅水していた。 中に赤と白のアサガオのように薄い花びらのバラが、美女の装いで咲いていた。 「What kind od Rose ?」 私は小父さんのそばで花と会話するかのように言った。 小父さんは、 「A, ha ha ha」と笑ったあと、「This rose was improved by Japanese. So it has Japanese name. You try to find it.」 品種改良、日本人の特技はここにも生きていた。 ※Christchurchの話は他の項でもまだいくつかをすることになる。
☆ ☆ [その48] 中国旅行は香港から始まった ☆ HTMLのバージョンを宣言する 退職して海外旅行に精を出しはじめたころ、でも私にとっていわば<鬼門>の国があった。 それは北朝鮮だけではない。中国にもある種の怖れを感じていて、個人旅行の対象にしたい とは思わなかった。 団体ツアーで3度、それでも中国へ行っている。 1、香港→広州→桂林→石林。 2、上海→南昌→武漢。 3、北京→八達嶺→大同→フホホト、 の3コースだった。 自作の旅を試みようと思うようになったのは、フランス語会話を習う際に、偶然、隣の中国語 教室にも入ってみたくなったからである。 名古屋毎日センターで講師をされる董宏俊さんは、博識の中国人学者だった。生徒の大半が 若い人で、週1回の講義を受ける。中途参入ながら私も加わった。 先生はその日ごとにとてもいい例文を拵え、その日のまとめとしてそれを幾度も唱えさせた。 今でも記憶に残るものがある。 「多聴多説、多読多写、是習中文最好的方法」。だから60男も多<聴、説、読、写>に励む。 ことばとは、日常化すれば身に付く、と私は信じている。 そしてこの学修経験が、上海自作旅行を試みることに繋がった。 上海に3泊し、そこから自分で行けるところへ行ってみよう、と決めた。 上海と蘇州を底辺として三角点を作ると、頂点に周荘という水郷がある。 今思えばおかしいが、「シュウソウ」は日本語読み、「ショウジョワン」と発音しないと、 当地では「なに、それ?」ってことになる。 上海でバスの切符を買うのに「ジョウジョワン」と心の中で幾度も練習してから窓口に臨んだ。 翌日午前発のバスを買ったのだが、中国にはそんな用意周到な人はいない、と知らなかった。 「最前面的坐位両張(一番前の席を2枚)」と言って買った。 翌朝、乗ったら最前席にはにはすでにいかつい男がいて、私は切符を見せて、 「這儿我們的(ここ、私たちのです)」と恐る恐る言ったが、彼は、 「后面(うしろ)」と声を発し、私たちが2列目に行けという。 異国で喧嘩もできず、従ったが、2列目の切符を持った人が来たらどうするんだと気になった。 幸いに誰も<退け>とは言ってこなかった。 出発前になるとバスは非常に混んできて、座席はなくなった。 すると車掌はどこからか風呂場のコシカケのようなのを取り出す。すると通路にしゃがむ人が それを使う。 それでも立つ人が何人もあり、車掌に何か大声で文句を言うと、車掌はまた大声で、 「ライライ、ライライ」と鎮まるように手で合図する。 このとき初めて「来」とは「come」の意ばかりではないと知った。 「そこにいなさい」、「そのままいなさい」も「来来」で表現するらしい。 すし詰めバスは、こうして上海を発ち、クリークの多い田舎を走って周荘に着いた。 周荘がどのように優れた水郷であるかは、その方面に関する本を少し開けばいくらでも分かる。 私の文章に期待することはない。 妻は絵を描く。描くのはいいが、描かない私が妻の邪魔もせず自らをも楽しむためにはどうす ればいいのか。そこが問題だ。 水路が十字を結ぶところに空き地があり、妻はそこに<不法侵入>して絵を描き始めた。 日本と違って、<オレの土地に無断で入るな>と言う人はまずない。 そういうせせこましいモラルなんかない。 私は周辺を散歩しようと歩き始めると、すぐ古い中国の街によく見かける高楼のレストランが あり、「万三蹄(ワンサンディー)」と銘打っていた。 その前を通ろうとすると、左手に飯椀を持ち、右手は箸、立ったままでご版を食べながらの恰 幅のいい主婦が、 「入って、食べていって」と私に声を掛けた。 私には食べる気もないのに彼女と話したのは、<立ってメシを喰う>女性に初めて出逢ったか らである。 一言、二言しゃべると、すぐ私を日本人と見破った。 表に黒板を出し、その日のメニューが書かれている。一行ずつ、一言ずつ、彼女が読み、私が あとを真似て唱える。彼女は、<にわか中国語教師>が面白いらしく、ますます大声でメニュー を朗読する。やがて<(料理名)…好吃(おいしい)>と、宣伝文句まで付け加えるのだが、 「好吃」を「ハオツー」と発音する。 私の方は、「好吃」は「ハオチー」が正しい(標準語)だと知っているから、そう言う。 すると彼女は<ほんとうの中国語を教えてやる>という意気込みで、大声の<ハオツー>を発 音する。 自らの発音を方言とも意識せず、何度やっても<ハオツー>と訂正するので、道行く人が笑っ て通り過ぎていった。 この小母さんとは仲良しになった。次回、周荘を訪れたとき、この人の家に1泊したくらいだ。 観光客があまり歩きそうにない裏通りや以前からの田舎道を歩くと、いくつもの注意書きが貼っ てあった。いずれも当局が出しているものだが、表にはほとんど見かけないのに、人が来そうに ないところには、<これほどまで>と思われるほど多量に張り出されていた。 売春の注意、エイズの注意だった。 ここにもこの国の特長が表れていた。 初めての中国、自分旅行でもう1つ面白い経験をしている。 宿泊した飯店は、文字通りレストランも経営している。 ウエイトレスは私たち日本人に興味があるのか、何度も傍に来る。 私は下手な中国語で、そのウエイトレスに、 「可愛的小姐(クーアイダシャオジエ)」と呼び掛ける。 そのうちに彼女も私に、 「可愛的日本人(かわいい日本人)」と呼んでくれるようになり、本来なら無料ではサービスし ないお茶を何度もサービスしてくれた。 近くのテーブルで中国人(2た家族か)が食事をしていた。 小学校に入ったか入らぬかぐらいの少女が、時々立ち歩いて私たちに関心を寄せているらしい が、私にはこの子に話せるほど語彙力がない。 たまたま浮かんだ<ことば>を話してみた。 「Ni jie hun le ma ?(あんた、結婚してるの)」 するとこの幼子が、何かの朗読をしているように、まじめにゆっくり、そしてはっきりとこう 言った。 「Wo hai mei jie hun(私はまだ結婚しておりません)」と。 とても可愛かった。 「巡礼阿波の鳴門」で童女のおつるが、 「あい、とと様の名は、あわの十郎兵衛、かか様の名は、お弓と申します」と台詞を言うあの 舞台で最もいじらしいシーンがある。それを思わせる場面だった。 この老人、いまでも胸をじーんとさせて思い出す。
☆ ☆ [その49] 吉林省龍井市で物乞い ☆ HTMLのバージョンを宣言する シルバーボランティアとして1999年8月〜2001年7月、延辺大学農学院、日本語専科で日本語教師 を勤めた。 このときの見聞記やエッセーは「中国延辺の風景画」として世間に公開させてもらってた。 私以外に7人の中国人日本語教師がいたし、教務(事務)を司る職員もいた。 仲間入り行事(宴会など)は日本より飲食回数もはるかに多い。 中国では「人間関係も生産力」と称し、熱心な<人間関係作り>だと、当初は感心していた。 (やがて、<人間関係>とは縁故や有力者への近づきを意味することが分かるようになった) 9月が新学期、週12時間の授業も軌道に乗り、月給日となった。 振り込み給与は、門前の工商銀行支店の口座に入り、手元には明細書だけが<支給>される。 給料日、職員室で互いが盛んに話していたが、私はまだ雑談が聞き取れるほどforeignerizeでき てはいなかった。 突然、ひとりが私に向かって問うた。 「先生、月給をおいくら支給されましたか」 日本語教師だから正しい日本語で問われた。 「ええ? 私のですか……」 あまりに直接的で周囲への配慮もない質問だったし、その金額がみ んなの中でどんな位置にあるのかも分からなかったので、即答をためらっていた。 「先生、中国では給料がいくらか、お尋ねしたりお答えを公開したりしてもまったくかまわないの ですよ」 たしかにこの国では年齢を平気で尋ね、いわば互いの地肌を出し合って生活している。 例えば、駅などの人混みで見る人の行動には、日本人の私になじみにくいものが散見されるのだ が、いきなりみんなの話題として給料を公開するとなると、私の内面にも乗り越えがたい感情がう ろたえいた。 でも私は自ら志願して外国にボランティアとなった。郷に入らば郷に従え、と諺を示すまでもな く、異国の郷に馴染もうとやってきた。狭い個人感覚を捨て、異質の空気に慣れるべきだろう。 敢えてそう割り切って、 「2100元です」と答えた。 日本語教師室は、一瞬、静かになった。が、年上の人から順に給与の実額を紹介し始めた。 それはこうだった。日本円に直して示そう。 私=3万円 50代半ばの教師=1万5千円 40〜30代の3人=1万2千円〜1万円 大卒間がない最も若い男性教師=7千500円 このあと会話がどう進んだかを覚えていない。でもそのとき私が<厳しく思い知った>ことは間 違いなく記憶に残っている。 1、私は<ボランティア>だとは言えないこと。 2、仲間うちの最高額は、それなりの働きをするべきだ、ということ。 シルバーボランティアという団体に物申したいことを私はいっぱい持っていた。にもかかわらず <この給与>でする仕事を<ここで>ボランティアと称するのはまったく似つかわしくない。 もちろんだが、以後2年間、中国で自分を日本語教師ボランティアとは一度だって言ってない。 冬が来た。零下20度になると聞いていたが、マイナス10度までしか経験しなかった。 零下10度の世界とはいかなるものかを紹介しようか。 休日、風呂の残り湯で洗濯をする。下着など絞って外の物干し要の針金に釣り下げる。洗濯バサ ミで固定しようとすると、何か変だ。固い亡を固定する感じになっている。 外出時には、日本から持ってきたスキー着姿になる。マスクをするから素顔はほとんどない。深 い帽子からはまつげの霜、マスクからは多量の蒸気が湧き口の辺りから下には霜が付く。 当人には分からないが想像はできる。 日本なら「サンタのおじいさん」と呼ばれるだろうが、ここ龍井では、ありったけの衣服を纏っ た惨めな老人に見えるらしい。 ある極寒の日、私はこの<なり>で町を歩き、大通りの真ん中にドラム缶を立てて焼き薯を焼き ながら売る朝鮮族の小母さんを見た。 彼女も私に見劣りしない<なり>をしていた。タオルで頭から頬、顎を覆い、喉元で縛る。もち ろんマスク。おさがりの軍服(外套)に身を包んで、寒風の人通り稀な中で客を待っていた。 焼き薯の匂いは、心を暖め身を魅せる。 私は思わず近づいてしまい、いちばん小さい1個を買おうとしていた。 「這个、一个、几kuai?(これ、1個、いくら)」 私の声がどれくらい<みじめ>だったか、どれくらい<おいぼれて>いたのかは、私に分かるは ずもないし、まさかそう聞こえていたとも想像だにしていない。 「一个一kuai銭。要一个ma ?(1個1元です。1個欲しいの)」と聞き返した。 「要一个(1個欲しい)」 彼女は私が指さした小さいイモを、新聞紙に包んで、代金を待った。 私は大きい手袋を脱ぎ、右脇のポケットからお金を出そうとしたが、そこに財布はなかった。 「等一下ba(ちょっと待って)」 私は左脇にも手を入れ、そこにも財布がないと知った。 右股のポケットに1枚だけ、お札を探り当てて取り出すと、垢で汚れ、しわくちゃに縮こまった 5毛札が左の手袋の上に乗った。 その札を見た小母さんは、「ア、ボ、ジ〜〜」と、哀れみを含んだ声を発した。 <アボジ>は<お父さん>の意味。 この時の感情をことばにしよう。 <まあお父さん、これって、1元の半分の5毛でしょう。これぽっちしかないなんて……> 哀れみと同時に老いて貧しい老人への<慈しみ>も籠められていた。 彼女は5毛を受けとり、寒風に凍える老人に焼き薯を恵んだ。 こうして私は、期せずして物乞い体験をしてしまった。 今私はあの時を思い出し、小母さんの気持ちをどれほど理解できるか、自らを推し量っている。 ああいう小母さんが、中国東北部の貧しい人たちの中だけではなく、北朝鮮にも他地域にも 普遍的におられるのではないかと想像している。 因みに、「サツマイモ」のことを朝鮮語では「コグマー」と言う。 当初、私は日本人が「サツマ」から入ったイモ、<サツマイモ>と言うのを、朝鮮半島では 「クマ(熊本)」からだとして命名しているのかも、と誤解していた。 正しくは「孝行イモ」の意味だと知った。 小母さんの慈愛の証拠は、スキーウエアーのポケットに暖かいままで専家楼の部屋まで持ち帰り 留め置かれ、数日間、私の宝になった。
☆ ☆ [その50] 吉林省龍井、農夫の心根 ☆ HTMLのバージョンを宣言する 私が農家育ちだからだろうか、農家も農地も農作物も、そして人にもよく会った。 いや、人だけではない。牛にも羊にもよく出逢った。 田豊(ティエン・フォン)さんと知り合ったのは、畑で見かける瓜(グワ)をある農家に買いに行っ たことからだった。 そこの小父さんは、私が手にした瓜を秤に掛け、少しも負けることなく市価で代金を請求した。 家に帰って食べると、甘くない、うまくない。ばかりか、よく熟れていないのもあった。 数日後、小父さんの家には寄らずに、もっと村の奥の、ビニールハウスのある家を訪ねたとき、 その家の主、田豊さんは、 「家に入って休んでいきなさい」と呼び掛け、奥さんと2人で話し相手になってくれた。 私たちより10歳ぐらい年長だった。 広い土間に接する第一の部屋は、応接間だろう。半分は三和土(たたき)、残りの半分は腰の高さ の床(ゆか)になっていて、その下を竈の煙が通る。 ここが仮に朝鮮族の家なら、部屋の下のすべてを竈の煙が通り、「オンドル」と称する。 田さんは漢族だから、オンドルは部屋の半分だけ施されていて、ベッドはこの暖房の上になる。 最初訪問したした時にすっかり仲良くなってしまった。<ひとみしり>の強い私がこんなにすぐ 心を許す友人ができたことも珍しい。 「農学院、工資多少?(農学員の給料はいくら)」 私は即座に答えた。 「二千一(2千100元)」 それを聞くや田さんは、「あーーっ」と声を絞った。 言葉に直せば、<ああ可哀想に>、または<ああ嘆かわしい>だろう。 何故そう感じるのかと問う間もない。 「我毎早采農産斌、去市場売(わしは毎朝作物を売りに出すが)七百(700元の収入)。三天売二千 一百(3日で2100元売り上げる)」 なるほど田さんは、その頃もう言わなくなっていた名称の<万元戸>なのだろう。 <大学職員が3日分の給料しか貰っていないとは、何とも嘆かわしい>のだった。 そしてその嘆かわしい給料に甘んじている外国人教師が、日本語専科では最高額受給者だった。 「この間、そこの農家で瓜を買いました」と私。 「ああ、あのケチはいかん。あんなのから買ったらダメ。これからはわしに言いなさい」 漢族同士、農民同士でも互いに悪口を言い合うなんて、私が少年時代から知る日本の故郷と少し も変わらない。むしろそういう<いがみ合いの世界>に生きる懐かしさをも感じていた。 辞去するとき、「トマトをあげよう」と言って、ビニールハウスへ入っていった。 出てきた田さんの前掛けと奥さんの手籠に入っていたトマトは、今までどこで見たのよりも大き く、子どもの頭ほどもあった。 「Wa--、ヘンたーダ、 ちょーモたーダ(こんなに大きいの)」と驚きを伝えると、 「ウォーメいツァおまイダいィやン(毎朝売ってるのと同じさ)」と言い、 「2人ではそんなに食べられないから(我們只有両个人、吃不完)」と断っても7個も持たせた。 ビニール袋3つに分け入れて持ち帰り、何日も味わった。 秋、白菜(白才と書く人もいる)の時期になって、また大株のを7個、まるで荷役のように担いで 帰った。 食べきれないので、専家楼の小母さんにもあげた。 訪問時に私は努力をして中国語を話す。 すると田さんは、必ず、 「ラオし、チンしゅおりイユぅバ(先生、日本語話してよ)。うォーブーほエしゅおラ(私は話せ なくなっているが)、クぅイぃしゃンチラい(思い出せるから)」 半世紀前、国民学校で日本語を<厳しく>教わった。そのころの思い出を、私と妻の日本語を聴 けば、懐かしく思い出すことができる。 田さんはそう言っているのだった。 私には国民学校の先輩とも感じる田さんの一人息子は、しかし大収入源のビニールハウスを引き 継がなかった。 その若嫁さんが先に延吉の街ではたらくようになり、やがて一人息子も都会に仕事を得て家を出 て行った。 農村が廃れ、自然が壊れてゆく21世紀は、人類史の視点で目を反らしてはいけない深刻な問題が ここでも顕在化してきていた。