[コンテンツ] 51〜60 ☆ 51、養殖産業とガマガエル ☆ ☆ 52、ユダヤ人八百屋とVolks Oper ☆ ☆ 53、龍井の病院と診察の秘訣 ☆ ☆ 54、ローマ駅で夜行列車を待ちながら ☆ ☆ 55、ニューヨークの強制チップ ☆ ☆ 56、理想の女友達は国際人、オスロで再会 ☆ ☆ 57、鉄道旅は船の上、コペンハーゲンへ☆ ☆ 58、北欧の福祉国家見聞 ヘルシンキ☆ ☆ 59、港と王宮の街、コペンハーゲン☆ ☆ 60、エルミタージュはフランス語☆ [コンテンツ]61〜70へは ここをクリックください
☆ ☆ [その51] 養殖産業とガマガエル ☆ HTMLのバージョンを宣言する (※文中の中国語、平仮名は高く、カタカナは低く発音する) 吉林省延辺大学農学院の冬休み明け、校舎裏の狭い庭にビニールで覆われた場所を発見した。 校舎の窓の隙間から水道ホースが出てビニールハウスに入っている。 何かの播種があり、発芽の後の水遣りかなと思っていた。 4月、遅い春が来て、時々ビニールの覆いをめくるようになった。 中には30cm幅の細い畝と溝とが作られてあったが、何の苗も生えてはいなかった。 やがて溝の水にうごめくモノを見るようになる。 オタマジャクシだった。 「ちょゥしーシェんま?(これなんですか)」 農学院には研究員や作業員(工人)がいる。その1人に尋ねると、 「はーマー」と答えた。 「はーマー、しーシェんま?(ハーマーって何)」 ハーマーとは、トノサマガエルより小さく、日本の田舎でよく見かける土色のカエルに似ていた。ここで はトノサマガエルを「青蛙(ちんわ)」と言い、土色ガエルは「はーマー」と言う。 そして、大抵の市場ではこれを生きたままで売っている。容器には網が掛けられてあり、客はイキのいいの を選って買って行く。 ハーマーは普段、森や山に生息するが、春先には里山に下りてきて、小川や水溜まりに産卵する。 オタマジャクシは水中で育ち、手を生やし脚を伸ばしたあと陸に上がる。 最近、各種海水産物養殖の技術でめざましいのは日本だが、カエルの養殖では実を上げるのはおろか、 手がけているのさえ聞いたことがない。 私には初めて知る養殖だった。 カエルを食べる<文化>を背景に成り立つ新しい農水産技術だった。 ビニールハウスに庇護され、農生物学者の知恵と支援で育った若いカエルは、初夏、大量に裏山へ放たれ る。 翌年の春浅い日に山から下りてくるのを、河を溯るサケを迎える日本人と同じ思いで捕らえる地元民の心 情に、潤いをもたらすだろう。 21世紀の農林水産業は、ここでも時と共に更新され、進歩を遂げていることを報告する。 また、それだけに留まらない私の仮説も、人類史的な大きな視野で受け止めて欲しいがために、ここに付 記する。 「ハーマー」。高低を付けて記せば「はーマー」、日本人の皆さんに何か思い当たることばはないだろうか。 カエル(蛙)にはいくつかの種類がある。私の知るものをすべて記そう。 「あかーガエル」、「あおーガエル」、「とのさまーガエル」、「いぼーガエル」、「つちーガエル」、 「うしーガエル」、「あまーガエル」、「もりあおーガエル」。 何か忘れていないだろうか。そうだ、「がまーガエル」である。 この「がま」はいかなる意味か。語源学者の説を、私は信じない。ちょっと調べれば分かる。信じるに 足りない語源を言っている。私はそれを虚信という。証拠が示せなければ、それらしい推定の材料がいる。 「ハーマー」という「カエル」、つまり「ハーマーガエル」。 人類がかつて国境とか国益とか民族とか、もともと区別も差異もあるはずがなかったことを、せいぜい ごく最近の1万年ぐらいから互いがみ合うようになったが、そういう「人類いがみ合い」代の以前、 「がまーガエル」や「サヨリ」、「あか」、「オレ」など探せばいくらでも見つかりそうだが、地表上で広 く通じ合っていたことばが今も残っている。 もちろん私の仮説だが、語源学者の謂いより確かである。 「サヨリ」は「チョンヲリ(小さい魚、韓国・朝鮮語)」、「あか(閼伽=例、閼伽棚、あかをかえる=船のこ とば)」、「オレ(われ、自称)」は「ウリ(朝鮮・韓国語)」 ついでに文法について言おう。 単語だけを日本語と同じように並べさえすれば、りっぱにその国のことばになる。 つまりword orderがすっかり同じ言語が、私の知る範囲でいくつもある。 スリランカのシンハラ語、韓国・朝鮮語、満州語、蒙古語。 中国の東北部やシベリアに、その民族名さえ消えてしまった人たちにも、同じ文法、同じ思考法、同じ感 覚法を持っていた人たちが、数多くいたに違いない。 遠くはハンガリー語、フィンランド語も同様だと聞く。 旧約聖書の「創世記」にバベルの塔の言い伝えがある。 その時まで互いに連帯感を有し協力し合っていた人類が、神の罰により通じあえなくなった理由は何だっ たのか。 温故知新を言うは易し。 現代人は先人の経験から教訓を得ることを忘れてはいけない。
☆ ☆ [その52] ユダヤ人八百屋とVolks Oper ☆ HTMLのバージョンを宣言する ウィーンの宿が、外見は倉庫のようだったが、バスタブの大きさをはじめ、他も何かと快く、10日間を楽し く過ごせた。 本物の音楽を楽しみに来たのだから、コンサートはこの時すでに3会場を味わっていた。 ウィーンににはシュタット・オーパーとフォルクス・オーパーの2つ、オペラ座がある。 初めて得た知識だが、ここでは「オペラ」とは言わず、「オーパー」と言う。 映画などでよく見る豪華オペラ劇場で至上の音楽を聴きたいと、まずシュタット・オーパーへ入場券を買い に行った。 「シュタット=Stadt」とはドイツ語で「国」の意味。「 National Opera Theatre」である。 何とまあ、今期(この年)いっぱいチケットはない、と言われ、諦めようとしたとき、 「You go to Volks Oper, you can get the tickets. You can enjoy "Wiener Brut" 」と窓口係が教え てくれた。チラシまで1枚もらった。 「Operetta "Wiener Brut"」とあり、「Yohan Straus in his Youth」とも書いてあった。 Wiener Brutは「ウィーン魂」と訳されているが、「江戸っ子」とか「パリジャン」、「テキサス魂」と言う のと同じく、「気質」や「かたぎ」を表すことばで、音楽の都市、ウィーン人の心意気をヨハン・シュトラウ スの音楽に載せ、つまりウィーンかたぎを演出するオペレッタだと理解できた。ウィンナ・ワルツ、とりわけ ヨハン・シュトラウスの曲は、選ぶところを知らないほど私たち2人は大好きだ。 「行こう」、その場で行き方を尋ね、路面電車で難なく行き着けた。 外国の街で初めての場所をたずねるのに、こんなにたやすく行けたのも珍しい。 Volks Oper前の階段を上がって大きな建物の正面に入ると、ロビー脇にすぐチケットの窓口があった。 「Tomorrow's Matinee, 2 persons」と言ってみた。 すぐ示された座席図の、1階席はすべて赤くチェックされていた。 「2nd floor ?」と、係は私の顔色を窺っている。 「Yes」と言いながら見ると、いいところがあった。中央部分、1階席真ん中、真上にせり出した部分の、前 から2列目が空いていた。 「These 2 seats, please」 2人で6000円ほどのいい席がとれたことに大満足、帰路の路面電車も快く走った。 どこでどうやって聞き知ったのだろうか、不可解だが、翌日、外出前に妻と2人がフロントへ鍵を部屋の預 けるとき、2人の男性(60後半か)がそこにいて、 「We'll go together to Volks Oper with you(フォルクス・オーパーへ一緒に行きましょう)」と言った。 私は訳が分からなかったので返事もしなかった。 2人はかまわず同じエレベーターに乗り、同じ路面電車に乗った。その途上、話しかけたことを記そう。 「私たち、ユダヤ人だ。イスラエルから来た。60年前、私たちはウィーンに住んで八百屋をしていた。戦争か ら逃げ、終わった時からイスラエルにいる。でも毎年1回はもと住んでいたところを見に来る」と。 オーストリアは、今のドイツよりドイツ人の構成比は高く、96%とはみんながドイツ人とも言える社会で、 かつて<ヒットラー・ユーゲント様様の時代>、アンネ・フランクちゃんやオットーさんのようにユダヤ人狩 りを怖れ、私財を見捨ててひたすら生き抜けたのだろう。 私はもっぱら聞き役に回っていた。珍しいことだが、人類史に深く残る非道な時代の生き証人が私に親しく 話している。「Oh」が「Yes」意外にどんな言葉が思いつくだろうか。 思い出すだにおぞましい体験だった に違いないが、半世紀を経て、私たち人間存在はどういう心の歴史を引きずるのだろうか。 生まれ育った「原点」へ回帰する心。内面に発見する「ふるさとかたぎ」、恩讐とは次元も質も異なる音楽 の魅力。 いずれも私の想像と類推からだが、Volks Operへ私たち異国の人を、喜んで案内する2人の<もてなし> の気持ちを、私は体いっぱいに受け止めていた。 「ドラマの筋が分からなくてもいいだろう? オペレッタなんだから、ほとんどが歌だよ。音楽を楽しめばい いんだから」 私たちは予めそう言い合っていたのは、的外れだはなかった。 しかもすべてドイツ語で語られる台詞さえも、<言葉を超えて>理解できたのだった。 シュトラウスの青 春が、無駄なく表現され、歌いだされ、演奏された。 さらにはこの2階席は、大大大満足だった。1、会場のすべてが見えること。観客の反応も、オーケストラ のすべて、つまり指揮者や第一バイオリンから最後部のパーカッション部、ハープまで、全部が見えたこと。 2、天井桟敷を見上げる角度からではなく、やや視線を上げる程度で近くに見えたこと。 この日、某国の皇太子が演奏開始の直前に、10人ほどの<随員>が」両脇に立ったあと、着席となった。 指揮者がまず一礼する。 昔なら楽団員も観客も、<一同、起立、(礼)>となるのだろうが、指揮者以外には特別な儀礼はなかった。 でもオーケストラにも出演者にも、まったく緊張感はなく、若き日のシュトラウスが舞台を狭し活躍してい た。 緊張感が異常に溢れていたのは、<その>桟敷席だけだった。皇太子の随員は直立不動を保ったからだ。 <ああ。映画で知る天井桟敷を、今自分の目で見ている>と感じていた。 でもやがてそちらへの関心は薄らぎ、舞台とオーケストラとに注意は集中されていった。どのウィンナワル ツもどの歌も、ニューイヤーコンサートの何倍もの情感を余さず私に伝え始めていた。 意外なことに聴衆の中に写真を撮る人がいた。1人や2人ではない。私にも<この場面を撮りたい>と誘惑 に駆られるとき、例外なく誰かがカメラを操作していた。 そしてそれらは、日本でなら<ご法度>と意識されているのに、ここでは何でもなかった。周囲の誰も非難 の眼を向けていなかった。 堪能した。聴衆の拍手が長く続くと、指揮者も、そしてオーケストラ団員もともに謝意を返した。 醒めやらぬ感情のまま表に出てくると、ユダヤ人の元八百屋さんが待っていた。 「どうでした?」 「もう言えないほど大満足」という趣旨のことばを返すと、 「そうでしょう。私もですよ。また機会があったらご一緒しましょ」 フロントで鍵を受けとってそれぞれの部屋へと別れるまで、一緒だった。
☆ ☆ [その53] 龍井の病院と診察の秘訣 ☆ HTMLのバージョンを宣言する ※平がなは高く、カタカナは低く発音する 龍井は「ロんジん」と発音する、龍井茶(ロんジんチャあ)の龍井と同じ発音だが、後者の方は浙江省、今か ら語るのは吉林省の龍井市である。 市の中央に龍が飛び去った伝説の井戸と公園があり、すぐそばに市でいちばん大きい病院がある。 延辺大学農学院は龍井市にあった。日本語専科で1年半が経った私に、もう収束していたはずのメニエル氏 病の発作を再びときどき来すようになった。 すでに妻もこの任地に来て同居していたのに、意識下の私にどんなストレスがあったのだろうか。 ある時、講義中に<世界が回り>始めた。 専家楼で休養しようと、妻にすがってよろよろと教務に事情を申し出るとき、科長の廉さんが、 「ニんちゅイかンびンバ(病院で診てもらったら)」と言い、さっそく最年長の白(パい)さんに、「たイちゅイ ダハお(連れて行ったら)」と指示した。 タクシー10分ほどで病院へ着く。 ところで読者各位は、病院へ行かれたらまず何をなさるだろうか。 中国では総合病院にある各診察科目のうち日本と異なる科もある。例えば「婦人科」は「婦女科」、 「歯科」は「牙科」。でも「内科」は「内科」。同じ名称もあれば、やや異なったのもある。 大きな違いは名称ではなく、内容だろう。 「婦女科」でも「西医」の婦女科と「中医」の婦女科とがある。「西医」とは西洋医学、「中医」とは漢方医 学だ。 受付窓口上方に掲示があり、各科それぞれ10人ほどの先生の写真がある。 下側にその名前と職名、専門分野が記されてある。 患者は窓口係へ診察を申し出る前に、何科の誰先生に診察をお願いするかを決める。 患者の個票が備えられていて、そこに「科」と「先生名」、そして「患者名」、「生年月日」を記入する。 だがなんと、これからが大変なのだ。しかも並みの大変さではない。 受付へ行ってみよう。片手がやっと入るぐらいの半円の窓口がある。ガラスだから中にいる受付担当者の姿 は見えている。声もうよく聞こえる。でも大変なのだ。 私が外国人だからか。そうでもあり、またそうでもない。 受付に5毛(1元の半分、約7円)の手数料が要る。 だから5毛札と先ほど氏名年齢を記入した診察票とを持って列の後ろに並ぶ。 まだ視野がゆるやかに左旋回する気分悪さに堪え、しばし待った後で、やっと自分の番が来たとき、 「チンうェンイーしゃァ(すみません)」と言いながら半円の小窓に手を入れる時、後ろかどこかから驚くべき 素早さで見知らぬ手が突き出され、私の手を追い抜き、係員の顔の先に大げさな揺れを示しながら、受付を主 張求する。 すると係員は鼻先のハエを追うように、その5毛札と診察票を取り、受付印を押して返す。 見事な<1人抜き>だ。 驚きのためにうろたえていてはいけない。私も負けじと素早く出さないと、次の誰かにまた<やられ>てし まう。 だから私はとっさの判断で身体が大きいのを有利に、半円の窓口へ身体ごとへばりつき、後ろへも横へも <不正な>手を防ぎながら、私の腕を担当者の顔のすぐ傍に差し出した。 この国は病院に限らない。私の知る順番を待つ窓口はすべてこの通りで、列車の切符を買うときなんか、 日付、行き先、2枚、を明記した紙を用意して、妻と2人で窓口に貼り付くことにしている。それでも思いが けない手が窓口に滑り込み、後ろから先に大声で叫ばれてしまうことがあったりする。 酷い記憶の例は、瀋陽で公衆電話の番を待っていたとき、利用者のあまり傍で待っていては話を聞いて しまう、と少し間を空けていたのが災いし、前の人が終わってすぐ手を伸ばすイトマもあらばこそ、20代女性 が身体ごと割り込んできて、受話器をすばやく握った。 数秒間はあきれてぽかんとしていた私たちは、驚くべき闖入者の通話が終わるのを待つ気もなくなり、要件 さえ捨てる気になった。 都会の婦人用トイレでの出来事など、語れば、あなたの驚きを越えるだろう。 話を戻そう。 こうして受付が済むとB5版ほどのカルテふう冊子をもらい「2楼3号(2階の3号室です)」と言われる。 診察室には60歳前のベテラン医師が、今しも診察していた。 部屋の内部に仕切などなく、先生に向き合う患者のすぐ後ろに10人ほどが診察を待っている。医師の質問も 患者の愁訴もすっかり聞こえるだけでなく、肌を曝し日常生活や苦しみの実態を公開したままで、治療も次回 の予約も行われる。 内科でなくて婦女科や泌尿器科はどうなっているのだろうか。 先生は私が外国人なので特別扱いをした。先客を<10人抜き>して、診察の椅子に座るように指示した。 ここが日本なら<お先に>、<申し訳ありません>とみなさんに断りを言うべき場面だとは承知しながら、 何も断りなく診察を受け始めた。 白さんがすぐ後ろに付き添ってくれて、通訳の役割も果たしてくれた。 「どうされましたか」 「メニエル死病の発作で、時々、めまいがします。今もしています」 先生はぶ厚い医学書を取り出し、広げた項目は4文字で「梅尼爾病」とあり、2頁に渉って記述があった。 先生は1、2分をかけて読んだ後、 「いつごろから、どんなのですか。浮遊感ですか回転感ですか」と問うた。 「49歳の時、急に発症しました。数年後、落ち着き、医師からは慣れるように言われ、ここ数年は忘れていた のです。10日ほど前から1週間に1度くらい発作を起こします。眠ると治るのですが、突然、予兆なく来る発 作に困ります」 「分かりました」 脈を診、聴診器を当て、深呼吸をさせた後、 「処方箋を書きます。毎日飲んでください。10日分です」と言って、終わりになった。 1階の受付と向かい合う大きい台を正面にしつらえた薬房があった。 処方箋を出すと、<待ってください>とも言わず、白衣の女性は奥に入っていった。 座るところもない。しゃがんだり凭れたりして待つ約30分。 <この字はどう読むのか>という顔付きで白衣女性が出てきた。 「藪」の字を中国で正しく読む人は少ない。数[しゅゥ、またはシュー=かず、または数えるの意]に読み違え る。 「藪」は「ソう=くさむらの意」である。 白衣女性は「ソうイえ」と読めなかったのだろう。また2字の姓が稀なことも読みにくい原因でもあろう。 「ウオーだま?(私のですか)」と手を出すと、やっと笑顔を作って手渡した。スーパーマーケットで買い物を 客がよく使う大きなビニール袋が2つもあった。 「5種あります。毎回各種1袋ずつ、3食後に各1回ずつ、飲んでください。炊飯器を使うのがいいですよ」 と言った。 1袋の大きさが、日本の煎じ薬の比ではない。「千成もなか」が2つ入ったぐらいの袋が5種、その10日分 は両手でビニール袋を提げるほどだった。 「とぅおシャおチェん?(いくら)」 「イーぱイ(百元です)」 ふた抱えの煎じ薬が、約150円とは。 専家楼に帰り、ご飯を他へ移した炊飯器に薬袋とたっぷりの水を入れ、スイッチを入れて数十分、漢方薬の 匂いが部屋に立ち込める。 だからと、ご飯のときの倍ぐらい煮て、それから飲んだ。 1度の量、ほぼ丼に2杯。 薬の材料は何だろうと、私は知る知識の限りで調べると、甘草、葛根、何かの藻類、茯苓(ぶくりょう=松 の根の瘤)、名を知らない草や根、木片があった。なんだか見当も付かない物もあった。何かの土らしい物、 白壁の漆喰部分を割ったようなもの。 でも、しばしば起こる発作に困っていた私は、すっかりこの薬にすがる気になっていて、毎日、丼6杯の苦 い煎じ薬を飲み尽くしていた。良薬は口に苦し、と。 10日経ち、煎じ薬を飲み終えた。 だが1週間経たないうちにまた発作があり、今度は白さんのお世話にならずに、妻と2人だけで診察を受け に行った。 また他の患者を抜いて、真っ先の診察となったとき、 「ラオし、ハいメいじープハお(先生、まだ治らないです)」と言うと、 「漢方は病気を治すと言うよりも、体質を変えるものです」と諭され、前回より2割も多く薬を貰ってくるこ とになった。 もちろんだが、シルバーボランティアは私に医療保険を掛けていた。 私は、だから領収書を保管している。 でも保険を申請するには、220元(1800円)では少額過ぎた。 この2ヶ月後、私は2ヶ年の任を果たして帰国した。
☆ ☆ [その54] ローマ駅で夜行列車を待ちながら ☆ HTMLのバージョンを宣言する ローマのテルミナ駅で夜中に出る列車を待っていた。 待合室がどこにあるのか、ないのかも知らなかったし、ユーレイル・パスは!st classだが座席指定ではな い。列車が構内に入ってきたら、いち早く乗りたい。 そんなわけで出発ホームのいい場所で待とうと見回すと、あった。 8角の座り場があり、そこに座った。左隣は母娘の2人連れで、娘は30歳ぐらい。薄暗いホームに時々列車 が入ってきて、しばらくすると機関車だけを残し、再び出て行く。 電光掲示板は、私たちが乗ろうとしているミラノ行きより、まだ3時間も早い列車を表示していた。 何がきっかけだったか、 「どちらまで(Where are you going ?)」と話しかけると、 「Milano Centrale(ミラノ中央駅)」と、緩慢すぎるとも言えそうな緩やかさで、娘さんが<ねんばり> と答えた。 私の先入観的概念だが、こんなにゆっくり話す人に悪人はいない。 気を許して話す気になった。 彼女は中学校の理科の先生をしている。7月、バカンスを利用し、母を伴ってミラノやジェノワを旅する。 「どこから(Where are you from ?)」 「アルベロベッロ」 イタリー語は終わりから2つ目の音節にアクセントがある。 この単語に3秒ぐらいを掛けて発音される柔らかい女性ことばを想像されたい。お菓子で言えばマシュマロ のような、バースデーケーキの台のカステーラをゆっくり味わうような<感情>が滲み出てくる。 今回の旅はナポリ、ポンペイやソレントより南に下がる予定はなかった。 でもこんなに身近に<アルベロべッロ>のことばを聞いて、いつかどうしても行かねばならぬ気になった。 「ブリンディーシーの港は近いの」 森鴎外の「舞姫」、豊太郎は横浜から船でここまでは船旅。ここから陸路でベルリンに向かった。 留学終えて帰国時も同じくここから乗船するが、ヱリスを置き去りにし、自分だけが帰国する自責の念は、 出港を告げるドラの音で最高潮に達したに違いない。 私が今度来る時は、長靴半島の右側(東側)を下ろうと思って問うたのだった。 「It takes about 2 hours. But there are only few trains.」 多分、車輌内はローカル色に溢れ、これぞ地肌のイタリー人という感じの人々が乗っているだろう。 「Are there nice hotels in アルベロベッロ for foreigner ?」 「Yes, , yes」 「Can easily find them ?」 「Naturally --, when you come to アルベロベッロ, , you call me, --this is my telephone No.」 名画、「終着駅」のシーンの只中にあって、もの柔らかな女先生と静かに会話していた。 ロマン色の旅が 近い未来にもう1度、想像されながら、列車が入って来るまで、時にはぼつりぼつりと、時には互いの故郷を じっくりと語る。 女性のママンは一言も話さなかったが、2人の会話すべてに耳を傾けていた。 娘が夫に恵まれていないことを寂しく思い、今、何らかの満足感に浸っているのではなかったか。 やっと列車が入ってきて立ち上がったとき、私たちは再会を約し、それぞれの車輌へと別れた。 帰国後、何度かメールのやり取りをしていた。 今2014年。外国旅行はもう私の人生にはないと思っているが、あの独特の姿をしたアルベロベッロの家々 が心残りになっている。 あの母娘も、あの風変わりな街のどこかで、緩やかな生活を楽しんでいるだろうか。
☆ ☆ [その55] ニューヨークの強制チップ ☆ HTMLのバージョンを宣言する ※平がなは高く、カタカナは低く発音する パック旅行ではガイドがチップ(tip)を置くように事前にも旅行中にも再三指導する。 主に個人旅行をするようになってから、そのような指導のほとんどを疑うようになった。 もちろんチップを主な収入とするサービス業もあり、全部を否定するものではないが、例えば「枕チップ」 など本気にしてはいけない。 日本でも当然になっているように宿泊料を言うとき、例外なくサービス料を含んでいる。さらには消費税や 付加価値税など、つまりは宿泊にはさまざまなサービスが必ずくっついている。 でも例外的に、部屋へ飲食物の提供を頼んだり、普通にはない何かを頼めば、それ相応のチップを弾 むのは当然だろうが、それでも今はたいていの場合、チェックアウト時に「ルームサービス料」が加算される のだから、チップを払えば二重払いになる。 tipは、強いて日本語に訳せば、「心づけ」か「祝儀」と呼ばれようが、世界的にはそんな<尊い>もの ではない。身分社会で地位も名も産もある人たちと、無産で恵みやお情けに縋って生きる下僕、下部など 下層の人々。この」両者があって成り立つ授受の関係だから、本質的に現代社会にはなじんではならない。 手数料、使用料などと資本主義制度になじむ、つまり授受関係から雇用関係、つまり労資と理解でき る関係になっていなければいけないのだ。 今でもフランス語では「pour voir(飲むために)」と言い、中国語では「酒銭(ジョうチェん=酒代)」と 言っている。 某ホテルに連泊した時、リネン交換時に見つけるだろうと、枕チップを置いたことがあった。でも夕刻、 帰ってくると、忘れ物(あるいは失せ物)を見つけておきましたよ、とデスクの上にメモと共にお金が置いて あった経験がある。 ニューヨークでは、1週間の滞在中、1日に1回は外食をしている。 コートディヴォアール出身のバヒロ君は、日本人の私に米飯料理を食べさせようとソーホーの中国料理店へ 伴った。 関連を調べたことはないのだが、ロンドンにもソーホーがあり、中華街がある。 軒並みあるChinese Cookingの1軒に入った。 私には安心できそうな食品の<おきまり>があって、「麻婆豆腐」、「八宝菜」、「炒飯」ぐらいを食べた のだったか。 店長(老板)は女性主人のようで、さりげなく見回っているふりでテーブルの間を歩いていた。 私の傍まで来て、「ニんハお」と挨拶され、もちろん私も中国語でことばを帰していたが、ここの麻婆豆腐 はピリ辛感がよく、本国でなら「麻辣豆腐(マあらアどゥフ)」と呼ばれるべき本格的味がしていた。 「ヘんハオちー(とても美味しい)、とォビえちょォガ(特にこれが)」と料理を指さして言うと、 「ハおハお(結構ですね)、しエしエ(ありがとうございます)」と笑顔で日本ふうのお辞儀をしたのだった。 食べ終わって店を出る。 バヒロ君のおごりで、すでに数メートル先にいる私に追いついてきた。 車へと向かうとき、学生アルバイトかっこうの中国人学生が走ってきて、バヒロ君に何か言った。 英語に違いないのだが、私には分からなかった。 2分以上も話してから、アルバイト学生は戻っていった。 「何だったの?」 「チップをもらってない、って言うんです」 「え? チップって、必ず出すの?」 「いいえ。そんなことはないのです。…何故かって尋ねたら、あなたのお客さんが“美味しいと褒めた”っ て言うんですよ」 「それで払ったの?」 「いいえ。次回から払うよ、と言ってやりました」 お世辞は言うものではない。時に誤った情報を伝える。 女主人に「好吃(おいしい)」と言ったために、<あの人にチップをもらっておいで>とか<お前の収入は チップなんだから>などと言われ、走ってきて請求したのだろう。 ニューヨークへは2回、それぞれ1週間ずつ行っている。 チップは1度も払ってないし、請求されたのはこの中国料理店だけだった。
☆ ☆ [その56] 理想の女友達は国際人、オスロで再会 ☆ HTMLのバージョンを宣言する ※平がなは高く、カタカナは低く発音する 半世紀前、私が若かった頃にもガール・ハントという言葉があった。言葉だけではない。スリリングな 「行動」があった。 若い本人にはスリリングでも、世間では<ありふれた>行動だったはずだ。 でも77歳の私が<した>とか<しでかした>となると、スリリングであるのはもちろんのこと、信じがた い出来事だろう。 その信じがたい出来事が起こったのは、77歳の春、桜の頃、吉野だったのだから、伊勢物語、源氏物語の 中の一挿話にもなりそうである。 4月10日、<花の吉野>を鑑賞しようと妻と二人、近鉄の八木、畝傍で乗り換え、吉野口から根本中堂前 を通って<一目千本>を目指して登って行った。 残念な日だった。天気は申し分なく、山道も間違えずに<然るべき>見晴らしのいい場所へ来たのに、こ の年の桜は遅れていて、<一目千本>はおろか<全山花を見ず>の場所に立ったのだった。いや厳密に言お う。視野の下の方の遠くに1本だけず桜を見つけた。翌日と日を変えていたら、景色は大きく変化したに違 いなかったが、いくら想像好きの私だって、この景色に千本桜を重ねるほど目は老化していない。 落胆をしばし慰めるべく寄った土産屋で、何も買わない私は3人の娘さんを見つけた。 金髪の西洋人、 黒髪の東洋人。近づいて声を掛けた。 「どこの国のお方?」 「イギリスから」 もう一人の娘さんは、この時は答えなかった。日本人だった。 「私ね、来月の今頃、北欧を旅行している」と私が言ったとき、目を輝かせた東洋人女性が話し出した。 イーワイさんと言った。 「私、ノルウェーの中央銀行に勤めていて、オスロにいます」 「ワー、なんて幸運。オスロにいいホテルある? いろいろ教えてほしいこともあるんだけど」と言うと、 「どうぞなんでも。ホテルでもオスロの観光でも」と言い合って、メイル・アドレスを交換したのだった。 自慢のつもりではないが、すべて英語でした会話で、この3人娘、大阪の空港で即席にできたできた友人 だと言った。日本人の娘さんは、航空アテンダント、多分この人が空港から1日で観光できる吉野を紹介し、 やって来たのだろう。もちろんだが、3人にも土産物売り場の絵はがき以外に<一目千本>は見られない日 だった。 4月20日に私たち夫婦はセントレアー(中部国際空港)を発ちフランクフルトへ向かった。 それまでの短い間にも、またドイツやオーストリアからも手持ちのパソコンでイー・ワイさんとメールの やりとりをしていた。 彼女の本名は「勞 儀慧(ラオ いィわィ)」、29歳。両親は中国人(お母さんは厳密には香港人)。祖 父ももちろん中国人、祖父の代に香港に移住、さらにはマレーシアに。現在はマレーシア国籍。彼女は一 人っ子で、高卒後、イギリス留学。経済学を学び、多分学位論文のことだろうが、専門は「Cash Flow」と か「Money Flow」とか言った。学卒えて、ロンドンのノルウェー銀行に就職、それで今、オスロにあるノル ウェー中央銀行に勤務しているのだった。 「預金をするお客はいない銀行です」と彼女が言ったとき、<大変な友人を得た>と驚きを感じた。日本で なら「日本銀行」の行員だろう。どれくらいの才媛か、私に理解できる以上の高貴な人物価値だと知った。 それもさることながら、彼女はマレー語を話し、英語に不自由せず、さらには手元のスマートホンなどい じくりながら、日本語を話そうとしていた。そしてそれが日本語になっていた。 私が中国を話すと、彼女はほんとに可笑しそうに笑った。 「ウえイシェンま?(どうして)」と聞くと、想定外の答えだった 「私の祖父がね、以前話していたのとそっくり」 私は彼女に祖父の面影を呼び覚ましていたのだ。 今世紀は人類が国際化を考えるべき時代、と私は常に思っている。イー・ワイさんほんとに理想的なガー ルフレンドだった。 私と妻は、ドイツ、オーストリア、ドイツ、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、そしてオスロと 旅して、ちょうど吉野の出逢いから一ヶ月が経った日だった。 ホテルにいる私の手元のパソコンにメールが入った。 「明日、どうでしょうか。市内を案内します。ホテルを教えてください」 イー・ワイさんが私たちに勧めていたホテルは、私たちには高級すぎ、ホテル・ペルミナーレンという以 前は士官学校の宿舎だったところに泊まっていた。 2012年5月20日、朝食を終え談話室でくつろいでいると、イーワイさんがやってきた。 市内を歩いて案内するという。私たちの望むところだった。 オスロは石畳の街、緑多く坂道多く、高みから鏡のような入り江の海面が見下ろせ、時に旧城壁に視野を 遮蔽されながら歩くとき、会話もできる。 白いドームを水上に浮かべたような芸術会館は、氷山を模していた。中の設備を見るもよし、ドーム上に 上がって氷山に乗った感覚を味わうも良い。 見下ろす旧城壁の上は、遊歩道になっていて、若葉の賑わう下の柔らかい草を踏みながらの散策はこの上 ない癒しのウオーキングだった。 市庁舎(市役所、ここはノーベル平和賞が授与される場所だが)がまた素晴らしい景観だ。もちろん日曜日 で中へは入れなかったが、広い敷地は植物園の庭園のようで、この地の植物ばかりか東洋のも、また日本の もあった。なぜか水性の植物が目につき、睡蓮の類の他によくこの北国に、と思える種類もあった。 コンクリート水槽の一角に「マコモダケ」を見つけた。 最近、私も評価を高めたこの食品材料だが、英語でこれを話題にするのは私にはきわめて難儀なことで、 「マコモ」がどんな植物かも説明しかねていた。 お昼になった。どこかで食事をするにいいところは、と問うと、 「よく行くところです」と一軒のレストランに入ることになった。 やはり若者好みのディッシュばかりで、 「ピザにしましょうか」と妻がいい、イーワイさんも同意して、それぞれの前に日本のよりはやや大きめの 円形ピザが皿に載って出された。 あまり美味しくはなかった記憶を残す。 私には少し心配があった。イーワイさんはきっと<私のおごりです>と言うだろう。それでは心苦しい。 早めに先手を、と、「支払いは私がしますからね」と、まだ頬張りながら言うと、 「いいえ、私が」と応じた。 「いや、日本では親子が外食をするとき、必ず親が払いますよ」 「私の国では、外食をするとき、必ず子どもが払います。親孝行です」と返した。 「でも今日は日本方式でしましょう」 レジに出向く必要もなく、食べ終わるやすぐウエイトレスが勘定書を卓上まで持ってきた。妻がクローネ を支払った。 午後は少し路面電車に乗ったり、ショッピング街を見たり、3時頃、あるホステル前で降りた。 私たちがベルゲンで観光を終え、再びオスロに戻ったとき、泊まるべき宿候補だった。 イーワイさんが <その日>のために<この人たち>に予約をしてくれた。 その前で私たちは別れた。 外国旅行で友人に待ち受けてもらったのは、初めてではない。フランス、ロワイヤンのルネさんが初めて、 今回が2回目だが、吉野で偶然の出逢いがあり、一ヶ月後に旅先で出逢えたとは、なんと幸運なことだっ たか。 その夜、私は何となく酔った感覚に浸っていた。 21日の早朝、人生に稀な事故が起こるとも知らずに、トイレに行き、戻って下段に再び入ろうとしていた。 入れ替わりに妻が上段から降りてきたとき、梯子を踏み外し、固い床にひどい尻餅をついてしまった。 「うっ」と呻きもやらず、倒れたままで苦しんでいる。 「しまった。もう少しここに立っていて支えればよかった」と声に出して悔やんだが、後の祭。 助け起こすのも、当人には苦痛を与えることにしかならなかったが、なんとか下段に抱え上げた。 枕を当て楽な仰臥や横臥の姿勢をさぐったが、ほんの少しの身動きでも呻きを伴い、冷や汗をにじませた。 <どうするのがいいか>、私は責任感と緊急な判断力とを自らに課しながら、うろたえそうになる自分を必 死に抑えていた。 もと士官学校の宿舎だったというから、寝具は2段ベッドで、妻はメニエル氏病に弱い私をかばって、上 段へ自らの意志で上がり、私を下段で休ませたのだった。思いやりも愛情もありがたいほど分かっていなが ら、それが禍(わざわい)となった。 また2段ベッドは、西洋人の男性、士官学校の体躯には合うだろうが、日本人のしかも高齢女性にはいさ さか高かった。さらにはステップが3段あるべきところだが、最下段は、ベッドに足をかけるように設定さ れていたのだろう。だから2段目のステップは、私たちの胸か腹ぐらいの高さになる。そこから逞しい男子 が起居するにふさわしい固い床へ落ち、きつい尻餅で腰を打ったのだった。 私の意志は決まった。 1、フロントで救急車を呼んでもらう。 2、病院で診察の後、必要とあらば入院、さもなくばすぐ帰国する。 3、時刻が早いので、朝食後、すぐ行動を起こす。 朝食は私一人しか食べられなかった。その間、妻は冷や汗で苦しんでいた。 8:30、私はフロント嬢に、 「Please call us an ambulance.」と哀願していた。 「My wife fell down from the bed to the floor direct. She can't get her body up at all. She can't move her body at all.」 救急車と救急要員は、よく救護活動をしていただいた。妻を担走車に固定し、車に乗せたとき、 「Can I go with my wife ?」とうかがう私に、 「Yes」と答え、患者の傍らの医療薬品などが詰まり緊急処置をする座席に私が座るように言った。 救急車がどう走り、病院ではどんな処置があり、結果がどうなったかは、項目を改めて話したい。 翌朝、出勤前のイーワイさんは、日本人の友人を伴い、慌ただしく去りゆく私たち二人をホテルの談話室 で見舞った。タッパーにたっぷり入ったお粥(米のお粥)と痛み止めの塗り薬とをもらった。 食欲を失った妻をお粥が元気づけ、病院でもらった薬と見舞いの応急薬で大事に至ることなくその後の経 過が辿れたことを報告しておこう。 日記ふうの小説「Die Letzte Reise」には、その後のことも記している。
☆ ☆ [その57] 鉄道旅は船の上、コペンハーゲンへ ☆ HTMLのバージョンを宣言する ※平がなは高く、カタカナは低く発音する 昔の話になる。ある言語学者が、「オランダにはスケベニンゲンという地名がある」とまことしやかに言った。 聴衆は笑い声を上げたが、私は可笑しくも何ともなかった。 およそ<Scheveningen>の読み方も知らない自称言語学者とはナンタルチア。 フランス語は「あなた」のことを「ヴー」と発音し、フランス語を知らぬ日本人にはよくない連想をもたらす。 「チんちン」は中国語で「どうぞお入り下さい」。 世界は広く、無関係な発音を物事に関連づけ勝手に喜ぶには事欠かない。 2012年5月、オランダのGroningenを朝食もそこそこに早発ちしたのは、その日1本目のコペンハーゲン行き列 車にハンブルグで乗るためだった。 列車は定刻に来て定刻にブレーメンに着いた。さすが日本の先輩国、医学を学び、科学も哲学も教えを受けて日 本は成長した。 と思いに耽るブレーメンのプラットフォームに、「列車が遅れます」、と放送があった。 最初の放送は、5分、と聞いた。しばらくて再び放送。15分と聞いた。<先ほどは聞き間違えたか>と思ってい ると、今度は50分と聞こえた。 15はフュンフ・ツェーン、50はフュンフツィッヒ。聞き間違いはない。 とすればハンブルグで目的の列車に乗れるのかどうか。動揺した私はホームにいる列車運行職員とおぼしき男に、 「ハンブルグでコペンハーゲン行きの列車に乗れるでしょうか(Can I get the train that runs for Copenhagen at Hamburg ? )」と問うと、 「I don't know, but may be possible, I think(分からないけど、行けると思います) 」 「You know the reason why it is delay ?(遅れの理由って分かります)」と問う。 「I don't know. This train is recently often delay(この列車、最近よく遅れます)」 列車の種類に、EC(EuroCity International Express Train)、ICE(InterCity Express)、 IC(Internal Express Train)などがある。 もちろん早い順に書いたが、そのとき電光表示はICがすぐ来ることを告げていた。 先ほどの男職員に、 「これで行った方がいいか(Can this train reach earlier)」と問うと、言葉はなかった。首をかしげただけだっ た。 ホームに別の女職員がいて、同じ質問をすると、 「(I think you'd better to take this train.You can reach earlier)これの方が 早く着くと思うわ」と言った。 私たち二人は信じて、予定の列車を見捨て、この列車に乗ったのだった。 結果は、ハンブルグのすぐ近くまではスイスイと走ったが、窓から街を見るようになると、何故かゆっくりと走り、 何やら一本の列車が追い越していった。 どうやら私たちが予定していた列車が、猛速度で時間を挽回し追い越していったに違いなかった。 日に5本しかないコペンハーゲン直通列車の2本目を待つため、ハンブルグで2時間あまりを予定外の余暇として 過ごさねばならなくなった。 説明するのは失礼だろうが、ハンブルグはドイツ、コペンハーゲンはデンマーク。ことばも異なり、ユーロの世界 からクローネの国に入る。地続きではない。 PuttgardenとKedbyの間はフェリーで結ばれていて、この国際列車はそのままフェリーの中に入ってゆく。 船中に停まると、<降りてください>の案内はないが、乗客が降りて船上に出た後、列車の扉はすべて閉められてし まう。 その朝の出発が早かったので、私は降りずに中で寝ていようかとも思い、車掌に尋ねて施錠されることが分かった。 車内のテーブル上をそのままにして、急いで下車し、甲板へ出るエレベーターに入った。 船内の客となってほぼ50分、今度は「列車の乗客は戻ってください」と船内放送がある。デンマークへはその列車 がそのまま船内から出て、再び地上を走り始める。 1時間の船旅は、けだし<列車運び>の役割だけではなく、本来は海を越えて両国を行き来する海運だった。今も その役割を立派に果たしているから、船内には船客や自動車・オートバイ利用客、さらにはトラック運転手客もいる。 日に5便の国際列車が、今大量の乗客を甲板に乗せた。売店も食堂も急に賑わいを見せ始めた。 舳先に立って吹き向かう風を顔に当てながら前方を展望するするが、遙か先の陸地なぞ見えるわけがない。 船の1時間は、水平線の彼方の陸が見えない曲率(地球の丸み)だからだろう。 船内をすべて見た。食堂が二種、つまりファーストフードふうのとレストランだった。もちろん食べない。 売店が二種、コンビニと土産店だ。 話は変わるようだが、実は変わらない。 ドイツでは消費税とは言わないが、付加価値税が19%も付く。ファーストフードを立ち食い、いやテイクアウトして も9%ぐらいか。一方、デンマークは20%を越える税を付けている。 そこで<オモシロイ>現象が、この船上で見られることになる。 船上は、ドイツだろうか、デンマークだろうか。 正解は、<どちらでもない>である。ドイツの<国外>であり、デンマークの<国外>でもある。 お分かりか。この高額付加価値税は両国から免れる。いわゆる免税食品が食べられ、免税品を購入できる。 出国手続きを終えた空港で酒やタバコの免税品を買った記憶はおありだろう。あれだ。 だからデンマークの列車駅を降りる列車乗務員でさえ、両手に重い荷物を提げている。 私はそういう現象を珍しがる観察者だ。付け加えれば、ちょどこのころ、日本では「消費税8%」についてケンケン ガクガクの議論が交わされていた。 <亡国の税制>とまで論じ、書き、世に訴える<知識人>が幾十人も活躍していた。 日本人の私だが、パソコン経由で興味深く聞き知っていた。 レストランで20%も安い食事をする、しかもロマンティックな雰囲気の船上でする食事は、傍目よりはるかに快いこ となのだろう。 すべて観るだけの私だが、よく旅した中国とは人のことばや動きの静かさからも、また大きな違いを見せていた。 終着のコペンハーゲン駅を降り、都合の良い値段のホテルに向かおうとするころ、街には夕暮れが迫りかけていた。 私は、焦りが募ってはいけないからと、駅から遠くないはずのそのホテルがこの辺りだろうとねらいを付けて行って みたが、周辺の100mには見つからなかった。 交差点を渡ろうとしている若い主婦に問うた。ベビーカーに嬰児が眠っていた。 「こちらの通りを次の交差点まで行って、左折したすぐ……のように思います」 とても親切な笑顔だった。 私の方位感は90度ずれていた。 いつものことだか、予約など入れてない。そのホテルのフロントは3Fにあって、 「ドミトリーよりは個室の方がいい」と一言答えただけで投宿できた。 高齢者も若者も混じり合って宿泊する宿だった。 フロント前のロビーでは、もともと互いに顔見知りなのか、同宿の縁で知り合いになったのか、人々が盛んにおしゃ べりを楽しんでいた。 こういう人の出逢いがいくつもいくつも重なり累積して、人の命をいくつも繋ぎ重ねながら、国境が克服され、国益 という意地の張り合いがなくなり、文化の融合と混合が成されていく。 人類社会の未来展望とは、<ここ>にしかないのではないか、と思えていた。 荷物を持って3Fまでの階段を足で昇り降りするのは、70代後半の私には重労働だったが、それを除けば申し分のない 宿だった。
☆ ☆ [その58] 北欧の福祉国家見聞 ヘルシンキ☆ HTMLのバージョンを宣言する クルーズがヘルシンキへ停泊した時のことである。 せっかく名所へ連れてきてもらっても1日で、つまり夕方までに船へ戻らねばならぬ。下船したら予め ねらいを付けておいた場所へ急ぎたい。でも初めての地で、人に尋ねるのも地図に慣れるのも高齢域にな れば容易な業ではない。 ヘルシンキ港を上がり、すぐ右方向には海産物の売店があり、続いて露天のテーブル群がひとしきり広 がっている。 有名天主堂へと急ぐにはその間をすり抜けるに限ると、妻とふたりが「スキュースミー」を連発しなが ら足を運んでいた。 なんとまあ、こんなところで私たちを<呼び止めた>人がいた。 「日本人の方ですか」 「そうですが、何か」 日本語で尋ねたのは、紛れもなく60代の日本人。テーブルで紙の皿の食事をしていた。 傍らに30歳 ぐらいの日本人女性が、何も食べず、無口で、笑顔もなく座っていた。 もちろん私たちに愛想もない。 「ここに住んで20年にもなるのですが……」、何を言い出すのやらと立ち止まると、 「ここの医療費ってほんとに要らないんです」 「ーーー」黙ったままの私。 「私ね、甲状腺癌の手術、2回しましたが」と言いながら、シャツの胸を拡げ、皮膚の縫い跡が生々しい のを示した。 「はあーー」 「入院にね、歯ブラシ1本、持ってこいって言うんです。……ほんとに何の費用も要らないんです」 「はあーー」 私は答えようがない。尋ねたわけでもなく、社会保障制度について教えを請うている訳もない。 かといってまたこの国の高度な医療保障制度を疑っているわけでもない。 しかしこの男性は、小魚入りのリソットか何かの食事を止めて、わざわざ通りがかりの日本人に説明を 始めたのだ。 今このことを思い出して書く私は、この出逢いから2年が経つが、私も手術を受けようとしている。 前立腺癌だ。 高度技術のロボットで器官の全摘出を受ける。後期高齢者だから、費用の個人負担は大きくはないが、 ヘルシンキの男性が言ったように<歯ブラシだけ持ってきなさい>とは言われてない。 男性は、この国の医療費がすべて国費で賄われていることを、丁寧に話した。 こんな大事な話を、真面目にじっくり理解が尽くせるように、その場に腰を下ろしてでも聴く<べき> だとは、よく知っていた。 でも、私にはわずか数時間の下船で見るべき場所を数ヶ所予定し、時間を気にしていた。 「実は、あそこの聖堂まで急ぎたいのですが、ごめんなさい。メールアドレスかなんかもらえませんか」 男性は、私がちぎった手帳の端にアドレスを書いた。 実に読みにくかった。手術で失われた筋肉が書写にふるえをもたらしているのだろう。 「ニシモトさんと仰るのですね。私のアドレスはこれです。是非もっとお話をうかがいます」 走るように市場食堂を抜けて第一の観光場所へ行った。 帰国後すぐ、メールを出した。 メールは届かなかったので、アルファベットの間違いの可能性を想定して、あれこれ変えてみたが、 結局、今でも届いていない。
☆ ☆ [その59] 港と王宮の街、コペンハーゲン ☆ HTMLのバージョンを宣言する <衛兵の交代式>と言えば、ロンドンのバッキンガム宮殿が思い浮かぶ。三方向からブラスバンドが次第に 近づけば、いつの間にか胸が高鳴っている。 でもここはロンドンではなくコペンハーゲンだ。 宿はエレベーターのない3Fだった。 朝食もよく、今やヨーロッパでは普通になっているインターネットもよく入った。 港は、地図上では近くて分かりやすいのだが、いざ我が身が行くとなるといろんな問題があった。 妻の怪我(オスロでベッドから転落)などまだ予想だにしなかった5月18日、 「いっそ全部を歩いて行ってみるか」と大胆に言い切って、スーツケースを石畳道にごろごろ曳きながら、鉄 道支線に沿って街の中心から離れていった。 北欧3国のレイルパスを支線の2駅のために使うのは<モッタイナイ>。それで1時間余りも掛けて歩い たのだった。 途中に横長の公園があり、その中を歩いた。<この辺から東に向かえば港が近いはず>と勘を働かせて大通 りを横切り入った道は、広い公園のような、あるいは練兵場のような場所の傍らだった。 前方にマスコミ取材の10数人がいた。 好奇心に任せて近づいてみると、練兵場ふう広場の傍らは3階建ての士官学校に見えた。 その前に今、楽器を持った隊員の50人ばかりが、建物から走り出て隊列を整えているところだった。 みんな黒い海軍服をまとい、2分もしないうちに号令一声、指揮刀が2回上下すると、マーチの前奏曲が鳴 り始めた。 「そこからどこまで行進するのですか」と、そばで男の子を肩車する若いお父さんに尋ねると、 「んーー?」と尋ね直した。私の英語が下手だったのだろうし、デンマーク語は英語と同じではない。 「To what place do thay march ?」 知っている人には無意味な質問だろうが、外国人の故に答えてもらったか。 「They soon go out of this ground through that gate over there you find, and then will march through out the streets in the city. And finally will go into the royal castle(間もなくあそこ の門からこのグランドを出てね、街の通りを行進します。そして最後に王宮に入って行くのです)」 <なーる。衛兵の交替式なんだ> 正直に言えば、このとき初めてそれを知った。 「Oh, the ceremony of chaging guard soldiers(衛兵の交替式なんだね)」 「Yes, yes. You can understand(そう、そのとおり。分かってくれましたね)」 若いお父さんは嬉しそうに言った。 マーチは私たちが進む方向とは反対に進む。残念だが後を追わなかった。 ※挿話だが、マーチの方向よりやや左(北)へ進むと、大きな牛の石像があったり、とびきり美しいが勝手 には入れそうにない公園がある。外側には高い堤防があり、その庭園は五角形に作られてある。 函館の五稜郭はこれを模して作られたのだろうと直感したが、歴史を調べないと分からない。函館の方が先 でこっちが後かも知れない。 その<五稜郭>が王宮の庭園だった。 高い堤防の外はすぐ海で、砂浜はなく、小砂利の上に澄んだ海水がひたひたと小波を打っては返していた。 その岸辺から、靴だけ脱げばすぐ傍へ行けるところに、人形姫の像、マーメードが建てられてあった。 私はもっと大きいものをイメージしていたが、等身大より少し小さく、少女、もちろん下半身はウロコ付き の魚になった少女が、その半身を小波に洗われていた。 折しも10人ほどの東洋人女性グループが浅瀬のマーメードによりかかって替わる替わる写真を撮っていた。 中国語ではなさそうだな、と感じたすぐだった。 「ハングサラム?(韓国人)」と中年婦人が尋ねてきた。 「アニー。イルボンサラム(いいえ、日本人です)」 するとべらべらとことばが返ってきた。中に<イルボン>だの<ハングマル>だのと聞こえるところから、 <日本人がどうして韓国語を>とか<韓国語ができるのか>とか言っているのだろう。 私はとっておきのコリアンをこの時、大声で言った。 <マル、モルゲッスミーダ> これは龍井市で日本語教師をしているとき、ひょんなことで覚えたコリアン、 <ことばが分かりません>という意味だ。 おばさんグループはみんな笑った。 そして<コンニチワ>、<アリガトウ>、<サヨナラ>、<オハヨウ>、<ドコイキマスカ>etc、雑多な 日本語をそれぞれで言いはじめた。 ひとしきり言い終わって、こんどは私が<キムチ>、<チョンガ>、<コマワヨ>などと関連もなく繰り 返していたが、主だった主婦の一人に、「You give me your E-mail address ?」と言うと、急に後ろに 控えてしまった。 韓国文化には男にアドレスを明かさない操があるのかも知れない。※挿話終わり 港に着いたが、切符の窓口はまだ閉まっていた。4時を過ぎないと開かないというので、私たちはくつろ ぐのに適したところで時間待ちをしていたら、急に人が並んでしまった。 慌てたがもう遅い。列の後ろにくっついたのに、少しも順番が来ないのだ。 すでに切符を買い終えた小父さんが一人、珍しそうに近寄ってきて、<あの順番札をとりなさい>と身振 りで教えてくれた。 随分時間を失ったが、この日はさほど客が多くなかったのか、船室が取れた。 この船をホテル代わりに一晩でオスロに着く。 乗船には出国手続きを伴う国際航路だ。 例えば日本でよく利用する関西汽船と時間的には同じようでも、船は比較にならず快適だった。 でも不満はあった。 ユーレイルパスを提示すれば10〜15%の割引があるはずだったので、私はその旨を言いながら発券担当の 女性にパスを示すと、<インターネットで申し込んだ人に限って割り引くのだ>と言った。 この船(コペンハーゲン=オスロ)も、妻の怪我休養のため2往復を乗った。 2回目はインターネットで予約しようとすると、本人確認の欄にはVisaカードNo.を入れるように、とあ った。 私は<カード人間>ではない。そんな番号を持つはずもない。 2頁に渉って氏名、生年月日、旅行の国々等々を細々と書いた挙げ句に、記入するナンバー欄だったの で、いささか 疲労を感じてしまった。 3回目からはオスロ乗船だったが、 「私はカードを使わない人間だから、レイルパスの恩恵に与れない。パスポートNo.はこうこう、これで代 用したい」と、下手を自覚しながら縷々訴えた文章を付けた。 効を奏したのだろうか、港で切符を買うとき、 「Did you read my reserved sentence ?(予約した文章、読んだ)」と、拒否されるのを承知で切符嬢 に尋ねると、 「Yes」と言って、すぐ発券してくれたのは、ほぼ10%安かった。レイルパス割引かも知れないし、往復割 引なのかも知れなかった。 こう書いているとオスロへ行ってしまう。 この船も国際船なので、内部のコンビニも土産売り場も20%を越える高額課税国の隙間を航海する。 私もワインの小瓶を買って飲んだ。 味は、イタリーやフランスほどには感じなかったが、とても満足した。 話は一度戻って、コペンハーゲン滞在を語ろう。 宿はペンションだったから、バックパッカーらが幾組も泊まっていた。ヨーロッパのバックパッカーは必 ずしも若者とは限らない。中年も高齢者も、そして女性もいる。自転車にもバイクにも乗って旅をする。 宿では主人と客人とは顔見知りが多いようだった。 朝食は問題なく栄養たっぷりに食べられるのだが、問題は昼食だった。 ここは高そうだの、ここは値段が外に示されてないの、ここは客入りが悪いの、などと30分余りも探すと き、街中にサンドイッチマンがいた。格安食堂の宣伝に見えたが、安心できそうにない。 その傍の細い路地の入り口に「フリーイーティング」の立て看板があった。50クローネを少し下回ってい て、<行ってみようか>ということになった。 雰囲気も食材も日本にあるバイキング料理によく似ていたし、リソットまであったので、 「フリーイーティング2人」と「ビール2グラス」を注文し、食べた。 ジャガイモ料理も、肉や魚の煮込みも、デザートも、さほど上品ぶってはいなく、遠慮なくお腹を満た すことができた。 翌日の昼もまたそこへ行った。 マスターもウエイトレスも愛想らしい愛想はなかったが、満足した。 その翌日も行った。 帰り際にマスターが特に側まで来て、 「明日も是非来てください」と、初めて愛想を示した。 残念だった。嬉しかったが、残念だった。 「明日はオスロに発たねばなりません。アイム、ソーリー。次回来るとき、必ずここで食べます」と気休め を言い、握手をして別れたマスターは、在来のデンマーク人ではなかった。ナプキンのデザインから、彼ら はギリシャ系だった。 3泊したコペンハーゲンでバス路線を理解しきれず、乗りこなせなかった。 心残りがしている。
☆ ☆ [その60] エルミタージュはフランス語 ☆ HTMLのバージョンを宣言する クルージングとは金持ちがする航海だとは知っていた。だから私には縁がないはずだった。タイタニック号 の悲劇だって、その目で観ていたから、私の体験とは距離があった。 2012年、北欧の旅をクルージングで締めくくることにきめたのは、告白すれば第一にその料金であったし、 第二にエルミタージュ観光が含まれていたからだった。 私と妻は人に誇るほど外国を旅しているが、ロシアに一歩も足を入れたことはない。 ツアーならいざ知らず、自分で足を入れようとすると、ロシアほど私の理性とちぐはぐするところはない。 個人旅行には、ビザが簡単に取れない。取れても行動のすべて、宿のすべて、観光のすべてを予めきめて届 けねばならない。届けるだけではない。バウチャーを買う、つまり支払いまで予め決めねばならぬ。 ヨーロッパの国々をよく知る私たちに、そんな前仕事が納得できるわけはなく、かつて大阪の領事館で説明 を聴くうちに、業を煮やした私が、 「ややこしい国ですね」と、うっかり漏らしたら、女性の一館員が、 「ヤヤコシク、アリマセン」と私を睨んだ。 私には彼女がスターリン時代の女性官僚に見えた経験がある。 このクルーズはコペンハーゲン港を出、湾の一番奥、サンクト・ペテルブルグまで行く。 その日のオプションにエルミタージュ観光があり、参加者がこのツアーに加わっている限り、ヴィザは要ら ない。 結果は、私に唯一のロシア観光となった。 クルージングはイタリーの会社が主催する。豪華この上なく、宣伝物でよく見られるものの中に生身の私た ちが入って行ったのだ。 好奇心の強い私は2つを除いてすべてを観ている。1つはカジノ、もう1つは甲板上の甲羅干し(日光浴) である。 自ら大いに楽しみながらも反省するのは、食べ物(美食)がふんだんに用意されていて、日常の何倍を胃に 収めただろうか。デザートだけを思い出しても、記述は半頁を埋めるだろう。また船内で知り合った日本人夫 妻、ノルウェー未亡人、旧東ドイツの高齢者夫妻etc、私の知らなかった世界を直に知る機会になった。 サンクト・ペテルブルグ港に着岸して見下ろすと、直立不動に近い制服の男性が、下船客を観光バスに誘導 すべく立っていた。 バスに乗ると、ガイドが2人いて、1人はドイツ語、もう1人は英語でするロシア人ガイドだった。 人数の多さなのか、ガイドの職制からなのか、まずはドイツ語で説明され、次いで英語でなされた。 私の語学水準の低さからか、英語はところどころ分からなかった。 私を楽しませなかったのは、自動車が何と多く、しかもそれぞれがどんな交通規制を守っているのか、やた ら競い合っている雰囲気だったし、私たちの観光バスでさえ、どこかから混雑情報を得ながら都合の良い経 路を選んで走っているように見えた。 美しい川の対岸に建つ宮殿がエルミタージュだと聞いたあと、降りたらドイツ語嬢についていくのか、英語 嬢についていくのか、希望を挙手するよう求められ、私と妻は英語班を選んだのだった。 でも車中ではいつもまずドイツ語、終わるのを待って英語で話され、終わりきらぬうちに次のドイツ語が始 まり、そそくさと英語が続く。 そればかりではない。比較的丁寧なドイツ語なので、ガイド内容がおおよそ分かったあとで、取り急ぎ話 される英語には、どこか分かりにくい単語が混じる。それを連想で補っているうちに、もう次のドイツ語に なってしまう。 到着した。 車外では班別行動をするからと、ドイツ語班が最初に降りることになった。はぐれないようにしっかりつい てくるようにと注意があった。 私は妻に、「ドイツ語班についていこうよ」と言った。 妻も異存はない。 でも、バスの降車口で問題にされてしまった。 「あんたたちは(とは私たち2人)デンマーク班だ」と、降車を止められた。 さきほど挙手で希望を取ったのと異なったからである。私たちは英語班を選んだし、今、それを裏切ってド イツ語班について行こうとした。止められて当然だし、私は抵抗もクレームもしなかった。そして<英語班> の行動開始の指示があるまで、降車せずに立ったままで止まっていた。 そして、とても気になるあの<ことば>のことを考えていた。 「デンマーク班」が、私の思考対象だった。 そもそも私はデンマーク語を知らない。デンマーク語班なぞなかったし、だからそれを選ぶはずもない。 ここには英語班とドイツ語班の2つしかないのに、 「あんたたちはデンマーク班だ」とはいったい何の意味か。 推測による私の結論はこうだ。 乗客中に一番多いのはドイツ人、次いでデンマーク人。英語として話された<ことば>にはデンマーク語や <デンマーク語なまり>を含む。またこの観光でロシアに利益をもたらしている首位はドイツ。だからドイツ 語ガイドが優先される。 私のひがみだろうか。 デンマークふう英語ガイド嬢につき従って、エルミタージュの中に入った。 期待とは大きく異なり、展示物の説明よりも建物の説明、主に歴史的謂われがその大部分を占めた。かつて 何々の部屋だった、何に使われていた、こんな史的事実やエピソードを残すetcと。 私はルーブルを丁寧に観た経験を持つ。ガイドなしに2日間に渉って観たこともある。どの作品にもその下 にプレートがあり、フランス語と英語で簡潔に説明がされてあった。私はそれを読み、最上のガイドとした。 一方、ここエルミタージュにもプレートはあった。だがすべてキリル文字の一種だけだった。ただ、手に持 つパンフレットには他の記載もあった。 「Hermitage」、パンフレットの表には一番大きく書かれている文字である。 「ハーミテージ」でも「ヘルミターゲ」でもない。「エルミタージュ」美術館と日本では呼ばれるサンクト・ ペテルブルグ市の世界的に有名な美術館の名である。キリル文字(ロシア文字)でもない。れっきとしたロー マ文字で書かれてある。 「H」がサイレント(発音しない字)なのは、スペイン語、フランス語、語尾に「ーーage」は英語、フランス 語(英語のーーageも、元はフランスのノルマンディー語)などの理由から、これは間違いなくフランス語だ。 今、「world heritage(世界遺産)」指定などと日本でも話題になるように、このことばは遺産として引き 継ぐべきものの所蔵を意味している。 ロシア皇族は宮廷内ではロシア語よりむしろフランス語を話したという歴史に鑑みて、皇帝の権威により収 集、収蔵し、引き継がれてきた諸宝物殿なのだろう。 もちろん半日や1日でその全体を観ることはできない。絵画や工芸品に限ってもでも不可能……とすれば、 わずか数時間でできることは建物に関する謂われの説明と限定したのかも知れない。 私の<管見>は、建築物について関心や興味をあまり呼び覚ますことはない。専ら回廊や階段に掲げ られた絵画にだけ向かい、その下のプレートを読もうとするのだが、許された時間内ではキリル文字をなんと か発音にするのがやっとだった。年号は数字で分かり、次に作者が分かるころには「デンマーク」班はすでに 移動している。 一度班を見失った。 私は慌て、そしてうろたえた。幸い長身の小母さんを覚えていて、人を掻き分けて近づくと、班は私がいた 方へ引き返すところだった。 道路の混雑、自動車を掻き分け走る観光バス。美しいはずの水路も公園も由緒ある建物も、ゆるりと観賞す る心のゆとりは湧いてこなかった。今私の印象に残るのは、電動トロリーバスの架線がどの道路にも張られて あったことぐらいである。 太平洋戦争の前、ハルビンや大連には<これ>があり、先進的文明街の象徴に見えた。 敗戦後には、北京 でも平壌でも普及した。そして長い当時対立の間に、<架線文明>で停まった街々と、それをすっかり忘れ去 ったか、見向きもしなくなった<先進国文明>とは、本質的に何が異なっていたのか。 産業革命以後の人類史に大きく貢献したはずのマルクスとエンゲルスのエセ後継者たちが善良な庶民を欺い た罪を、やはり正しく<inherrite>するべきだろう。 21世紀の人類史にもしも<思想、論理、倫理エルミタージュ>が出来るとすれば、人類の未来に大きく貢献 できるだろうに。 午後5時すぎ、私たちは再びクルージング船の甲板から見下ろす立場に戻った。 船に戻れば当地に名残惜しさを残すのが毎度のことだが、この地に限って、ホームに戻った安堵感を得た (ほっとした)のは、このクルージング中、初めてにして最後の経験だった。