[コンテンツ] 61〜70
☆ 61、フルダ 小学生の社会見学 ☆ ☆ 62、ソレントの高級ホテル庭園侵入 ☆ ☆ 63、パンジーホア 反吐が出る感覚を ☆  ☆ 64、ヴェネツイアの少女 ☆ ☆ 65、コペンハーゲン 市役所の日 ☆ ☆ 66、見なかったナスカの地上絵 ☆ ☆ 67、日本を見せよう、居合い抜きは日本の魂か☆ ☆ 68、ザルツブルグのベルグと特攻隊☆ ☆ 69、梯田 外国語力が誇らしい山頂の雨☆ ☆ 70、ハルピン 市民奉仕をモットーにする鉄道公安☆ [コンテンツ]71〜80へは ここをクリックください


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☆ ☆ [その61] フルダ 小学生の社会見学 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 ドイツ国鉄(DB)のFulda駅で乗り換え列車を待っている私と妻。  近くには小学生50人程の団体がいた。ホームにしゃがんで列車を待つ。二人の女の 先生が立っていた。  やがて列車が入ってきた。  Alsfeld往き支線の列車で3両連結。 だが二階建ての電車(ディーゼル列車かも)だった。  私も妻もだが、観光はもっとも効果的にしたい。その願いは並みのものではないから、 列車の扉が開けばまっ先に乗車する。そして2階の最前席を二人で占めた。  前方への視野は広い。 本線を離れRotkappchenの故郷がどんな雰囲気なのか、ヒントになるものはないかと、 すでに目は輝いていた。  ホームの学童は、先生の指示で車内に入り、私たちの左側にある数段の階段を上って くる。  最初の子が、なんと私たちに「Guten Tag !(こんにちは)」と挨拶し、後方の席へ向か った。  次の子も「Guten Tag !」、そして次の子もまたその次の子も「Guten Tag !」 中には急ぎ足で通りすぎながら、「Tag !」とだけ言う子もいた。またややひ弱に見 える眼鏡の女の子が足下の階段に注意しながら、私たちに顔を向ける余裕がなく、 「Guten……Tag…」と言ってクラスメートの後を追っていった。  私は、子どもたちの好意を無駄にするまいと、いちいちに「Guten Tag」と尻上がりの 発音で返していた。  最後に先生が階段を上がってきたが、先生は私たちに何も言わなかった。  子どもたちは仲良し同士が隣り合って座ったのか、おしゃべりが弾み始めた。 「子どもはどこの国も同じだね」  そっと振り返ると、金髪の少女たち、髪飾りや耳飾りなど付けていた。男子はスポーツ マン風の服装が多かったか。先生は一番後ろに二人で座っていた。車中は教室ではない。 2駅でFuldaに着く。 30分ほどなのだが、子どもたちはとても賑やかに乗車を楽しんでいた。  もちろん私たちもそれを騒音と理解するような非常識を持たない。育ちゆく少年少女の 微笑ましくも羨ましい行動だと思うから、私たちまで遠足気分になっていた。 「間もなくFulda」だと車内放送があったとき、女先生が一言何か言った。  するとみんなは一斉に静かになった。そして再び順に階段を降りはじめた。  いや、その前に、「Auf Wiedersehen!(さようなら)」と私たちにそれぞれが声を掛けて は降りていった。  みんなが、である。  元気のいい男の子で、「Wiedersehen!」だけを言うものや、早足のまま、「Sehen!」とだけ 言って過ぎていったのもいたし、最後は厚い眼鏡の女の子が、足下の階段に気を取られ、 私たちを見るゆとりがなく、しかし、「Auf-Wieder-Sehen」とゆっくり、弱々しく声を出して 降りていった。  最後は2人の女先生。何も言わずに降りていった。  私は生徒たちのすべてに「Auf Wiedersehen」を返した。  私は先生に、 「あなたの生徒さんはとてもよいエチケットを身に着けてますね」と褒めことばを考えていた のに、少し残念だった。  列車の扉前に生徒のすべてが立って、停車を待つ。  私たちは停車してから席を立ち、段を下りホームへ出た。  そこには生徒のみんなが並んでしゃがみ、前に立つ2人の女先生の話を聴いていた。  私たちは邪魔にならぬように少し遠回りをして、改札口へと向かった。  駅の外では、またここでも出会いが待ち受けていることを、その時はまだ知らなかった。  第**話 「*****」を読んでいただくといい。

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☆ ☆ [その62] ソレントの高級ホテル庭園侵入 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 ソレントは日本語、イタリー人は「ソルレント」いう。[rr]の2文字を発音するからだ。  イタリー国鉄のナポリ駅の地下には[チルクム・ベズビアーナ]という私鉄が走っている。 支線があるので気を付けてソルレント線に乗り、途中のPompei Scari Villa Dei Misteri 駅で降りると、ポンペイ遺跡へはすぐ近い(第**話を見てください)。 終点まで乗れば、Sorrent駅に着く。  私も妻もだが、日本人の多くが「帰れソレントへ」の歌を知っている。でもソレントがどん なところか、となると、あの歌の日本語歌詞からは何一つ思い浮かばない。  着いて降りたホームの線路の右側はすぐ崖が聳え立つ。右側の数メートルさがった所に駅舎 があり、そこを出れば、真ん前の通りを隔てた先に海がある。でもその海はそこよりはるかに 低い。  つまり高い崖の中腹に降りたことが分かる。  夕日の眺めがいい、と聞いてきた。でも夏の午後の日は、日没が9時をかなり過ぎるから、 それまで待つべくもない。 ともかく海を見ようと言い合って道路を越えたが、海への断崖まで幅の狭い土地のすべてに ホテルや私邸などがすきまなく建つ。  海への崖が見えるところまで行けば、下方に港が見えるはずだった。「帰れソレントへ」の 情緒も少しは分かるだろう。  前は大きなホテルだった。  私は意を決してフロントまで行き、[済みませんが下のソルレントの港を見てのいいですか] と、頼むことにした。  どうやらここは私たちが宿泊するようなホテルとは格が違いすぎるようだった。 貴族的で政界の重鎮たちがエンジョイするリゾートようなだった。  停められている車も街で見かけない格式を持ち、ガラスの回転式入り口の内部には、金色の 標示物が輝いている。  ズック履きでリュック姿、野球帽の私がのこのこと入る雰囲気ではなかった。  守衛がいつ現れて私をつまみ出すか分からない、とおどおどしながらも回転扉を入って、 「ボンジュール」と叫んでみた。  フロントには誰もいない。ロビーの左右を広く見渡しても人はいない。  もう一度「ボンジュール」と叫ぶと、すこしこだまが返ったのは天井が高かったからだろう。 「誰もいない」 そう言いながら私は外に立つ妻に報告した。 「いいよ。黙ってあっちへ行ってみようよ」  ホテルの右側の庭園を、許可を得ずに入る。進むとやや高めの柵(手すり)があった。  外を覗くと、ここは足も震える高い断崖の上だった。  真ん下に船着き場が小さく見えた。10隻ほどの船は、半分以上が観光船だった。  この高所から見る広い海は、正真正銘のコバルト・ブルー一色で、広がりの彼方に島影も見え なかった。 「ナポリ湾より眺めがいいね」 「何を基準にそう言えるの?」  何もない広い景観の風を胸いっぱい吸い込んでから、ホテルの庭園を出ることにした。  ゲート近くでホテル職員に会ったが、私は挨拶もしなかった。彼も無言ですれ違い、誰何し なかった。  ナポリへ帰るチュルクムベズビアーナの電車は、始発駅で乗るから好みの席を占めていた。  何と速い電車か。また何とトンネルが多く、長いことか。  そのトンネル内で、今まで感じたことのない速さで走り抜ける時、恐ろしかった。  やがてトンネルの数が減り、右手彼方にベズビオスが見えるはずの辺りまで来た。  空には雲が垂れ込め車窓に大粒の雨が当たり始めると見る間に大降りになった。  光線も雷鳴も2分にあげず轟き閃いていた。  電車が止まった所は駅ではなかった。そして動こうとしなかった。  何の事故だろうか。車内放送はまったくない。  数分経つと車内が騒がしくなった。普通の騒々しさではない。  その時初めて私は向かい合わせのイタリー人に口を開いた。 「What happend ?」 「…… ?」 「Quel accident ?」 「La panne d'elecricite. Tout le monde disent」 なるほど[エレクトリ]とか[パン]とかの声が混じって聞こえたり、戸を開けて降りるような しぐさをしたりする。  放送もないのに、どうしてそんな情報が流れるのか。誰かの憶測が[情報]の役割を帯び てしまったのではないか。  向かいの男性は、工場帰りの職工だった。  私たちはkカタコトで話し合った。  弁当箱だけを持つ小柄の男性は、母と二人暮らしのアパートへ帰るそうで、私にはいつか 知らない以前からの知り合いだったように思えていた。

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☆ ☆ [その63] パンジーホア 反吐が出る感覚を ☆ HTMLのバージョンを宣言する
※平がなは高く、カタカナは低く発音する
 予め書いておく。中国への悪感情をここに書くつもりは全くない。  先入観なしに聴いてほしい。  攀枝花(ぱんじーほあ)へ行くことにしたのに理由が3つある。 1、攀枝花==昆明間を車窓から観光するため 2、市の名になっている花に興味を持った 3、東洋一の水力発電所がある、などである。  ここは長江(揚子江)上流の湾曲部が多いところで、それぞれに第一灘から第三灘まで 名が付き、最下流部に落差では東洋最高のダムが、その地下には発電所が作られている。  その成都を午後4時に出る夜行列車は、早朝4時59分に、時刻通り着いたのだが、停車 数分前から生憎、ほんとに生憎、私にはめまい発作が起こっていた(睡眠不足が原因だろ う)。  攀枝花駅で下車する時は、妻の後ろにつかまり、目をつむったままぶら下がるようにつ いて行く。 「駅広場の正面にある[太陽なんとか]というホテルだよ」 と、俯いたままで弱々しく話す私。  成都大酒店のフロントで紹介してもらったホテルのことである。 「あった、あった。ちょっと階段があるからね」  スーツケースを2つも持ち、後ろに私がつかっまっている恰好で、妻は階段を上がった。  10段以上もあり、上がった上に通りがある。通りを越えると太陽飯店だった。  普通なら、ホテルは24時間灯りが点いているはずであるが、ここは点いていなかったし、 真っ暗な内部のロビーへは、施錠されて入れなかった。  私はやむなく玄関前の地べたにしゃがみ込み、ガラスに凭れかかって服を被って寝よう とした。  1時間ほどもそうしていた。  がちゃがちゃと鍵を解く音がし、玄関が開かれた。  私はしゃがんで服を被ったまま、 「ウォめん、チャンどゥジョおでぃエンじエしゃオだりーベンレん(成都大酒店が紹介し た日本人です)」と言った。  職員は急いで私をロビーのソファーセットに連れて行き、休ませた。 「少し気分が良くないのです。ここで休ませてください。ありがとう」と好意に謝し、 でも愛想をする余裕もなく、またすぐ服を被った。  15分もしないうちに、再び呼びに来た職員は、私たちをツインの部屋に連れて行った。  私は靴だけを脱ぎ、そのままベッドに潜り込んで寝た。眠った。  目が覚めた時、すでに11時を過ぎいて、到着時の気分もウソのように良くなっていた。 すでに気温は夏そのもののように暑い。  私は素肌にワイシャツの姿で外出することにした。  フロントに降り、到着時の世話へのお礼、成都大酒店からの紹介の有無を尋ね、 「2泊する」、と伝えたあとで、昼食にふさわしい場所を尋ねた。 「駅前に2軒。また、バスで市の中心に行けば数軒ある」と教えられ、前の段を下り、 バスが数台停まる場所の向こうの食堂を見たが、この地の特産を食べられそうにも思え ない。 「ちゅィしィねィちょんしんマ(市内中心まで行く)?」と女性運転手に尋ねると、声 を出さないで、箸を持つ右手で〈行く〉と答えた。  乗る。運転手だけではない、数人の女性が弁当箱を開いて、時々仲間のおかずをつつき 合いながら昼飯を食べていた。  メインはご飯、少しのおかず。……昔を思い出し、懐かしい。  長江沿いに走ること約20分、町の中心で降りるとき、 「つぁんてぃん つぁィナーる(食堂はどこ)?」と運転手に聞く。  彼女はすぐ右前を指さした。  この国、右側通行だから降りてすぐだった。  大きい餐庁に客はいなかった。だがウエイトレスが5人もいる。 「ニいハお、……ちょゥびエン、クぅイぃま(こんにちは、ここ、いい)?」と真ん中の 席に二人は座って、リュックを下ろす。  少姐が一人来て、壁の前にある仕切の入ったお盆に、道路側の棚からほしいだけおかず を取る、と教えた。  私たち二人は立っておかずを取る。  煮物のほとんどが煮汁に浸っているので、すくい上げ煮汁を切ってから器に盛った。  私は朝飯を食べていない。食欲は旺盛だった。  おかずばかりではなくご飯も何度かお代わりをした。 「油物が少ないからだろうか、案外口に合ったねえ」  二人はそう言い合っている。 「食べ終わって気が付いたって遅いけど、この地方の酒、味わってみたかったなあ」  満腹の私が述懐して、食後の一時をくつろく。  そして「お勘定」。  済ませたとき、の光景をやはり紹介しようか。  ウエイトレスたちのの食事が始まった。  一番奥まったテーブルにみんなが着いた。そこまではは問題ない。  それぞれがご飯を盛った器と箸とを持って、おかずの場所へ行く。  それも〈問題〉とまでは言えまい。  それぞれが自分の箸でお菜をつまみ、ご飯に載せ、脇に溢れ出るほどにして席に戻る。  戻る途中で早くも歩きながら食べている娘もいる。  私たちの後ろを通るが、もちろん少しも意に介していない。これが無作法であるはずは ないのだから。  食べている最中、席から立って、再びおかずの場所へ採りに行く娘もいるが、左手には ご飯の椀、右手には箸、つまり食べる行為を継続しながら、おかずを取りに行き、食べな がら戻ってくる。  もちろん備え付けの玉杓子などは使わない。自分が今使っている箸ですべて用を足す。 「あれあれ、まあまあ」と二人はその様子を呆れて見ていた。  彼女らには、日本人が〈呆れ驚いて〉いるとは気づきもしなければ、思いも至らなかった であろう。  だが私は、今満足したばかりの食事が、胃の中で反乱を起こし始めるのではないかと感じ ていた。  異文化とは思いがけないことを生じさせるものである。  食堂の裏の方は(すぐ傍ではないが)長江が流れ、前方の山の中腹は遊園地になっている。  ケーブルで登れると図示されてあるので、乗り場まで行ってみると、職員は一人もいない。 「ヨゥレんま(誰かいる)?」と数回叫んで、やっと職員が現れた。  そしてケーブルのロープが動き始めた。スキー場でみるリフトである。  数百メートルを一気に上がるとき、遊園地には誰も来ていないことがまる見えだった。  頂上で降りて一回りすると、周辺景色が分かった。  すべてが山。けれどもどの山にも樹木がない。あるのは遊園地のあるこの山だけだった。 熱帯のように温度の高い山々にどうして樹がないのか、私は考えていた。 「帰りは歩いて下りようか」  下まではかなりな距離だった。  下り坂ばかりなのに二度も休憩をした後でやっと下のケーブル駅に戻り着いた。  駅の前に、この町には珍しくデザインを凝らした〈茶房〉があった。  入ると、広くて清潔なレストランだった。  フロントに小姐(シャおジエ)がひとりと、奥まった個室には男性が数人いて、話し声を 立てずに何かをしていた。  マージャンだった。  メニューに〈花茶〉があって注文すると、ラッパ型、15センチほどのコップにお湯が湛え られてだされた。  お湯の中に花が開き揺らめいている。  小姐は卓上の砂糖ポットを開き、紫がかった氷砂糖をスプーンで3杯もすくって入れた。  歩き疲れた身体を癒す甘い茶、しかも馥郁たる花の香りのお茶だった。  ここでくつろいでいくつもりになった。 「つゥスお つぁイナァる(トイレ、どこ)?」  わざと北京語ふうに言ってみた。  小姐は、すぐ案内する。  こちらの言うことにはすべて聞き分けているが、ことばを返さない。  大きなトイレだった。〈座敷トイレ〉とでも言うのだろうか、と思った。  ドアを開けて中に入り……申し訳ないが、笑ってしまった。  八畳ほどの部屋に同じ便器が二つ、横並びにあった。  〈二人が同時にできる〉便所を初めて見た。  十数人が同時にできる公厠(公衆トイレ)は何度も見ているのに、二人の場合はどうし ておかしいのだろうか。  再び席に戻り妻に〈珍奇なトイレ〉を話しているとき、マダム(女主人)とおぼしき人 が現れて、私たちのテーブルに来た。  ことばは発しないが、とてもにこやかだった。  卓上のお湯ポットを持ち上げ、二人のコップに再びお湯をなみなみと注ぎ添えてから、 砂糖ポットのすべての氷砂糖を二人のコップに入れてしまった。  大変なサービスだが、そんな濃い甘みの飲料を知らないから、「太多了(多すぎるよ)」 とマダムに言ったが、親しげ笑みを返すばかりだった。 「りーベんレん(日本人)?」と初めて口を開いた。 「是的(そうです)」  マダムは隣のテーブルの砂糖ポットと取り替え、さらに添え加えようとするのを、私は さえぎった。  相手にならって無言、手で制した。  ゆっくりとした単語だけの会話だった。  この地はなぜか暖かく、いつも夏であること。特産物がマンゴーであること。産業は鉱業 (石炭や鉄鉱以外にも各種)であること。  聞きながら私はあの樹のない山々の下から何が採掘され続けているのか、またそれを原因 として、この谷間の盆地が常夏の高温を保っているのではないか、と想像していた。 「帰ろうか」と立ち上がり、マダムに、 「しェしェあ、つぁイちェンあ(ありがとう、さようなら)」と言って勘定台のあるフロント の小姐の前に立ち、「とぅおシャおチェンな(いくらですか)」と問うた。  普段ならこうは言わない。 「ジーくゎイ(いくら)(小銭を尋ねるときに使う)?」と言う。  お茶の2杯ぐらいで「多少」を使わないほど〈郷の習慣〉に浸っている。  小姐のそばにマダムが来ていて、 「ニんプゥやォふぇイ(あなた様、お代は要りません)」と財布の手を押しとどめた。 「ケぃニィそン(差し上げます」  ご好意もここまでになると、私だっていささかうろたえる。 「不、不(ぷゥ、ぷゥ)(いけませんよ)」と言い合ううち、 「しゃァつゥウォめんちゅィりーベンだシーほゥ(こんど私たちが日本へ行ったときに)」 とゆっくりはっきり言った。  私は〈ことば〉を受け入れ、名刺をもらい、私の名前とメールアドレスとをそこのメモ用紙 に記し、 「太謝謝了(ほんとうにありがとう)、来日本時見(日本に来た時、会いましょう)」と店を 出た。  この地域に電源開発がなされたとき、ロシア人を初め先進国の技術者がたくさん来ていて、 彼らが茶を飲みマダムと話したのだろう。  日本人技術者もいたはずだ。そして今は先進的デザインは残るものの閑古鳥が鳴く日が多い に違いない。  私たちは先刻、昼食した店の向かいから帰路のバスに乗った。  ほぼ満員で、。女子中学生が多かった。    車掌が車内に向かって何か大声を発した。  だが私の耳にはそれが通常の中国語には聞こえなかった。 すると周囲の女学生が一斉に席を立った。 「Sit down, please」 大柄の女子中学生が私に言った。 「Thank you」 私は笑顔で〈好意〉を受け入れ、 「Here you put your school bag」 と彼女の重そうなカバンを私の膝の上に乗せるよう提案した。  二人には約20分、攀枝花駅前まで英会話レッスンの時になった。 「Do you come from Japan ?」 「Yes. Do you want to come to Japan ?」 「Yes. I want to go to Japan and also to America」 「So you are learning English ?」 「Yes. Do you understand my English ?」 「Off course yes. If now you go abroad, your English will do enough,I think」 「Oh, really ?」  彼女は目を輝かせて喜びを表し、隣の無口そうな友人に現地語(だろうことば)で報告 した。  二人は腕をたたき合って、日本人の言から得た喜びを示し合った。  下車する前に、私は名刺(メールアドレス入り)を渡した。彼女とその友人はそれぞれ 3文字の姓名を私の手帳に書いた。  ホテルのフロントで、この地の一日観光を尋ねると、「有有(ありますとも)」と答え、 隣の商務室に業者を呼ぶという。 「シェンまシーほゥ(いつ)?」 「現在、馬上(いますぐ)」  ほんとにすぐだった。  示した2つの観光ルートにほとんど差はない。  明日8:30出発、長江の第一、二、三灘、発電所、外人技術者住宅街、昼食はこの地で有名 な川魚料理、5:00には帰着。 「行(シん)」と諾したが、料金は今まで経験したほぼ倍額だった。  前夜は夜行列車、早朝めまい発作を起こしたので、早めに就寝したが、観光社から電話が あった。 「お昼の地元料理以外にはどんな料理をお望みか」というので、「野菜がいい」と答えた。  肉などと答えると、何の肉になるのやら、思いがけない生き物を食べることにならぬとも 限らない。  朝、ホテルに来た大きめの乗用車には、20代後半の女性がいて、普通話(標準語)で挨拶 した。 「この地に珍しい標準語だね……」と言うと、 「父は瀋陽の炭坑にいましたが、ここの開発のために選ばれ、やってきたので」と答えた。 〈芸は身を助く〉と言うが、この国、〈普通語が飯の種〉である例は多いようだ。  町の中央に着くまでに、すぐ新しい交渉が始まった。 「ちょうどもう2人、このコースを観光する人がいて、いっしょでもいいですか」  私は正直に言って気分が良くなかった。日本語だから遠慮なく妻に言った。 「おい、もう2人、お客が乗るがいいか、って言ってるよ」 「じゃ、安くなるのね。どう?」  私はそのままをガイドに伝えると、 「請等一下(ちょっとお待ちください)」 と車を降りてスタンドに停め、自分はタクシーで来た道を戻って行った。  15分後、車内に戻ったガイドは、 「このまま行ってくださいと、会社は言いました」 と報告した。  長江を堰き止めた堰堤には発電所のガイドがいて、慣れた日本語で説明した。東洋一の 高さを誇ること、各国の技術を集めたこと、発電量が中国の何分の一(数字を忘れた)を 賄うこと。  説明を終え、地下の発電所へ歩いて移動するとき、どこで日本語を学んだかを問うと、 彼女も日本に住んだ経験があり、姉は今も日本で結婚し住んでいる、と言った。  人はどこでも連帯し合えるものだ。  地下は思いの外に深く、広かった。大きな羽根車が不断に回転している。時間を費やし て見学したが、どこか大切なところは見せていない感じがしていた。でも構わない。私た ちの期待する観光は、発電所見学ではない。  発電所の資料館は、対岸にあった。2階から長江に突き出た展望台も備える。展示物に は当地の魚類、鳥類野獣の剥製や写真が陳列されてあった。  批判するつもりは毛頭ないが、剥製や標本は〈質の劣化〉を見せていた。  中に発電所建設祈念などの式典風景があり、旧資料館から移された時に若干の変化 (取捨選択)があったと説明を受けた。  私は、推測を交えて記述するが、記念式典はどこにも日本人の氏名が記されてなく、人 も写っていないのが気になった。  ほぼ完全な自信を以て断言する。インフラ整備、しかも近代化のための国家建設に日本 が関わらないわけがない。ODA第一位で援助をしたきた日本が、ここには全く報告されてい ないことに、ある〈意図〉を感じた私の方が異常だったのだとは考えることはできない。  この国の学徒をはじめ一般の見学者も多いはずで、だからこそ当地の観光ルートに必ず 組み込まれている。  そしてそこには大事な事実から見学者の目を反らすべく展示が意図されている。  成都、九塞溝で推測したチベットの事実に対する隠蔽と根を同じくする〈こと〉だと、 深く印象に止めた。  昼食はこの資料館に接する料亭で摂った。  お客は、私たちとガイド、運転手の4人だけだが、運転手は席に着かなかったから3人 で丸テーブルに広く座った。  川魚料理は、魚が固有の名を有するものの、中国ではよくお目に掛かる丸ごと油揚げの 一品だった。  塩味は岩塩に依るのだろうか、快い。小骨も、中国ではテーブルクロスの上に構わず出 せるから、必要の都度、指を口に突っ込んで、頭部以外はすべて骨格になるまで食べた。  その間に厨房からコック(厨師)がガイドに何かを言いに来た。 「昨日、野菜料理がいいと仰いました。次のどれにしましょうか。ナス、唐辛子、青菜の おひたし(ソテー)、もやし……」 「ナスがいいね」  私はすかさず言ってから、妻に、「ね」と同意を求めている。  しばらくしてナスの油炒めが大皿で出てきた。  ナスは油に良く合う。大きくタテ半分に切って油で熱すれば、この塩味なら申し分ない。  私は期待して最初の一切れを箸で採り、自分お皿に載せた。  一口噛む。美味しい味汁が口中に広がり、期待通りだった。  2本めを採って噛んだ時だった。 「わっ」と言いざま私は口中のナスを自分のさらに吐き出した。  妻もガイドも何が起こったのかと驚いていたに違いないが、私には記憶がないほど激し い反応を起こしている。 「なんだ、これはっ! イヤな味だッ」 と叫びながら口腔内にはもう残っていないのに唾液を 「ぺっ、ぺっ」 と皿の上に吐き続けていた。  そんな行為も30秒とはもたず、 「つゥスお、つぁィナール(トイレ、どこ?)」 と叫びながら外の廊下に出ると、テーブルに就いていなかった運転手がいて、トイレに案 内した。  私はトイレで唾をはき続けただけではない。指を喉の奥に差し込み、胃の中にある先ほ どの食べ物を全て出そうとした。  床に膝を付け、便器を覗き込んで、「ゲェー、ゲェー」と吐いた。みんな吐いてもまだ まだ嫌悪感は消えず、3度、4度、5度と入るだけ奥まで指を突っ込んでは吐いた。  胃に反射行動が起こり、「ウェー、ゲェー」と嘔吐するとき、譬えは申し訳ないが、油 炒めナスへの気持悪さ以外の〈気持ち悪さの全て〉を吐き出そうとするかのように、指で 喉を刺激していた。  あまりに長いからか、妻が心配してトイレを見に来た。  嫌悪感の消えないままテーブルに戻った私は、料理を見るのもイヤだった。何の料理が 出ていたのか記憶もない。  ご飯も食べなかった。もし食べたら、まだまだ吐き戻しそうだった。 「我要只有冷水(冷たい水だけほしい)」  出された生ぬるい水に氷片が浮かんでいた。3分の1ほど飲んだが、気分は変わらない。  午後は、外人技術者住宅見学だと言う。私の気持は全く乗らない。  でも、日本にもかつて数多く存在した文化住宅の100戸ばかりが、この国には珍しく整然 と並び建っており、ショッピングのための商店もあった。  ガイドは午前よりも数等心遣いを見せながら説明をしたが、私が時々「しィマ(そうです か)」と相槌を打つだけで、妻に翻訳してあげることもしないまま、そこの見学は終わった。 「時間がとても多く残りました。どこか見たいところがあれば言ってください」  まだ3時にもならない。5時帰着には早すぎるからだ。 「いいえ、ありません。もう帰りましょう」 私はガイドに言った。  しばらく考えた後で、ガイドが提案した。 「駅前まで戻って、甘い物でも食べましょう」 「いいえ。私の気分は治っていないので、ホテルで休みます」  駅前近くまで戻ったとき、再びガイドは提案した。 「夕食を一緒にしませんか」 「申し訳ないが、食欲がまったくない。ことばだけでも吐きそうになる」  またしばらく沈黙の後、 「気分が治ったら、夕食後でも甘い飲み物を一緒に飲みませんか」 「いいえ。もう構わないでください。私、怒ってるんじゃない。今日は案内をしてもらっ てありがとう。運転手さんもありがとう」  そう言って、ホテル前で車を降りた。  夕食は、食べる気にならないだけではなかった。 部屋のトイレで、また喉に指を突っ込み、吐き戻しを何度も試みた。 [後日譚] 攀枝花=昆明間の普通列車を別項で紹介することになるが、それはこの翌日、 私には印象深かった見聞譚である。 問題はこの〈気分悪さ〉の原因は何だったのかと言うこと。   ほぼ間違いなく〈味の素〉の入れすぎだったのだろう。繊細さを欠いて多用するのが サービスと心得、ショベルで掬い込み、私の2切れめのナスは、それをまともに浴びて 料理された、とは自信ある推測である。

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☆ ☆ [その64]ヴェネツイアの少女 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 Veneziaはイタリー語、Veniceは英語である。  現地に生きる人の身になって考えれば、どちらを用いるのがいいか判断もできよう。  私は名古屋に住むが、「ナごーヤ」とか「ミんグゥう」と呼ばれるとき、〈我が街〉の 実感とは程遠い。  さてこの日、サン・マルコ広場から海を前にした姿勢で右へ右へと移動したのは、対岸 に清楚な教会を見つけた妻が、それを絵にしたかったからだ。  広場を大分過ぎた辺りに船着き場があった。時々人が降りてはサン・マルコの方へ行く。  ほどよい場所を得、妻は画板を拡げてスケッチが始まった。  対岸には、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ聖堂が、海面すぐに建っているこの上 ない情景だった。  このような時間、絵を描かない私はどうするか。日記や見聞記を書く。時には下手なス ケッチも交えるが、罫線の上に描くから、物にならない。  妻は我を忘れて描いている。私もそばでノートを拡げ何かを書いていた。  船を下りた若夫婦が、私たちの近くのベンチで休んだ。2人の娘は揃いの空色ワンピー ス、小さい子は幼稚園か。大きい方は小学生低学年か。  私の前に砂場があり、2人は砂遊びを始めたが、ほんとうは砂遊びの傍らこの珍しい東 洋人に興味を持ったのだろう。父母も同じ思いで、その場を去らず、子どものするままに して、休息していた。  そして私の好奇心に火が点いた。  目の前で遊びながらしばしば私に目を向ける少女を、私もじっと見つめている。  幼い方の子は、砂遊びの途中、何度も立ち上がっては、スカートを高々とまくり上げ、 ヘソの上まで広く白いお腹を見せる。するとその度にお姉ちゃんが、注意して引き下ろ す。  小学生ともなれば、公衆のモラルを知っている。スカートを高々とたくし上げるのは、 日本でも注意されるだろう。  この幼女、私に真向かいになってはたくし上げ、その都度お姉ちゃんに叱られていた。  両親の会話は、どうやらドイツ語らしく思え、私はお姉ちゃんに尋ねた。 「Wie viel Yahre alt sind Sie(いくつですか)?」 「Neun(9つ)」 両手で示しながら言った。 「Gehen Sie Schule(学校へ行ってるの)?」 なぜかすぐ通じず、お母さんが後ろ から教えた。 「Ya(ハイ)」  私は膝の上のノートを示しながら、 「Schriben Sie Jieren Name(名前を書いて)」と所望すると、 「Kathorine」と書いた。  すかさず「Lesen Sie、bitte(読んで)」と言うと、 「カトリーヌ」とうっとりするような可愛い声で、ゆっくり2回、読んでくれた。  私のノートにカトリーヌちゃん自筆のサインが残っている。  隣の頁には、街中の橋の下に人が降りる段を中心に橋と運河と相迫る建物とが、ベネチ ア風景としてスケッチしてある。  邪魔になる罫線の上に。

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☆ ☆ [その65] コペンハーゲン 市役所の日 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 ハンブルグ==コペンハーゲン間は列車ごとフェリーに乗る興奮を記憶に収め、デンマーク での3日間を予定していた。  ホテルを出るとき、この日の予定は、オスロ行きフェリー乗り場の下見を兼ねて一日市 内を歩き回ることだった。  伝書鳩が巣を発ったすぐ付近の上空を飛び回り方位感をつかむように、私たちも初めは周 辺数キロを、地図と照らし合わせながら歩き回る。  駅前をやっと過ぎた辺りに、大きな建物があり、前には広場もあった。そこを通り過ぎて 港町に至るはずだと理解して歩いていた。  この大きな建物は何なのだろう、好奇心を高ぶらせながら近付くと、その玄関へと長い人 の列があった。 私たちが行こうとする方角とは直角の彼方から人の列がこの門を続き抜け、玄関へと入っ ている。 動きは遅かった。  何を観るのか聴くのかは分からないが、好奇心でこの列に加わるとすれば、かつて経験し た大阪万博の倍にも匹敵する時間を覚悟せねばならぬと思われた。  何の集会なのか尋ねてみることにした。  有名タレントか歌手が来るのかも知れない、と思いながら列の中の小母さんに問うた。 「何があるのですか」 こんなに大勢が並ぶなんて、と手で列の先を示しながら問うと、確 かな英語ではないが、こう聞きとれた。 「今日は、ラートハスの日です」と。 〈ラートハス〉とは、確か私の知る単語だったと思い、しばらく考えた。Rathousはドイツ の市役所。  ということは、この大きな建物はコペンハーゲンの市役所にちがいない。そして市役所で どんな催しが?  この日、私の頭脳は老化してしなかった。この高額付加価値税国の「公費公開制度」のこ とが瞬時にして ひらめいていた。  税を公開する日、つまり〈市役所の日〉、みんなで見に行って確かめる日、なのだろう、 と。  2014年の日本で話題になった、いや笑い者になった県会議員がいる。〈政務調査費〉の使 い方たるや日本人に理解できる人があるのか、と言えるほど奇異で不可解だった。  年に200回を超える神戸==城之崎温泉をグリーン車で200回以上通ったことになっていた り、家電量販店で数十万円の買い物があったり、金券ショップ換金用の切手が大量に買われ たとか、そういうバカバカしくも癪に障る公費の浪費を、公務員の誰にも咎められずに済ま されていたのがバレた。 そして記者会見で泣き喚いたという事件があった。  コペンハーゲンでは(公開日)を設け、市民に見せる。是非、日本にも採用したい制度だ。  筆は滑るが、こんなことも聞いた。 「隣はかくかくしかじか、こんな良い生活をしているが、ちゃんと税金を納めているのか」 といった類の疑問にもきちんと答えられる公開をするという。  プライバシーを理由に「隣は何をする人ぞ」、「隣に関心を持たぬが美徳」と心得る日本 人とは異質で論理的な社会がそこにあった。  税とは社会を構成するみんなが公平な分担をするべきもの。けっして隠しごとではない。  私にはそう理解できたが、各位はどうだろうか。


☆ ☆ [その66] 見なかったナスカの地上絵 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 地球上でいまだに謎とされる不思議は数えきれずあり、そのころ好奇心を最も刺激して いたのはナスカの地上絵だった。 都合のよい高所から見下ろすか空中から俯瞰するときにその絵が何を描いているかが分か るというから、宇宙人描画説も出る。 人類史には超古代文明があって空中や宇宙空間を飛翔したかも知れない……と想像の世界 は膨らんでゆく。 〈本物をこの目で見てからだ〉と、実証を重んじ科学的認識を求める私は結論を出した。  初夏だった。高度は2000〜6000mを超えるアンデス観光で、山脈を列車が越えるとき、高山病 に罹る人があり、粗末な客車内で苦しげに横臥する写真を見るにつけ〈予行演習〉をしてから 行こう、と決めた。  日本で一番高いのは富士山。  妻と一緒に富士駅からバスで五合目まで来たとき、4時を過ぎていた。  私は使わなくてよいお金を使わない。JR普通列車で来た。昼食もホームのうどんで済ませ ており、五合目の食堂で早めの夕食を、しっかり食べることにした。 〈しっかり〉ということばは問題性を感じてはもらえないだろうが、おかず料理がきちんと 付いた定食のことである。  もちろん(と言っても私の主観的な〈もちろん〉だが)アルコールも注文する。冷やの日 本酒の2合ほどを飲んだ。 「登れるところまで登って、山小屋に泊まろう」  登り始めた時は、怖れもも疲れもない。  一時間ほどすると、急坂へ踏み出す足の一歩一歩が重くなってきた。 「まだ六合目か」  山小屋に入るにはまだ早く、次の朝、頂上で日の出を拝むには低すぎる。  一歩、また一歩、「うんうん」と声を上げるうち、やがて「よいしょよいしょ」の掛け声 に変わった。  十分もすれば、「休憩するよ」と傍らの岩に腰を下ろしては自らを励まさねばならない有 様。 それでも七合目の山小屋に近づいて来た。 「ここで泊まろうか」   もう薄暗くもなっていて、二人は山小屋に入り、「部屋、ありますか」と尋ねた。 「あります。どうぞ」だけの答えでいいものを、小母さんは、 「今日はね、天気がいいですから、上の方の宿は混んでいるでしょうね」と注釈した。  商魂と思わなかった。 〈富岳百景〉の見えない山を、茶店の人が身振り手振りで示す親切心をイメージしたのだか ら、お人好しも極まれりだ。  寝床は暗くて湿っぽかった。明朝は早いからと、まだ残るアルコールの精力に逆らわず すぐ寝入った。  4:30、朝食は早い。薄明るい山道を一心に登り始めた。  100メートルも行かぬうちにもう息が切れる。腰を下ろすにはどこがいいか、そればかり を求めて歩を進める。  ああ、もう辛抱の限界、と座る。  呼吸を整え、勇を鼓して立つ。  よいしょっと、もうひとつよいしょっと、もうひとつ、だ、とまで頑張ってはいたが、す ぐに、「はやく、はやく、どこへ座ればいいか」と思うようになってしまった。  立つときは次の石を見つけてからにするようになった。  少なくとも5歩で一回は腰を下ろすようになっていたとき、天は白んできた。  上から自衛隊が日の出を拝み終えたらしく、大股で勇ましく下りてくる。すれ違うとき 「おはよっす」 「おっす」 「ごくろうさんっす」と、みんなが例外なく声を掛ける。  私も、力なく、でも渾身の力を振り絞って、「オッス」「ハ、オース」と返していた。  100人はいたか。  すれ違い終えたとき、私には脱力感しか残っていない。  石から起ってすぐ前の石に、足でではなく、手でしがみつく。挨拶行動が私のエネルギー を消耗してしまった。  這ってたどり着いた八合目の山小屋の前で、妻に言った。 「私はここで横になっている。あんたは構わず頂上へ行ったら。下ってくるまでここで待つ よ」  私より10歳以上の先輩たちが戦場で吐いた悲壮な〈ことば〉と同じに思えた。  ベンチに這い上がったが、身を起こせず、横臥していた。  いろんな人、いろんな団体が頂上へと通りすぎてゆく。情けない我が身を嘆くゆとりさえ 失っていた。  子どもたちの一団体が小休止をした。子どもたちはみんな元気だったが、引率の女性の先 生ひとりが、表情も蒼白、今にも何かが起こりそうに見えたが、「出発!」の声とともに、 また登って行った。  もう90歳になるという人が、私の横に腰を掛け、 「今年はこれで10回目になる」と言い、 「上まで登れない人はこの辺が限界、何度練習しても高山病は治らない。その人の限界なん だよ」と教えてくれた。  そして何でもないようにすっと立って登っていった。  霊山、霊峰、信仰の山とは何であるか分かった気がした。  日常生活の中では区別も差別も分からない人の本性が明らかになる。いや〈山〉が明らか にする。明らかにしてくれる。明らかになってしまう。  人を見る目がある人にも分からない本質でも、医師が診断できない本性でも、否定しがた く判別してしまう。  私は高山病体質であり、それは富士山ばかりかアンデスも、もちろんヒマラヤも、私には入 境が許されな い場所なのだろう。  高山に拒否された私が(後日、発見したことがあるので付記しておこう。)  チベットの南部にシャングリラ(香格里拉)県がある。チベットそのものがすでに高地だ が、6000メートル級の高地森林公園がある。 そこを高山に弱いはずの私が人並みに観光したのである。  各位にはその謎が解けるだろうか。  答えは実に平易・簡単な理由である。私は酸素ボンベ、と言ってもダイバーが背負うよう な大きなボンベではない。卓上ガスコンロのボンベ程度の大きさの酸素ボンベが、スポーツ 店の登山用品にある。キャップを外し、それで鼻と口とを覆い、プシュッ、プシュッと一度 に2回ほど噴出させる。  こうしては歩き、数分経って息が切れればまた同じことをすればいい。  なおシャングリラの高地森林公園で半日を堪能したときの印象は、別の項目で紹介する。  乞うご期待。


☆ ☆ [その67] 日本を見せよう。居合い抜きは日本の魂か☆ HTMLのバージョンを宣言する
 ニュージーランドのホームステイが残り2日となった午後、ホスト家庭を招いた私たち日 本人主催のパーティーがあった。  それぞれが持ち寄る食材や調理の役割が決められた。私たち夫婦は、その上に会計も担当 することになった。  さる地方の会長T氏は、催し物をすでに計画し、それを準備して来ていた。  そのことを予め知らされてはいなかったので、私にはちぐはぐ感が拭えなかった。  この種の親善の会を計画するのに、議論など面倒なことは避けたい気もあり、〈みなさん が相談して内容を決めるのがいい〉などとは、発言好きの私も言ってなかった。  今は、やや後悔している。  盛会だった。  9組のホストファミリーはみんな揃った。準備側の私たちも開会に臨んだ。 そしてパフォーマンスが始まった。  T氏は、腰に日本刀を構えた姿勢でみんなの前に立った。  みんなとは、これから始まるパフォーマンスを見るために広い場内の床に座したホスト家 庭の人や今ステイする日本人のみんなを指す。  私は一番前に座っていた。  T氏は腰をやや沈めたかと見る瞬間、「エイッ」と喚び、腰の刀を抜き、私の鼻先20センチ ばかりの空を切って、床上間近にピタリと停めた。  居合い抜き、を披露したのだった。  拍手は……起こらなかった、と記憶する。  T氏は私に近づき、「危ないじゃないか」と、小声だが強く叱責した。  私は慌てることなく後ずさりしたが、しながら〈何を言いいやがる〉と反撥していた。  彼が最初にパフォーマンス〈出し物〉をすると、いつ、誰が決めた。  それが、居合い抜きだ、といつ知らされた。  自らが勝手に決めた演目で勝手に始め、私の観る場所が近すぎて危なくても、私には予め それを避ける手立てがあるわけはない。  何たる独善野郎。〈危ないじゃないか〉は、私がT氏に言って当然なことばだった。  元の位置に戻ったT氏は、「I-ai-nuki, of Samurai」と叫んだ。  バラバラとまばらな拍手があったかどうか、記憶はない。もちろん私も拍手なんかしてい ない。  ホームステイで英語を学ぶシニアの団体である。T氏がリーダたっだとしても、他の参加 者の了解もなく演目を自ら決める権限がある、とするのは独善にすぎる。  私たち夫婦がステイしたのはピーターとジュン夫妻の家(の2F)で2人は私たちを友人 と引き合わせ家のパーティーでも外の遊びでも常に参加させてくれた。  ある夕べ、友人の2家族がやってきて、歌い踊ったとき、私にも何かを、と所望された。  私はギターを抱え、高校時代、ラジオで覚えたウエスタンを歌った。 「I wish I was a single again, agan. I wish I was a single again. For I was a single my pocket would jingle, I wish I was a single again」  英語で学ぶ仮定法の典型的な例文だが、singleとjingleの韻が、poetryらしく思え、私の 記憶に残ったものだった。  この時、〈夫〉族は3人ともやんやの喝采だった。〈妻〉族はニガ笑いをしていた。  私は1回歌っただけだが、〈夫〉族はそれをさらに2回繰り返して合唱した。 〈妻〉族への嫌がらせなんかではけっしてない、と私は思った。  生活に責任を持った存在として世の夫は、洋の東西、南北を問わず、自らの楽しみを犠牲 にして家族に献身する。  互いの共通因子を認識する絶好の歌だった。


☆ ☆ [その68] ザルツブルグのベルグと特攻隊 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
 これで最後にしよう、と2ヶ月のヨーロッパ旅行に出掛けた。  名付けて、「Die Letzte Reise」。HPの別項にその全体像を描いている。  ザルツブルグの市内を観たあと、残りの一日で日帰り旅行を試みたときの、印象深い出来 事を紹介しよう。 この近郊の街、バードガシュタインの一つ手前の駅から、トンネル補修工事中とあって、代 行バスが走る。  急坂、急峻、山あいの街を観光するのもさることながら、ゲルマニウム温泉でも有名だそ うで、日数の余裕があったら、ここで1泊していたかも知れない。  急峻な地形はアルプスの東端に位置するからで、道を歩き橋を渡るとき、その下の下(しも) 手は目もくらむような高所(下手に深いという意味)で、下り降りてきた谷の急流が70〜80度 にも跳び降りて流れゆく。  目が眩むから瞑っても、音が意識を厳しく怖ろしがらせ続ける。  午後もまだ3時すぎだったが、代行バスの停留所まで戻ってきてしまった。時間があるの で、この日は停まっている鉄道駅に入り、広い待合室のベンチに座っていると、年の頃、90 歳過ぎかと思われる背の高い老人(とても姿勢良く背筋が伸びた)が両手にストックを突き 入って来た。  けっして速くはない足、その細すぎる老人の脚を一歩ごと確実に出しながら、私たちの側 に来た。  待合室には私たち以外にひとりだけ人がいたが、男性は明らかに私たちを目指して近づい てきた。 「ヤーパンか(Japaner)?」 もちろん私も「Ja(そうです)」と答える。  次の質問は唐突だった。聞き間違えてはいけないと思い、聞き直しては確かめた。 「ヤーパンはアメリカに身体ごとぶつかって戦った。ヤーパンは自分を弾薬にしてアタック した。そうだろう?」  確かにそう言った。  この男性の年齢や体形から推定すれば、第二次大戦末期、ナチスドイツの青年将校だった ろう。 「Ja,wir heissen "Tokkou-tai"(そうです、私たちは特攻隊と言いますよ)」 「ヤーパンはアメーリカと戦った」 半世紀前の青年将校は繰り返した。  私の「トッコウタイ」ということばには反応を示さず、立ったままで言っていた。 「Setzen Sie, bitte(どうぞお座りください)」と、右隣のベンチを指さしたが、座ろうとは しなかった。 一度座ると次に立ち上がるのが大変なのかも知れなかった。それくらい脚は細かった。  代行バス発車時刻もあと30分ぐらいとなって私たちは駅広場向かいの臨時バスストップに 来た。  小学生の男の子が数名いて、同じくバスを待つ。 「ヤーパン?」、「ヤー」  私のドイツ語力では後は続かない。 「Wie viel Yahre ?(いくつ)」  一人め、「Acht Yahre(8歳)」、 二人め「Nein Yahre(9歳)」、  三人め「Hundert Yahre ! (100歳)」と叫んだ。  異国人をからかって遊びたいのか。 「Nein(違う)」と言い返すと、「Hundert」と笑って言った。  彼方の雪山を指さし「Was(何)?」と言う。  私は「ベルグ(Berg)」と言うと、みんなが笑った。  なぜ笑うのかと思う間もなく、ひとりが、 「ベァグ(ァは口の奥でerと調音している)」  「Ber-g」 私もあいまい音で発音する。  それでも笑って「ベァーグ」と言っていた。  そこへさきほどの半世紀前の青年将校が来た。 「お前たち、ヤーパン、勇敢なヤーパンを知っているか。ヤーパンはな、アメーリカの軍艦 へ、飛行機ごとぶつかって行ったんだ」  もちろん私の想像も加えての翻訳だ。  子どもたちから質問があり、将校は答えてはヤーパンを賛美する。  男の子らは、またまた質問を続ける。  バスが来るまで、男の子たちは背の高い二本ストックの老人を囲み、第二次世界大戦末期、 ヤーパンがどんなに勇ましくアメリカと戦ったかをひたすら聞いていた。  西ドイツでは日本軍賛美譚を聞いたことはない。  でもここオーストリアではソ連占領時「反米プロパガンダ」のもとで、日本軍の戦いが このように伝えられていたに違いなかった。


☆ ☆ [その69] 梯田 外国語力が誇らしい山頂の雨 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
※平がなは高く、カタカナは低く発音する
梯田(てぃーティエん)とは棚田の中国語。日本でも山の麓から段状に水田を作り 上げたところは 名勝に数えられている。 中国旅行に慣れてくると、私たち夫婦は現地ツアーに参加するようになった。中国の旅行 社が企画する中国人向けの旅行に参加するのである。  もちろん事前に私たちは日本人であることをことわり、参加が可能かどうかを聞き、迷惑 を懸けたく ないので〈特別な配慮は要らない〉ことを申し出ておく。  中国人旅行団に紛れ込んだ経験は、この梯田の他に、杭州(の西湖、蘇堤、龍井茶)、蛾 眉山、楽山大仏、客家土楼、白族、麗江、シャングリラ、の7回を経験している。いずれも 旅行団中に私たち二人 だけが日本人だから日本語のガイドはない。例外と言えるかどうか、 一回だけ香港からの若夫婦が一組いたこともあった。 中国に旅行ブームが始まったのは日本の影響が大で、日本のODAはこの国の高速道路づくり に大きな 資金を提供しているし、日本人の観光団体が旅して回るのもこの国の人たちを刺 激している。  その高速道路は快く、トイレ休憩などがあると、日本のとあまりにもよく似ていたり、部 分的には日 本以上だと感じたりもする。   違うところを主眼に語ろう。 @一定の人たちが一緒に観光する、いわゆる団体旅行ではない。  街中の随所に点在する「旅行社(リュウヨおしゃァ)」に個人が申し込み、互いにつなが  りのなかった者どうしが同じバス、同じ旅(さらには同じ宿)で行動を共にする、という  形式が一般的だ。 A同一観光ルートなのに「買東西(マいとんシ)」が付くのと付かないのとがある。例えば  「楽山一天旅游」とは「楽山大仏一日観光」の意味だが、末尾に「……買東西」が付けば、  「お買い物付き」旅行のこと。意外なのは、「お買い物付き」旅行のほうが10%ほど安い  のだ。観光目的で観光に専念する旅行よりも、買い物行動の付属する旅行の方が安いのは  なぜだろうか。私は理解できないでいた。 Bバスは初日の出発に際して街中の数ヶ所の駅やホテル、あるいは広場などで予約客を拾い  集めてから観光地に向かう。 Cバスガイド(導游)は乗っている間じゅうマイクを握り、話してばかりいる。実にタフで  ある。残念ながら私の語学水準ではほとんど聴き取れないが、例えば蘇東坡の記念楼に行  ったときなど、一時間ほどもこの学者政治家のことを語っていた。  買い物付きツアーが何故安いかは、参加して分かった。    一例で言おう。名所を見終えてから次の目的地へ行くかと思うとき、「刃物工場へ行く」  とガイドが言った。  着くとすでに観光バス何台かが工場入り口前に停まっている。  中へ入るとすぐ製品の展示場で、刃物以外に豪華そうな置物があったりもする。    次に製造工程の実演を見る。果物ナイフが、工作刀が、そして菜刀(つぁイだオ)が作ら  れている。   その次は学習室で、並べられた椅子に旅行団一行が座ると茶が振る舞われる。講師が出  てきて、流暢 に製品の良さを語る。その時、ステンレスの包丁で紙などの切れ具合を示  しながら、旧来の菜刀(つぁイだオ)とは違う優れものだ、と言って観客を驚かす。   サンプル品が順に回され、その間に「ほしい人は手を挙げなさい」   それは典型的な催眠商法だと私には見えるが、一行は一斉に手を挙げている。    ただ私と妻の二人だけは手を挙げない。見慣れているステンレス包丁だし、海外旅行者  が出入国管理を通るとき、刃物があっては困るからだ。   講師が怪訝な目つきで私たち二人を見る。すると、同行の仲間は口々に、 「他?是日本人(彼らは日本人だ)」とか、 「日本人听不?(日本人は言葉が分からない)」などと言っている。  私は特に反応せず、 「我?不要了(私たち要らないんだ)」とだけ言っておく。  話が大きく逸れた。買東西(マいとんシ)付き旅行は、立ち寄る工場のサービスによって 旅行社も添 乗員も旅客も、余録や余得があるからなのだ。  梯田へ行く日、天気はよくなかった。田植え時は中国でも雨期。バス道路は次第に山に入 り、路傍の緑からしずくが滴りはじめていた。  左折右折を繰り返しては登るうち、目的地に入る感じの門があり、バスはそこで停まった。 一同は傘を差すやら雨合羽を羽織るなどして幅1mほどの狭い山道を徒歩で登り始めた。 路面には不揃いの石が置いてあり、石段と飛び石の中間ぐらいのところを歩くので、両脇の 田圃に目をやる余裕なんかない。  せっかく梯田(棚田)を見に来たのに、天気が悪くて全景は見えないし、足元が悪く雨雲 にかすんだ山裾の情景も味わえない。30分も歩いたか、数軒の大きな農家にたどりついた。 「午飯(ウーふぁン)、午飯!」と引率者が叫んだ。  農家の中ではすでに4〜50人がぎっしりテーブルに就いていた。  振る舞われるのはこの地方の珍しいご馳走と聞いて、私は期待していた。 「竹飯(ズーふぁン)jという。    好奇心の強い私は、テーブルの席を決めると、立って厨房を覗きに行った。 50歳代の婦人が今、「竹飯」を作っていた。直径7〜10cm、長さ30cmほどの竹筒に、洗った 米と鶏肉な どを詰める。  竈の上に10数本を並べて、下から火を燃やす。  山から採ってきた枝や薪を燃やすのは、雨期(梅雨時)のため、とても難しく辛い。  小母さんは目を赤く腫らして、燃えにくい薪を火吹き竹で吹き、団扇で風を煽り立ててい た。その傍に 行って、私は話しかけた。 「しゅおシェんま?(何と言うの)」と煙の中の竹筒を指さす。 「……?」 「ニぃはンずゥま?(あんた、漢族なの)」 「……?」  2問とも答えてもらえなかった。  傍らに汚れた水を湛えたバケツがあり、小母さんは今、焼き上げた5本をバケツに投げ込 んだ。 「ジューッ」と発する音が終わるころ、取り出して薪割りのように1本ずつ手斧でタテに割 った。 〈なるほど〉  タテ半分に割れた竹筒には、鶏飯の味ご飯が詰まっており、それぞれが一人前のお膳とな る。  もちろんだが、私のお昼ご飯も竹飯だった。  それにしても小母さんはなぜ返事をしなかったのだろうか。  忙しくてそれどころではなかった、か、少数民族だから通じなかった、のか、あるいは、 発音がおかしい 外国人に答えてやるものか、と感じていた、等々と考えられる。  食後、さらに上へ登るるとき、にわか作りの土産物屋があって、その前でイギリス人夫妻 と銀細工売り の中国人男性とが、通じ合えなくて困っているふうだったので、私は偉そう にも通訳を買って出た。  英国婦人「この細工は、本物の銀か」  中国人「本物である」  英国婦人「細工をした人の名は判るか」  中国人「私だ」  英国婦人「他で買うより高くはないか」  中国人「高くない。この値段で買えるところは他にない」   二人に通訳をした後、私は勝手に言葉を付けた。 「……と、この人は言ってますがね、どうでしょうか(He said so, but I'm not sure he said truth )」  笑い声を後ろにさらに登ると、幼稚園のグラウンドほどの広場に出た。  この場から見下ろす棚田が芸術的だと説明があった。  私は広場の外れに立ち、雨に濡れるのも厭わず、ほんの少しでもいいからと雲の晴れ間が 現れるのを求め ていた。  しかしそんなシャッターチャンスは一度もやってきてくれなかった。  ふと気付くと、大学生らが10人あまり私たちを取り巻いていた。  一人の男子学生が、 「How do you think about this landscape ?(この風景、どう思われますか)」と問うた。  私を外国人と知って、インタービューする形で尋ねたのだった。  私の習性である。今どきの若者たちに気付かせたいことがあった。 「Very beautiful, I guess. Today I can't see them enough. For a lot of years, ah, for very long time, these landscapes were built by a lot of farmers. I can imagine those working people and I can feel they are very beautiful.」  周りの学生が、 「Wo--」とどよめいた。  見ろ、若者がこの老人の労働観とあるべき思想とを認めている。  その〈Wo〉に勢いづいて私は言葉を継いだ。 「很多農民、很長時間、把山斜面作梯田。我不能忘他們的努力。不説只有一見很美麗」  また「Wo……」とどよめいた。  二人の学生が近づいてきて、私にメールアドレスを求めた。  明らかに尊敬のまなざしで、私には快くまぶしかった。  山を下りきるほんの寸前に雲が切れ、私はビデオカメラを回したが、期待の何分の一も叶 えられなかった。  麓の集合場所まで来ると、そこにイギリス人観光団の数人がいて、私が通訳をしてあげた 夫婦の、ダンナ さんのほうが、仲間に、 「あの日本人が土産売りに向かって通訳をしてくれたんだ」 と言いながら、私に手を挙げて愛想をした。 「買ったの?、買わなかったの?(You bought ? or didn't buy ?)」  すると奥さんが、 「Naturally didn't buy(もちろん買わなかったわ)」と陽気に答えた。

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☆ ☆ [その70] ハルピン 市民奉仕をモットーにする鉄道公安 ☆ HTMLのバージョンを宣言する
※平がなは高く、カタカナは低く発音する
 中国、黒龍江省の中心はハルピンである。戦前から日本でもよく知られた都会だった。 旧満州時代を経ても都市名を変えていない。  またロシア人が作った街もほぼそのままに残っているし、とりわけロシア正教教会は、博 物館と名を変えてはいるが、いまだに市民にも観光客にも変わらぬ人気があり、いつも何組 かの新婚カップルが記念写真を撮るのに出会う。  冬、春節には零下3〜40度の世界になるが、氷灯(びんドン)のデコレーションはこの都会 ならではの壮大な景観を作る。  40センチ角の氷ブロックを積み上げ、北海道・札幌、円山公園の「雪祭り」に負けない模 造建造物が幻想の世界を作ると想像されたい。しかも、今想像された壮大なイメージをはる かにしのぐ実体がそこにある。  期待を越えるのはなぜかというと、ブロックの一つ一つの中に灯りが閉じこめられている から、透明ブロックで出来上がった建造物は、内部の各部位から夢の輝きを放ち続けるから だ。  零下数十度の世界は、周辺の景観に見とれながら散策するというような、のどかな環境で はない。気を許せばすぐ滑り倒れねばならぬ地面であり、半ば開いた太股と縮めた両膝とで バランスを取りながら、時にはへっぴり腰で恐る恐る歩く。  そんな時、大人は子どもの手を引いて守り、男は女の腰に手を当てて備える。いや、そん な一般論は聴かなくていい。仲良しの男女が雪帽子から雪靴まで極北の真冬の姿をして、そ ういう一対が互いに支え合い、不即不離の〈合体愛情物〉となってそろりそろりと観賞する するのが、もっともこの氷灯祭りにふさわしい情景である。  こんなロマンチックな宵を晩(おそ)くまで過ごした後、思い合う二人が「休憩しようか」 と、近くのどこかに入ったとしよう。  残念だが、ハルピンは豊かさを誇る街ではない。堅い羊肉串を焼いて、匂いだけは香ばし いが味は唐辛子の粉でヒリヒリに仕上げたのを、見つめ合いながら二串ずつ食べるくらいの 楽しみしかあるまい。  飲み物は、だって? もちろん安価の白酒(パいジョウ)だろう。  ケタ違いに高いマオタイなんか、特権階級の高級料亭に任せておけなばいい。質の悪い白 酒は、深酒をすると身体をこわし、酔えば感情のコントロールを失うから、一合ぐらいを限 度に外へ出れば、零下40度でも頬に快い寒風が吹き、真っ白な二本の吐息が、物言わずして 両の顔の前で交わるだろう。  ことばを教えよう。  君は「ウォーシーほぁんニー」と言おう。  女は「ウォーイえシーほぁんニー」と応えて甘えるだろう。  その先のことばは……タダでは教えない。 あの朝、私と妻は恐ろしく込み合った夜行列車からハルピンで降りたのだった。  どのような込み具合か。  (黒河=ハルピン)夜行列車には座席がもうなかったので、車内券承知で乗った。   ※71話以降に詳説  硬座は3人掛け。向かい合わせも三人。座席に下に他の乗客が潜っている。トイレもまま ならぬ一夜を過ごして、やっと着いたハルビンだ。   改札を出るとき、私は駅員に「紀念給我ba(記念にちょうだい)」と言えば、少し破った りして切符をくれる。  このときも例に違わなかった。  でも改札に並んだとき、人の肩までほどもある大荷物を持った男が二人もいて、私の前後 からぶつかったのを記憶していた。  満員列車から解放された私たちは、ともかく朝ご飯をゆっくり食べようと、待合い室外の 広い食堂に入った。  いわゆるビュッフェ=会計方式で、陳列料理を一通り見てから、〈さあ始めよう〉と列に 加わりながら、私はコートの下のズボンのポケットに手を入れた。 「ないッ」と私は大声を挙げた。  いつも入れてある革財布がない。  他のポケットには入れるはずもないのに、すべてのポケットを念のためにさぐった。 「しまったあーー、すられたんだ」  しばし呆然と立って考えたが、思案のし甲斐もない。  駅の鉄道公安に届けよう。出ては来ないだろうが、何かの役には立つだろうから。  空腹もくつろぎも、もはや問題ではない。駅務の職員を探して、 「銭包被盗了、公安在那里ya?(財布を盗られたんです、警察はどこですか)」と問うと、 小柄な一人が、 「来ba(おいで)」と私を従えて鉄道公安室へ連れて行った。  公安室の内部は机が三つ。私たちは一番大きい机(台)の前に座った。  室長らしい公安はとても忙しくしていた。  背の壁に「為了市民奉仕(市民のために奉仕)」と大書されている。  ことばに違わず室長は卓上の電話を受け、受け応えの間にも手机(ケータイ)が鳴る。  右耳に卓上電話、左耳にケータイというような慌ただしい器用さも見せながら応対に努め ていた。  私たちの前に書類を持った60近い老公安が一人現れ、〈取り調べ〉が始まった。  以下は私の推察も加えて対話を再現するが、その間、公安が私に一番多く発したことばは 「ああ、言葉が通じない〈听不ドン〉」だった。 公「どうしたのか」 私「財布を盗られました」 公「どこでか」 私「分かりません。列車内でか、降りたホームでか」 公「听不ドン! どの列車かね」 私「昨夜、黒河発、今朝ハルピン着、硬車です」 公「何号車か」 私「分かりません。後ろから4輌目か3輌目だったと思います」 公「ああ、听不ドン! 座席番号は」 私「分かりません。中央部より少し前だったように思います」 公「听不ドン! いつ気づいたのかね」 私「改札を出て、朝食を食べようと食堂でポケットに手を入れた時、気づきました」 公「いくら入っていたのかね」 私「1500元ぐらいです」 公「ほんとかね」 私「私、ウソは言いません」 公「職業は」 私「日本語教師。日本人。吉林省龍井市の延辺大学農学院。藪野豊(SouYe Feng)です」 公「就業証を見せて」  彼は直ちに電話した。  休暇中の大学は門衛の公安ものんびりしているらしく、かなり時間が掛かってから話が始 まった。 公「よろしい。では調書を書く」と言って、また同じような質問を繰り返し、たいていの項 目で(听不ドン)と嘆いて見せては、カーボン紙をずらして便箋一ページいっぱいに私の盗難 の経緯が清書された。 公「これを保険の盗難証明にしなさい」  それで終わりだったが、聞き取りにはほぼ一時間半を要していた。 公「今日、これからは」 私「延吉まで帰ります」 公「ついて来なさい。列車のところまで一緒に行く」  私たちは彼の後ろについてホームに行った。列車の中ほどで、 公「この車輛には車内切符を売る車掌がいるから、事情を言いなさい」と教えた。  何のことはない。私たちは盗まれた切符分を再び車内切符で補い乗車したわけだ。  なぜだか私は、万一の予備としてワイシャツのポケットに200元だけ隠していた。これが ハルピン=延吉=龍井の旅費になった。  さて時系列では書きにくかった公安室で見た情景を報告しよう。 (1)「市民に奉仕する」意味が、当初の予想とは全く違っていた。あの室長の忙しさは、  コネある人に切符を優先的に手配してやることだった。  ハルピンは広漠たる東北地方の一大センターであり、他都市や地方から、例えば夜行の寝 台券を出札窓口で求めようとしても全くと言えるほど手に入らない。ましてや春節の里帰り が多いとき、縁故を求め礼物を以て入手の手配を頼まれる。それらに〈快く〉〈奉仕〉して いる姿だったのだ。  調書聞き取りの最中、数度、使い走り風の若者が現れては室長の前で〈愛想〉を繰り返す。  室長は机の抽斗から数枚ゴムで束ねた切符を出し、札束と取り換える。通常の切符にして は金額が多い。軟臥の長距離切符を手配したに違いない。  他国では、いや少なくとも日本では見ることができない公安公務員の姿を身近に見た。 (2)、30男がしょっ引かれ、公安室に引きずり込まれてきた。  〈引きずり込まれ〉は大げさ表現ではない。全身で突っ張る男を公安が二人して引きずる。  男は二本の足を地面につけたままで抵抗するが、とうとう引きずり込まれ。ドアは閉めら れた。  すると今度は机の脚にしがみついた。両手を巻き付け、足を机の下に入れて、引きはがさ れまいとする。  公安二人は、指を一本一本はがし、腕を広げ、足首を掴んで奥の部屋へ連れ込もうとする が、男はそこが屠殺場だと恐れているのか、全力を振り絞り、あらゆる手段で離れまいとし ていた。  私はこの国の人民ではないから、この男とは常識が異なる。  男は今強制される行き先が、命に関わるところで、ほんの少しでも心身の努力を緩めれば、 その先にあらゆる〈保証〉hないと信じていた。  権力とは何か。日本人の私の認識が極めて浅く薄っぺらだったことを、目前の出来事から 知った。 Home へ もどる。