私の生活から二十一世紀を観る
              


                         (2012年 一太郎 で作った)

 人生には限りがありますから、ほんとうは丁寧にわかりやすく展開するはずのとこ
ろを、なるだけ単刀直入に結論を早く申します。

 私はごらんの通り、シルバー世代の男です。聴衆のみなさんは私がどんな生活をし
ていると想像されるでしょうか。

 私なりに日本人一般を想像し、その平均像と私とが一番大きく異なるところを三点
だけ申します。

(1)私は車(自家用車)を持ちません。自分では持ちませんが、人から「乗せてあげよ
うと言われ、「いや、私は乗りません」、と拒否するほど依怙地(いこじ)でもあ
りません。

 知人や親戚、息子の車に乗せてもらうこともしばしばあります。私が心に決めてい
るのは、私自身が車を持ったり運転したりはしないということです。

 そうする元々の理由は、昭和四十五、六年頃からずっと日本は毎年、一万人あまり
の交通事故死者(ほとんどが即死者)を出してきました。私は加害者には絶対ならん
ぞ、そういう意味を伴った人生を決めたからです。

 そして、それに伴って私には良いと思えることが生じました。CO2を排出しません。
空気を汚しません。このことは、後から申します畑作りの話と大いに関係します。

 さらにはその経済性です。私の家から2分ほどで電車の駅があります。このことは、
とても金銭的に得をすることだ、と単純に理解していましたが、ほんとうはそれどこ
ろではありません。昨年、テレビの家計をのぞく番組でふと聞いたことですが、車を
持っている人は、月に9万円を支出している。その時、私は「ヘエー、9万円も!」
と驚きましたけれども、テレビのインタヴューアーやその取材対象者は、それは当然
の支出のように考えて話していました。

 私は車には金を遣いません。テレビのその人は年間108万円を当然のこととして支出
しています。その人、40歳ぐらいの主婦でしたから、想定するに、36年間、サラリー
マン家庭を守るとして、私より3,888万円を余計に使いますね。一生の差は大きいです
よ。

 自動車なしの生活はこれくらいにして、次に、
(2)第二の差、つまり、一般的平均人と私との違いの第二番目、それは畑です。
 私は畑を持っています。120坪(訳120x3.3=396平方メートル)です。

 畑を持つに至ったのには理由があります。ある年、私はノイローゼにならんばかりに
仕事が過密で過重でした。私は高校の教師でした。

 12月24日、これは誕生日ですが、25日から冬休みになります。この時、私の胃は、
24時間じゅう爛(ただ)れと熱とをイメージして意識せずにはおれないほど傷んでいま
した。

 そんな状況から逃れ出るために、私は荒れたセイタカアワダチソウの藪になっていた
畑を一反(300坪=約992平方メートル)借りました。

 結果は、名医の治療みたいにピタッと治りました、一週間で。朝ご飯の後すぐ、ツル
ハシを振るって開墾、つまり土木作業に似た労働をするのです。肉体はくたくたになり
ますが、その間、意識は胃には向けられていません。そして、昼は空腹に快いご飯、た
だし七分目に、夕方も同様でした。

 始めて四日め頃からは胃のことも忘れて、エンドウを蒔こうか、遅蒔きの菜を蒔こう
かなんて、野菜作りの夢が脳内を占めるようになっていました。大晦日、胃なんかもう
少しも悪くなく、生唾飲んでばかりいたのがウソのように治り、嬉しくなりました。そ
の嬉しさのあまり、正月三が日も畑で鍬を振り回すほどでした。

 この一反の畑も100坪ばかりを開墾していろんな野菜を作りました。荒れる前に作っ
て放置したと思われる野菜なんかが、草の間に細々と生きながらえている。これを大事
にしてやって作物らしく回復してやるのも、育ての喜びを感じます。そんな野菜で今記
憶しているものを紹介すると、ラッキョウ、イチゴ、ネギなどです。それから種を蒔か
なくても小鳥が持ってくるものもあります。アスパラガスなんかその典型です。

 野菜を買うことは滅多になくなりました。それどころか時には人に買ってもらいたい
と思うこともあります。人に差し上げることも多くなりました。つまり、私の作る野
菜が、夫婦二人では食べきれないばかりか、人に供給することまで可能なのです。タマ
ネギとかジャガイモとか大豆、小豆など、長期間保存できるものはいいが、春、夏、秋
野菜のほとんどが新鮮なままで食べなければなりません。ともかく野菜で買うものはと
考えると、そうですね、正月お節(せち)のレンコン、クワイ。厳密には野菜ではない
けれどシイタケ、エノキダケなどの茸類、ワカメ、ヒジキなど海藻の類です。

 畑に関してもう一つ、私の生活の特長を言えば、生ゴミを出しません。すべて畑の肥
料にしています。リサイクルとか還元とかハイカラな言葉を使いたくありません。畑に
捨てればそれが労せずして肥料になっているのです。それで野菜のためになる、なんて
図式的に単純に考えてはいけません。昆虫がこれを利用し、昆虫同士が食いもし食われ
もし、地中のウジや動物にも関わりを持ち、目に見えないバクテリアにも波及していき
ます。

 そういう万物がうごめく環境に乗っかって野菜が普通に(異常にではなく普通に)育
ちます。そういうのが好きなんです。

 畑に関することは、自分が大好きですから、どれだけでも話す可能性があります。
 この辺で打ち切って第3の特長に移りましょう。

(3)第三の差、一般平均人と私との差異で際立った点の三つめは、外国好き、外国見物
好き、外国体験好き、ということです。

 今、日本の歴史の中では異常に外国体験する人が多くなっている時代で、ゴールデン
ウイークごとに数十万人が海外へでていきます。年間ではどうでしょうか。統計を見ま
すと、1999年には1636万人が、2000年には1782万人、2001年には1622万人.
  これは毎年国民の14%ほどが出ています。

 でも私は、そういう大勢にそっくり馴染もうとは思いません。B型人間って自己顕示
的で、他人と同一化してしまうよりも、我こそはお山の大将と自己表現したい方なのか
もしれません。

 主に退職後ですが、私は外国語会話を習いました。英語は、もともと少々は出来てい
たつもりですが、フランス語会話もやりました。
 どれくらいの程度にまでかと言うと、自分でフランスに行き、乗り物に乗り、宿を探
し、食事をし、行動する、こういうことが可能な程度です。

 英語とフランス語とがこの程度ですと、かなり広く外国へ出られます。ドイツ語も
少々は分かるのですが、ドイツ語圏では英語がとてもよく普及していますから、問題
ありません。
 イタリー語は習ったことはありませんが、あそこはこちらから話すフランス語をほと
んどの人が聞き届けてくれます。また英語もかなり分かります。

 こうして西ヨーロッパ、オセアニア、東南アジアなど広く行動できます。

 また、中国語も習いました。縁があって中国で二年間、日本語教師もしましたので、
会話力も中国をひとりで行動できる程度になっています。

 世にいわゆるパックツアーの募集が至るところで見られます。私も参加した時期が
ありましたが、退職後はその大半を自作旅行(ほんとうは「本来の旅行」と言うべき
です)をしています。

 それには理由が二つあります。一つは経済性、もう一つは旅行の質です。

 経済性は、パックツアーの3分の1の費用です。いやもっと安いかもかもしれませ
ん。

 例えばヨーロッパ10日間などといえば30万円ぐらい掛かったりします。でも時期を
選び宿も自分で探せば、航空券は7〜8万円で済み、1泊が5〜6千円の宿で十分ゆった
りした旅行が楽しめます。
     ※欄内のような例です。




 

1994 ロンドン 14日間  260,000\(二人) 内航空券210,000\
1995 パース 22日間  378,473\(二人) 内航空券169,800\(含ビザ代)
1995 ドイツ・メルヘン街道 17日間 413、522円(二人)内航空券243、465\
 
 ホテルなんか、フランスを例に取れば、一番高いパリでも二人で1万円以下のが いくらもあります。地方へ行けばどうかというと、その半額です。4000円で二人が 泊まって朝ご飯が付いたなんて当たり前です。スイスはほてるが高いところですね。 バーゼルで経験したことですが、1万円以下のホテルがないのです。だいたいホテ ルが少ない。 12,000円といいました。  それを断り一時間ほどうろついて、ユースホステルに行き着きました。一人が 3500円ぐらい。朝ご飯と夕ご飯つきです。 「この年齢でもいいですか」 「?」  年齢って関係ないのです。 「今日は生憎、二人部屋がなくてーーー」と向こうが悪がってました。大部屋、三 組の夫婦が泊まれるところに二夫婦。お互い無関係に過ごせるように配置されてま した。  これで一泊が7000円。  こんな風にして外国を楽しみながら見て回るのが好きです。  旅行の「質」ということも私には大事です。引率されるままに説明を聞いて、本 を見て満足する、それも悪いとは言いませんが、それは譬えれば、受験案内では あっても入学ではない、そんな風に思います。  ここで具体的な話を展開すると何冊かの本になってしまいますから、結果だけを 言いましょう。  自分旅行をするようになってから過去のパックツアーを振り返り、「受験案内に 過ぎなかった」と実感した典型的な例を、都市で言えば、ウイーンとベネチア、大 きな地域で言えばヨーロッパも東南アジアも中国もそうでした。  先日、ある中国の旅行記を読んで、大きな疑問を感じたものがあります。その方 は実際に行って来たのでしたが、そこには主に「三国志」が語られています。そし てそれを背景づけるものとして、現地旅行が語られるのです。  みなさん、今、ご自分の居住地の地史を想ってください。あなたの土地にはかつて 源氏が支配し、例えば那須与一を出した。あなた自身は与一に関わりある人物で、 あなたの家屋敷は与一が常日頃から飛ぶ鳥を射かけていた場所と解釈されて、 どこかの外国人が日本の歴史を回想し感動して帰っていった、としましょう。それ はそれで観光客の勝手でしょうが、旅行のクオリティ(値打ち)から見て、それは 何だかドンキホーテ的ではありませんか。  まあ大げさかもしれませんが、パックツアーには、そういう質のが多いのです。 名勝や遺跡を訪ねるのは結構、でも当地のことを知る観点からはピントはずれのこ とが多いのです。  だから「ウイーンの森」を観光して、「どこが森だ。丘じゃないか。山じゃない か」などと日本人客が言うそうです。  国語学者までがそういっていたとガイドが紹介しました。  また、2万円も3万円も出費してオペラを観て、「本物を観た」なんて言ってい るのです。  ウイーンの郊外をリュック背負って歩いてご覧なさい。また街中では、どんなオ ペラを、どんなコンサートを人々が楽しんでいるのかよく見てくださいよ。 自分で切符を買いに行けば3000〜5000円でとてもいい場所の席が見つかったり、 マチネー(昼の部)でゆっくり観ることもできるのです。当地にあるがままの姿で 楽しんでこそ、「本物を知った」と言えるのです。  私の三つの特長はこの辺で終わりましょう。 (1)自動車を持たない、(2)畑作り、(3)海外旅行、でしたね。  さて、こんな私の生活をどう評価していただくのでしょうか。  よい、普通、よくない、こう大まかに分けて、どうでしょうか。  私は日本人です。日本人の感性から自分ではとても言いにくいのですが、「よい」の ほうに評価いただく方が多いようです。  私に対して人様がなさる評価なんて、直接的になされた例を私が今発表している のです。 社交的辞令やお世辞をかなり割り引かないと正しい評価にならないかもしれませ んね。  でも、畑作りの話なんか、本気で「いい」と評価をいただくことが多いです。自 動車なんかは、もう20年も以前になりますが、あるところで発表したのです、と言 うより自動車の罪悪を論じて、私はそれに与(く)みしない生活をしている、と言っ たのでした。  その場はいわば学問的か学習的か、そういう意味合いの会合ででした。批判は、 実はなかったのです。 「でもいまさら言われても困る」とか、「自分の生活の中からこれを除くことはで きなくなっている」といったような感想が多かったのです。  もちろん「よいことを言ってくれた」と声援をくださった方もありました。  私なりにまとめると、 「よい評価だったが、もはやこの考えを取り入れられないほど深みにはまっている」、 といったジレンマを残したようでした。  3番目の自作海外旅行はどうでしょうか。  外国の旅先でパックツアーの方たちと行き会ったりすることがあります。 あの「ハメルンのパイドパイパー(笛吹き)」って物語をご存知でしょう。あそこ では、私たち夫婦が自前で自作の旅をしていると語ったのを聞いた東京のおばちゃ ま方から、口々に、 「いいわね、いいわね」と言われ、 「今からついて行こうかしら」なんて、ガイドさんを悩ませるような言葉まで吐き 続けていました。  でも、働き盛りの人の場合、よいと思っても休暇が自由に取れるとは限りません。  また退職後で時間がたっぷりお有りの方でも、 「よいと思うよ。でもあんたは言葉ができるなさるけどーーー」などと、自作旅行 は不如意であることを仰います。  つまり、私のような自作旅行は、よい評価を受けてはいるのですが、自分自身で ことばを学習するなどの苦労を伴う準備も必要だし、そういう労苦をいとわないこ とを前提にしている、ということでしょうか。  論の展開をもう一つ大きく進めましょう。  私の生活を一つの典型とし、また日本によくある生活パターンをもう一つの典型 として、この両者を対比的に図式化します。
   私の生活              一般的な生活

@車を持たない
 乗らない
排気ガスを出さない

車を持つ
便利に乗る
排気ガスで大気汚染

A畑を作る
 野菜を買わない
 運動 スポーツでもある
 農薬に汚されない
 自然を汚さない

畑を作らない
野菜を買う
スポーツ(ゴルフ テニス 散歩)
知らないうちに農薬を食べる
生ゴミを出す

B自作の海外旅行
 旅行業者に頼らない
 

パックツアーを楽しむ
旅行業者に便宜を計らってもらう
 
 ところでこのような生活は、もともと倹約(早い話ケチ)を目的として始めたので はないことをお断りしておきたいのですが、結果としてはとても経済的な生活になっ ていますね。  物事を処するに当たって「経済性」を重視するのは品がないことだとする感性があ りますが、それはどうしてでしょうか。究明するのを今はさておいて、この図式を経 済的側面から解釈し直してみましょう。(図式に太字を書き込む)
   私の生活       一般の生活

@車を持たない
 乗らない
排気ガスを出さない

        

車を持つ   1台200万
便利に乗る
排気ガスで大気汚染
     維持費、利用費、保険 月額9万
 
         年間の差 150万

A畑を作る
 野菜を買わない
   採れた野菜を食べる+180000\
 運動 スポーツでもある
  スポーツしている+60000\
農薬に汚されない
 自然を汚さない A項の小計+24万

畑を作らない
野菜を買う
  月15000\ 年間180000\
スポーツ(ゴルフ テニス 散歩)
 月5000\会費 年間60000\
知らないうちに農薬を食べる
生ゴミを出す  この項の費用計 24万

B自作の海外旅行
 旅行業者に頼らない

パックツアーを楽しむ
旅行業者に便宜を計らってもらう
     年間 ヨーロッパに一度 二人で行くとして
         30万     70万

まとめ     合計 6万円 ←差→ 合計 244万円 = 年間238万円
 
 二人ぐらしの生活で240万ほどもの差が出るのは大きいことです。具体的にお分かり いただけない方は、この私を見て、あなたが今やってらっしゃる生活から年間240万円 が残る生活をしていると想像いただければいいのです。  こうして金銭で比較表現した結果を「そりゃあいい」なんて褒めるのは、なんだか打 算主義に見えますが、その以前の段階では「自分もできたらそうやってみたい」と感想 を仰る向きが多いです。  で、ほんとうにこれは望ましい生活なのでしょうか。質的に好ましい生活なのでしょ うか。  さらには、ほんとうに経済的に優れている生活なのでしょうか。  ここを吟味していただきたいというのが私のお話の主旨なのです。 「質として望ましいか」ということについてはどう思われますか。 「文化的にはどうなのか」ですか。いいご質問です。 「生活の味わい、つまりゆとりとか享受とか楽しみとかーーー」  とてもいいご質問で、これこそ待ってました、と言いたいくらいです。  私、レジャーの活用は人に負けないと思ってます。午前は畑、畑の作業は他の労働と 違って思索的。文学的です。ある時は詩が浮かび、ある時は絵か、また音楽か浮かびま す。また、語学の時もあります。フランス語会話に取り組んでいた時なんか、畑でする ことすべてフランス語で思いながらするのです。 【velo自転車、charger積む、aller行く、jardin畑、vegitables野菜、cultiver耕す、 alloger水遣る、transplanter移植する、semins種、couper切る、garder番する……】。  今は中国語を習ってますから 【滴健楠徭佩概肇弥仇K(農夫が自転車に乗って畑に行き)嶽阻鋪暇仔肱易暇, (野菜キュウリ白菜を植え、)厘音択勸暇(私は野菜を買わない。)】 などとひとりごちながら単語を使います。言葉は使えば定着しますし、使わない言葉は 忘れ去られますから。  午後はパソコン、日記を付け、小説を書き、メールを、ホームページを、世界の ニュースを見ています。  週に一度は名古屋に出て、先端知識に遅れない努力をしています。  ただ若者ファッションと歌などは順応できませんが、それ以外はたいてい馴染んでい ます。  人生って「時間が足りない」って思ってましたが、今では「体力が足りない」って痛 感してます。  どうですか、何かを辛抱したり我慢したりしている生活ではないとお分かりでしょう か。  経済的にもエコロジーにも、かつ文化的というか生活を享受する点からも好ましいと すると、(自分のことを自分で評価するのは、日本人的感情から言いにくいのですが) やはりこれは好ましい生活だと言えるのでしょうか。  敢えてもう一度問いますが、ほんとうに好ましい生活なのでしょうか。  私は、みなさんのお顔色から察する評価に、敢えて反対して、こう言います。 「これは好ましくない」のです。  現在の日本経済の動向からして、全く好ましくないのです。  ということは、私の生活は、日本の経済的動向に謀反(ムホン逆らい背く。反逆する) しているのです。  譬えば川で、何万というシャケの群が先を争って遡上しているとき、藪野というシャ ケは楽しそうに川下りをしているのです。  譬えの仕方を換えて、私のように謀反をしている側からも表現しましょう。  ドイツにハメルンという町があります。かつてネズミが大発生しました。何万という 群れが町外れの川へ突進します、笛の音に酔うように。藪野ネズミが「笛に踊らされる な。その先は大河の流れだ。みんな破滅する運命しかないんだ」そう言って立ち止まっ てる。しかし、周囲の大多数は、無視するか、あざ笑うだけで、どんどん走っていって しまう。そんな風景に譬えることができます。  何年前のことになりますか、昭和で言えば 30年代の初め、白黒テレビ、電気洗濯機、 次いで電気冷蔵庫が出て家庭内に入り始めます。平行してそれまでの自転車がビスモー ターに変わり、バイク、オートバイーーー途中は省略しますが、20年経って昭和も50年 代になると、自家用車通勤が当たり前になりなりました。家庭生活は便利に、つまり 家庭内労働は皆無になりました。  主婦の方から「そんなことない!」って聞こえそうですが、それ以前の家事を体験す る人から見ればゼロに等しい。水汲み、薪割り、盥(たらい)で洗濯などと、今のスイ ッチ操作に頼る家事とは比べられません。通勤も楽になり、職場も変わりました。私は 教師でしたから、以前はガリ版切って、ガリ版って分かりますか。孔版って言うのです が、ーーー冬の夜なんか大変で、書き間違った語句を訂正するなんて、今のワープロの 立場からすると笑いが出るような鈍重さで、しかし厳しい労働がありました。成績の処 理なんか、わざわざカードを作ってトランプみたいにやったのでした。  これらすべてを「労働革命以前の労働」、つまり「近代労働」と呼びましょうか。  それが「現代労働、つまりスイッチ操作(あるいはキー操作)」になりました。いわ ゆる労働の革命です。  それに伴って人間の意識も変わってきています。  特に消費についてですが、以前は消費を慎む意識が一般だったのですが、現代労働と 消費を慎む意識とは相容れないのですね。  例で説明しましょうか。炊飯器が壊れたと想定して、 「これからは竈※かガス釜でご飯を炊こう」とか「釜がないから鍋でいこうか」 なんて会話になりますか。  その時にお金がなかったら「コンビニでご飯を買えよ」とか「こんどの休みの日に炊 飯器を見に行こう」、「いや、月賦で買えるわ」なんて会話になるのが自然でしょう。  炊飯器の場合は金額が知れてるけれど、自家用車から住居まで、すべて同じ考えで 語られるはずです。また、消費者だけでなく、提供者、つまり生産して売る側も、同じ 考えで売っています。つまり現代社会の主流をなす意識なのです。






 

※竈(かまど、土壁や煉瓦などで作られた煮炊きをするための設備)飯釜(はがま、ご飯を炊くための釜)茶釜(茶釜、お茶を沸かすための釜)。文例、「竈に飯釜を掛け、下から薪を焚いてご飯を炊きます。その余熱で茶釜の湯が沸くようになっています」。次の言葉を説明できますか。「釣瓶」「水桶」「水甕(水瓶)」「焚付」「熾き」「消し炭」「七輪」「米を砥ぐ」「お櫃」「米櫃」「盥」「桶の箍(たが)が外れる、箍を嵌める」「さわす」「晒す」
 
 こういう中で不況風が吹いてきました。そよ風ではない。風力は三か四ぐらいから、 時には突風が吹いて、三日間の予告でリストラに遭ったりします。竜巻もあって、中央 線かなんかに飛び込まれる方や自動車ごとダムにつっこまれる方もありますね。  こういう状況に対して、「景気の回復」が叫ばれています。  みなさん、どうですか。その通りだと思われますか。つまり景気回復の必要性につい てです。 「不況対策には消費の拡大」、これも賛同されますか。 「生産業が振るわないのは消費が伸びないからだ」。この見解にはどう反応されるので すか。 「経営が難しくなっているのは需要が少ないからで、需要を伸ばす方途を講じなければ いけない」。この考えに対してどう思われますか。  いくつ例を挙げても、要するに消費を拡大することが解決策なのです。だから批判す る側では、返済する見通しも立たないほどの負債を国家が背負って、それで消費の拡大 を図っている、と言っています。  家計の場面でこれを捉え直しますと、 「もっと買いなさい。もっとお金を使いなさい。消費が少ないから経済は行き詰まって いるのですから」と言っているのです。高い服をもっとたくさん、高い食品をもっとた くさん、家でもっとゆったり、もっともっと、そうしなさいと言っているのです。  これが日本経済の現実なんです。  さきほど皆さんがうなづかれた日本経済の動向なんですよ。  じゃ、この私はどうなのか。  私の考えよりも私の生活を見てください。自動車を持たず、畑で野菜を作ります。  これは経済の行き詰まり打開策としての消費拡大とは真っ向から対立するものである ことは説明の必要もないでしょう。  わずかに海外旅行だけが、労働革命以前には少なかった消費の形態ですけれども、 これもいわば自家生産スタイルで、消費の拡大等に力を添えるものではありません。  もう一つ議論を先に進めましょう。  それならばなぜ私のような自家生産的な生活を、たとえお世辞にしろ「いいなあ」と か「羨ましい」とか、「出来ればやってみたい」などと多くの方が仰るのでしょうか。  私が想いますのに、そこには重大な問題(二十一世紀を創り出すに当たって重要な 問題)が、二つ潜んでいます。  この「二つ」について語るのが、この論のほんとうの主旨なので、力を込めて語りま す。 まずは分かりやすい方から、重大問題の一つ目とは、 1.労働革命は大切なものと引き換えになされた こと。  エネルギー革命とか技術革新などといろいろ言われますが、要するに人間の労働を、 それまで一般に行われていた頭脳労働をも含めて、それを代行する装置を作ってしまい ました。自分の身を処することだけはその大半をやはり自分の肉体を使って行いますが、 それ以外は、可能な限り筋肉外のエネルギー(石油とか電気とか)によって筋肉以外の 物の物理的作用を引き起こしながら、また頭脳の判断をも、今の段階でなし得る限り機 器に任せながら、ことを処しています。  科学技術は「こんな」高い水準にまで達しました。  例えば、みなさんは今、家に「留守番ロボット」を200万で買って置いてあるとしま しょう。  そして、今玄関に泥棒が入ろうとしているのを、労せずして見つけてもらい、ほら、 胸ポケットの携帯電話で通報を受けます。で、飛んで帰りますか?  帰らないでしょう。ほら、そこを「オン」にすれば、ロボちゃんは攻撃体勢入ります ね。泥棒を威嚇し、写真を撮り、ほら、ひっかいてその衣服の一部さえ証拠にむしり取 ってしまいます。  生(なま)の人間を一人雇ったって居眠りしてたら、ここまではできませんよ。  科学技術はこうまで高い水準に達したのです。  だけれども、この高水準に達するのと平行して大切なものを失ってきました、という のが第一の重要問題なのです。  それは何かというと、大きいカッコで括ったことばで整理すれば、「自然」です。 も少し詳しく言えば、「人間の内外の自然」です。  人間の「外」の自然が失われてきたことは間違いありません。でもその回復は、目に よく見えるので、論じやすいですね。「CO2を増やすな」と声を挙げ、地球の温暖化に 危険信号を発し、緑化運動に取り組んだり、どこかよその国にまで植樹に出掛け たり、オーガニック農業に情熱を注ぎ込んだり、などなどとしますね。  でもこれだけでは足りません。私たち自身の「内部」、つまり肉の中、骨の中、頭脳 の働き(思考や感性)の中にも「自然」があり、それが失われつつあること(あるいは、 失われてしまったこと)を真に問題視なければいけません。  例えば、電灯がともり、テレビが放映され、肉体がほんとうの疲れを知らなくなった ために、日没が肉体にどう影響し、日の出がどう覚醒を促すか、という単純な日々の生 理的サイクルにももう自然が失われています。また、食生活でも性生活でも、野生の動 物が当然していることを見ても、もはや自分とは異質の世界の出来事のようにしか感じ られない人が多くなっているのです。  そこまで極端でなくても、最近の生活の中で、何となく不満足感を抱くようになった 人がいて、私の畑を見て、「いいわねえ」などと矛盾したことを仰るのです。パックツ アー旅行者の方が、労せずして観光できるのに、旅先で出会えば「羨ましいわね。つい て行こうかしら」なんて、これまた筋に合わないことを仰る。  もし私が、山家に暮らしていて、水汲み、薪割り、山の幸、川の幸に頼る自活生活を していたとして、やはり「いいねえ。羨ましいねえ」と言われるのではないでしょうか。 「私にはできないけど、そういう生活に憧れる」なんて言われるのではありませんか。  人間の内面に、本来的に存在する「自然」がもうかなり失われ、しかしその根はまだ 残っているから、回復する欲求を感じるのでしょう。  基本的な生活を「衣食住」と言ったりしますね。現代人の、特に若者の着るものなん か見てると、「なんだ、アレ」って感じるものが多くなりました。お尻の見えるような 超ミニ、しかも真冬にでも。ズリ落ちそうなズボン。意味もなく破れていたり、つぎを 当てたみたいなパッチ(ワークとは言いたくありません)。買ったばかりのものをわざ わざ壊して作ったスカートなど。  それから、化粧だって「美」という観点からはほど遠い。泥田にはまり這いあがって きたままの姿だったら、「ウアー、かっこいい!」って喚声を上げるんじゃないでしょ うか。そんな感性を持つようになってしまっているように思えます。  それでいてダイアナさんみたいなフォーマルファッションを見て、「いいなあ」とも 言うんです。  食べる物だって、野菜が食べられない。ファーストフードとスナック風のお菓子ばか り食べ、それでいて栄養剤を飲んでいます。あっ、そうだ、犬も猫もそうなってますね。  犬ってセミとかコオロギ、バッタなど捕って食べてたんですよ、以前は。猫がネズミ を、カエルを捕ってたんですよ。今やもう野生を失ってペットフードしか食べない、 また食べさせない。あの姿が人間にも当てはまります。  言えばキリがありません。内部の自然を失った結果、観念的にだけど自然回復を願う 感覚は、まだ残っているみたいです。  労働革命は、「自然」を奪うことになった、というのが第一番目の問題点で、それは ここまでにします。  次に第二の問題。
2、経済とは、虚構によって成り立っている
 
 

経済=人間の生活に必要な物資を生産・分配・交換・消費する行為。〔特に金銭の面から見た語〕
 




 
経済ってなんでしょうか。 等価値の物々交換を基本にした「経済(本来的な意味で の経済)」に限って物事を考えるのなら、何も問題は起こらないのです。 「いまさらそんなことできるか」って仰るかと思います。でも、500万年(あるいは250万年) の人類史で、ついこの間まで、日本で言えば2000年前ぐらいまで「通貨に頼らない経済」 をしてきました。

 

※人類史250万年として、最近の250分の1の時代だけです。24時間に換算すれば、ほんの5、6分前からです。
 
 いや、それどころか、恵まれた上層階級の人以外は、通貨を少しばかり持っていても、 それは大事にしまっておいて、日常ではほとんど通貨に頼らない経済生活をしていたの でした。私の子供の頃でさえ、日本が戦争をし、負けた1940年代の古里では、今で言う 香典やご仏前は、「米一升」などと言ってました。敗戦直後は物資不足で、日々物価が 変わるくらいのインフレでしかたら、物々交換が盛んでした。米ばかりかサツマイモが 着物に代わったり、魚と交換されたり、付け届けや贈収賄の手段にさえなったのでした。  でも現在ではほとんど100%、「通貨による経済」の中に生きています。  物と物とが必要に応じて交換されるのは、「昔の原始的な段階、未熟な段階」だと私 たちは認識していますね。「文明が発達した社会では、そんな原始的な経済制度に馴染 まない」、と理解していますね。  この認識はしかし、ほんとうに正しいのでしょうか。  私の家に以前よく電話が掛かってきました。「商品取引のお勧めです」と言って、小 豆とか綿糸とか、買うことを勧めるのです。新聞の経済面に「何月ぎり」などと値段が 並んでますね。先物を買って期限までに売る、その差額を儲けようというものです。  もちろん損もします。私は買ったことがありません。それは単位が100万円などと高 額であることにもよりますが、それよりも私のイズムに合わないからと言うほうが正直 な答えです。  ある時、そんな電話にこう応対しました。 「小豆かね。どれだけ買えって言うの? えっ? トン単位で?。うちね、一度ぜんざ いを作ったって5合も使わないよ。お赤飯を炊いたって1合で十分だよ。何トンもの小 豆って? いったいそれ、どこに置くの? 置いておいたら虫がわくよ」って言ったら、 「そうじゃないんです。小豆そのものを買うんじゃないんです」って。 「じゃ何を買うの? さっきから小豆って言ったじゃないか」 「いいえ、買ったことにして、売るまでの値動きを見ていて、そしていいときに売って その差額をーーー」 「えっ? 実際は買わないし食べない。物も持たない、ってことは、買ったことにする、 売ったことにするってことだな」  私はもちろん、商品取引とはどんなことか知ってますよ。知っていながら、悪く言え ばイタズラをしたのでした。  商品取引とは、「約束ごと」を「信用」しているという前提で行われる抽象的行為、  つまり虚構である。  人間のコトバには、すべてそういう虚構の側面があるのです。  だから「信用」とか「裏切り」とかいう事態が可能になります。  それと同じように「貨幣」とは経済行為の上に「虚構」を可能にする道具です。  一方、物々交換には「信用」や「裏切り」の入り込む余地はありません。  これ、一万円札、ですね。これは10000円の価値の「もの」との交換を「約束」する 道具です。しかし明日、何か大変な事態が起こって、これで昼ご飯を食べようとしたら、 「ダメ!」ってことになる可能性もあるのです。  昭和三十二年のこと、私の初任給は9200円でした。じゃあ、あのころ、三四日食べた ら終わりかというと、そうではありませんで、一ヶ月の生活を賄うに足る金額だったの です。  そして今、その値打ちは全くありません。つまり貨幣というものは実物実体ではあり ません。  貨幣は虚構の道具なんです。  さらに言えば、一つの虚構が成り立てば、その上に次の虚構を作ることができます。 もちろんさらにその上にだってもう一つ上にだって作ることができます。虚構の体系を 構築することができます。いや、現在そうなっているのです。  お聞きになりながら「虚構」という表現に抵抗がおありならば「約束ごと」と置き換 えていただいても結構です。そしてそれが信用される範囲でだけ体系が成り立つのです。  仮に、私は友人に100万円を貸したとしましょう。  そのとき友人は「半年経ったら110万円にして返す」と約束した。それを信じて私は、 「半年後に支払う」条件で、別の人間から110万円の自分の買い物をした。  この単純な経済行為も、約束と信用に基づいてなされています。  さて半年後、友人が「返さ(せ)なくなった」、「死んだ」、「行方不明になった」 などの事態が生じた時、私はどうなるのでしょうか。  現代社会は、すべてこういうシステムになっていますね。そして私たちはこれが本来 の在り方だと「誤解」しています。  もう一つ考えましょう。銀行に預金すれば利息がつきますが、これはどうしてですか。  簡単です。預けたお金が有効に利用され、つまり新しい価値を生み出すのに使われる ので、その生じた新しい価値の一部分が利息になるのです。  よく分かります。じゃあ、価値を生み出さなかった時はどうなるのですか。約束違反、 つまり裏切りですか。  預金に利息がつくというのは、「貸した金は新しい価値を生み出す」という「前提」 があってはじめて成り立つ約束ごとなのです。つまり、経済関係が上昇する、経済が 右肩上がりになることを前提にして成り立っている約束ごとなのです。  右肩「下がり」の時には、じゃどうなるのがほんとうなのでしょうか。  残念ながら、この貨幣・銀行・信用経済などの相互関係の中でそれ を考えることはできません。無理に考えれば、ただ一つだけ、ある経済現象を想定する ことができます。  カタストロフ(悲劇的結末)です。  現在の日本はデフレの動向にあります。  つまりすべてにわたって縮小しているのです。生産行動は縮小し、購買力も購買欲も 縮小する、そういう経済の動向の中で、「預金すれば利息を付ける」との約束はどうし て可能なのでしょうか。






 
 

※「デフレーション(deflation)」とは、もともと「空気[ガス]を抜くこと」の意味ですから、「バブル(bubble泡、気泡)が弾けた」後の時代を、即ちデフレと見るのが当然で、「バブル後」と「デフレ」とを別の現象として認識する見方は経済現象の本質を掴んでいません。
 
 もういい加減に気づかねばなりません、いや悟らねばなりません。右肩上がり虚構を 信用することで成り立っていた私たちの経済体系は、もはや成り立たない時代に入って いるのだと言うことを、です。  ではどうすればいいのか、と言えば、 物々交換の経済にしましょうか。それはでき ませんね。  お金を持って魚屋さんに行くのではなくて、お米を持って行くのです。洋服を持って オペラを観にゆくのです。どうですか。やはりこれはできませんね。  でも私が切に願いしたいことは、例えば買い物で、お肉を500g買い、2000円を支払う 時、 「これ、私の何と交換しているのだろうか」、と考える努力をしていただきたいという ことです。  交換する物、交換する価値あるものを、どう考えても想定できない時、 「ほんとうは自分はこのお肉を買うに値していない」ことを自覚してください。  今から言うように想定できる方はほんとうに二十一世紀人です。これからの人です。  つまり、「この2000円は昨日のアルバイト代の半分である。その価値が今、お肉と交 換される」と。(これも認めましょうか、「この2000円は父の月給だから、父が会社で苦労してな した仕事の価値と今、交換する」とも。  でもこれには少なくとも父への感謝とか、運命共同体の意識がなければなりません)。  私は生きる者の経済的原点をはっきりしたいのです。これは人間に限らずこの地球に 生きる者としての原点です。  この自分のいのちを持続させるためには、自力で食べる物を手に入れ、排泄した物 を自分の責任で始末する。自分は自給自足する。  できますか。例えば無人島にいるとして、できますか。生きるとは自給自足すること です。  これを原点にして、誰か他人と価値を交換することが想定できれば、あなたは本物で す。  人類史500万年の大部分を、人はこうして生きてきました。例外だったのは赤ちゃん と幼児だけでした。生きる体力と知力が身につくまで母親を初め周囲の成人の「お陰」 に支えられて生きたのでした。  そして、三歳、四歳になっても自分で生きられない者はどうなったのでしょうか。 十五歳になっても自活できない、なんて想像できなかったのです。  今、二十一世紀。そしてあなたはいくつですか?  今、あなたはどういう活動によって自分のいのちを支えているのですか。  人類の先輩たちに説明してみてください。 「二十一世紀初頭の地球上に、文明の発達度ではトップの一二を競う国」。  日本人の大部分は自分の国のことをそう認識しています。  でも一方では、この社会の進展は行き詰まっている、とも認識しています。カタス トロフを迎えるのではないかという怖れも拡がりつつあります。特に経済面では、良 い現象、望ましい兆候が皆無に近くなっています。  この局面をどう解釈し、どう生きたらいいのでしょうか。  学問の運と環境に恵まれて大成したはずの「日本の思想家」は、この閉塞的局面に 在って有効な指針を示し得ないでいるのも実に寂しいことですが、国民の多くが未だ に右肩上がりの経済の再来を希望するばかりで、質的に新しい視点を求めようとしな いのも実に寂しいことです。             (このテーマ、終わり)