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1 「掘り抜き井戸堀りの風景画」
2 「かそけき展望」 
3 「晩年の引っ越し」
4
5   

☆ [小説] 1 「掘り抜き井戸堀りの風景画」  2010             


「おじいちゃんの今日の話はなんだと思う」

「わからないよ。いつもそういうふうに聞くんだからーー」

「そうか。いや、悪かった。実はあんたたちに話したいことはもう決まってるんだ。
決まってはいるんだけどねーー」

「決まってるけど、何なの? 決まってるのに、どうして、何だと思う、なんて質問
するの?」

「ああ、そうか。ん、そうだろうねえ。うん、それはね、多分、おじいちゃんの心理
にね、こんな話をしたいんだが、洋太郎くんたち、聞いてくれるかなって、いや、
ほんとうは聞きたくないけど、聞きたくないってまともに返事したらおじいちゃんに
悪い、とか、聞いてやらないと寂しがる、などと思って、義理とか同情とか、そう
いうものを残しながら辛抱して聞くかもしれない。そうだとすると、おじいちゃんは
あんたたちに話を無理に聞かせて、ほんとうはイヤがらせてることになるんじゃない
かとか、そんな、いわばタメライがあるのかもしれない」

「タメライって、どういう意味?」

「それはさあ、はっきり決断できないで迷ってるって意味なんだよ。真実たちも中二
になったら習うよ。そうだろ、おじいちゃん」

「多分ね。偉いね、駿太郎くんも立派な大人の発言だ。心強いよ」

「おじいちゃん、タメライはともかくとして、考えすぎだよ。話したいことって、も
しあればズバっとやってもらっていいよ。ぼくたち、おじいちゃんの話って、いつも
そんなにイヤじゃない。もしもイヤだったら、そういう顔するよ。ばくたちとおじい
ちゃんの間柄って、そんなんじゃないよ。構わず話してよ」

「お兄ちゃんの言うとおりだよ、おじいちゃん。ほんとはね、真実たち、話聞くたび
に面白かったって思ってるもん。ねえ、お兄ちゃん」

「うん、まあね」

「そうか。おじいちゃんが配慮しすぎてたんだ。話すよ。昔の話だよ。とっても昔。
洋太郎くんが今、高一だろう? おじいちゃん、高二の夏休みの話だよ」

「長い話?」

「そうだな、長い話」

「じゃ、ちょっとトイレしておく」

「わたしも」

「へへへえ。ぼくも行く」

「よし、みんな行っておいで」


    ☆  ☆  ☆


 私の育った田舎は今の加奈市、当時はまだ灯間村と言ったが、それはいくつかの
字(あざ)から成っていて、中でもいちばん不便な青谷に私の家はあった。小高い岡
の上にある五十戸ほどの小集落で、ここにはお寺も酒屋も、味噌屋もタバコ屋もあっ
た。ひととおり何でも揃ってるように聞こえるかも知れないが、世間ではこう言っ
たものだ。

〈嫁にやるなら青谷にやるな、便所に行くにも坂がある〉

 もう少し説明しよう。当時、便所は家の外に作ってあった。村落は岡の上にあって、
何をするにも坂を上がり下りする。最も身近なトイレでさえ、家を出て坂、トイレを
終えて坂というように不便なところだから、あんなところへ娘を嫁がせるもんじゃな
い、という意味だ。うん、で、私の母は、なぜそんなとこへ嫁いで来たかって思うだ
ろうが理由があるんだ。でも今日はその話を止めておく。え? いつかまたするから。
真実ちゃんは気になるだろうけど、少し辛抱して、また後日、話すから。でね、便所
に行くにも坂があるっていうのは大げさだ。実際は便所の前に石段があったりもしな
い。だけど、生活上とても不便なことは確かだった。それは井戸水、いや、水だった。

 私の家には井戸がなかった。村落の中に数軒は井戸があったよ。でもね、深くて
しかも濁っていたね。

 水というものは、飲み水、炊事の水、洗顔、風呂の水、拭き掃除などと、なくては
ならぬものだということは、分かるだろう。高校生のころ、私の家は八人家族だった。
いや、驚くにはあたらない。父と母、六人のきょうだい。計八人じゃないか。これで
普通だと思ってたよ。んーー、いや、ちょっとは多すぎると思ってたかな。でだ、八
人家族でどれくらいの水が要ると思う? え? そうだ、答えにくいよね。

 ペットボトルなんて、そのころはないよ。バケツでこのくらいって言っても分かり
にくいかもね。

 水桶って分かるかい。そう、絵を描くよ。紙、エンピツ。ーーほらーーこう、これ
ぐらい。ここにバケツ四杯ぐらいの水が入る。これを二つ、ーーこういうふうに棒の
両端に紐を掛けて、よいしょってふんばって立つ。この棒のことを「天秤棒」という
んだ。ん? そう、東南アジアの風景で見たことがあるって? そのとおりだ。こう
して担ぐ、運ぶ、これを「一架」という。「水桶を一架担ぐ」などと表現するんだ。
子供はね、一架なんて担げないから、二人で水桶ひとつを担ぐ。そうだよ、おサルの
駕籠屋だホイサッサ、あれみたいにね。

 それでね、集落の共同井戸があって、私の家から五十メートルぐらいかな。五十
メートルを担ぐのだって大変だよ。でも、そんな程度じゃない。共同井戸は低いとこ
ろにあって家は高いところにある。つまり空の桶なら軽いね。軽いものを担いで坂を
下ること五十メートル。水をいっぱいたたえてよろよろと立ち上がる。そして、よろ
ける足を踏みしめながら、時にはウンウン唸りながら五十メートルもの坂を運び上げ
るんだ。

 いや、言いたいことはね、何だった? 八人が一日に必要とする水の量だが、最低
でも二架と片足だ。水桶一つ分のことを片足と言う。風呂は二日に一度沸かすことに
なっていて、二架と片足は風呂に使う。だから大人が三度、五十メートルの坂を上り
下りし水を運び上げねばならない。

 大人が忙しいときなど、子供に手伝いが命じられる。「いやだよ」などと言ったこ
とはない。いや、私が素直すぎたのではなくて、大人の忙しさも分かるし、水も風呂
も必要不可欠なことは明々白々じゃないか。だから、手伝わなかったらご飯もおかず
も風呂もない。それで弟と「行こうか」ということになる。

 弟が前で私が後ろを担ぐ。後ろ、つまり私に近いところへ桶を吊るして、
「いいか。一、二の三」と声を合わせて立つ。

 時々、「おい、早いぞ」とか、「気をつけよ」とか言いながら坂を上がるのだが、
歩幅というか歩調というか、それがとても大事なんだ。いいかげんに歩くと、水桶に
波が立ち、躍りあがって水がこぼれてしまう。苦労して汲む水だから、できるだけ慎
重に家まで運ばねばならない。

 やっと着いた家の前でほっとしたり油断したらだめだ。入り口には高い敷居がある。
敷居とは、玄関を閉める引き戸のレールの役目をする横にした太い木だ。玄関の戸も
雨戸もこの上をすべるように造ってある。だから水を担ぎながら三十センチ以上も跨
ぐのだから、軽はずみに跨いでは、また水が躍りあがってしまう。前後の足並みが乱
れて、そのはずみで肩の棒が外れたり、桶を落としたりしては、五十メートルの苦労
も難儀もそれこそムダになってしまう。いや、理屈で言っているのではなく、実際そ
ういう失敗は何度もあったんだ。

 そういう失敗のときには、お互いが疲れて不機嫌になってるから、すぐ相手を責め
てけんかになる。

「お前、何やってんだ」

「オレじゃないよ。兄ちゃんが遅いからだよ」

「なに、この野郎」

 でも、けんかしていては終われない。汲むだけの水を汲まないと、止めるわけには
いかない。

毎日必須の労働だ。


    ☆  ☆  ☆


「水道はなかったの?」

「昔だもん、あるわけないだろ」

「ん、洋太郎くんの言うとおり、水道はなかった。ただし、都会にはあったよ。いや、
都会でもね、水道のある都市、つまり大都市と、主に井戸水に頼る市民が多い都市と
いうか、町というか、そういうものだった」

「水道がなかったんでしょ? そしたら顔洗うときどうするの?」

「そりゃあね、真実ちゃん、水甕って、わかる? ほら、こんなくらいの高さ、こん
なくらいの大きな甕(かめ)、つまり焼き物の容器だ。それに汲んできた水が入って
いる。顔を洗うときも炊事をするときも、そばにある杓(しゃく)、杓ってね、柄杓
(えしゃく)とも言うけど、それで汲み出す、つまり、すくい出すんだ、甕の水を。
洗面器にだね、これ。ここにこうやってーーこうやって二杯ほど汲み出すだろ? こ
れで、口をゆすぎ、歯を磨き、顔を洗う。今みたいにジャージャー出しっぱなしなん
て、考えたこともない。炊事(すいじ)もそうだし、水を飲むときだって、杓に半分
ほどすくって、お茶碗かなんかに入れてぐっと飲むんだ。ああ、風呂は違うよ。担い
できたら、そのまま桶を持ち上げて、ドザーと入れる」

「まるで貴重品みたい」

「駿太郎くん、いい表現だよ。いわば貴重品だったよ。だから表に水を撒くとか草花
などに水を遣るとかなんて、水甕の水を使うのは以ての外で、昨夜の残った風呂水を、
畑に、木に、花に、そのほかいろいろあるけど、ちょっと省略して、要するになるだ
けムダをしてはいけないという気持ちがみんなの心にあった。そんな社会の雰囲気だっ
たなあ」

「ぼく、少しはわかる気もするけど、何だかしなくてもいい気配りをしてるみたいな
変な感じだよ、おじいちゃん」

「いいよ、いいよ、洋太郎くんは自分の感情を正直に言うからいい。だからおじい
ちゃんも一生懸命にあの頃のことを正直に語りたい」


  ☆  ☆  ☆


 私が高校二年になった春だった。隣り村のその向うの村に、掘り抜き井戸掘りの名
人がいると知って、ここにも掘ってもらおうか、ということになった。

 掘り抜き井戸というのは、百メートルとか二百メートルとか、いやもっと地中深く
細い穴をあける。掘削というが、うまく地下水脈を掘り当てれば、その穴から高い水
圧の地下水が地上に噴き出てくる。その向う隣り村の名人は、それまで関東平野で掘
り抜き井戸掘りに携わっていた。

 ある日、彼は招かれて青谷までやってきた。私の家を含め四軒で掘り抜き井戸を掘
りたいが、この地形でうまく水が出るだろうか、という相談に応じるためだった。

 井戸屋さんの六左さんは、

「わしの経験からして、ここなら百五十間も掘ればきっと出ると確信する」と答えた。

 一間は一・八メートルだから、二百七十メートルほどの深さだ。

 そこで次の相談は、お願いするとしてどれくらいの費用が要るか、ということだっ
た。

 六左さんは、ある金額をはっきりと提示した。すると四軒とも、自らの負担度の限
界を越えていると即座に実感し、絶望の表情をした。

 沈黙のある時間が終わったのは、六左さんのこのことばによってだった。
「わかった。わしはこれより安くはできない。準備費にはこれこれ、材料費にはこれ
これ、人件費は三十五日と見込んでこれこれだが、わしがヨソから人を雇わないで、
あんたら四人を雇うことにすれば、素人でも志が籠もっているだろうから、首尾良く
仕事は捗(はかど)るだろう。そうすれば人件費は半分以下になる。それで、どうだ」

 その夜、四軒の代表は食事を共にした。出した結論は、もちろん六左さんの提案を
全面的に受け入れたのだが、さらに二つが付け加わった。

 その一、私の家の代表は、この私が労務提供する。その理由は、七月二十日から始
まる夏休みすべてをこれに当てる。

 その二、六左さんが一日の仕事を終えて帰った後も、しばらく、つまり二時間ほど、
自分たちだけで掘る、というものだった。

 六左さんは、ひとまず商談の成立を喜んだが、条件を付けた。
「わしの帰った後であんたらだけで掘る、というのは、ほんとうは困る。わしが、これこれは
よし、これこれは相成らぬ、と厳しくかつ細かく注意するから、それをきちんと守ると約束
するのなら許す」と。

 こうして共同井戸掘り作業が始まった。

 この時の夏休みを語るに先立って、他の三軒の主を紹介しておこう。

 井戸掘りの作業は、二人ずつ組んでするから、私ともっともよく組んだ森助さんから
始めよう。

 この年、1951年は敗戦後六年になる。森助さんも戦争に行っていて、敗戦後、生
存も所在もしばらく分からなかった。二年経って一通の手紙が来た。封筒に「CCCP」
とあったので、私の兄が当時中学生で、英和辞典で探したが、全く分からなかった。先
生に尋ねても分からなかった。やがてシベリア抑留から帰るという情報が入った。森助
さんは妻と二人の娘が待つ家に帰るに当たり、村の入り口で演説した。その締めくくり
のことばは、こうだった。

「ーー祖国の解放のために身命を賭して戦います」

 この高らかな宣言によって、村人には明らかな反応があったのだが、大きな声には出
さなかった。

「森助は、洗脳されて帰ってきた」

 でも「洗脳された」はずの森助さんは、農業に励み、闇米に敏感で、村の中でも目
立つほどのがめつい人柄を表していた。軍隊で鍛えた「要領のよさ」も、私と組んで
作業をするときなど、具体的によく分かった。

 私は、いわゆる「要領」とは、「見かけ上」の働きぶりと実質とが大きく違っているもの
だと実感したものだ。

 弥一さんは、私より四つ年上だから、二〇歳だったはずだが、戦争の経験は私とは
大きく異なっていた。彼は実際に「いのち」の危機に遭遇している。どこでかというと、そ
れはチチハルでだ。高等科を卒業するやすぐ、「満蒙開拓団」に行った。十三歳だ。
行って間がなく敗戦となる。事実は、それが敗戦か何か分からぬまま、逃げなければ
殺される情況になったのだった。

 追うのは現地農民で、手に手にかざし持つのは平原の草を刈るための柄の長い
大鎌だった。

 佐々木小次郎の刀よりも長い。長刀の刃を曲げてそのまま鎌にしたようなものだろ
う。日中は高梁の畑に土を被って隠れ、暮れれば闇に紛れてひたすら東へ走った。
それでも、これで終わりだ、と感じることを何度も経験したという。もちろん、着の身着の
ままで帰ってきたのだが、まったくの放心状態になってしまっていることを、そのころ私は
知った。それは、一月ほどして口が開けるようになってから、遊びに行った私に、
「将棋、しようか」と言い、指しているときだった。縁側に立て膝で盤面を見つめる。
そのとき、見るつもりはなくても見えてしまう異様な風景があった。それは、弥一さんの
股ぐらで、褌からまるごと「それ」がはみ出ていた。それでも弥一さんは、なにかの鼻歌
を口ずさみながら、前を隠したり構ったりすることに全く関心を失っているのだった。

 これより少し前、村に職業軍人だった人が帰ってきたが、彼は毎朝、村の東はずれ
に直立不動で立ち、昇る朝日に向かい挙手の敬礼をしていた。毎朝である。私は、
敗戦後の放心状態とこれらの行動とは、いずれも大きな関わりがあると直感していた。

 でも、井戸掘りのころには、弥一さんももうとっくに通常の日常を回復していた。

 もう一人、武雄さんがいる。彼は、敗戦を待たずに帰ってきた。中国戦線で背中に
銃創を負ったからだった。左の背中、心臓の裏あたりに、縦に十センチ余りの傷があっ
た。ムカデのように縫った痕もまだ生々しく残っていた。「背中に入って数センチのところ
でまた出ていった」と本人は言い、「弾の方向が少し違っていたら生きていなかったろう」
と述懐していた。

 井戸掘り仕事の合間の休憩時などに、それぞれが異国の特異な体験を語る。私は
もっぱら聞き役だった。「祖国の解放」を宣言した森助さんの話には、しかしマルクスも
レーニンも全くなかった。いかにひもじくて、どう食べ物にありついたか、とか、下着に巣く
うノミやシラミなどの話は、時に自虐的な響きを伴って語られた。

 あるとき、森助さんがこう言ったのを記憶している。

「あの連中は、恥ずかしくないのだろうか。日曜日とかお祭とか言っては、音楽を鳴ら
し、そのたんびに嬶を抱いては踊るんだ」


    ☆  ☆  ☆


「おじいちゃんのお父さんは戦争に行かなかったの?」

「行ったさ。海軍だよ。この話は、また別の機会にするけど、幸いなことに死なないで帰っ
てきた、台湾から。もし死んでいたら、おじいちゃんの人生も違ったものになっていたろう
ね」

「弥一さんね、まだそのとき、十五歳ぐらいでしょう? なんで大きな鎌で追っかけられる
の?」

「いい質問だよ。日本は、って、大日本帝国って言ってた。日清戦争に勝ち日露戦争
に勝ち、今の中国東北部に満州帝国を作り、日本の勢力は大陸に支配権を確立し
てさらに広げようと意図していた。満蒙開拓団というのも、支配権を持つ日本人の側か
らだけ見れば、広大な草原に作物を実らせる開発計画だが、現地に昔から住む人たち
には、異民族が侵入してきて土地を我が物顔に使用するのだから、先祖伝来の土地
を奪われ、しかも不満も言えず支配され怯えていたんだ。それが、侵入者の日本が連
合国に負けたんだろう。今こそ我らは我らの祖国を取り戻そうということになる」

「残留孤児なんて、新聞でよく見るじゃないか」

「駿太郎くん、偉いよ。おじいちゃんね、この間、『So Far From the Bamboo Grove』
という作品を、ニューヨークから送ってもらって読んだのだが、あんたたちももうこれくらい
の英語なら読めるはずだ。このころの事態がよく分かる。作者はおじいちゃんと同年の
女性だ。悲惨で厳しい体験をしている。いわゆる地獄を見たんだよ」

「井戸掘りよりも戦争の話をしてたの?」

「そんなことはないよ、真実ちゃん。一日十時間ばかり仕事をするんだ。休憩って十分
か十五分だよ。いや、休憩ではなくて、六左さんがする技術的仕事、というか専門的
仕事の時、ただ見てるか話してるかだが、それも休憩みたいなものだがね」

「昼御飯は一緒に食べるの?」

「いや、それぞれの家で食べる。そしてね、食べたら二時頃まで昼寝するんだ。昼休みっ
て言っていたね。ある日ね、ーー言わない方がいいか、どうかーー昼寝するだろ? 
午後の仕事が始まりかけていた。四人が揃ってたんだが、おじいちゃん、パンツの前の
部分が何だか糊付けしたみたいに固いんだ。あれ? って思って、『こんなところが
パリっとしてる』なんて言ったんだ。すると、武雄さんが、『あんた、いい夢を見たんだろ
う』て言うんだ。『いいえ、なんにも』と答えたが、もうそれ以上はだれも全く取り合って
くれないんだね」

「なに、それ」

「今はあんたたちに説明しないけどね、おじいちゃんはそのとき、自分が大人になった
ことを自覚してなかったんだね」


    ☆  ☆  ☆


 井戸掘りには、いわば設備が要る。一坪(畳二枚分)ほどの池を作り、その上に高さ
六メートルほどの櫓を組む。池の真ん中に垂直に穴を掘り下げるのだが、五メートルほど
の鉄のパイプの先端は、先に鋼の付いた五十センチほどの鑿が取り付けられる。この
装置を回転させながら垂直に突き下げる。その突き方にコツがある。どんと突き下げた
瞬間にはその反動で弾むように引き上げねばならない。いわば毬突きのように弾まねば
ならないし、かといって突く力が弱くてもいけない。厳しくかつ瞬間的な突きで掘り下げ、
間髪を入れずに弾み戻す。こうして上下する巨大鑿の両脇に作業用の横棒を取りつ
け、左右に各一人が動作を合わせて突き・弾みの行動を繰り返す。繰り返しながら半
歩ずつ前に進む。つまり鑿が回転するわけだ。六メートルも掘れば、巨大鑿は池の中に
没してしまうから、その上に竹ひご(竹を二センチ角ほどに割ったもの)を取りつける。
竹ひごは長いものは十メートルほどもある。レールのつなぎのように竹ひごの先端同士を
互いに細くして一本分の太さに合わせ、その部部には金具でカバーする。
その部分も、やがては水中に没する。すると、水分を吸った竹は、金具の中で押し合っ
て決して外れることはない。

 こうして竹ひごに繋がれた巨大鑿は地中深くへと打ち込まれてゆく。ただ、午前二回、
午後二回と上に引き上げられる。そのときのための装置がある。それは、水車、あの水
車小屋の水車だが、これは水で動くものではなく、中に人が入って歩くと、それを動力と
して直径五メートルの板車が回される。よく二十日ネズミが輪の中で走っているのを見る
だろう。あれと同じ原理だ。水車が竹ひごを巻き上げる。初めは面白い仕事だった。私が
中で歩くと、「ちょっと早すぎるぞ」とよく注意されたものだ。竹ひごは弾性が大きいから、
紐のように容易に巻き取ることができ、また、縦にして地中に入れれば、硬い棒と同じ
ように突き下げ、弾み上げることができる。垂直の竹ひごに水平の作業棒を取りつけ、
二人が両手でこれを持つ。上下運動で上げるのは、上にしつらえた竹の棒のバネで援
助されるからあまり苦はないが、下げるときは胸元から押し下げて腰を入れ、地球の芯を
突く。思わず「ウン」と唸るのは、腕も肩も腹筋も、膝も股も、この一瞬に力を発揮する
からだ。発揮したら、その弾みを失わずすぐ上に上がらせる。「ウン、ウン」と足先の幅ぐら
いずつ、池の上の板に円を描いて作業をする。

 十五分ほどすると、「代わろうか」と、弥一さんと武雄さんが言い、解放された私たちは
お茶を飲んでそばに座る。

 時間だから交代してください、なんて自分の方から言ったことは一度もない。そういう
発想もなかった。「代わろう」と言われるまで作業するのが当然のエチケットだったようだ。

 それで、六左さんが、「やめてえ!」と号令を掛け、「中へ入ってえ!」の号令で、だれ
かが水車に乗る。六左さんが、竹ひごの金具を細いかなづちでカチンカチンと水車につな
ぎ、
「回してえ!」と命ずる。竹ひごは上げられるにしたがって、池の下から泥水をつけて上が
ってくる。

 六左さんは、手にぼろぎれを持ち、泥水を上に上がらないようにしながら、次々に上が
る竹ひごと泥水の様子に、特別の目をそそぐ。それは専門家の目だった。

 地下には地層がある。地層には岩盤もあれば粘土層もある。砂礫の層もあれば、岩
土というしつこい地層もある。六左さんは、もう半日ぐらい固い層が続くだろうとか、明日
ぐらいから楽になりそうだとか、予言をする。

 巨大鑿が地上に上がったら、こんどは竹ひごに「吸い子」という道具に付け替えて、下
に下ろす。これはブリキ製のパイプで、上下に弁が付いているから、底に下ろして上下運
動をすると、その部分の水が上向きに流れ、溶けた粘土水といっしょに上へ上がってくる。
同時に底に溜まった岩盤の割れカスや小砂利なども押し上げて、今、突き割られている
底の地面をきれいにする。再び巨大鑿を下ろすときも、水車の中で早歩きなんかしては
いけない。慎重に一メートル、また一メートルと下ろすように心を込めて歩かねばならない。

 夕方、六時、六左さんは帰ってゆくに当たり、いつも注意を残し、約束ごとを確認する。
その最後に、「ええな」と念を押す。

 翌朝、早めに来た六左さんは、まず巨大鑿の先端の刃先を付け替える。二日に一
度は、鍛冶屋さんに寄って、新しい刃先を焼き付けてもらっていた。


  ☆  ☆  ☆


「おじいちゃん、ことばがわからん。たとえば道具の名前なんかーー」

「だろうな。おじいちゃんも少年の頃、何かを手伝うのに、そういうことがよくあった。
たとえば建前(たてまえ)、つまり家を新築するときなど手伝うだろ? それ、ゲンノウ
取ってくれ、コテ、いや粗壁(あらかべ)のコテだ。細縄(ほそなわ)、それじゃない。
それは太すぎる、なんて、最初はうろたえるばかりだ。もういちど絵に描くから、
いいか。(ーー略ーー)だいたい分かったかい」

「なんですべて人力でするの?」

「なんでだと思う?」

「また機械がなかったんでしょう?」

「真実ちゃん、そうでもないよ。発動機にね、ベルトを掛けてポンポン音を立てながら掘るっ
てこともあった。機械掘りって言った。でもね、それは費用が違う。この四軒で出来たのは
自ら労働する井戸掘りだけだったんだ」

「おじいちゃん、夏休み、こればかりしたんだね。宿題は?」

「なかったのかなあ。そういうことで悩んだ記憶はないね。あ、そしてね、自分の進路なんて
考えた記憶もないね」

「いいなあ、今、ぼくたち、宿題、いっぱいだよ」

「いいなあってことはない。井戸掘りを六時半すぎまでするだろう? それで終わりじゃない
よ。水桶(みずおか)担いで、それから二度か三度、共同井戸から水を汲む仕事が、いつ
もと同様にあったわけだ」


    ☆  ☆  ☆



 ある昼下がり、この井戸掘りの仲間ではない近所のある人が見にきた。昼寝を終えて、
四人は午後の仕事をしばらく後に始めようとしていたのだが、この人と、最初は井戸掘り
の話だったが、やがて戦争の話になった。それくらい、すぐ戦争の話になりやすかったとも
言える。この人も武雄さんと同じ方面へ行っていて、幸い帰ってきた人だった。私はこの
とき、聞いた話の印象が、それまで聞いたその他の話とは質的に違っていたことを感じた。
異国の土地で、農村を進軍するときのものだった。

 村は、日本軍が進む前に、だれもいなくなっているのが普通だが、兵は銃剣を持って
一戸一戸を改める。人がいなければ、物を探す。でも物取りの話はあまりなかった。

 ある家に押し入ると、だれもいなかった。が、裏の便所のあたりになにか物音を感じて、
下を覗くと、広いダシガメ(糞尿をためるところ)に人の顔と思えるものがあり、見ていると
動いた。引き上げてみると少女であると分かった。糞尿にまみれていた。「そうやって身を
守ろうとしたんだねえ」。

 また、ある時は、野営中にだれかが娘を連れて来た。班長か古兵かが、これを犯した。
犯したあとのことも、私は非常に話しにくい。「……ぐったりしてる娘を、井戸のところへ
担いで行って、放りこむのだよ。……ヒーっと言って落ちていったね」

 この悲鳴は、私の内面で何度も繰り返された。いまでも厳しく残っている。そして、それ
は鶏を殺して食べたり、野菜を取ったり、食糧を調達したりなどのどんな話もすべてを背
景にする描写の厳しいシーンだった。

 その場にいる戦争体験者が、日常の会話をするときと同じようにこのような話を聴いたり
反応したりするのも私には驚きだった。ただ六左さんだけは、この種の話に加わらなかった。
私の想像だが、彼は戦争に行った経験はなく、それを「ひけめ」に感じているようだった。


    ☆  ☆  ☆


「おじいちゃん、オカシタって何? なんで井戸に放り込むの?」

「真実ちゃん、悪いね、おじいちゃん、的確に説明できない。ーーつまり、男がね、動物の
オスと同じになるんだよ。少女を見つけてきて、無理矢理、性行為をする。ーーそして、
少し残っている人間の心が、自分の罪を咎めるんだ。だから、悪いことから目をつぶるとか、
証拠隠滅とか、そういう心理が強く働くのだろうね。その結果、さらに悪辣な行為をする」

「わかった?、おにいちゃん」

「いやあ、まだ」

「おじいちゃんね、あんたたちにね、ぜひ勧めたいことがあるのだが、五味川純平という人
が、『人間の条件』という作品を書いているよ。これ、ぜひ読んでほしい。おじいちゃんの
話も聞いてほしいけど、それよりもこれを読んでほしい」

「わかった。ここに書いてよ」

「ありがとう、駿太郎くん。五味川ーーだろう? 純平。人間のーー条件、だ。はい」

「ねえ、戦争って、日本人はあまり死ななかったの?」

「そんなことないよ。戦った相手国の人は、たくさん殺したよ。戦いでも殺したし、こうして
なんでもない人もたくさん虐殺した。じゃ日本人は一方的に加害しただけだけかというと、
そうとも言えない。たとえば、おじいちゃんの従兄は、フィリピンで戦死した。叔父もフィリ
ピンで戦死した。もう一人の叔父は、シベリア抑留から帰ってきたんだが、すぐ病気に
なって死んだ。空襲で死んだ人もたくさんいる。家を焼かれ、焼け死んだり、親を失い、
飢え死にしたり、その最大のものは広島や長崎の原子爆弾だった。夏休みには、あんた
たち、よければ連れていってあげようか。どんな恐ろしいことがあったのか、見てほしいから
だ。また同時に、と言うよりこちらの方が先でなければならないとおじいちゃんは思うのだが、
中国を始め日本の外に、日本が犯した侵略戦争の痕跡を保存しているところがいくつ
もある。機会があればそれらを是非見てほしい。戦争って実に忌まわしいものなのだよ」
「なんでそんことをしたのかなあ」

「と思うだろう? だから日本は戦争に負けて初めて厳しい反省をした。世界のどこの国
よりも厳しい反省をした。戦争は人間を、人間の命をゴミ以下にしてしまう。だから以後、
いっさい戦争はしないことを誓った。日本国憲法にそう書いてある。これもあんたたち、
ちゃんと読んでほしい。おじいちゃんの心からの願いだ」


    ☆  ☆  ☆


  この日六時、六左さんはいつものようにこう言った。

「あんたら、わしは帰るでな。これから先、もう少しで今の岩盤は終わる。その下は岩土だ。
手応えが少し軟らかくなるから分かるはずだ。そしたら、ええか、そしたらもう絶対、それ以
上、掘らないでくれ。ええか。一歩間違えば、鑿を取られ、二進も三進も行かんようにな
る。ええな」

 六左さんは帰り、私と森助さんが池の上の仕事棒に取り付いた。例によって
「ウン、ウン」と力を揃え、一歩ずつ足で円を作る。森助さんはいかにも力が込められて
いるかのように、「ウン、ウッフン」と唱えはするが、私の力に隠れ、時には手を添えている
だけの感じがする。傍目には仕事にいそしむ姿に見えるだろうが、相棒の私には上げ下
げの重さから彼の手抜き加減がよく分かった。もちろん私の心中には不満がある。でも、
いつもと同じようにそれを素振りに出さないで、「ウン、ウン」の自然発声の他は黙々と
作業を続けた。

 やがて武雄さんと弥一さんが、「交替しよう」と言い、入れ替わる。

 十五分ほど経って、こんどは私が「交替しましょう」と言い、再び池の上に上がった。

 その作業が五分もしない時、それまで「カチン、カチン」と堅い岩盤を感じていた刃先が
急に軟らかくなった。六左さんの言い残したとおりに岩盤層を突き抜いて岩土層に達した
に違いなかった。

「あっ、軟らかくなりましたね」と私が言うと、

「ああ、そうだね」と、森助さんが答えた。

「停めましょう」と、私は言いながら手を停めた。森助さんも一人ではできないから、自然
に竹ひごの上下運動は静止する。

 他の二人も立ち上がってそばに来た。

「六左さんが言ったように、岩土に達したみたいですよ。ここで止めておきましょう」と私が
言うと、

「そうだね」と弥一さんも武雄さんも頷いた。

 ところが、森助さんは別のことを言った。

「なんでかね。堅い岩盤をやっと突き抜いたんだ。岩土層で一時間も作業したら、二間や
三間、すぐ進める。掘ろうじゃないか」

 この人は、六左さんとの約束をどう理解してるのか。

「いやあ、六左さん、厳しく言いいおきましたよ。止めときましょう」

 私は約束を軽んじない。あの厳しさには私たち素人には計り知れない大きな理由があ
ると信じている。

 弥一さんと武雄さんは、ことばを発しなかった。でも、その表情は私の言に同意してい
た。

「何を言ってる。まだこんな時間じゃないか。早くも仕事を上がりたがるような勤労精神の
乏しさでいいのか、若いくせに」

「ん」、私は大いに傷ついていた。一歩後ろに下がって、内面の不信感と戦っていた。

「もう一時間、やりましょう」

 森助さんは、私以外の二人に高声で言った。

 この時のことを私はこう解釈している。二人が自らの考えをはっきり述べることなく、約
束違反の森助さんに従ったことが、どんな大きな間違いの原因になったのか、責任ある
大人としてよくよく反省すべきだ、と。

 悲劇は、この数分後に起こるべくして起こった。

 私と森助さんが再び棒に取りつき、「ウン、ウン」と仕事を始めて二十回もしないうちに、
底から弾み返す反応が急速に減りはじめ、打ち下ろす力よりも引き上げる力が回ごとに
倍化していった。

「変ですね」と言った次の回は、上へ数センチしか上がらない。

「なんだ、これ」と言ううち、不吉な表情の他の二人も池の上に上がってきた。

「ちょっと、やってみる」、武雄さんと弥一さんが場所を替わって、「セーノー」と声を合わ
せ、作業を始めようとしたが、竹ひごは、上がりも下がりもしなかった。

 それでも数回は「セーノー、ウン」「セーノーウン」と試みた。

「だめだ」、大変なことを仕出かした、と少なくとも三人は思った。

 しばらく沈黙の後、森助さんが提案した。

「うちへ帰って棒を持ってくる。ここを支点にしてテコを掛けてみよう」と言った。

 私は再び傷つくのを恐れ、何も言わなかった。

 今、思い出してその場面が薄暗いのは、事実、夕暮れで暗かったのか、それとも私の
心のせいだったのか、判然としない。

 太い丸太が作業の竹ひごに固定され、大きな礎石用の御影石を支点にし、大人三
人が、「そーれー、よいしょ」と押し下げた。

 テコの原理は、巨大な力を作用させる。ひょっとして、「あ、動いた」と声を上げながらの
問題解決か、と期待を抱かせたが、竹ひごは全く動こうとはしなかった。

 二度、三度、「そーれー、よいっ」とテコを動かす。結果は、文字どおりテコでも動こう
とはしなかった。

 森助さんは私を睨みつけ、「お前もぼうーと見てないで、手伝ったらどうだ」と言った。

 残念ながらもはや私も正論を口にすることを諦めて、テコの上に手と足とを載せた。

「せーのー、よい」ーーー丸太の木質が、ギジギジときしむ。この太さで目に見えるほど撓
んでいた。でも、十数回、四人すべての力でも微動だにすることはなかった。

 四人は止めて座った。ことばはない。六左さんとの約束を守らなかった天罰が当たった
のだ。

 テコを取り外し、それを使った形跡まで消したのはだれの悪知恵だったのか。弥一さんと
武雄さんは、自転車で夜道を走り、六左さんの家に駆けつけた。

 すでに晩酌を始めていた六左さんは、それでもただちに井戸掘り現場に取って返した。

 二度三度と上下運動を試みたあと、「吸い子!」とひとこと言った。

 はじかれたように私は水車に入る。

 今動こうとしない竹ひごの横に、もう一本の吸い子と竹ひごとが下ろされ、六左さんは
底の泥水を何度もすくった。でも水底に捉えられた巨大鑿は少しも動こうとはしなかった。

 作業現場にはコードの先に下げられた裸電球が、六左さんの動きにつれて揺れる以
外に、四人が動くべきことは何もなかった。ことばもない。

 お茶とお菓子が出、夜食のおにぎりと漬物がお盆の上に出されていたが、六左さんは、
ただお茶は啜っただけで、他のものは口にせず、ひたすら現場の復元を試みていた。四人
も、何も食べずに六左さんの動きを見守った。だれも話さず、ただ重い意識の外の時間だ
けが過ぎていった。

 未明に近いらしく、どこかで鶏が鳴いた。

 六左さんは、はじめて池の上から下りてきて、四人に向って座った。

「わしがあれほど禁じておいた仕事を、だれがやろうと言ったんだ」

 それは、もう怒声ではなかった。怒声を越えて絶望感をたたえた弱々しい声だった。
 私は森助さんの顔をそっと見た。

 彼は無言のままだった。他の二人も顔を上げない。

「あれほど、ちゃんと言い置いたじゃないか」、と続くことばにだれもことばを返さない。

「それに、あんたら、何をしたんだ。跳ねテコでこじただろうが、うん?」

 語気には怒りと恨みとがこもる。

「約束を守らなかっただけじゃない。テコでこじたことが復元を不可能にした!」

 大人たちはますますうなだれた。

「わしは鑿を落としたままで仕事を終わらねばならぬ。しかも、これで水が出るのかどうか
も全く分からぬのにーー」

 六左さんは立ち上がって帰る時、

「このまま、絶対に触らないでくれ。絶対にだぞ」と言い置いた。


  ☆  ☆  ☆


「なに、その顔」

「いや、なんでもない。真実ちゃんは、こんど生徒会役員だろ? おじいちゃんね、責任て
言うことを、今考えたんだ。どんなことでも軽はずみに決めてはいけないね。結果をよく想
像して、慎重さを忘れないように願ってるよ」

「うん、同じことを考えながら聞いてた」

「ぼくね、やはり人は後悔のないように、発言していかなきゃいけないんじゃないか、と思っ
たね。ここで問題なのは、一人が勝手な主張しても他の人が反論をしなかったもん」
「いいこと言うね。みんなで決めることが大事だ、なんてことばで言えば簡単だけど、人間
が過ちをしないための真剣な方法論なんだね、これは」

「こう言うのも民主主義って言うの?」

「そうだね。これができてほんとうの民主主義が成り立つのだろう」

「おじいちゃんは言わなかったことを、今後悔してるの?」「してる。してるけど、じゃ、
発言し尽くしていたらそれでどうなったか、と考えると、ううん、大げさな言い方だけど、
民主主義は個人の中にあるだけではダメで、集団の中に定着してないと、いたずらに対
立を作り出すことになりかねないね」

「ちょっとむつかしい、話が」

「それでいいよ。経験を重ねながら考えていけばいいんだ」


  ☆  ☆  ☆


 翌々日からの残る作業は、今のままでも水が出るのかどうかを見極めることだった。
 六左さんは、丁寧に吸い子作業を繰り返した結果、岩盤の上層の砂礫層から水が
出ることを確認した。

 地中にはいくつも地下水層があるものだ。でも、問題は、その「水圧」と「水質」とに
ある。水質は良くても、水圧がなければ、利用はできない。

 確認された水層の水を地上に上げるとき、池の泥水の中に湧き出る雲のような動き
が次第に拡大してゆき、急に盛り上がり、その勢いを増してわき水のうごめきが立ち上
がったと見る間もなく、水が吹き上がった。

 映画で見た油田開発現場の吹き出し場面とそっくりだった。

 みんなは泥を浴びながら、歓声をあげた。私の顔も泥を浴びたが、涙さえ出て、拭う
ことを忘れていた。

 四軒の主婦もそれを見るために駆け寄ってきた。ことばなんてない。

 水圧は、地上、約一・三メートルもある。申し分はない。


   ☆  ☆  ☆


 夏休みをまだ十日ほど残していた。

 百二十間、つまり地下二百二十メートルの地層から湧き出てくるこの水は、見たとこ
ろも口に含んだ味わいにも問題はなく、町の保健所に水質検査を依頼すると、ごく微量
のアンモニアを含むが、飲料に差し障りはないとのことだった。

 六左さんは、工事の終わりを宣言し、四軒に最後の話し合いを提案した。水の配分で
ある。ほぼ人の胸の高さにまで水はわき上がる。水の出口をこれより下げれば、無尽蔵に
湧き出る。

 直径一メートル余りのヒューム管を立て、わき水を満たす。そして分けるのだが、四軒
への水口を四つ開ける。その高さに差を付ける必要があると言い出したのは、森助さん
だった。理由は、自分の家がここからいちばん遠いところにあるから、それに相当する程度
に高くする、というものだった。

 だとすれば、井戸からの距離が水口の高さを決定するのか。

 私は高校二年で物理を習っていた。ベルヌーイの定律を持ち出すまでもなく、水の高
さが水口から押し出す圧力を決めることは、パスカルの法則と呼ばれるが、出てからの
行く先がどうであれ、その高さだけが出る水圧を決める。距離が近くても遠くても、どの家
も水口よりは台所が低い。従って、同じ高さに水口を作るべきだ。私は、これが自然界
の法則にいちばん叶っている、と説明した。

 そのとき驚くべきことが起こった。森助さんは、私を怒鳴りつけたのだ。

「おまえは子供じゃ。黙っとれ」と。

 私は、ほんとうに傷ついた。働くときは一人前、いや、水車には積極的に乗るなど、人
にひけを取ってはいない。また軍隊仕込みの要領のよさはない。さらにはそういうものを
すべてカバーして働き、ここに至っている。「黙っとれ」はあるまい。

 だが弥一さんにも武雄さんにも発言はなかった。森助さんだけが自分の水口をだれよ
りも低くするようと要求し、私がすべてを水平にするよう説明した。それが科学的な法則
であることも話した。が、そのとき怒鳴られたのだ。

 そしてまた意外なことが起こった。六左さんが、

「遠いところへ引く水口を低くするのがよい」と言ったのだ。

 これはのちほど、だれの家に水量が多く、だれの家には少ないか、事実で分かるのだが、
自然界の法則を無視したり、あるいは無知であったりして、そのため人間が先入観や経
験と記憶で事を処理しても、すぐ間違いがばれることを知らねばならない。

 私は、心中悶々としながら、でも黙った。その時の義憤は今も残る。

 だから森助さんを、私はこう評価している。

「祖国解放のために身命を賭して戦うはずの、プロレタリアート・農民共同戦線は、特に
働く者に平等の権利を要求するものではなかったのか。本質は我利我欲主義者が、
ある時はカメレオンのように社会主義者を装い、ある時は要領のよさを発揮して相棒の
力仕事を自らに利用し、結果が出れば経験則で利益を寡占する」

 台所まで水が届くに及んで、支払いを終えた四軒は、六左さんを上座にして会食会を
持った。水汲みの苦役から解放されたそれぞれの家庭は、いつにないご馳走と酒で喜び
の祝宴になったはずだ。

 私は、もし存分に言ってごらん、とでも言われれば、言いたいことが山ほどあった。祝宴が
どれほど盛り上がっても、心が少しも晴れなかったのは、私が未成年で酒が飲めなかった
ためだけではなかった。 


    ☆    ☆   ☆


「その掘り抜き井戸ね、今もあるの?」

「あるはずだよ」

「使ってる?」

「使ってない」

「おじいちゃんの若いころの苦労って無駄だったのかな」

「どうだろうね。人間とか人間社会とか、そういうものを考える出発点にはなったね。
それとね、この井戸が使われなくなったのは、水道が普及したからなんだが、でもね、
ほんとうは水道よりずっときれいな水が、電力も水道局の管理業務もなしで豊富
に出るのだよ。おじいちゃんには、現代の生活に関わるいろんな文明、つまり器機や
設備が、人間の思考を怠慢にさせてしまっているのを切実に感じるね」

「話しはもう終わり?」

「うんーー、井戸掘りでおじいちゃんが経験したことはこれで終わりだが、それから半
世紀あまりもおじいちゃんは生きてきたよ、そうだろ? 人とか社会とか、いくつもの
問題場面を見てきたよ。それでね、人の世って、ああ、こんなものなんだって、分かっ
たような顔をしてないで、二十一世紀へ申し送る大事な課題をまとめ、いろんな場
で語っていきたいんだ」

「そういうのって、ユイゴンて言うの?」

「いや、遺言ってのは、ーーーいや、そうかもしれん。そうだな、真実ちゃんの言うよう
に、うん、これがほんとうのユイゴンかもしれないね。個人的な都合で書き残す書類
なんかよりもよっぽど貴重で有意義な後輩への申し送り事項だものね」


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☆ ☆ [小説の部] 2 かそけき展望     

...............................☆ 2010 名古屋民主文学  ☆

   [世捨てのとき]  その日、私はふらりとバスに乗り、終点までやってきた。バス停のすぐ向かい に、「山菜ラーメン」の看板を見た。二〇一〇年、長い酷暑が続いた夏の、九月 の初めだった。  この山里にはそれでもまだ蝉の声が聞こえ、実入りは少なそうに見えるものの 稲穂もそよいでいた。  山菜ラーメンを注文しておいてから、店の外で吹き上げるぬるま湯のような谷 風に向かってひ弱な緑の景色をひとしきり眺めたあとで再び中へ戻ったのだが、 それでもまだでき上がってはいなかった。店の女性は片脚が老人性疾患なのか、 不自由そうに引きずりながら脚立に上がり、棚の上から黄色い乾麺を下ろしてき た。 「もうちょっとお待ちくださいね」と、湯にそれを浸しながら言った。  竈には製材から出る木端をくべていたから、注文を受けてから焚きつけたのだ ろう。 「ああ、いいよ、急がなくても。ーー私には時間がたっぷりとあるしね。ーー帰っ ても〈焦熱地獄が待つだけだ〉」と言い終わらないうちに、彼女は、 「どこからおみえになったのです?」と問うた。 「名古屋からだよ」 「え? 長野から? 信州の」  彼女は脚のリューマチだけではない。聴力もかなり失っている。  私も左耳の聴力は、ここ数年、ほとんどゼロに等しいくらいに失っている。 「名古屋ア。名古屋カラ、デス、ヨ」と声を上げ、私は立って調理場に身を近づ けた。 「名古屋ですか。何をしにおいでに?」 「いやあ、暑くて暑くて、居場所がなくなってね」 「はあア?」  できあがったラーメンは、ワラビとゼンマイ、それに笹筍がトッピングされ、 漆塗りのお盆で出された。  猫舌の私にはおつゆがまだ熱すぎ、あれこれと冷ましては少ずつ食べながら、 「田舎はア、いいねえエ」と大声で言う。 「そうでもありませんよ。不便、不便」 「ひとり、住まい、かね?」 「そうです。年に二回、息子が帰ってきてたけどーー」 「その辺のオ、田んぼオ、稲が実ってるけどオ、だれが、百姓するの?」 「それがねえーー」と、女性は急に内緒話のときの顔になり声をひそめた。  ーーもうだれもここへは来ないの。去年も足腰の弱ったわたしと上に住むお春 と二人で、周辺の稲刈りをしたんだけど、二軒分の田んぼだけじゃなく、他の人 たちの田んぼも稲刈りをしてあげたの。え? みんな、(特に声をひそめ)なんに も、しないの。百姓仕事を忘れたのかねえ。そこの軍作さんなんか、オレあもうし たくねえから、あんた、よかったらやってくれ。ほしけれあ、何でも取ってくれや、 ってーーまあ無責任なこと、もう。忠義のおっかあなんかもっと無責任、返事もし ない。大声で言ってやったら、あんた、ええようにしてよ、だと。ーーだから、 もうだれも百姓する気なんかない。このぶんじゃあ、やがては村がなくなる。なく なって悲しむ人もいなくなるーー  取り入れが終わって間もなく、相棒のお春ばあさんは町の病院へ入院してしまい、 年末に見舞いに行ってみると、亡くなっていた。娘がお骨だけ引き取りに来た、と 病院で知らされた。  家はいちばん山に近いところにあり、お春の夫は出稼ぎに出たきり十年以上も 消息がない。辺りの田んぼも、すべて農業を放棄しているので、だれの所有だった のかも意識しないでこの二人でできる農業をやっていた。結局、この集落の人は みんな、先祖からの田んぼを捨ててしまっている。 「その、山にいちばん近い家って、まだあるの?」 「あります、ちゃんと。旦那さんが出稼ぎに出るまでは二人で住んでいたんだし、 去年の暮れにお春が入院するときも、村役場の車が迎えに来て連れて行ったけど、 家の中はその時のままのはず。私も中を開けて片付けてやりたいが、ようしとら んーー」 「これ、ここに置かせてね」  支払いを済ませ、私はリュックを店に残したままその家を見てくることにした。  歩く小道の脇には野菜畑がまだあるにはあったが、茂るに任せた草地になりはて た場所のほうがはるかに多い。山すその樹々が迫る辺りにその家があった。  外観は築後二十年ぐらいに見え、瓦葺き屋根の、まだ板のかおりを残す母屋には 作業用の農小屋も立派についていて、中に農耕具なども見えた。 「もったいない」  都会では随所にホームレスの姿が見られ、インターネット喫茶にまで宿泊者が溢 れるという時勢だ。  雨戸は、容易に開いた。乾いた黴の匂いはするが、畳の匂いは懐かしい。 「失礼します」  わざと声を発して出居に上がり、私は家の中のすべてを見ることにした。  見ながら私には思いつくことがあって、再びラーメン屋までとって返してきた。  このとき「思いついたこと」とは、重大な決心とか深刻な決断とか、そういう 「こと」とは異質な「思いつき」だった。それは特に根拠のない気軽な「思いつき」 なのだが、生きるもののなにか根元的な行動様式の一つだったと、時間を経た今 なら表現できる。 「どうだろう、あそこに住んでみてもいいだろうか」 「え?(しばし怪訝そうな表情をしたあとで)いいでないの。だれも帰って来んの だし、ーー住んでもらえば気強いしーー」  私はその日、この放棄された空き家に泊まった。  そこには人が生活できるすべての条件が整っていて、時間が静止しているかの ようにそのすべてが保存されていた。  正確には、私にはもう半世紀あまりも縁がなくなっていた生活様式がすっかり まるごと残っていたと表現すべきだろう。  水は、裏山から掛樋を伝い、裏戸の外の水瓶に途切れることなく落ちていたし、 竈にはほだ木と落ち葉とが、今すぐ焚きつけられるのを待ちながら、入れられて あった。  米は、ーー米櫃の中の精白米はやや変色していたが、壁際には玄米が紙袋に 入ったまま積み上げられていた。  古い精白米を五合ほど羽釜に入れて洗い、多めの水で炊きあげると、小半時の あと、羽釜の蓋が音を発し美味しい匂いを吹き散らしはじめた。  戸棚の品々の中から見つけたふりかけでご飯を食べ終えて、私はまた下のラー メン屋を訪ねた。 「電灯がつくんだよ」 「そうでしょう。定額電灯ですから」 「つまり、メーターはないという意味? でも料金は誰が払っているんだろう?」 「さあ」  畳にはもう布団が敷いてあった。 「じゃ、またあしたね」  この日を以て、私はこの山村集落の住人になった。  ただし、住民票を移すなど、日本社会に存在する公的手続きのすべてを省 略したまま、全くの自由意志で住まいを変えたのだった。  同時に、名古屋市の某マンションでは、その日から主が戻ってこないことにも なった。 [弥生農業と縄文採取]  世捨て人とはこういうものかと、あの夏の日以降を振り返る。心境の変化は必 ずしも理性を伴わない。一見気まぐれに思えるが、実は事の本質に触れている。  あの日から、あたかもずっと以前から予定されていた日課でもあったかのように、 私はこんな毎日を過ごし始めた。  朝は山裾をひとしきり歩いたあとで朝飯を炊く。午前は田畑で働き、昼食前に は湯を沸かす。午後は昼寝と書き物をしてから、またひとしきり山裾を歩く。そし て夕食の後には安らぎだけがある。  冬になると、朝は遅く夕べは早い。竈の前で暖を楽しむ時間も長くはなるが、 夕食が済めば、片付けの後にはやはり寝ることしかない。  もちろんだが、テレビはない。ラジオはあるが、聴くのを忘れて寝てしまう場合 が多い。  夢もあまり見ることはない。木枯らしが強く吹き続ける夜だって、特別の感慨な ど涌くこともない。  最初の春を迎えたとき、少年時代の記憶をよりどころに水稲作りの準備を始め ようとして、私は久しぶりに下のラーメン屋を訪ねた。 「苗代作って水を入れたんだが、今まで種籾はどうしてたの? 叺の籾からかい?」 「いいえ。えへへへ。蒔きませんでした」 「えー? 蒔かないで、どうやってーー」 「代を作って水を張るでしょう。すると他の草といっしょに稲も生えてくるんです。 それで、田植えの代わりに草だけ抜いて、稲は残してーー」 「へえーー」 「田の草取りは、一番草も二番草も、草だけ抜いてーー」 「それじゃあ、株が並んでないじゃないの」 「もし気になれば、ーーこうーー、泥ごとずらしてーー。一番草までなら、けっこう ずらせるの、楽に」  苗代に、私はしかし籾を蒔いた。  六月には田植えをひとりで実施した。  山林中には朽ちた落ち葉で形成された腐植土層がある。これを掘り出して きて床土に入れた以外に特別の施肥はしない。  それでも私の稲は、順調に育った。七月には伸び盛りの子どもを見るのと同じ 思いで、毎朝、田んぼを見て回る。水加減はすこぶるいい。施した腐植土の 分解もきわめて良好らしく、足を入れるとブクブクとメタンガスを発生する。  だから株の分蘖もたくましく、これなら刈り取りの時、六株で稲束の一束が できると確信できた。  私の高校時代なら、これくらいの出来栄えが平年作の水準だった。だから三 俵の収穫は確実で、私が一年食べてもやや余る。  以前、武士の扶持を調べたことがあったが、下級では「玄米一人扶持」とある。 つまり玄米を一石下賜されるという石高なのだ。  私は自分の手労働で、武士の給与を得ている実感を味わった。  秋には、深まりゆく気配を楽しむ一方で、山すそへ入り茸を採った。  ありがたいことに、時勢は大きく変わっても茸の姿は昔のままである。私には 子どものころの知恵が残っていて、食べられるものと食べられないものとの区別が つく。だいたい知らない茸は食べない。これが安全の心得で、生半可な判断は 失敗を導くという教訓でもある。今でも年間に約七人が茸中毒で命を落とすと 言われており、最も多いのはクリタケの仲間だそうだから、樹木に生える茸は、よく 判別できるもの、例えばシイタケ、エノキダケ、キクラゲなど以外は採らない。  雨上がりに山に入れば、三十分ほど歩くだけで手かごを満たすほど採れる。 言うまでもないが、すべてが雑茸だ。ひとりで賞味するのはなんだかもったいない。 美味しさはもちろんのことその芳しさたるや、言語の表現を越えている。茸汁 だけでは食べきれないから、冷やご飯の上に汁の実の茸をトッピングしたりして味 わう。  こんな茸ご飯が、もしも都会のレストランのメニューにあれば、愛好者は門前市 をなすだろう。また混ぜご飯を作るのなら、キノコ・ビビンバとでも称する一品料理 にもなるだろう。  冬は、温暖化のせいでか、その厳しさをあまり感じない。  三月になると周囲のどこにでも春を感じるから、まずは山菜摘みや田螺獲りで 食材が豊富になり、お膳が賑わしくなる。  茸の場合も同様だが、私は縄文文化とともに生きていることを実感する。ただ、 人類史上の事実は、これら私の味わう個人生活以外に、勇壮な狩猟や老若 男女の歌舞に酔いしれる祭礼もあったのだろう。 [娘の自殺未遂]  二〇一三年、灼熱地獄を思わせたその年の夏も、十月に入ってやっと秋の 感触を得ることができるようになった。その朝、刈り株もまだ生々しい水田を通り 抜け、山への道を散歩しようとして、私は地面に不審な痕跡を発見した。  いつも気を付けているクマの足跡でもない。もちろんイノシシでもない。それは 車の轍に見えた。老眼鏡を揺すり上げて確かめると、カーブの部分にはっきりと 前後輪の跡を見た。笹が生える道に通常なら車など入るはずはない。数歩進む と、前方に黒い車の停まっているのが見えた。  ゆっくりと近づいて中をうかがうと、若い女性が前の座席に横臥している。  眠っているのか、あるいはーーと見るうち、ハンドルの下にコンロがあるのに 気づいた。(ガス自殺だ)、瞬間、私はうろたえた。 「もし、もしーーもし、もし。起きてッ、早くッ。もしッ、もーし」  力まかせにガラスを叩いた。ドアの取っ手を引き、押し、叩きもした。でもまっ たく反応はない。 (石はないか、棒切れはないか)  見つけた石は小さかったが、なんとかガラスに穴を穿った。棒は二度も折れ ながら、穴を拡げ、私はそこから肱を入れてドアを開けた。 「もし、もし」  膝を揺すったが、反応はない。  足を引っ張った。女性は身体をずらしはしたが、やはり反応はない。 (死んでいる)との判断が定まらぬうちに(いや、冷たくはない)と気づいた。  両膝を引き出し、肩と腰とを抱きかかえると、私の力で支えられることが 分かった。家へと抱き運ぶとき、全身の筋肉はすっかり弛緩しているのに、かすか だが息の動きを耳の下に感じた。  一酸化炭素中毒は、皮膚呼吸をも必要とすると、私は聞いたことがあった。 畳に仰臥させ、下着一枚の他はすべて取り外して、両の腕を胸につけては開き、 開いては押しつける呼吸の補助行為を繰り返した。  三十分ほど夢中で続けて、私は自分が老人であることを、実に奇妙な思いで 実感していた。もし若かったら「男」の私が、こんなに純粋な気持ちで蘇生に努め ることができただろうか、と思った。  呼吸は徐々にだが次第に確かさを増していた。私が動きを停めても、胸の上下 動は変化のない周期を繰り返している。 「あ、そうだ」 私は初めて気づき、手首の脈をみた。  私のよりはかなりゆるやかな周期の脈拍があった。 「そうか、私の脈が速まっているんだ」と思いながら、内に安堵感と喜びとが同時 に生じてくるのを知った。 「警察へは、ーー言わないことにしようか」  声に出してこう言って、私は竈へ立った。  意識を取り戻した彼女が最初に口にしたのは、きのこ雑炊だった。厳密に言え ば、前夜の雑炊の残りを再び煮込んだもので、キノコの具が入ったおじやだった。  浴衣姿で正座をした娘は、静かに、 「いただきます」と言って、スプーンでおじやを口に運び、 「おいしい」と呟いた。  私には三度めの喜びが訪れた。一度めは生命が確認できたとき、二度めは、 目覚めて私を眺め、何も言わずに再び目を閉じ、やがてまた眠入ったあとだった。 「すみません。トイレはどこですか」  はっきりした発声だった。 「こっちだ。ーーほらこの向こうーー」 私は縁際まで移動し、縁さきのその場所 を示すと、浴衣の前を丁寧に合わせ、「ありがとうございます」と言いながら 私の前を通った。  その仕草に、しばらく見ていない女性の品性を、私はしみじみと感じていた。  [農業労働を手伝う娘] 「生きてる大根って初めて見ました」 「売ってる大根だって、みんな生きてるよ」 「でも、こうして半分土の中に入ってて、葉をひろげてるのって、ここに生きてる 感じってしません?」 「そうか。生きてるって言ったのは、大根本来の生き方をしてるって意味か。 ーーそりゃ大根だって、八百屋の店先で並ぶより、こうして畑で並ぶ方がいい だろう。ほら葉はもちろんだが、大根の方もいい色艶してるだろう? ここの色、 分かる? これ、青首大根っていうんだ」  私が畑仕事をしていると、そばに来て話したり、草取りを手伝うようになった。 「ここにいてもいいですか」 「ああ、いいよ。何をするのも私に遠慮は要らんよ」  いつからか見つけた長靴を履いてくるようになったのは、いっしょに農作業をする 気なのだろう。 「水を掛けるとか、しなくても野菜は育つのですか」 「いい質問だね。この大根とかそっちの春菊とか、秋野菜と言うがね、朝、畑には 露がいっぱい降りてるんだ。それで十分。そしてね、こんなに混み合ってても間引 きすぎると冬の寒さで弱るから、互いが身をくっつけ合って守り合うくらいでいい んだ。あ、夏野菜は違うよ。たとえば胡瓜なんか、毎日欠かさず水をやるんだよ」 「野菜の種類によっても、季節によっても、対応が異なる、ってことですか」 「だろうね。個性に合わせて、環境を判断して、お世話できることをするって感じ かな」 「お話、分かります」 「いや、それは大げさだよ。もともとね、植物って人間が何にもしないでもそれぞれ が自分の生命力で立派に生きていくものなんだ。人間が世話をするのはね、人間 に都合よく、たとえば余計に太ってもらったり、甘くなってもらったり、軟らかく なってもらったり、そういう、なんていうか、都合に合わせてもらいたいために、 水をやる、肥料をやる、雑草を取り除く、虫を取り除くなどしてるんだ。この大根 も、いわば人間の過保護みたいなお世話で、自らの種族維持には直接関係のない 根の部分の異常な肥大を、人間のためにサービスしてくれてるんだろう」 「そうですか、野菜はーーこれは、葱?」 「いや、玉葱だ。根本の部分を見てごらん。赤紫色のもあるだろう。赤玉葱だ。 来年、生でサラダにして食べる。赤白とも、それぞれ百本ずつ植えたんだが、 これだけあれば、六月に収穫し、軒先にまたぶら下げて、次の季節まで食べられ るよ」 「まあ、こんなに小さいときから、夢がもてるのね」 「またいいこと言うね。人間が弥生時代からずっと楽しんでいた夢なんだ。弥生 時代とは二世紀頃からの農耕文化を指すのだが、六十年前、私の高校生の ころだって畑はこうして夢を生み出していた。でも都会人はそういう夢を失ったん だよ。また現代人は、そういう夢があったことも知らないでいる」 「私もそう。ーー玉葱の向こうの列は、なに?」 「列って、畝って言うんだ。豌豆だよ。蔓ありの豌豆、つまり、本来は他の植物 にからまって伸びるんだが、人間が竹などで棚を作る。それを手という。その手に 頼って伸び上がり、花を咲かせ、実が成る。莢豌豆だ。ーーメンデルの法則っ て知ってるかい。百五十年も前に、エンドウの花を交配させて遺伝の法則を 発見してる。畑をやってるとね、メンデルだってファーブルだって、同じ思いで過 ごした日があるってことを感じるね。あの住井すゑさんも、裸足で畑仕事をしたん だもん。変な評論家が分かったようなことを書くけど、ほんとうのことは分かって なんかいないね。私はそう思うよ」 (ところで君は今までどこで何をしてたんだい)などとはいっさい尋ねない。私が ふらりとここへ来て、前の生活を捨てたことを、脱皮のごとく当然のこととして 経験した。人がする当然のことは、説明する必要もない。人に勧める必要も ない。 「もうお昼のようだね」 「わたし、先に行ってお湯を沸かしておくわ」 「ああ、頼むね」  私はそれから、生野菜などお昼に食べる分だけ取って帰ると、裏口で先ず足を 洗い、次に野菜を洗って、それから中に入る。 「おなかがすいてたことを、今更のように感じるんだよ、この匂いでね」  お釜の蓋を取ると、ご飯が美味しく匂い、鍋を開けると、おつゆの香りが心 を魅了する。入れたばかりの春菊はまだ青い。 「いただきます」の声と間を置かずに啜るとき、弥生の人間が蘇っている。茸汁 なら縄文人が蘇るのは言うまでもない。 「おいしいかい?」 「ええ」 「ほんとう?」 「ほんとうです。私、今満たされています」 「ほんとう?」  [父娘の語らい]  二〇一四年の猛暑には、特筆すべきことがあった。樹木の立ち枯れである。 私が「世を捨てた」年、滋賀県へ行った時のこと、車窓から山の中に咲く異様 な「花」を見た。  下車後、人に尋ねると、それは花ではなく、いわゆる「夏枯れ」だと教えて もらった。異常気象もここまで極まったかと驚いた記憶がある。  あれから四年、いやます猛暑だが、山すそに暮らす私たちにはさほど苦痛を感じ させなかったものの、雨の降らない渇きの日が一週間も続くと、さすがに広葉樹 の葉は力なく萎れ、蔓性の野菜が葉に力を失うなどして、日に三度も水を遣ら なければならなかった。畑の周辺にある蔓性の野草でも、例えばカラスノベントウ などは枯れないでいるのがめずらしかった。田んぼでは蛙が白い腹を見せて死ん でいたりした。水がないのではない。四十度を越える水には、土中からメタンガス が途切れることなく発生していた。  蛙も棲めない環境になったと表現するだけでは皮相的な理解で、人間の目に は感知できないバクテリアやアメーバーの多くが死滅を迫られているに違いな かった。 「今年は蚊がいないのねえ」と、宵のくつろぎ時に娘が言った。 「蚊もいない、が正しい表現じゃないかい。蛙も鳴かないよ」 「春ね、お父さん、庭先で蟻が行列してたでしょう」 「ああ」 「その蟻を見かけないの。蚯蚓が干からびて死んでても、それを引きずる蟻の姿っ てどこにもいないんだもん」  娘は私をお父さんと呼ぶ。私にも違和感はない。 「私の子どものころにはね、蟻は何でも引っぱってたもんだ。蝶の羽が、なぜか ひとりでに動くと見えて、そばで見ると蟻が羽を立てて引いていた。帆懸け船 みたいだった。大勢の蟻たちが、みんな喜びいっぱいで共同作業する姿に、物語 の世界を感じたもんだ」 「蟻以外にもあるんでしょ」 「ある、ある。蟻と蟋蟀なんて、イソップを読まなくても、私には物語があった。 犬と蟷螂、鼬と鶏、鳩の求愛も、ああ、蝗女の求愛、いくらもあるよ」 「イナゴ女の求愛ってどんな話? 聴かせて、おとうさん」 「いやあ、品のない話だが、聴くかい」  ーー蝗は稲刈り前の畦を歩けば、まるでしぶきのように両脇へ跳び去ったものだ。 大きいのは雌、小さくて身軽なのが雄。一見、親と子ぐらいの差がある。  静止している雌が、ふと行動を起こすことがある。左右に大きく身体を揺するこ と二、三秒。すると、どこからとなく身の小さな雄が近寄ってくる。でもまだ何も 起こらないとなると、雌は再び身を左右に大きく揺する。そのとき間髪を入れず、 その背中に雄が飛び乗る。しっかりとしがみつき小刻みに身震いして負ぶさる。 同時進行で、雄は尾ーーというか尻というか、胴の末端を異様にねじ曲げる。  そして雌の方もやはり同時進行で尻の先端をねじ曲げ、横に向けるんだ。  そのとき、どのように微妙な変化が、その双方の先端で起こっているかは、肉眼 では確認しがたい。  ーーしがたいんだが、これは本能というか、自分の生以前から備わった何かが 作用して、私の体内に痺れ感覚といおうか、陶酔感とか神秘的感覚とか、そんな ものが生じている。やがて負んぶ姿の蝗のひと組は、細やかな悶え動作を終えて 静かになるのだが、そのとき、我に返った傍観者は、残虐性をむき出しにするーー 「え? 殺しちゃうの」  ーーいや、殺さないけどーー。捕まえて、二つの合体をそっと引き離す。すると 二つの身体は離れても、尾の先端だけは、まだ離れない。私は再び自らの身体 の中に神秘的な感覚を覚えながらもさらに引き離すと、雌の体内から三、四ミリ ぐらいの白い糸状のものが、ややよじれたまま外れてくる。それは雄の生殖器なん だろうが、人間で言えば腕の長さぐらいだろう。つまり、雄は自らの身体から腕 ほどの器官をメスの体内へねじ込んで、しっかりと合体し、そのまま数時間、負ぶ さったままで野に生きるのだ。ーー多分、その間に何度か恍惚感を伴う身悶えと ともに精子の放出が行われ、その間じゅう雌に対するいとおしさ、ーーいや、雌の 方も背負う雄へのいとおしさに身と心とををゆだねての愛情生活があるのにちが いないーー 「おとうさんーー」 「なんだ。え? 何だ。ーー話が刺激的すぎたか」 「はいーー。すみません、早く話を変えてください」  娘は私のあぐらの膝を右手で力強く掴んだり、押し返したり、内面の「なにか」 に抵抗しているように見えた。 「いや、すまん。ーーこんどはお化けの話だ。ーーおい、いいかい?」  私は正座に座り直し、娘の手が離れるように身を変えた。 「本家の伯母さんがある日、言ったんだ。あれは秋だった。墓に酸漿が立っていた。 草の中には紅い彼岸花が咲いていた。伯母さんは蓄膿症らしく、ときどきクンクン と鼻を鳴らしーー。あ、そうだ。もうあそこの渋柿、採って干し柿にしようか。 明日は採りに行くかい」  [人類の親子] 「お父さん、お聞きしてもいい?」 「ああ、なんなりと」 「お父さんは、この地の人じゃない気もするのですけど、ずっとこの地の人のよう にも思えるの。ラーメン屋のおばさんとは親戚でも何でもないようでもあるし、 ずっと共に生きてきた人とのようにも思えるしーー」 「で、何が聞きたいの?」 「お聞きしない方がいいの? お父さんの過去ーー」 「過去って、いやなことばだね。私の過去ならいくらでも話すよ。話すけど、話し たいことではない。悪いことがあったからではない。例えば悪事を背負ってなんか まったくない。卑怯にも経済的な破綻とかもまったくない。つまり私には逃げ隠れ する理由のひとかけらもない。ここがいいからここにいて、そしてお前ーー、いや、 勝手に娘と思ってるが、ーーお前を偶然に得た。お前の過去を聞く気もない。見 たところ、お前も過去を私に言わない、いや、言うことを意識しないで、ずっとずっ とここにいたように意識しているのがいいのではないかと思う。何万年も何千年も 以前から、こうして当たり前のことだけして暮らしてきた。そしてそれ以上のこと を望まない。いや、望まないというと、敢えて無欲で節欲で、ストイックに感じて しまうことばだが、お前も私と同感だろうが、人間として健全な欲望を、誰からも 邪魔されずに追究し、満たし得ている。ーーこんな私の認識は、どうかね」  娘は私に顔を向け、素直な表情でうなづいた。 「でも私はもう間もなく八十歳にもなろうという老人だ。若いお前とは生命力も大 いに異なる。だからよく言うように、遠慮は要らん、お前のほしいようにやって おくれ」 「ありがとう、お父さん。実はわたしも今、ほしいようにやっています。そして、 お父さんの過去が、ちょっと気になっただけです。縄文から弥生を通して、ずっと 今までこうしていらっしゃるお父さんの傍で、やはり縄文から弥生、中世も私の ような娘がいて、こうして夕涼みしたのでしょうけれど、それでなんの不満もない ということに、私、今更ながら不思議な感覚です。お父さんからお前って呼ばれ ていると、そういう人類の大きなつながりの中の、私もその一つって、思えています。 私の過去、お父さんなら全部話してもいい。でも私、話したいとか話したくない とかじゃなくて、話す必要がないって感覚です」 「いい表現だね。話す必要を感じないんだ、私も。ーーちょっと時間をくれんか。 この感覚って、とても崇高な哲学のようには思えないかね」 「ーー? わたし、よく分かりません。ただ、お父さんのお考えの中に、整理され て収まるには、なにか知的な作業とか手続きとかが要るとおっしゃってるのですね」 「おまえは、上手に表現するね。そうなんだ、手続きが要る。そしてその手続きを 都会の現代人は見失っていることを、今、私は理論化できそうな手前に来ている」  [来客の夕べ]  その日は優れない天気だったから、早めに夕食の準備を始めていた。 「ーーんちわあ」とぼやけた男の声を聞いた。  娘が竈の前で不安げな表情を見せながら立った。  私は手で娘を制し、そのまま留まらせ、 「はーい」と声を上げ、表に出た。  ごく何でもない男が立っていて、「どうも」と頭を下げて言った。 「私ーー下のラーメン屋の息子です。母がいつもお世話になってるそうで、ーー一度 行っておいでって、ーーお邪魔します」 「そうかね、そうかね。だれかと思ったよ。まあ、入りなよ」  準備がまだできてない飯台に向かい合って座り、そっとしゃがんでいる土間の娘 を指した。 「娘だ。ーーああ、ラーメン屋さんの息子さんだ。ーーどうだ、いっしょに食べるかね」 「いや、失礼します」  立ち上がろうする前に手で制して、そのまま坐らせた。 「いつまでお母さんのところに?」 「もうーー行きません。リストラです」  髭も伸び、顔の色つやにも疲れが見える。どんな苦労があった挙げ句の里帰り だったのだろうか。 「母は、山のおじさんと話してみなさい、って言いました」 「何を」 「僕にもわかりません。母には何を話していいか分からなかったので、ここんとこ、 ずっと黙ってたんです。そしたら、今朝、母がおじさんのことを言うんです」 「君ね、私でよけりゃ、なんでも話していいよ。話さなくてもいいよ。私が今、君に 言えることは、ここで君がしたいようにしていて、なんにもかまわないと言うことだ。 あ、お前は、どうかね」  娘を見て言うと、 「お父さんと、私も同じ」と、さきほどの不安をすっか解消した表情で言った。  先ほどから美味しい匂いを上げていた夕食がお膳になって飯台に並んだ。この ところほとんど毎夕、おじやの献立だが、娘も私も飽きることがない。乾し茸や 小松菜、人参などを炊き込み、炊き上げ際に春菊を入れると味ばかりか香りも 絶妙になる。 「どうぞ」とすすめられると、男は箸を構えて一礼し、音を立てないように食べ 始めた。 「どうだい?」 「おいしいです」 男は素直だった。 「お代わり、どうです?」 娘も気遣う。 「あ、はい」 男は椀を差し出し、娘は両手に受け取って鍋から装った。 「お父さんも?」 「うん、お代わり」  鍋は早くも底を掻く音がしている。 「ごちそうさまでした。僕、ほんとにおいしい夕食をいただきました。なんていう お料理ですか?」 「はあ? おじや、おじやって言うの」 「レシピは、どんなんですか」 「ははは、レシピがないって言うか、ーー思ったように作ればいいのがおじやですよ」 「そうですか。母に教えます」 「お母さんは、とっくにご存じのはずだよ、きっと」  私が口を挟んだ。 「私が子どものころ、日本のどこにもあった。敗戦の前後、食べ物に乏しいとき、 どんな物でもこうすれば食べられる。腹の足しになった。南瓜でもジャガイモでも、 いや、薩摩芋の葉っぱだって、すべてこうして食べたんだ。私には思い出がいっぱ い詰まっている。ーー多分、私たちは何万年も以前からこうした味で楽しんでき たんだ」 「何万年も、ですか」 「そうよ。縄文人も弥生人も、同じだったのよ」  娘が目を輝かせながら、新入りの男に言った。  私はここに来て初めての感情を、またもう一つ味わっていた。それはどこか陶酔 感にも似た味わいだった。 [あるべき生活の進展]  それから毎日のように来るようになった男は、この日、 「母がラーメン屋を辞めたいって言っています」と私に告げた。 「身体が大変なんだね」 「それもあるのでしょうけれど、バス路線が間もなく短縮になるので、お客はもうな いのです」  私が来たあの時だって客は私一人だった。折り返しのバスに乗客はなかった。 「役場の支所までは路線を残すそうです。午前と午後に各一本。それもいつまで かは分かりません」 「その役場の支所は、ここからどれくらいかかるの?」 「二十分ぐらいです、僕の車で」 「坂を下るから二十分だろうが、上って戻るには、多分、三十五分かもっとかかる んじゃないかい? もし歩けば、どう?」 「二時間はかかるでしょうね。小学校へ歩いて通ったから、いや、もうちょっとかな」  平坦でもなく直線でもない。カーブの角ごとに谷を見下ろし、車ならハンドル操 作に忙しい。猪にも気を許せないなら熊避けの鈴が鳴り続ける必要もある。 そういう上り下りのマウントウエイだ。 「昨日、支所の方がみえて、生活上の不便はないかって尋ねました。バスが来 なくなれば麺の仕入れもできないし、客もないんだし、もう辞めるって母は言いま した」 「君はそれでいいの?」 「僕は母のしたいようにすればいいと思ってますが、母に言わせれば、正樹ーー僕、 正樹っていいますが(一礼して)、正樹がよければって言うんです。僕のことを心配 してるみたいです」 「そうだろうね。自分の身は縄文人だろうが弥生人だろうがこの地でどうにでもなる。 けれども息子の正樹君は現代人だし、これからどうなるか心配なんだろうね」 「はい。で、支所の人と一時間、話したんです。僕がこの村に住むのならありがたい って言うんです。村の仕事もしてほしいそうです」 「どんな?」 「小学生が二人いて、学校まで送り迎えをしてほしい。月曜から金曜まで五日 間、月に七万円でお願いできたら、と言われました」 「返事したの?」 「いえ。考えさせてください、って言いましたが、こんな返事をしようと思います。 おじさんのご意見をお願いします。僕は村の仕事を引き受けます。そして、勝手で すが、おじさんたちの農業もいっしょにやらせてください。いけませんか」 「ああ、いいよ。あ、お前、どうかね?」と娘を振り返ると、 「お父さんと同意見よ」とすっきりした表情で答えた。  私に、ここへ来て何度目かの新しい質の喜びがまた訪れていた。 「あの、送り迎えの仕事に、わたしの車も使っていいわよ」 「え、あなたは車をお持ちなのですか?」 「山の中に捨てたままだけど、よかったら一度見てください。わたしはもう乗りません から。でも、ほとんど新車のままで放置してあるの」  正樹は後日、娘の車を見ることにして帰っていった。  歩きながら草の先をちぎっては去り行く姿に、正樹の心が表出されていた。  半年余りが経過して、この年もまた招かれざる酷暑が来襲した。  田植えに男手が増えたこともあり、稲作はほぼ三反歩に及んでいる。  二番草を終えるころから、学校は夏休みになり、正樹は朝から全日をいっしょに 働くようになった。昼はいっしょに食事を摂り、夕食前には帰って行く。  ラーメン屋は辞めた。息子との二人暮らしに満足した母は、杖にすがって時々 は家まで上がってくる。  昼、娘は一足先に湯を沸かしに帰るが、私と正樹が田圃から上がって来て裏 口で足を洗うとき、中から正樹の母と娘とが台所仕事をしながら話しているのが 聞こえるのだった。  もちろん四人で昼食を楽しむ。  この日、正樹の母は来ていなかった。  三人が昼食を終えたとき、正樹の様子がどこか変だった。  私の右隣へ座を移し、正座をした。 「あのーー、実はーー」 正樹は上ずった声で言った。  そして、私に予感を確認する隙を与えず、 「ーーお父さんと呼ばせてください」と一気に言った。いや、叫んだも同然の言い ようだった。  台所から上がってきた娘は、エプロンの前で手を拭きながら、正樹のすぐ後ろに 正座してうつむく。 「ーー? お父さんでかまわんがーー」  娘がすかさず言った。 「お父さん。わたしたちーー二人ともがお父さんって呼ぶーー間柄になって、くだ さい」  私の感覚はやっと予感ではなくなっていた。 「いやあーー、わかりました。よくわかりました、君たちと私との間柄が。ーー全く異 存はありません。ーーはっきり言いましょう。嬉しい。仲睦まじい関係を作っていき なさい。はい」  二人が深くお辞儀したあとで、正座を崩し照れながら姿勢を緩めるとき、私の 中にまた新しい質の喜びが以前のどれよりも深く染み込んでくるのを感じていた。  [婚礼は歴史のスタート] 「お父さんから、じゃ、ひとこと挨拶だ」  私は自ら礼式をとりしきる。  若夫婦の前の飯台、その向かい側に正樹の母、一同の正座は礼式にふさわ しい。 「私と娘とは、昔から娘と私だった。縄文弥生から来た親子である。正樹はまだ 村という現代文明に関わりを持つが、心はすでに縄文弥生人である。つまり私た ちは完全な、あるがままの自然人間として一家族を成している。若い健全な人 間の一組がこの環境の中で、今、もう一つの出発をしようとしている。  二十一世紀、文明は行き詰まった。気づかない者はともに破局へと向かう以外 にない。私たちは幸いにも稀なチャンスを得て苦境を抜け脱皮を果たした。私たち に学ぶべき先人はない。もちろん負の遺産も一切ない。見たくない物を未練がま しく見る必要もない。ただ自然とともにある私たちだけを見つめて、お互いの本性 が望むままに私たちの未来を創っていこうではないか。  二人の前途は私たちみんなの未来でもある。二人にはよろしく舵取り役を お願いして、私の祝辞とする。以上」  次いで正樹と娘が並んで立った。  揃って頭を低げてから正樹は言った。 「お父さん、ありがとう。お母さん、ありがとう。今日から僕たちはめおとになります。 よろしくお願いします。僕がリストラで帰ってきたとき、お母さんにはほんとに心配を 掛けました。その心配を解消させてくださったのは、みなさんの自然尊重主義でし た。いわゆる文明社会の価値観をすっかり問題外のこととされ、失業とか生活苦 とか、そういう苦境から脱皮することができました。妻を私は尊敬します。どんな 過去があったのかを問題にもしません。新車一台を山中に捨てても忘れ去ること のできる度量の広い自然人間です。私だけはまだ少しばかり脱皮前の未熟さを 引きずりますが、みなさんと同じ心でやってゆく自信がもてています。よろしくお願い します」 「わたしも、言うのでしょうか」 正樹の母が言った。 「お願いしましょう。いや、座ったままでーー」 「ふたりがめおとになれて、わたしもほんとに嬉しいです。わたしの人生は、こんな山 奥の田舎で、ラーメン屋にお客がなくなり、正樹は都会で、いろいろ悩んで考えて、 寂しいつまらん人生じゃと嘆いていましたけど、それはみんなーー現代社会の罪悪。 もともと人間には関係ないものを人間が作り出してきて、自分たちが作ったもので 人間は苦しめられている、みたいな、そんな深みに私もはまりこんでおったことに気 づきました。今は抜け出したように思います。わたしも仲間にしてくださいね」 「わたしもいい?」  娘が言って立った。 「お母さんと私が作った料理です。冷めないうちに食べましょう。食べながら聞いて ください」  椀の吸い物には、また乾し茸が入る。私が啜ると、音が出た。  皿の煮しめには、蒟蒻があった。正樹の母が持ってきたのにちがいないが、娘も 私も、ここでは初めて口にするご馳走だった。  きんぴら牛蒡には紫蘇の実の香りがした。娘の創作料理だろう。  大根なますには冬、みんなで作った干し柿が縦に刻まれて入っていた。  箸置きには、熊笹がハート形に切ってあり、焼き米のお茶は青竹の湯飲みに注 がれていた。  すべてに籠もる心が理解でき、私はまた今までにない質の喜びを噛みしめていた。 「召し上がっていただきながら、聞いてください。私は、実はお父さんにも正樹さん にも、ここへ来るまでの事情を話しておりません。これからも話さないと思います。 でも、一つだけお話しします。今日初めてお話しするのです。私は何も罪を犯して はおりません。だから隠し事をしなければいけないようなことは一つもありません。 でも自分のことばでは言えないような苦しみの経験はありました。ここでは苦しみ なんて感じることもなく、心は充実しています。正樹さんと気心が合って、とても 幸せに感じています。ここでお会いしたからこんなに幸せになれたと思います。ここは、 何にもないところ。でも、何でもあるところ。人の心を汚すものは何にもないところ。 心を満たすための何でもあるところ。来年の今ごろは、私たちの真ん中に子ども が一人座るようになり、ーーどうでしょうか、そのときもこうやって祝い事をしま しょうね」  遮るように正樹の母が言う。 「正樹は幸せ者です。帰ってきたとき、何にも言わんし、顔色も姿勢も枯れ葉み たいやし、自殺するんかとも思いました。いい娘さんと気心合って、元気になりまし た。赤ちゃんも、こんなええ身体で生んでもらえます。なあーに、私が取り上げます、 心配要りません。私の子どものころ、経験のある人がしてました。私が取り上げ ます」  両手を前へ捧げてことばを閉じた正樹の母は、来年のその日を夢見ていた。 「私の夢を語らせてもらいましょう。あの散歩道だが、いちばん高いところ、すぐ左 脇に山水の湧き出るところがあるね。あそこに池を作りたい。十坪ぐらいの広さで、 鯉と鮒を入れる。いや、できたらそうしたい。池というものは、自然に魚が発生する ものだ。魚が涌くなんて言うんだが、雨の日などに魚が遡ってくる。鰻だってくる。 もちろん蛙も井守も棲み着くが、蛇も周辺を棲みかとするかもしれん。水面には 菱を浮かせたいーー」 「ちょっと、お父さん。ヒシってなんですか」  正樹が質問の手を挙げた。 「水に浮かぶ植物だ。菱形の菱、菱の実の菱。三菱の菱だ」 「え? 家紋の菱ですね。どこにあるのですか」 「田圃の草取りで発見した。あの辺りは以前、湿地だったのだろう。菱も細々と 雑草に紛れて生き延びている。助け出して池に群落を保証してやろう。池を覆 って、ひどい夏の暑さから水中世界を守ってくれるはずだ。菱の実は、栗のように 美味しいし、でんぷんもたっぷり含む。アイヌでは貴重な食糧だったし、桃の節句 の菱餅は、本来は菱の実が材料とされるものだった。ーーもう一つの提案は、だ。 散歩道の両脇に木を植えたい。苗木は、周辺の留守宅にあった木から取り木を して、十本は準備してある。蜜柑、金柑、枇杷、梅、李、柿、木瓜、アケビ、栗、 栃の木だ」 「おとうさん」  正樹がまた手を挙げた。 「ボケって、どんな木ですか。それからトチノキも教えてください」 「よろしい。ボケって言ったかね。木の瓜って書く。これをボケと読むとき、梅に よく似た観賞栽培用の小木を言うが、カリンと読めば、あの香りがいい大きな実で、 焼酎に浸けて風邪薬にする。あ、栃の木はね、ーーマロニエだ。栗に似た実がなる。 灰汁を抜けば栄養豊富だ。渋や灰汁をぬくことを、サワスと言うのだが、そういう 文化も危うく回復できそうだね。ーーで、もし賛同してもらえるなら、どうかね、 みなさんも植えたい木を言ってほしいんだがーー」 「お父さんのは食料用の木ばかりだから、私は花。梔子と山桜」と娘が言った。 「梔子の実は食紅にもなり薬にもなる。山桜も小さいが実がなる。よし」 「桃もほしいわ」 「ん、いいだろう。正樹君は?」 「僕はよく茂る木がいいです。夏、下陰が快いでしょうし、ーーだから、紅葉、 それに榎、ーーよく茂るのはお父さん、ほかにはーー」 「うん、欅だ。いずれも夏茂るのと、秋になると大量の葉を落とす。これが、冬 に備えて薯など根菜類を囲うときに、籾殻とともにいい保護材料になる。そして いい腐植土になる。常緑だが椎もいい」 「お母さんは?」  娘が促した。 「わたしね、いい匂いが好き。だから、藤、ええと金木犀、ーーどうです?」 「香りを楽しみながらの散歩って、なんとまあ風流な。いいねえ。ーー昔の人のオ  袖の香ぞするウーー」 「それって橘でしょう、お父さん。植えないの」 「植えたいが、近所にない。香りは蜜柑と金柑の花で味わってもらう。そのほう が賞味、いや賞香期間が長い。ええと、これで十九本だ。正樹君、あと一本は子 どもの誕生記念に君たち二人が決めることにしよう。どうかね。ただし、注文が ある。花もいいし葉も立派に茂る、そして実がなる、そういう木にしてほしい。 いいね」 「はあ、分かりました。僕にはむつかしい課題ですが、なんとかして責任を果た します」  そう言いながら、正樹は娘と顔を見合わせた。  二人の顔には互いの信頼と期待がみごとに表れていた。  [夢]  暴動のさなかにあって、事態のよって来たるところはなんだろうと私は考えて いた。  憑かれたように叫ぶ男女の群衆、棒きれや農具などを手にする現場労働者のかた まり、それに学生や少年たちも混じる。  銃声のたびに瞬間的な喚声の空白ができるが、すぐまた以前に増した叫び声や 罵り声の高まりになる。 「ダーダオ、ダーダオ」と誰もが口々に叫んで、次第に合唱になる。第九のクラ イマックスのような巨大音声になったとき、また銃声がして一瞬の空白を作る。  私の右側にすがり寄る女に説明する。 「打倒という意味だ。多分バブルが弾けたんだろう。経済的利権の上に成り立っ ていた政権は、これまで各層の人民を弾圧してばかりいた。今、それが爆発した んだ。ほら、ことばの異なるグループもいるだろう? 骨相からしてトルコ系だ ろうね。あの横断幕には[暴力を使わない革命]と書いてある。知識人たちだろう ね」 「ねえ、ここにいても危なくないの?」  妻の声だった。「危ないさ。危ないけど、社会が今、ほんとうに変わるんだ、 見ないでおれるもんか」 「ダーダオ、ダーダオ。コンチャンタン シャータイ」  一人の老婆が群衆に押され、私たちの足下に倒れた。倒れてもまだ「ダーダオ、 ダーダオ」と叫んでいる。  この合唱もまた巨大音声に成長しはじめていた。  銃声が少しは遠のいたのか、それとも合唱に気圧されたか、先ほどよりやや小さ く聞こえる。  通りの両脇の高い窓から、人が溢れて身を乗り出し、それぞれが布切れを振って 「ダーダオ」の合唱に加わっている。 「ねえねえ、見えるかい? 振ってる布切れに一つだって赤いのはないだろう?  なぜだか分かるかい?」 「どうしてなの?」 「マルクスの言う[万国の労働者、団結せよ]の旗印の下で、かつて労働者人民は 必ず赤い旗を振ってたもんだ。[失う物は鉄鎖のみ]って横断幕、[立て飢えたる 者よ、今ぞ日は近し]と力強く合唱したりーー」 「これは違うの?」 「ちっとも違わないさ。あのころの革命運動もこれと同質だよ。だから私は今、 感動の極みにある。ーー一つ違うのは、赤い旗印で以てかつての弾圧者をはるか に凌ぐひどさで、人権抑圧や非人道を強行したことだ。その弾圧力を生み出した のは、資本力と政治的権力が結びついた体制だ。人民へは情報を遮断し言論を弾圧 した。だから、多喜二のような目に遭ってる人は今、何万、何十万人といる。そう いう迫害者側の旗が赤い、と言う点だけが、かつてと異なるんだ。分かった?」 「そう。ちょっと切り替えがむずかしいわ」 「人民民主主義とあるからって、実態は専制独裁だったり、社会主義だと自称して も、モラルや人情を平気で踏みつぶして利権に走る腐敗を本性とする政権もある。 チャウセスクって、覚えてる? あれだよ。今」 「ルーマニアの?」 「だったかな、忘れた。ーー私が嬉しく思うのは、ほら、あそこだ。道いっぱいの 横断幕、十人ほどが先頭で。[我々は、暴力を使用しない]って意味だ。堂々と行進 してきた。左から広海門事件の五二開さん、人権賞を受賞した林早風さん、そして 次の女性はソフィア・カブリエ。あの人、共産党員でクリーニング屋さんを始め たら、それが当たった。一大資産を成し、国内の十指に入ったのだが、全国大会の 民族代表として発言したところ、権力の逆鱗に触れて、直ちに国家反逆の罪に問わ れた。横暴な権力はね、つごうが悪いことを言われると、すぐ犯罪人に仕立てる。 命が惜しけりゃ言うことを聞け、なんだ。彼女は服役し、出獄できたら亡命した」 「そんな人っていたの」 「いたさ。そういう情報は遮断する権力体制だろ? どこからか漏れてきても真実 の確かめようがない。亡命後、安全を確認してから彼女自身も世界に発信できるよ うになった。右端はーー衣服の色からマラ教徒ーーあ、十六世マラ高僧だ。同胞す べての願いを背負って行進してるよ。無暴力で非人道権力に立ち向かう」 「あなた、あなた」  私の脇を何度も揺する。 「なんだ」 「あなた、危なくないの? 行きましょう、はやく」 「なんでだ。私は見るんだ。見とどけたいんだ」 「夢を見てるのよ、きっと。夢よ、これ」 「夢でもいい。見とどけたいんだ」 小説目次へ戻る  ☆     ☆

     

☆ [小説の部] 3 「晩年の引っ越し」

.........2010 コスモス文学賞

       
「うちはほんとに寒いんだから」

 また妻の嘆きを耳にする季節となった。台所の板の間は、部屋履きを履いて
いても下半身をすっかり冷えさせてしまう。二十年前の水害の後、嵩上げで床
下の風通しを改善したのも、冬の北風に影響されやすくなってしまったようで、
妻の足はしもやけにも皹割れにも悩まされるようになっていた。

「ほんとにうちは寒いんだから」

 この日の独り言は、涙声に聞こえた。妻より半時間後に起きることにしている
私は、布団に残る温みにくるまったままでいつもの嘆きを聞いたが、この日は
なぜか、捨て置けない悲痛な訴えに思えた。

 朝食の四畳半は、やや暖かく明るい。準備を終えた妻もほっとするのか、冷え
た手をしばし暖めてからご飯とおつゆを装う。

「かかとの皹割れって、痛いも痛いけど、血が出るのよ」
 片脚を上げて見せた。

 こんなとき、なんと応じればいいのか。私は子どものころから脂性で、しもやけ
の経験はあっても皹や皹割れを知らないでいる。かつては持って生まれた特性の
違いとして、〈ぼくは脂性だから辛さを知らないんだ〉などと言ったこともある。
でもこの日は言えなかった。

 この年の暮れには結婚五十周年を迎える二人の歴史の中で、妻は家族の労苦を
一身に背負ってきた。もし私にこの時、言えることばがあるとすれば、〈いや、
すまん。明日から朝食はぼくが作る〉以外にはないはずだ。

「これ、中は赤いのよ」

 それくらい私だって知っている。母さんの歌に〈かあさんの あかぎれいたい
 生味噌を すり込む〉とある。味噌などすり込んだら、息もできないくらい痛い
だろう、と我が身にも疝痛を起こしながら想像する。

 因幡の白兎や戦場でする麻酔のない手術など、ことばだけでも耐えきれなくなる
私だ。
 
 ご飯が済んで、私は妻に言った。

「どうだろう。いっそ都会へ引っ越すか」

 私はけっして軽い気持ちで言ったのではない。だがこうも直ちに結論が出る
とは思わなかった。

「そうね。そうしようか」

「ねえ。うちはさあ、他所のように家を改善しなかったし、どちらかというと
質素で慎ましやかに生活するのをモットーにしてきたからね。もう自らを解放し
て、都会人のような生活を許してやるか」

 私がものを言うとなぜか理屈めいてくる。

「近所隣を見てごらん。加藤さんはここへ来てすぐ改装したでしょう? 牛田
さんとこは建て替えたしーー元の家はうちと同じ年に建てたのよ。安西さんも
立派に建て替えて、みなさん、オートマの冷暖房になってるわ。この辺りでこん
なに寒いのはうちだけよ」

「よし、名古屋にマンションを探そう。生命保険を解約して、こぢんまりと残り
の人生を楽しもう」

 息子夫婦は、数年前から住宅手当支給に該当しなくなり、でもこの家から通勤
するには遠すぎるので、名古屋に新居を探し始めていた。

「豊一らとさほど遠くないところに3LDKを探そうよ」


 便利な時代になった。インターネットで居ながらにして住まいを探せるように
なった。息子は二世帯住宅も視野に入れて新居を考えているようだったが、私の
方がむしろ腰が引けていた。親子二世帯が、ほぼ同居に近い形で生活するのは、
たといそう長くはない期間だとしても、様々の生活場面を想定するときに互いの
関係が快くない可能性も生じるだろうと私は考え、〈互いに遠くはない〉住まい
を探そうとしていた。

 最初に見つけたのは、三階建てが二棟並んで売り出されている物件だった。

「やや近すぎるとは思うがね、でもそれぞれ別の家だし、都合の悪いときには風呂
とか台所とか、お互い利用し合える。子どもができれば預かりやすいだろう? そ
して何よりいいのは、考えたくはないが、お父さんたちがいなくなったら、お前
たちが両方を使えばいい。まあ、相続の煩わしさもほとんどないだろうし」

 電話での話は、日曜日に時刻を定めていっしょに見ることになった。

 見た後、私の評価はかなり良かった。だが難点も少しはある。でも最初にそれ
を言えば、息子がよい評価をするはずのことを私がマイナス点にするように思え、
近くの喫茶店でまずは息子から感想を聞くことにした。

「伊勢湾台風の時ね、あの辺り、ひどかったっていうけど、大丈夫かな。さが
せば他にもあるんじゃない?」

 意外な感想だった。それなら家を見る前から分かっている。もちろん私は息子
の肯んじないものを説得したり、妥協させたりする気はない。

「そうか。水害はもうないとお父さんは判断したんだが、お前が気になるのなら、
残念だがやめとこう。あ、いや、私が見て、難点がなくはないのだよ。その一つ
はね、窓。西陽が入るね。そしてそれ以外に自然の明かり採りはないね。昔から
西陽の入るのを嫌うんだよ。それから、床暖房。いや、冷房も暖房も、オート
マティックにされるんだろう? 贅沢だね。ほんとに」

「お父さん、今時、どこだってそうだよ。新築でそうなってないのなんかないよ」

 別の日、物件をもう一つ見た後、私は思いつくことがあって息子に提案した。

「私たちの双方が同時に納得できる二つの住まいを見つける努力をするより、だな、
お前たちが気に入った場所に気に入った家を見つけるなり建てるなりしたらどうか
なあ。それを見届けてからお父さんたちは、適当に近い範囲で家を探そう。どう
かね」

 私たち老夫婦に、予想しない喜びが染み込むように味わえたのは、息子たちが
私たちの生活について、あれこれと配慮しているのを知ったからであった。親の
方はもちろん子どもの生活を案じるが、現代の若夫婦なんだから、私たちの
場合もどことも同じように疎遠になるのは免れないだろうと思っていたから、些細な
配慮でも一々が嬉しかった。

 まもなく息子は新居を買うことに決め、私たちに見に来るように求めた。

 そこは私が期待した地域よりはかなり駅から遠いので、一言だけは「二人が納得
できてるの?」と尋ねはしたが、深追いしなかった。同じく内部も、なるべくあっ
さりと見て、二人が決めたことを私の意志で難癖を付けたようになるのを避けた。

 息子の悩みは、むしろローンにあった。

「会社の積み立てもすべて解約して、二人でローン組むとね、いっぱいいっぱい
だよ」

「そうだろう。頭金はできるだけ多いのがいい。お父さんたちの援助は、昨日お母
さんがお前に言った金額よりもっとできる。あ、遠慮せんでいいんだ。倍ぐらいはし
てあげられる。ローンの計画に組み入れときなよ」

「え? ほんとに? ありがたいよ。ローン返済がだいぶ助かる。ーー実は、僕たち
で話してたんだけど、援助してもらったと考えるより、この家をお父さんたちも共同
で建てたって、そういう気持ちで、いつでも来てもらいやすくなる、自分の家の気分
で」

「そうだね」

 彼らの住まいを、今まで私も妻もあまり訪ねたことはなく、アパート入居直後の
手伝い以外にはたった一回だった。そういう私たちの心情を知ってか二人は、一家
族の意識で私たちの出入りを配慮していることがまた嬉しかった。

「お母さんにもそう言っておく。あ、お金はいつごろまでに用意すればいいかね」

 援助するお金は大金だった。三十年のローンを二十年に短縮できる金高で、
今までの私だったらあり得ない提案だった。エコロジーなら誰にも負けることなく
徹底してきた私の人生で、床暖房を戒め、車を戒め、消費生活には倹約を
説いていて当然だった。

 今、私は生涯でただ一回の贅沢をしようときめていた。また一面では皮肉にも
思えるが、私たちの生き方が、予想外の蓄えを作ってもいた。例えば私は車に
乗らないし、畑では家庭用の野菜を作ってきた。人に聞くと、車を持てば月に
数万円を要する。ローンさえつきまとう。かりに月に六万円を要するとして、私
たちは年に七十万円を消費しないでいたことになる。さらに畑は、健康に役立ち
地球に清浄な酸素を生み出す。野菜を買わないで済むだけでも蓄えになるが、
畑のない人を見れば、ゴルフにフィッシングに、と費用を掛けて時を過ごすから、
野菜の生産とレジャーの費用をプラスマイナス想定すると、これもまた年間に四十
万円ぐらいは人より少ない消費で済ませていたことになる。

 すべてを金に換算するのは好まないが、蓄えがかなりできたのにはこういう理由
があった。それをこの際、思い切って役立てようとしたのだった。

 そのような私の変化は、息子にも思いがけないものだったし、私本人も自分の
人生に予想してない変化だった。

 息子夫婦の住まいが確定すると、私たちのを探す範囲は自然と決まってきた。

 初夏、駅に近くて新幹線もすぐそこに見える場所にマンションを見に行った。中古
マンションである。

 本心を言えば私はアパートを求めたかった。UR都市機構の住宅なら、月十万
円程度の家賃で3LDKに住める。地下鉄駅に近く、一階に位置し窓の外には
二坪ほどの庭がつく。そこに野菜を作ってやろうとの魂胆も涌いて、これにきめたい
と見に行った。

 妻も難点を言わなかったから、すぐきめようとすると、「私、やっぱりマンション
が買いたい」と言った。

 私は妻の意志を、理由が理解できてはいなかったが、重んじることにして、その
物件を断った。

 私は自分たちの終末を考えていた。借りた住宅なら、命を終えても返すだけで
済む。息子たちを煩わせることが少なくて済む。家を買えば、その時には売らねば
ならぬ。買い手を捜すのも大変だろうし、売値に納得するのも大変だし、売れる
までは固定資産税もつきまとう。

「借家がいいにきまってるんだよ、でもお前がほしいのならマンションを買おう」

 私は不服面をしたわけではない。後々のことを思う以外に不満はない。私だっ
て我が意のままに家を所有するのは「私欲」を満足させるに違いはなかった。

 二人の考えの差を捨てて地下鉄駅にも近い新幹線沿いのこのマンションを見に
来たのだった。


 物件は三階の西側にあった。玄関が北を向くのがやや難点だったが、その他は
すっかり気に入ってしまった。

 特にダイニングキッチンの開放的な広さがいい。

 私があちこちにたたずみながら、間もなく味わうはずの居心地を確かめていた。

「いいじゃないか」

「ほんとね。私たちには広すぎるくらいだわ」

 妻のこのことばで、私は購入をきめていた。

 見終わって玄関を閉めるとき、床の高さが鉄道の路面とほぼ同じ高さだと知った。
そして、すぐ長女の言い分を思い出していた。

 長女はアメリカに住む。最近、やたらと「マイクロ・ウエーブ」について警戒心
を喚起するようになった。前の年に送ってきた物の中に「測定器」が入っていて、
家や近所の測定するべき場所まで指定していた。

 玄関前が新幹線の高さなら、日夜、パンタグラフの閃光や車両から出るその他
の電磁波が降り注ぐ。場所を知ったら長女は大反対するだろう。

「あの子は神経過敏すぎるんだよ。現代社会に電磁波のない生活なんてある
はずない。玄関の扉は金属のようだから、かりにあってもかなり遮蔽されてるよ」

 長女からもうすでにクレームされたかのように、私は妻に言い訳をして、娘の
意見があろうとも、私の人生は私が判断してきめる意をそのとき決していた。

 不動産業者の案内係と別れても、私たちはすぐには帰らなかった。もう一つの
物件を、ついでに見ておこうとしたのだ。そこは地下鉄駅からも近い。

 当該の業者に電話して、二時間後に物件前で落ち合った。

 建物も中も、先ほどのよりはかなり古かった。値段も約半額になる。

「ダイニングキッチンはやや狭いが、ここでもけっこう気持ちよく生活できる
ように思うよ」

 私にはその値段差が見逃しがたく思われ始めていた。

 業者と別れて、私はすぐ妻に提案した。

「十年か長くても二十年だろ? これでいいんじゃない?」

「そうね」

 妻は反対でもなかった。

 地下鉄駅には四分しかかからない近さも魅力がある上に、通りを挟んで区役所
があった。ファミリーレストランも銀行も二三分の範囲にある。いちばん立派に
聳える建物は葬儀式典の会場だった。

「便利だよ、ここは。スーパーマーケットなどが近ければ、抜群の利便性だよ」

 次の通りを曲がると、スパーマーケットがあり、中に入ると、台所事情はすべて
完結していた。

 決めた。息子に見せて、それから内装のリニューアルをする。

 便利な時代になった。マンションそばの銀行の会議室に、売り手と買い手の私
たちと、仲介の不動産業者も司法書士も一堂に会し、その場で札束を手渡し、
所有権登記の書類を一気に作る。一時間半の後には、私は生まれて初めて
マンションの所有者になった。

 当初の予定と違ったのは、妻と共同名義にするつもりでこの場に臨んだのだが、
登記ばかりでなく私がこの世にいなくなってからのことも考慮すると、煩わしい
ばかりで私たちにも息子たちにも利するところがないように思えて、私が署名し
私が判子を捺いた。

 息子に異存はなかった。私たち二人も、この歳ながら今やバラ色の夢に顔を
ほころばせて、ここにこんな物を置き、ここをこう使うなどと息子に説明していた。

 不動産業者が推薦した内装業者の見積もりから、省けるところは可能な限り
省いたところ、リニューアルの経費は当初の三分の一になった。

 人の意識とは不思議なものだ。広い空間が汚れもなく存在し、そこにイメージ
される生活は、なんとスマートで小綺麗なことか。内装が終わり、点検と支払い
で再び中に入ったとき、来るべき生活はファンタジーを伴ったイメージにまで
できあがっていた。

 今にして気づくようでは遅まきの晩成だろうが、私にはよくある経験で、例えば
ラジカセを買うとき、品のよいクラシックに耳を傾ける優雅な生活をイメージする
のだか、その後に展開するのはほんの時たま、しかも一二曲を聴くことしかない。
語学カセットの場合もフランス語をマスターした自分の雄姿がイメージされても、
毎日の会話練習など現実生活の中にはスケジュールされはしない。

 同様の現象が起こることを予想だにしないで、その年は暮れていき、美しい夢
はそのまま年を越えた。


 既存の世帯を転居させるのは、容易ではない。役所へ出向き住民票を移す
などは、重大事のほんの一部分でしかない。二種の新聞を停めたり、郵便局には
転居先を届け、自治会や近隣に挨拶をして回る。

 嬉しいことに、お別れの前にお話をうかがいたいと申し出られた方があったり
すると、引っ越しの準備より人情を優先して、おつきあいのご厚情に報いた。また
退職後にできたおつきあいのグループもある。その一つは例会を私の送別会にして
くださったし、もう一つは、離れても二三ヶ月に一度は会食をしようと言うことに
なった。

 特にグループのつきあいではなくても、

「引っ越しされるのですってねえ。びっくりしました」

「どうして引っ越しされるの? 寂しくなります」などと訪ねてもいただく。

「これ、お気持ちです」と餞別をいただいたり、

「こちらにおいでの時は、是非寄ってよ」と繰り返すお方もある。

 そういうご厚情の隙間に引っ越しの荷物を作るのだが、これが予期しない重大
事だった。

 この家から娘が二人巣立ち、息子が一人独立していった。

 例えばそれぞれが卒業時には学生寮の家財道具をすべて持ち帰っている。職を
持ち結婚すれば、またまた家財が増える。言うまでもないが、彼らが育つ間楽しんだ
絵本も幼稚園の通信簿も、すべてがいわば地層をなして歴史を形成している。
いや、ほんとうはこんな生やさしさではなく、三人の臍の緒から母子手帳や育児日記
だって地層の基部を形成しているし、親子が必死に取っ組み合った形跡として、断層
にも比喩すべき「誓約書」だって生々しく埋もれていたりする。

「おい、元気かい? お前のアルバムだが、どうする? 取りに来るかい?」と
電話をする。

 娘だってそう暇人ではない。苦しい資金繰りの中で家業の労苦を日々泳ぎ抜けて
いる。

「今そんな閑ないしなあ。しばらく残しといて」

 それらをとりあえず段ボール箱に入れるとして三人分を九箱に収めるには、それ
でもかなりの工夫が要る。

 自分の持ち物だってそれ以上に難題だった。

 物をいちいち見はじめたら前に進めなくなるだろうから、まずしっかりと方針を
決めたつもりだった。

「何年生きるか知らないが、私の衣服は衣装箱四つにするよ。春夏秋冬の物を
それぞれ入れて、それ以外は捨てる。固い方針だよ」と妻に先ず宣言した。

 ところがタンスの前に衣装箱を置いての作業は、まったく捗らなかった。冬の
オーバーはどれを捨てるのか。背広はどれを残すのか。スキーウエアーなど論外
で、衣装箱の周辺は、災害救援品の山ができた。そのうちに、

「だれかもらってくれる人はないかなあ」とぼやき始めると、

「今時、だれもそんな人はいないわよ」と妻が言う。

 妻は私のように予め量制限を決めてはいなかった。でも〈お前はずるいぞ〉など
と言う気はない。

 衣装箱制限方針で、私は生涯初めて、大きな価値を廃棄した。パリでカメラを
失くしたときよりも、延吉で大型スーツケースの盗難に遭ったときよりも、ずっと
ずっと大きく深い喪失感が身に染みた。

 結局、六箱になった。

 衣装の次には道具類を見捨てなければならない。有料で粗大ゴミに出す。
価値あるものを捨てるのに、費用を掛ける非合理は、私の論理には少しも合致
しない。足踏みミシンは五十年前、妻が持参した物だし、和箪笥と洋服ダンスも
家具屋から紅白の幔幕を掛けてやってきた。

 それが今、それぞれ二百円の費用を払って処理してもらう。

 その間にお座敷テーブルや茶器を近所の方にもらっていただいたり、片付け途中の
屋内を見に来てもらったりして、いつ見通しが立つのやらわからない日を送っていた。

 グランドピアノだけは、なんとか誇りを失わないで行き先を探したかった。

 私も加入する「みんなのホームの会」に役立ちそうな物を取りに来てほしいと
いうと、理事長自らがトラックできて、老人ケアー施設で利用できそうな物を積
んでもらった。

 でも、私はそれぞれの物品に悲痛な切なさを感じながら、手伝うこともならず棒
立ちする有様だった。

 中国赴任時代にいつも抱いたギターも、全視力を失った小河内さんが仲間を
募ったときの三味線も、ブラスバンド顧問時代に学校の予算が足りず、自腹で
買って生徒に練習させたトランペットもクラリネットも、軽々とトラックの荷台に
載っていった。

 いつになく広くなった応接間に、グランドピアノが悲しみを湛えているのを、
私はことばでは慰めかねていた。

「この人ね、モンゴルの留学生で、ピアノがほしいんです」

 理事長は日中友好協会の事務局長も兼ねる。私の意向を、予め知っていな
がら、本人の願いで連れて来たのだった。

「向こうではピアノも習ったんですって。今、県大教育学部の音楽科で学んで
て、来春は大学院生なんだけど」

 スーチン・トウヤと言う。私とも数年前から知り合いである。彼女がどれほど
ほしいのか、私にだって分かっている。分かっていても、私には彼女に譲ることは
できないのだった。ピアノを可哀想に扱いたくはない。

「ほんとに申し訳ないけど、ピアノを嫁にやる気持ちなんだよ。娘を嫁にやる気持ち、
分かる?」

「分かります」

 分かっても納得なんかできそうにない。

「娘に晴れ着を着せ、親の気持ちをいっぱい湛えて送り出したいんだ」

 彼女は市営住宅にいて、床はピアノには弱すぎたし、部屋の半分以上を占めれ
ば、下は生活用品の置き場にならざるを得ない。

 私の思いだけではない。ニューヨークで今、ピアニストを生業とする長女の
青春がパワーポイントのようにしっかりとそれを取り巻いていた。

 がらんとした応接間には、グランドピアノだけが残った。

 浜野さんを、子どもたちが第二の親と仰ぐのは、共働きの私たちに代わって、放
課後のホストを務めていただいたからで、「お兄ちゃん」は今、浜野家の当主とな
り、午後の母親だったおばさんはデイケアーサービスを受ける身になっている。私
がピアノの行く末を相談すると、神戸にいる「ちい兄ちゃん」に連絡を取ってくれ
た。
 その世話で特別養護老人ホームの玄関に、オブジェとして位置を占めることに
なった。

 ピアノ運送と横書きした専用トラックを二人が乗ってきた。私はカメラを構え、
嫁入りする「娘」の姿をカメラにもこの目にもしっかり納めようとした。二人が
もしも粗末に扱えば、私は声を上げて抗議しようとまで覚悟していた。

 専門家は、要領よく、また丁重に布団ふうのくるみで荷造りし、滑車とジャッキ
をリモートコントロールしながら、コンテナーに納めた。私はほとんど涙しながら、
トラックの後部からシャッターを切る。残った部分品を乗せて、二人が「お預かり
します」と頭を下げたとき、私は自分の身体がどういう動作をしていたのか記憶に
さえない。後ほどになって、「納棺の時」や「出棺の時」に、同じ感覚を覚えるの
ではないかと思った。

 一ヶ月後、私はちい兄ちゃんの案内で、その施設を訪ね、所長さんにお願いとご
挨拶とをした。

「よろしくお願いします。私の娘です」とは、期せずして出た意外なことばだった。

「下手ですけど、弾いてもいいでしょうか」

「どうぞ、どうぞ。ーー今朝ですが、一人の方がーー認知症なのですが、このピアノ
を見て、前に座り、童謡を弾き始めましてね。ーーそしたら周りを、やはり障害を
お持ちの方ばかりですが、じっと取り囲んで聞いてました。ありがとうございまし
た」

「ーー」

 私の返事はことばにはならなかった。〈ありがとう、お前、役に立ってよかった
な。ずっとずっとここで役割を果たしてくれよな〉

「Concerto Pour Une Vois 二人の天使」の楽譜を私は譜面台に拡げた。いつもより
ぐっとスロウに弾き始めたのは、「娘」に指の間違いを残したくはなかったからだ。
一番カッコを無事に終え、リフレインに入るころから、私の目に譜面はかすみ始めた。
涙している自分を意識すると、余計に溢れ始め、メガネの下を頬の前へと筋を引いて
垂れ始めた。私は幼い子どものように、ときどき舌をまくり上げては塩味のする涙を
舐めながら、その量の多さに自らがさらに涙を添えるのを、〈かまうもんか〉と舐め
舐めしてフィナーレを緩めていた。

 引っ越しの日、コンテナーの二台が横付けになった。二人が箱詰めした荷物はあっ
という間に収納され、予定外の大物小物がどんどんと入っていった。

 荷造りのならなかった物もまだまだ多く残しながら、コンテナーを出発させ、私
たちは浜野さんの車で引っ越し先へと急いだ。途中で食事をしてもらうように頼ん
だのは、私たちが先回りをして荷物を迎えたいからであったが、コンテナーはすで
に到着して積み卸しを待っていた。

 リーダーは器用に自動ドアやエレベーターを開けとどめ、素人の私たちが何かの
手伝いをしようにも、邪魔にしかならないそぶりで、たちまち上げ終えてしまった。

「中を見てください」と私にコンテナーを覗かせた。

「判子をください」すべての作業はシステマティックに組まれていた。

 作業を終えて、彼ら三人は運転台でコンビニのサンドイッチを食べた。作業シス
テムには、施主からのお茶のサービスをも含んではいなかった。

 3LDKは結局、2LDKになった。一間を納戸にしたからである。六畳和室は
タンスで四畳半に減り、洋室は二人の机を置けば四畳に変わらなくなった。
〈まあいいか〉

 空間が狭い利点もあるはずだと認識を改めた。トイレだって風呂だって、台所
も寝室も必要にして十分の生活空間に違いなかった。すべてに新しい場所を
与えて、再び旧家に残された物品に心が戻ったのは、引っ越しから一ヶ月を過
ぎていた。


「週に二回は片付けに戻ることにする」

 それくらいの頻度で仕事をしても半年ぐらいはかかり、そのあと不動産業者に
話を持ちかけようと目論んでいた。

「え? そんなに」

「そう思うなら、私だけ通ってもいい」

 回数券を買い、弁当を持って出掛ける。

 駅を降りて家に至る道は、つい先ほどの慣れた感覚に違和感はない。〈家が二ヶ
所ある感覚ではないか〉とも思うのだった。

 家の郵便受けには、気づく限りの連絡や届けがしてあるのに、雑多な書類や
広告物がねじ込まれていると、その一々に反発や怒りを感じる。大きな冊子の配
達業者には、大声でクレームした。

 窓を開け放し、空気を入れ換える。捨てるべき物も分別をしないと引き取って
もらえないから、いちばんがらくたの燃やせるゴミを袋や段ボールに詰める。おも
ちゃを壊し、古い木製の道具などをたたき割ったりして、軒下に積み上げる。
庭の植木も茂るに任せられず、切っては袋詰めする。

「木の下に袋、積んでおいてください。私、ゴミ焼きへ運んでおきますよ」

 自治会長の島本さんだった。

「あ、ありがとうございます。空き家にしててご迷惑を掛けてます。お言葉に甘え
ます」

 浜野さんのお兄ちゃんも近所の方も、定められた時間にはゴミを出せなくなっ
た私を援助していただいた。皮肉なことに、転居をしてしまってからおつきあいの
ありがたさが骨身に染みる。

 徐々にだが片づいていく一方で、遅々として捗らないものがあることも次第に
はっきりとしてきた。写真、アルバムの類、ノート、記録物、書籍だった。いわば
知的財産と言える物が、私の努力を阻んでいた。

 写真は、我が家の歴史でもあるセピア色のものからカラーに変わる子どもを
含めた家族の思い出が、棚にも土間にもまだ多量にあった。

 私がアイデアのありたけを振り絞り、見出した方法は、すべてをスキャンして
フラッシュメモリーに取り込むことだった。やはりありがたい時代である。8
メガのメモリースティック二本に、私の人生も家族の人生もすべての映像が
収納できて、胸ポケットに軽々と入る。この方法を取ることにした。

 記録物だってスキャンしてPDFにすれば、写真と同様、デジタル化でき、
保存できる。ただそうする前にすべてにに目を通して取捨選択する必要が
ある。

 残すは書籍の始末法だった。

 図書館が引き取ると聞いて、浜野さんの車で訪れると、置き場の書架前に
数人の読書愛好者とおぼしき方たちが立っていて、私が並べる手に間をおかず、
愛好者の手が出されるのだった。

 嬉しかった。〈ありがとう〉、〈ありがとう〉と、本が活用される未来を思いなが
ら、私は書架に積んでいった。

 だが二度目は、同じようには進まなかった。

「こちらの倉庫に運んでください」と係の方が言い、キャスターで事務室脇に運び
込んだ。私の書籍を「人」が手に取るのを見ることはできなかった。

 本はそれでも終わろうとはしなかった。全集物が数種あり、これを活用くださる
方を探さねばならなかった。

 結末を先に言ってしまおう。活用の方法を見つけることはできなかった。結局
は紙くず以下のゴミになるしかないと分かったのだ。

 方法として考えられることは、あるにはあった。引っ越し先の近くに、「古本買い
入れ」の表示を見て、入ると、

「どんな本かね」と読書の世界にはない感じのことばが掛けられた。

「現代日本文学選書なんです。九十七巻に会報など三巻で全百巻です。筑摩
の限定出版です」

「他にはないの?」

 鼻メガネから顔を上げないで続けた。

「小学館の日本古典文学全集、五十一巻ーー」

「だめだね」

「え? 全部揃って、外箱はともかく本自体は全部、まるっきり新品みたいです
よ。欠けてませんよ」

「だめなんだよ、文学は」

「そうですか。何をお買いになるんですか」

「ここにあるだろ? こういう類だ」

 そのとき、顔をちょっと上げて店内に目をやったが、性欲を刺激し、ゴシップを
デフォルメするような、グラビアや漫画雑誌などが棚の上下に並んでいた。もちろん
私にそんな物はないし、もしあったとしても、それなら悩みの片鱗もなくゴミにして
しまえる。

 古本扱います、のことばを信じて訪ねた業者もあった。

「家賃がかさみましてねえ」と親父さんが話し始めた。 

 大学近くで古本屋をやっていたが、続けられなくなってここへ引っ越してきたとい
う。物置にも思えない場所に本が積まれ、ビニールシートが掛けられていた。

「最近は、そういうものは売れないんですよ。ーーまあ、ちょっと、そこまで」と、
近くの喫茶店まで私を誘ったのは、不服面に見えた連れ合いに聞かれたく
ない話だったのか。

「全集はまったくダメなんですよ。かりに買い手があっても、作家によってはね、
買い手が着くことはあるのですがね」

「あれえ、全集は一冊でも欠けてると値が半減する、全部揃ってこそ、じゃなかった
んですか」

「以前はね。今はだめです」

 小父さんは、事業をほとんど失敗しそうになってはいても、書籍の世界にある
インテリジェンスがことばに籠もっていた。

「私たちの仲間で、欲しがっているのに出会ったら連絡させてもらいます」と約束
したが、小父さんにも私にも、ほとんどあり得ない約束事だと分かっていた。

 インターネットのオークションもある。

 卓上に並べ、例えば「江戸秘籍文学十巻」の実態が分かるように写真に撮る。
オークションのその項目を辿ると、あるにはあるのだが、古本屋の小父さんが言っ
たように、全巻を出品する場合がほとんどない。もったいないことにバラしてしまい、
巻別に競られている。でも、この方法を諦めれば、残るのはゴミ以下の敗残物と
化す運命しかないのだった。

 本以外はクズになっても仕方がないとようやっと達観できたのは、引っ越してから
早くも十ヶ月が過ぎていた。

 なんでも引き取ると広告しているその業者に電話をすると、トラック二台で来て
くれた。利用先は分からないものの、価値ある書籍がやっと行き場を見つけて
もらえたかと、期待を込めて旧家に業者を迎えた。

 書籍を先ず見てほしいとの私のことばは、相手と奇妙にすれ違った。

「私たち、自由に中を見てもいいですか」

「ええ、かまいませんが」

「オネウチの物はこれこれ、とお示しして、それで最後に引き取りのお値段をお話し
しますけど、いいですか」

「おねがいします」

 中に導き入れて、まず本の前に来てもらった。どの全集物も、先日、写真を撮った
から、きれいに整頓されて床にあったが、業者は中身を確認しようともしなかった。

「全集はダメなんです。この中の、例えば漱石とかを、抜いてもいいですか」と言う。
小父さんの言うことと同じだった。

「いや、それはいけません」

 私は自分でも考えていなかった主張をした。どれかの本が所望されても、ゴミに
なるよりははるかに善処だろうと割り切ったつもりだった。しかしこのとき、元の
私が力を込めて業者に宣言した。

「世の中、変わってもね、こんな完結した全集はないんだ。バラしたらもったいない。
個別は困る」

「そうですか」

 業者は書籍を二度とは見なかった。書棚に残った本のいく冊かは引き取ったが、
例えば辞典類ではアクセント辞典だけを手にして、国語、漢和、古語はもちろん
英和も和英も、独和も仏和も、日韓も日中も、まったく関心を示さずに終わった。

 業者が積極的に手にした物は、私には意外な物が多かった。床の間に残る杜
牧の詩の掛け軸は、意外性を感じなかったが、息子が小学生のころ夢中になっ
たラジコンを、私は燃えないゴミにして鉄の部分とビニールの部分に仕分け、箱に
入れてあった。業者は、

「これ、もらいます」と言った。二階には、ファミコンのゲームソフト数十本が箱に
あった。捨てるはずの物である。

「もらいます」と言いながら、大きい箱に未整理のまま雑多に入る物の中から、
蛇の目傘を見つけて、

「ああ、これももらいます」と満足げに言った。

「レコード類はどうかね。私は整理しかねて縛ってあるのだが」

「レコードはなんでももらいます。縛ってあるのはありがたいですね」

 その他、大学生時代にアルバイトで買った組み立て式木製の本立てなども、
現代の若者にはブティック趣味があるらしく、引き取った。

「全部で五千円にさせてください。いいですか」

 個別評価のトータルではなく、私の心の障害物がお勘定の対象になったの
だろうか。

 それでも、私は去りゆく業者を丁寧に見送った。道中気を付けてくださいよ、
と無事を祈って別れた。


 こうして一年間、努力がこの程度にしか奏効しないとはいったい何だろう。哲学者
でもない私が考え続けていた。変化も変質も求めないとき、問題の存在にすら気づ
かないでいるが、いったん変化変質を求めれば、取り巻く周辺のほとんどすべてが廃
棄物にならざるをえないのだった。生活用品も知的な記録・創作物も、人間的活
動の道具も、やっかいなゴミとしてしか扱われることはない。そして現代人は、
それを疑うことさえ辞めている。

 五十年前、私はある田舎にあって、「形見分け」を見せてもらったことがあった。

 亡くなった大ばあさんの持ち物を積み上げ、土地の習わしどおり縁ある女性の人
が、年齢の順位に従い、絣の着物を、羽織を、帯を、取るごとに往事の思い出を
語りながら、数時間を掛けて分けあった。最後には兵児帯も、足袋のコハゼも、
繕い当ての端切れ布も、一つだって捨てなかった。大ばあさんの思い出があるか
らか。

 そうかもしれない。でも、大ばあさんが生前に利用していたと同じ利用の価値
を、すでに老いた娘も、本家で取り仕切る嫁も、すべて同じ心で分け合い、この宵
を「価値の相続」に徹していた。

 五十年を経ただけで、価値が無にならなければならないとは、どう理解すれば
いいのか。

「ほらまた考えごとばかりしていると、捗らないよ」

 味噌樽を運ぶため呼びに来た妻が警告を発した。

「でもなあ、いままで私たちは無価値のクズで生活していたのかねえ、え?」

 一日の仕事を終えて、両手にはまだ残存する「価値物」を携え、玄関を外か
ら施錠する。

〈次回まで、さようなら〉と価値を評価してもらえない可愛そうな家にも告げて、
道へ出るとき、金柑が半分は熟して枝を重くしており、通りの側には柚子がすで
に葉を失いながらも、黄味をいっそう鮮やかにしながら、門前の飾り役として枝を
広げていた。

 たわわな実は心を豊かにし、鮮やかな輝きは希望をもたらす。狭くてもこの庭が
人の精神を支えていた。

 いや、人ばかりではない。ヒヨドリの餌場ともなり、寒中にはメジロもすばしこく
餌をあさる道筋にしている。

 これでも価値を見出すことができない現代人は、五百万年の人類史の中に市
民権を得ることができるのだろうか。


「そうですねえ、やっぱり、お売りになると意志を決めて、それからお申し付けいた
だかないとーー」

 不動産業の伊藤さんは、煮え切らない私にこう言った。

 五つ目の業者である。

 どの業者へも、私が依頼したことばは決まっていた。

 家の処分は、貸す、このまま売る、壊したあとサラ地にして売る、のいずれが好ま
しいのか、アドバイスを得たいというもので、それぞれ、スタッフを連れ登記簿謄本
を取ってやってきた。内部まで見た後は、一業者を除き明確に示すことはなかっ
た。

 一業者だけは、「建て替え借家」案を持ってきた。家を壊し、現代的な一戸建ち
を新築する。家賃は十万円で入居者は業者が十年間保証する。大家としての
管理業務などもすべて代行する。ただ新たに一千万円の費用を掛けることにな
る、と言うものだった。

 新築の家は、設計図面ばかりでなく、イメージをも伴って私の夢を誘った。月収
十万円の家作を所有する夢というより、他人に貸さなくても私自身が時々利用
して、贅沢な気分でアトリエに使うことも、生涯に一度の贅沢としてやってもいい気
がしてきた。いわゆる道楽である。

 図面を持って帰ると妻が、
「そんなんダメよ」と言下に反対した。風流に対する二人の考えは、いまさら悔やめ
ないが、すれ違っていたのだ。

 電話とメールで伝えた二人の娘も、労苦を引きずるからと賛成しなかった。

 息子は、「きれいに始末したら」と、やはり高齢者の活動を想定さえしなかった。

「そんなわけでね、私以外はみんな賛同しなかった」

 業者の前で私は図面を戻しながら言った。

「いや、もう少し説明したかったのですが、そのーー」

「分かってます。分かってますけど、私の人生が、すでに私の意志で決めない段階
にあることを分かってください。おっしゃっていただいたようなありがたい新資産を、
楽しみに運用する、そういう楽な人生さえ、私はもう選べないのです」

 しばらく無言が続いて、

「息子さんに直接、お話ししてもいいでしょうか」

「ええ、かまいませんよ。無駄でしょうけど」

 私は連絡先と電話とを書いた。

 半年が過ぎ、出会ったのが不動産業の伊藤さんだった。私に年齢も近く、互い
の言うことがこだわりなく通じ合えるように思えて、依頼したのだった。

「そりゃあやっぱり売るなら売る、貸すなら貸すと決めないと。それが決まったら、
売るならいくらぐらいで広告を出すとか、具体的に動けますよ」と私の意志を
迫った。

「ええ、分かってるんです。問題は私の未練心なんですよ。伊藤さんが言うように
五百万なら売りたくないとか、六百万で仕方がないけど売ろうかとか、そういう
次元ではない」

「わかりますよ。長い間、住み慣れたんだから、なくなることは考えにくい。でもね、
もう引っ越して別の生活を始めたんでしょう。具体的に始末するには、いくらで
貸す、いくらで売るしか、方法はありませんよ」

「わかります。多分、売ってくださいとお願いすると思いますが、これ、この本だっ
てゴミでしょう? 家もすべてブルドーザーが潰し刻んで産業廃棄物になるんで
すねえ。庭の石も山茶花も柚子も金柑も、すっかり何でもなくなるんですね。
そうことの納得がーー」

 私はほとんど涙を流さんばかりに言っていた。繰り言とはこういうことを言うだろ
う。

「わかりました。よおく分かりました。そして、決めてもらわないと、どうにもなら
んことも分かってください」

 伊藤さんの結論だった。

 明日、意志をお伝えしたいからと伊藤さんに電話し、私は旧家でゴミになる「価値」
物と、いちいち未練がましくまだ向き合っていた。例えば世界文学全集は、一度水
害に遭っており、引き取り手を捜す努力さえしなかった。廃棄の前にせめてもと急ぎ
読んだ「史記」は、表装が壊れていても司馬遷のルサンチマンは激しいエネルギー
を発していたし、死んだ叔母から引き取った全集は、小坂井不木を除いて箱から
出してもいないのだった。それを紐で縛る必要さえないと改めて思い、情けなさと
無力感だけ漂う空き家に先ほどまで座っていた。

 午後三時半。もうしばらくぼんやりと時間を過ごし、戸締まりをして名古屋に帰る。
すると明日、業者の伊藤さんがきて、〈じゃ、サラ地にして売りましょう〉と言う
だろう。

 私はブルドーザーのする破壊作業を見る必要もないが、じっとしておれなくなって
見に来るだろう。そして、私の抑えきれない感情がどのような動作をこの身体にもた
らすだろうか。

 リュックを背負い両手の荷を、一度下に置き、玄関を外から施錠する。再び荷を
提げて、一二歩踏み出すとき、
「みえてたの?」

 大きな声は大池あけみさんだった。六十歳をはるかに過ぎている身体で、少女
のように駆け寄ってきた。

「なんで引っ越したの? 分かっててもどうしても分からない。なんで?」
 あれあれ、身体をぶつけて、腕を掴んだ。

「ありがとう。うれしいよ」

 私は涙声を隠す努力をしながら、上腕にはもう白髪の方が多い頭を押しつけられ
ていた。

 妻の教え子で、五十メートルも離れない近所に住む彼女は、働き盛りの旦那を
交通事故で失い、弱い精神を周りから支えられて、この歳まで健気に生きてきた。
私が自治会長の時、事情を打ち明けられる間柄になっていた。

「明日、ここで業者の方に、壊してって言うことにした」

「なんで。わたし、いやや」

 それは私が今、いちばん発したいことばだった。壊したくなんかない。

「いやや」

 大池さんはまた大声で言った。かつて自治会総会で開会を宣言してもらったとき
のようにしっかり、はっきりとしていた。

 隣の玄関が開き、安西さんが出てきた。

「なにかあったんですか」

 私が答える前に、大池さんは私の腕を揺すりながら、

「この家、壊すんですって。なんでです?」

「一年間も、私は決心する勇気がなく。みなさんに迷惑をお掛けしました。空き家
を放置して、申し訳ありません」

「いいえ、そんな、迷惑なんて」

「ねえ、そうでしょう」

 大池さんの声はますます大きい。

 騒ぎかとばかり、牛田さんも多治見さんも外に出て、二人の奇妙なもつれ姿を
取り巻いていた。向こうから、今、組長をしている伊那さんも歩いてくる。

 私は眼鏡の下まで涙が垂れていた。

「ありがとうございます。私と同じ気持ちでこの家を慈しんでくださること、あと
長くありませんが、終生、けっして忘れません。大池さん、分かりました。あり
がとうね。あんた、優しいんだよ。明日ね、私、十時にここへ来る、業者もね。
それでね、お願い。私が業者に依頼するとき、傍にいてくれないか。子どもの
ような揺れ動きやすい心になってる私を、傍でしっかり支えていただけないだ
ろうか」

 私はハンケチで涙をぬぐうゆとりもなかった。

 ご近所の皆さんは、無言のままで、数分後にやっと動き出した私を見送った。

 その時の私は、業者の前で家を壊す意志を伝える勇気がなく、助けを借りたい
と思ったのだった。 

 電車でも家でも切羽詰まった感情が、人にも共有されていると知って、私の感
情は大きな波を立て始めていた。

「よし」

 私が大声を上げたのは、地下鉄駅の階段をほとんど上がりきるところだった。
 翌日十時、捨てるはずの座布団に座る六人、お茶もなく声もない。ただあるの
は、この日は天気晴朗で、縁側に陽が差し込んでいたことだった。

 車の音がして、玄関が開けられた。

 不動産業の伊藤さんが上がってきたが、並み居る近所衆に異常を感じただろ
うか。

「伊藤さん、ありがとうございます。壊してサラ地で売るって案件、今日ご返事する
はずだったのを、ちょっと、待ってください」

「ーー」

 伊藤さんにも予期しないことが始まる予感があった。

「ここ、このまま残してみなさんの居間にします」

 驚きを表情にしたのは、今度は近所衆だった。

「私は、では用はなくなったのですね」

「ええ、まあ。でも、内装をすこしリニューアルするとして、伊藤さんにお願い
できませんか」

「仕事の大きさはだいぶ違いますけど、できますよ」

「お願いします。具体的にはまた後日に。あ、お願いですが、伊藤さんももう一時
間ぐらい、ここでご一緒してほしいのですが」

 大池さんは、安心感と不安感が複雑に混じって私を見つめていた。

「皆さん、どうでしょうか。いつでも自由にお使いいただく場所にするという私の
アイデア、ーー金柑も柚子も、庭石も灯籠もきっと安心します。時々私が一人
でここへ座りに来るより、だれかが遊びにみえて、ここで喋って、思い出話して、
話題を語り合って、ーー人が繋がり合いながら大きなみんなの心が成長していく、
そういう場になれば嬉しい。そしてなによりもったいないことをしなくていい。ご賛
同くださると信じて結論出しました」

「大賛成やけど。ーーほんとうにいいの?」

「いいんです」

「奥さんも賛成なの?」

「待って。まだ言ってない」

「反対だったらどうするの?」

「私ねえ、困らない」

 私は意地悪そうに笑って言った。

「反対だって言ったらねえ、どうすると思う?」

〈まさか〉といった表情で近所衆は顔を見合った。

「私にくれ、って言うんです。この家って、金にして無価値なんです。一万円でも
ないの。ゴミなの。このゴミを、私にくれって言うの。いや、もし反対だったらの
話だよ。私は妻を信じてる。私を感動させたご近所の方々を、あれも同じ心
で感じるはずです。言っても言わなくても同じです。みなさん、ありがとう」

「そういうことですか」

 伊藤さんがことばを挟んだ。

「趣旨が分かりましたので、お話はお引き受け致します。任せてください」

「お願いします。で、みなさんにお願いがあるのです。家に名前を付けてください。
ちょっとハイカラで、みんなが気楽に集まる場所だとわかるような」

「名前は浮かびませんが、決まったら私に看板のデザインなど、文字のデザインも
任せてください」と伊那さんが言った。

「私、パソコン、寄付しますわ。もしできないお方があれば、手ほどきをさせてもら
います」

「料金が要るのではないの?」

 多治見さんも七十代の後半である。習いたい気持ちが表れていた。

「今ね、ワイヤレスのモデムが私の所にあるから、それを利用して三台までは同じ
料金、つまり私の料金で使ってもらえます。心配なく」

「うち、なんにもないけど、親戚が毎年、お茶をいっぱいくださるの。ここのお茶は
任せといて」と牛田さんが言うと、

「今、思いつかないけど、何か協力するわ。それでいい?」と大池さんが言った。

「ちょっと待ってよ。みなさんにボランティア精神がおありで、それはかまわない
けど、何もなくてもここを利用してもらえるのが、私のほんとうの願いなんだよ。
誤解しないでね。そういう思いを取り外したところからみんなの家は始まるんだ
から。ーーそれはそうと、名前は浮かんだ?」

「急には思い浮かばないから、どうやろ、次の日を決めて、みんなが持ってくること
にしない?」

「いや、私はいいアイデアがある。次の日までに、みんなは必ず一つ以上、名前を
出す。紙に書いて、ここの郵便受けに入れる。それをご主人が一人で見て、自分
の名前も混ぜて、その中でいちばんのを家の名にする、ーーはどうですか」

 伊藤さんだった。さすが想定が行き届いていた。

 誰が頼んだのか、その時、小型自動車が停まって、ピザとコーヒーとを八人分届
けに来た。

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