Die Letzte Reise

最後のヨーロッパ旅行

Die Letzte Reise

(Frankfurt--Saltzburg--Bergique--Luxemburg--Nederland--Hamburg--Copenhagen--Oslo--Bergen
--Odense--Sweden--Hersinki--St Peterburg--Barnemunde--Goettingen--Frankfurt)

(「紀行の風景」シリーズ )

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☆  ☆ Die Letzte Reise

☆ 長い旅をしてきました。報告します。(2012.6.21帰国)

 4月20日に名古屋を発ち、6月21日に予定通り帰ってきました。そして怖れていたように、フランク
フルトでも常滑(とこなめ)のセントレアーでも、機外へ出て十メートルも歩かないうちに目が回り始め、
空港職員に迷惑を掛けることことになりました。もう飛行機に乗る旅は終わりです。自らに引導を渡し
ました。

 62日間は、にもかかわらずとても印象の深い旅になりました。人との出会いだけでも、宝物に思える
収穫の多い感じがしていますし、見聞を言えば、自分さえ混乱するほどの多様なものがありました。
 最近は本屋の店頭に「ユーロピアン・タイムテーブル」が(表から9頁だけ日本語訳で)売られてい
ます。JR時刻表の何十倍、何百倍も夢をもたらしてくれます。それが旅の好伴侶でした。

 今回は、行く先々でどこも数日間は滞在することにして、北欧へ直行するにはまだ季節がやや早く、
まず、ザルツブルグへ行きました。品のいい街ですが、やはり「中都市」にも及ばない規模の所でした。
 アルプスがそばまで迫っていて、険しい尖峰の雪が、折った銀紙を半ば解いたように光っていました。

 ザルツとは塩のこと、つまり「塩の都市」で、それで今日まだ衰えることなく都市であり続けていま
す。
 一日切符でバスやトラムを乗り回して観光しようと、まず行ったのがケーブルでアルプス登りの場所。
乗り場まで行ったらさすがに寒く、(いや、並みの寒さではありません。北極的寒さ)で、周辺の雪解
け水が川から溢れるように流れる田舎の散策を楽しみながら、それを長旅の序曲にしました。

 列車で二時間ほど行くと「バードガシュタイン」という街があります。事前の知識なしで行く往路の
列車で、ミュンヘン在住の通訳(日本人)と知り合いました。コンパートに一人でいたからですが、
「あそこはご存じでしょうけど、有名なゲルマニウム温泉があるの。お入りに…」
「いや、水着も持ってないし…」。

 すぐ奥はアルプス、急な坂に張りついた保養施設の街。街の真ん中のバス停前は、袋田の滝より激
しく滝が攻め落ちてきて、橋の下では奈落の底を走り去る場所です。最近の日本と同じで、バスは
一日に4本しかありません。

 店に入って食事……とは、ヨーロッパでは20%の「付加価値税?」、バス停のベンチで、持ち合わせ
ているパンとサラミをかじり、風流な昼食にしました。

 急坂を登れば鉄道駅。一駅間は工事中のため、代行バスを待つとき、85歳という、どうやら旧軍人。

「ヤーパンか。あのアメーリカめに体当たりしたのをなんと言ったかな」
「トッコウタイ、ですよ」
「何? アメーリカめに勇敢に戦った」。

 よほどアメリカが憎かったのでしょう。それにしても彼は「ハイル、ヒットラー」と今でも思ってる
のでしょうかねえ。小学生たちが珍しがって私たち二人を囲むとき、85歳、戦争時代の生き残り老人
は、小学生の質問に答えては、

「ヤーパンはな、勇敢にな、……」とバスが来るまで語るのでした。

 ザルツブルグからブリュッセルまで一気に移動する時、列車が遅れました。乗り換え、乗り継ぎの
フランクフルトで予定の列車には乗れそうになく、車内を先頭車両まで歩こうとすると、車掌が、
「ここで待ちなさい」と食堂車のデッキで二人を止め、携帯電話。
 フランクフルトで扉が開くや、そこにゴルフ場のカートのような車が待っていて、二人の職員の後ろ
に,
「早く座りなさい」、スーツケースはもう一つ後ろ。プラットホーム上の人混みを縫って、右端の国際
路線のホームまで、一気に連れてってくれました。「ダンケ・シェーン」。
 こういう過剰なサービスを受けるのは、私たちがもう十分老いているからでしょう。

 ブリュッセルは「小便小僧」のある都市。市の中心は、そこより20米ほど入ったグランプラスという
どの観光団体もまずはやって来るところですが、この日は何かの記念日だそうで、小僧は軍服を着てい
て、回りにはここでも80歳代を中心とする退役軍人会のような人たちが数十人いました。

「ワインを振る舞う」と言うので、遠慮なく「私も頂戴!」と手を出し、ビニールコップでしたが、間
違いなくヨーロッパの渋味のあるワインを3杯も飲んだら、いい気分。
 世界でいちばんのワッフル、とやらも、一枚買って二人で立ち食い。チョコレート屋さんも、中で試
食だけで写真を撮らせてもらい、気分良く宿に帰ります。

 ヨーロッパのホテルは、安宿でも大抵、朝飯付き。そしてほとんどがビュッフェ形式ですから、生ハ
ムやパンだけでなく、飲み物やフルーツまで、普段の何倍も食べてから市内観光に出ます。昼はお腹が
食べるのを忘れていたり、夕食と区別がつかないのをどこかで一食摂れば、もうカロリーは十分、水を
持ちさえすればなんの怖れもありません。

 こうしてマロニエが花をふんだんに付ける西ヨーロッパの街々を楽しみながら、ルクセンブルグを3
日、観光。ディナンに4日いて、ブルージュに来ます。風景ではありませんが、大きな元修道院、オー
ドリーヘップバーンの「尼僧物語」はここで撮られた、とありましたが、そのひそやかさに、そっと近
づいてみると、入り口には、「かつては修道院だったが、今はナザリーたちがエルダーを世話するだけ
になっている。一般には公開しない」と入り口脇の掲示板。

 この煉瓦造り、高い天井の部屋には、長いベッドがいくつも並ぶだけ、「その時」を待つだけの老廃
人を宗教的慈悲心で世話するナースが祈りを呟きながら、ほんのときどき静かに見回る静寂な場所。
車の出入りがあるとすれば、新入りか天国行きかなのでしょう。高い木立と緑の庭園がとても印象的
でした。

 オランダ、アムステルダムは、真っ先にアンネフランクの家へ。
 父のオットーさんだけが助かったのですね。一家はフランクフルトからここへ来て隠れ住まいをする
のですから、まったく関係のない遠方です。今でもすぐ人権抑圧をする政府がありますね、改めて憎し
みを感じました。

 郊外の観光は、あれこれと吟味して、一つだけしました。
 バスと船で。木靴作りの工房か工場か。あれは柳で、とても重いのです。用途は湿地に足がはまらな
いように、というのですから、登呂遺跡の田下駄と同じ。

 チーズ作りの工場では、試食に試食。人様は買っても自分は買わない。専ら各種味違いを探求して回
りました。

 人造湖を船で渡ると漁師町。ここで午後のスナック時間となり、西洋人たちは食堂に入って一食を食
べていましたが、私たちには真似できず、総菜屋を見つけ「イワシの酢」パックと「ワカサギ唐揚げ」
のパックを、これがオランダという眺めの場所で食べました。ドイツでもここでも、イワシの酢がおい
しい。
 酢がいいのでしょう。ワインビネガーだろうと思います。

 さて風車の田舎は、あの帆布を張った風車は観光用に10ばかりを残すだけ。でも海風に吹かれて向か
い立つ姿は結構、素晴らしく、写真の背景にもってこいのところでした。

 アムステルダムには立ち小便用の便器が立っています。一基が三人用。でもちょっと高さが合わない
し、まさか「子供用はどこですか」と聞くのも変で、しませんでした。(デンマークでもアンデルセン
の故郷、オーデンセで、日曜の催し場の隅に同じものが立ててありました)

 オランダの北部は貧しい農村と聞いていて、一晩だけと行っみたのがグロニンゲンでしたが、とても
清潔でオランダらしくない街でした。気持ちよく休めました。

 そこからまた、一気に「ブレーメン」「ハンブルグ」「コペンハーゲン」と列車に乗ります。運の悪
い日もあるのです。乗り継ぎのブレーメン駅では、次の列車が5分遅れ、15分遅れ、やがて50分遅れの
見込みと放送。予定しない列車に「乗って行けば接続するか」とホームの職員に聞き、「多分いいだろ
う」と言うので、乗ったのが間違い。バングルグに近づくとまったくのろのろになり、一本、追い越さ
れてしまいました。だからハンブルグでは予定のに乗れず、次は2時間後です。

 ハンブルグ、コペンハーゲン間の列車は、途中に列車ごとフェリーに乗る45分間があるのです。みん
な降りて甲板へ出ます。ドイツでもデンマークでもないので、船上のコンビニは期せずして「免税店」。
 ここでも人様は買ってもウチは何も買いません。でも20%、25%も付加価値税とかセールス税とかが
両国ともにあるのですから、彼らには魅力なのでしょうね。鉄道職員も両手に重く買い物をぶら下げて
列車に戻ります。

 コペンハーゲン(も北欧すべて)は、さらに税が高率の国です。ここでも4泊を予定し、まず歩いて
見回ります。大きな劇場ふうの建物に向かって通りに2000人を越えるような列がありました。

「何の催しですか」と小母さんに聞くと、葉書の倍くらいの紙を出して「ラートハウスの日です」って。

美空ひばりかキム・ヨナがこの国にもいるんだろうぐらいに予想していた自分が恥ずかしくなります。

 北欧は情報公開が徹底しているそうで、市役所で情報公開があるとき、競って確かめ、不満を
不正を言うのでしょう。利権や横領着服はもちろんでしょうが、「隣の誰々はウチよりええ生活しとる。
 なんぞ不正をしとらへんか。ちゃんと所得税、納めとるのやろな」「あの女、子ばっかりようさん生
んで児童手当でエエ生活しとるが、子供を大事にしとらへん」みたいなことも、すべて言える位の情報
公開だそうです。

 日本は、プライバシーばかり過剰に言い、給食費出さなくても子供は堂々と食べ、児童手当はパチン
コ代、健康保険、年金保険はどこへやら、死んだ人にまで年金を出し、等々と思い出し、とことん情報
公開して納得を追究するのも悪くないかも、と思ったり。

 コペンハーゲンは(次に行くオスロと異なり)外来の観光客になんだか不親切でした。観光案内をイ
ンフォメーションと言いますが、「知らない」「ここではできません」と平気で言います。じゃどこで
どうすればいい、は言いません。街にはアジア系、インド系、アフリカ系、イスラム系など流入人口が
多いので、その辺から生じている現象かも知れません。だから街中で「ニーハオ」なんて声を掛けられ
ると、
「ノー、コンニチワ」と意地でも訂正してやるのです。

 よく歩きました。地下鉄でも3、4駅は当然と言う感じでした。すると公園あり、休む人ありで、話
もできますし、観光案内にないお国の様子が分かります。王宮は堀(運河)に囲まれた五角形の島にあ
り、五稜郭(函館)とどちらかがデザインを真似ていると感じました。
 そのすぐ外の海側に人魚姫(マーメード像)があるのですが、なんと人間とは等身大ぐらいで、観光
案内に騒ぐほどの物ではない、何でもない海岸に、日本の地蔵さんと変わりなく立ち、波に打たれてい
るのでした。
 折から韓国の一団体が来て、がやがや。そのうちにありたけの日本語で話しかけてきます。
 負けじと「キムチ、チョンガー、カンサムニーダ」とやるのですが、なんと貧弱な語彙か。

 ガイドに、
「名刺をくれ Can I have your name card ?」と要求。でも拒否されました。他の国の人にはこう
いうことはありません。

 ここの王宮も衛兵の交代式があるのです。「五稜郭」から一キロも離れた士官学校ふうの所から、街
中を行進して交替します。これも歩いて埠頭へ行くとき、偶然、でっくわしました。軍楽隊がパートに
よって規律に落差があるのです。平和ボケでしょうね。

 コペンハーゲン(Denmark)からオスロ(Norway)は、フェリーで一晩のところです。関西汽船のよ
うに毎晩出ています(3:00出国、3:30チェックイン、4:30出港。翌日9:30オスロ港着)。

 船内はカジノ、売店、食堂、バー、何でもありの客船です。値段も、ツインで広い部屋、上のベッド
を下ろせば三人部屋になり、私たちが普通、泊まるホテルよりはかなり上級の部屋ですが、関西汽船
並みの値段。インターネットはどうぞご随意に、と無料。北欧の日没はあるのかないのか、朝は起きれ
ばすでに昼の世界。島もフィヨルドもアリーナも静かに落ち着いている平和の世界でした。

 オスロでは、Hotel Perminalenを予定していて、しかし、予約はしてないのです。今はインターネッ
ト予約が主流ですから、VisaCardのナンバーを入れないと本人確認をせず、予約が成り立たないのです。
パスポートナンバーでもいいのですが、それくらい金融資本がすべてに影響力を持っているのでしょう
か。だからいいホテルを発見しても、ともかく現地、フロントで頑張らねばならないのです。
 それが冒険なのですが、英語が滑らかに出るかどうか、相手は英語がどれくらいできるのか、さらに
はこちらの耳がダメで、大事な場面で緊張は高ぶりますが、石畳の街をスーツケースもつまづきながら、
元軍隊の宿泊施設だったと聞くこのホテルのフロントへたどり着きました。

「4泊できる?」
「いえ、3泊しかできません」
「じゃ、3泊、お願い」

 前金で支払い、チェックインは3時からというので、荷物を預けて街へ出ます。ノルウェー観光がこ
こから始まるのです。

1、ベルゲン行き列車の指定席、
2、ベルゲンで一日フィヨルド観光周遊の予約、
3、ベルゲン発フィヨルド、名所観光しながらオスロに戻る一日コースの予約、
4、オスロ=トロンハイムの列車指定席、
5、トロンハイム=ボードーの列車指定席、
6、ボードー=トロンハイム指定席(すぐ乗り換え)=オスロ寝台の予約、をこの間にうまくしてしま
わねばなりません。

 でも、道を尋ね、この観光案内ではダメ、あそこならしてもらえるかも……の連続ですから、そうは
行動できないのです。それに、うまくいくといろんな割引がしてもらえたりします。

 この日、駅前のimformation。番号札を取ろうとすると、二種類あり、「予約」と「相談」。
 まずは相談しようかと、いちばん奥の窓口で、「私の英語はよくはありませんが」と前置きしてから、
この国に初めてきたこと、この国らしいところを見たいこと、ベルゲンのフィヨルド観光をしたいこと
などを話し、助言を求めました。

 カウンター女性の、なんと美しいこと。どこがって、目なんか私には描写も叶いませんが、髪も肌も、
そして私の言い分を傾聴するその仕草も、見つめて話すその真情も、もし人生の盛にこういう情況に遇っ
たなら、何かが起こったんではないか、と思いながら話を「させていただいて」おりました。

「ベルゲン行き指定席は駅の切符売り場ですぐ取れます。フィヨルド観光周遊券は、どちらもここで作
れます。Bookingなさいますか」
「おい、ここで周遊券が作れるそうだ。お願いしてもエエかえ?」と二人は相談して、
「Please !」となります。

 周遊券を作るのに半時間もかかりましたが、待ち時間が気になりませんでした。書類に一つ、おまけ
を付けてくれました。
「ここに地名と時刻がプラン通りに書いてあります。楽しんでください」

 人生には運も不運も「皺」になっています。私の持論です。
 この夕方、Hotel Perminalenにイー・ワイさんという女性から電話が掛かってきたのでした。
 
 [挿入部分]
 4月9日から16日まで、桑名市赤尾(弟の住む私の故郷)には、昨年と同じくスリランカから空手の生
徒が研修修学旅行に来たのです。私も通訳の仕事で手伝いに行きましたが、手伝いの依頼を受ける前に
4月10日には吉野の花見をすることがきまっていて、その日だけ手伝いできなかったのでした。

 その吉野でたまたま出会ったのがこのイー・ワイさんです。

 イギリス女性と一緒で、私が口を滑らかにしようと話し掛け、彼女が「マレーシア国籍、イギリス留学
の後、今はオスロに勤めている」と分かって、5月初めに私がオスロに行く予定を話し、情報を得ようと
すると、イー・ワイさんは「現地でお手伝いしましょう」と約束してくれたのでした。

「明日、朝食を終えられた頃、ホテルまで行きます」

 [本筋に戻る]
 このホテル(Hotel Perminalen)、食事がとてもいいのです。ついつい三食分ぐらい食べてしまうほ
ど、おいしいのです。各種のパンにジャム、コンフィチュール、マーマレード。各種のハム、生ハム、
それに各種のチーズ。青物野菜やパプリカにドレッシング。果物数種にデザート。あっと、牛乳、コー
ヒー紅茶の各種(ハーブティーも)、各ジュース。シリアルも何種かあるのですが、これは食べたこと
がありません。ヨーグルトだって色々ありました。北欧ではイワシの酢だとか煮付け(オイルサーディン
か)なんかもあって、少しずつでも食べておかなきゃ損、みたいな気になってしまいます。
だから家では朝食に15分もかからないのに、ここでは一時間あまりをたっぷり掛けて満腹するのでした。

 オスロは氷山をデザインした芸術会館(展示室、会議室、コンサートホール、他付属施設)が港湾の真
ん中にあります。その上に上がると左から山の手にノーベル賞平和記念館や市庁舎、さらには王宮が、
斜めの斜面、一面の緑に囲まれて置かれてあります。手前の大きな堤防ふうの城壁は世界遺産、下から
見ておいて、今度は上の市庁舎の庭園から見下ろします。港湾の縁のアリーナも、はやくもフィヨルド
の感じがする入り江もすべて見えるこの庭園には、東洋の植物(蓮、竹、まこも)もふんだんに植え込
まれていました。これが5月20日。

 翌早朝に事故を起こしました。私たちはすべての行程をキャンセルして帰ろうとしたのでした。
 半日は病院、残りの半日は走るようにしてキャンセルしてまわり、回り終えてから最後にコペンハー
ゲン行きフェリーの切符を買いました。よくぞやった、と今はふり返っていますが、気分が張りつめて
いたからでしょうか。これが5月21日。

 5月22日、出勤前のイー・ワイさんは日本人の友人、岸井琴深さんを伴って、ホテルまで見舞ってく
れました。お二人は気づく限りのこと(貼り薬など)をしてくれました。分けても大きいタッパーにお
粥がいっぱい、それとふりかけ。その日の午後、フェリー待合室のベンチで心細く船を待つ二人のどん
な癒しになったことか。

 ハンブルグまで戻って一週間、休養しました。ここならいざというときもその日のうちにフランクフ
ルトへ戻れるからです。その間に「欲」も回復、再び予定を作り直し、ベルゲンを目指しました。

 昔、地理でベルゲンを習いましたが、最果て、極地のイメージも八分どおりは消えています。でも日
の長いことと寒いことは間違いありません。(ベルゲンを再挑戦したのです)

 港湾の真正面には魚市場、テントの店が建ち並びます。行ってすぐ掛けられた言葉は、「二つを一つ
の値段でいいから」と、スモークサーモンにくるんだ長いサンドイッチ。

 夕食にとすぐ買いましたが、ここの人たちはBergenを「バーゲン」と発音するのです。バーゲンセー
ルの語源やいかに、と気になります。鯨の肉も試食。ここでは海産物をスモークしたり、ハーブをまぶ
したりで、鯨そのものの味ではありませんでした。あの棒鱈、1メートルに余るようなのをオブジェに
して飾っていましたが、この国、あの棒鱈で今でもロシアとの経済収支を有利に保っているとか。税金が
高いとはいえ、国は社会保障にはふんだんに予算を持っているようでした。(北海油田の収入は予算に
組み込まないで積み立ててあるそうです。国民一人900万円の借金財政国からみると羨ましい話)

 船着き場の切符売り場みたいなinformation(観光案内)がありました。「日帰りのフィヨルド観光が
したい」と持ちかけると、若い職員、どうやら日本びいきで、コンニチワ、アリガトウだけではない単
語に通じ、もっと習いたいのだそうですが、

「67歳は過ぎてますか」と尋ねました。
「もちろん」

 すると「ディスカウントができます」と言い、往路は船、帰路はバスのコースを2割以上も割り引い
て周遊券を作ってくれました。そしてこのコースのよかったこと、一つの紀行物語になります(が略し
ます)。

 当初の日程を大きく変えることになって、残念な反面、思いがけずよかったこともありました。その
一つは、アンデルセンの故郷、オーデンセに滞在したことです。

 デンマークは島ばかり。コペンハーゲンから一時間少々の所にある余り大きくない街です。でも、ア
ンデルセンを慕って見学に来る人があるためか、とても落ち着いた街になっています。まず駅が、最近、
新装なったばかりの感じですが、駅舎が図書館に取り込まれているような作りになっています。

 さらには接続するホステル式の宿泊所で、そういう「文化都市の駅」になっているなんて私たちは知
らずに、改札から図書館の受付前を通って、DanHostel Odense City に入りました。

「こんにちは。泊めていただけますか?」
 フロント嬢は、
「いいですよ。ベッドが狭いですよ。よければどうぞ。シャワーもトイレもあります。朝食は一人○○
クローネです。お部屋、見ますか?」
 セミダブルぐらいのベッドが一つとその下から、マットレスを引き出せば、もう一人が十分に寝られ
ます。
「リネンは、余分にお使いください」と4人分をくれました。インターネットのパスワードも教えて貰
い、街へ散歩に出ました。

 緑が多く、老人の散歩、子守さんの散歩。幼児3人を草の上で遊ばせる女性の傍らに私たちも座り、
手伝ったのか邪魔をしたのか、話をしました。

 ウチの孫と同じくらいでまだことばを話さない男児が、生の豌豆を莢ごと手に持って、時々、一粒ずつ
食べています。青臭さがそばまで匂うのです。

「これは生で食べられるのです」
「知ってますよ。でも日本では煮て食べるの」
「生の方がいいのです」

 保母さんは「我」の個性に優れているのかな。

「8時過ぎに預かって、4時半に引き取ってもらうの」
「家庭の事情によっては、夜遅くなったりしないの?」
「あります。夜ずっと預かることもあります」
「どんな職業?」
「医療関係」。

 またも私の勘ぐりは違っていました。夜の商売なんてないのかなあ。小学校から大学まで、学費は無
料の国ですが、保母さんの報酬はどこが持つのか、聞くのを思いつきませんでした。

 庭園の池に鴨が子連れで泳いでいました。
 縁のベンチに2、3の高齢者が、同じく鴨の家族を見守っています。
「幸せでいいですね」、あなた方は、とも、鴨の家族は、とも言わずに話しかけましたら、通じたのか
通じなかったのか、

「How many children?」と池を指さすので、近づいて数えると7羽の子鴨。
「7children. My family once had 7 childrn.」
「My family was same.」

 どの国でも戦争世代は大家族だったのでしょうか。同世代同士は、同国人であれ異国人であれ、話
が合うのですね。

 アンデルセンは貧乏育ち。靴修理の父、よそ様の洗濯物をして賃稼ぎした母。川のここで洗濯し
たという場所があり、行ってみました。石が、あの釜山の宝水川の洗濯場のように、平たく無造作に置
いてありましたが、多分、足でもみ洗いをしたに違いありません。

 でもこの田舎でそうした賃仕事で生きなければならなかった生活が文豪を生み出すのですから、可
能性はどこにでもあるのでしょう。

 アンデルセンはコペンハーゲンで劇場の役者を目指して勉強します。そのとき脚本を書いたりするの
ですが、いっこうにうだつが上がりません。

 そして「何だこの原稿(脚本)は」と叱られます。文章の基本ができていなかったからでした。

 30男のアンデルセンは、小学校に入り直して文章の書き方を1から学んだそうです。童話は彼の目
ざす本命ではなかったのです。でも「親指姫」だって「マッチ売りの少女」だって、貧しい者の気持ち
がよく分かります。「王様の着物」なんか、童話ではなく、今日の日本の政党だってよく読んで欲しい
口先と実際の仕事との大きなオオズレをよくよく描き表しています。

 ひとつ、日本の文学者たちがダメ紹介文を書いていました。

「アンデルセンは貧民窟で生まれ……」とあるのですが、貧しくても家があり、家族があり、賃仕事が
あってなにが「貧民窟」ですか。長屋住まいは貧民窟ではない。最近、ことばを知らないくせに、文学
者面しているのが多いのです。

 6月10日、朝、オーデンセ=コペンハーゲン=オステルポート(コペンハーゲン市内の駅)と1時間
余り列車に乗り、クルーズのコスタ・フォーチュナが停泊する埠頭へ正午過ぎに着きます。

 コースは、コペンハーゲン、ストックホルム、ヘルシンキ、サンクトペテルブルグ、バルネミュンデ
にそれぞれ一日(日中)寄港し、全8日間。寄港地では降りるだけもよし、オプショナルツアーを申し
込むもよし、船内でゴージャスな生活を楽しむもよし。

 初日から昼食も付くので、できるだけ早くチェックイン、乗船、と要領よく事を運びたかったのです。
乗客は2000人を越えます。そして、結果は上々、No2のチェックインカードを貰うことができ、広い体
育館ふうのテント内で、大勢の乗客がひしめくのを見ることもなく、出国手続き、乗船のチェックイン、
案内されて船室へ、実に順調に事を運んだのでした。

 キャビンは、私たちが泊まるホテルよりは数等のよい部屋、シャワーもトイレも、そしてツインベッ
ドもデスクも椅子も……だが、私のスーツケースだけが運ばれ、もう一つはないのです。

 部屋係が愛想をしに来ます。

「もうひとつのスーツケースは?」
「はい、確かめてまいります」

 しばらくののち、

「担当者もまだ分からないそうで、みなさんの乗船が済むころになることもありますから、しばらく
待ってください」

 食べなきゃ損、と食堂をたずねて、午後のティータイムで昼飯の代わりをします。主にケーキやフ
ルーツですが、パンもあり、いつも通りの食事ができたのですが、心配はまだ消えません。部屋係を呼
んで、
「スーツケース」を尋ねますが、まだ同じ回答。

 フロントがあります。そこで、
「私はNo2で乗船した。だが、スーツケースが一つ、まだ届かない。どうしたのだ」

 フロント嬢はイタリー娘。返事らしいことばもなく、電話を取り上げてやり取りしています。
 終わって言うには、

「どうなっているか、今まだわかりません。いましばらく待ってください。部屋に届くでしょう」

 信じて待っても来ないのです。6時からはディナー、部屋係に言い置いて、ディナーへ行きます。
テーブルは指定席で定食ですから、ボーイが注文を取りに来ます。まず飲み物。心配事は頭を片時も
離れず、飲みたくもないのに、ビールを注文。ボーイが持って来るのは遅く、しきたりかどうか、10
分に一度しか出ない料理を長時間で食べるだけのこと。

 やっとデザートになり、果物は瓜、シャーベット。日本人が他に一組いるのがわかり、建築士。
 ひとしきりしゃべってやっと部屋に戻ったのに、まだ来ていない。もう9時を過ぎています。

「この野郎め」と勢いを付けてフロントに向かいました。

 申し入れたイタリー嬢は年配の女性に電話を代わり、年配嬢は「隣の部屋まで」と誘います。

 入るとありました。ウチのスーツケース。取っ手に「to be inspected」とタグが巻いてあります。

「中を見てもいいでしょうか」
「いいよ。何だったの?」
「ナイフがあるそうです」

 何を言ってやがる。リュックにはナイフは入れられないから、ここへ入れたんだ。いくらでも見るが
いい。
 みつかればかみついてやる、とすべてを店開き。

 だがどこにもナイフはありません(実はあったんですが、そのとき、発見できなかったんでした)

「結構です。部屋に持っていってもいいです」だって。この野郎めと思いました。 

 そのとき、親玉ふうの恰幅男が、肩章もきらびやかにそばへ来ました。

 曰く「コペンハーゲンの警官がやかましいのです」だって。

 ウソです。X線の調査もみなこの船会社がしているのです。人のせいにしているのでした。

 これが禍して夜中に激しい下痢。また事故、とばかり、持ち合わせの抗生物質など服用して、紙おむ
つを履き、ひたすら寝ました。朝ご飯、食欲なく、西瓜を一切れ。昼食、食欲なく、ケーキをひと匙。
夜はディナーを欠席しているうちに、オプショナルツアーの申し込みは8時まで、と、つれない連絡で、
何とかと頼み込んだのが、サンクトペテルブルグのエルミタージュだけ。当初からここだけでよかった
ので悔いはありませんが、不運な感じがしただけです。

 三日目はストックホルム(スウェーデン)でした。ともかく下船して、辺りを見ようと、ボートで港
町へ行きました。由緒ありげな教会二つ、王宮、衛兵もエリザベスのロンドンに負けず、門を守ってま
した。隣がノーベル賞ミュージアムです。

 ノーベルの業績と遺志がよく分かるようになっています。そしてここで授賞式もあるのだそうですが、
見学費を取らないのです。さすが教育費を一切必要としない福祉の国だけあって、見学者を信頼してい
ます。その国家的な心根に満足しました。

 翌日、ヘルシンキ(フィンランド)で下船。ここはユーロの国です(ストックホルム、スウェーデン、
デンマークはそれぞれの国独自の通過、クローネまたはクローナですが)。

 港湾へ降りると、すぐ正面が魚屋や食べ物店のアーケードです。試食を楽しみます。それを抜けると、
今度は露天にテントの食べ物屋が何十と並びますが、周辺の露店にぎっしりと長い板の椅子があって、
発泡スチロールのトレイに載せたフライや和え物、海老や蟹、飲み物をもって食べています。

 消費税が高くなって、テイクアウトが増えたのでしょうか。レストランで温かい料理をボーイが運び、
食べて勘定、チップ、というような洋食のしきたりは、もうなくなった気がします。と言うのも、そう
いう型に叶った食事は「付加価値税」が20%、テイアウトなら7から15%ぐらいでしょう。

 食べ物には消費税を掛けない原則らしいのですが、「温かいものをサービスを受けて」食べると税が
付くわけです。(5%の国なんか、どこにもありません。8%だってテイクアウトのパンか水でしょう)

 それでも国民の意識が円満なのは、訳があります。

 その露天食堂の長椅子に、トレイで食事をする日本人がいました。その時のことを、あるグループの
季刊雑誌に頼まれて、記事を書いたので、ここに再録します。その部分だけですが。


 ***************************************
 ……長い腰掛けが通りを狭くするので、「パルドン(ちょっと済みません)」を言いつづけながら通
り抜けるとき、その人に出会った。発泡スチロールのトレイで食事していた。

「日本人ですか」
「ええ、ここに三〇年います」から始まり、私を放すまいとするかのように、しきりに話す。隣には姪
御さんが所作なさげに待っているのに、この人は是非私に聞いてほしいとばかりに話し続けた。

「……医療費がまったく無料なんですよ。ほんとにです。私は、ほらこれ、甲状腺癌を二回切ってるん
ですが、入院に何も持って来るなちゅう、……歯ブラシだけ持ってこいと言うんです。あと一切要らな
い。とにかく、誰にでもこうです」
 六〇歳代に見えた。傷跡もはっきり痛ましかった。姪御は単に旅行ではない。いつまでも戻らないこ
の人を心配して来ているに違いないのだが、私は今、下船したばかり、行きたいところを言い、メール
アドレスを乞うまで、食べかけの食事をそのままに、話し続けた。

 彼が日本人に聞いてほしいとひたすら願っていることを理解するのが、その時、私の役割だったのだ
ろう。

 帰国後、彼が書いたアドレスにメールしようとした。
 読みにくい文字を判読して入力したが、届かなかった。手術がアルファベットさえ書きにくくした。
でも、故国へ伝えたい意図を私は受け取って来た。nishimotoさんと言った。……
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 社会福祉って、ことばではない。政策の具でもない。実際に行われているので、国民も付いてくるの
でしょう。孔子が言っています、「信なければ立たず」って。信用されない政治家は、成り立たないの
です。大借金をいつ解決するのか、見通しのない国家です。借金の事に触れないでどうやって信頼され
るのでしょうかねえ。

 サンクトペテルブルグに着きました。ご存じのようにロシアは入国するのに極めて難しい国です。ビ
ザを取るのも難しいが、行く先々の費用のいるところは、すべて予め支払っておかなければならない。
 バウチャーと言いますが、そしてその費用がばかばかしいほどかかります。

 ところがクルーズで寄港すると、乗船券をビザ代わりにして簡単に入国できるのです、ただし、エル
ミタージュならそこだけしか行けません。

 綺麗な町です。真ん中に運河があって、公園ふうの緑もたくさんあります。でも、どうしてこんなに
自動車が混み合う街になったのでしょうか。観光バスまでが露地に入ったり、戻ったり、混雑を避けて
走りますが、あの大きなエルミタージュへ近づくのに、うんざりしてしまいます。

 バスのなかで二班に分けられました。ドイツ語班と英語班です。三分の二がドイツ語。どうやらサー
ビスがいい。英語班はガイドが綺麗なだけで、サービスが悪そうです。降りるときにエレーナと名札を
見て、早めに降りたら、ドイツ語班の人が、

「あなたはこっちへ来たらダメだよ。あっち、スウェーデン語のほうだよ」。

 変なことい言うなと思ったら、エレーナの英語って、ときどき分からない単語がある。スウェーデン
訛りなのか半スウェーデン英語かだったのでしょうか。

 エルミタージュとはフランス語であることに気づきました。Hermitageと書きますが、ロシア語では
この「H」の部分を書きません。例のエカテリーナ女帝の時、ドイツから収集品を買い集めたのが宮廷
美術館の始まりと言いました。ルーブルの何倍もの規模の建物で、半日観光ではごく一部を見るだけで
す。しかも収蔵品もさることながら、それぞれの部屋や移動途中の建築が、何々様式などと素晴らしい
のです。イタリーでもフランスでも見たことのない贅を尽くした「造り」もありましたが、ウフィッツ
美術館にしろルーブルにしろ、一つ作品があると、そこに金属のプレートがあって、作者の略歴や作品
のいわれなど、お国のことばと英語とで書かれていて、ガイドなしでも、それを丁寧に読めば、ある程
度、分かるようになっていますが、エルミタージュはそのプレートの説明が、さりげない。 いや、さ
りげなさ過ぎるのです。何百何十何年の誰々の作、とタイトル(がもしあればそれ)だけが、銘打って
あるだけ。もちろん知っているもの以外は印象に残りません。また機会を作って来ることもないだろう
し、ロシア人の思いやりのなさを思い知ったのがせめてもの土産でしょうか。

 雑多な自動車でやたら混雑する街でしたが、それがなければ、他とは一段と秀でた都でしょうに。
 その昔。大黒屋光太夫は白子(元三重県鈴鹿市白子町)の港を出て、カムチャツカに漂流し、帰国許
可を貰うためポーランドの学者のつてを信じて、イルクーツクからエカテリーナブルグ=サンクトペテ
ルブルグまで雪橇で走る長旅は、今の南極越冬隊とは比較にもならない危険な行動でした。よくぞここ
まで、と、ことばで簡単に言える現代を、不思議な感覚で思いました。

 船に戻ると、そこは西洋人の世界ですが、最多はイタリー人、次いでドイツ人。EUからスカンジナビ
アから。ロシアからは一人もいません。東ドイツも、東西の隔壁が取れて20年、終戦からそれまで、そ
れから今まで、どんな苦労があったのでしょうか。
 当初、同じ通貨のマルクを称しながら、実質差は20:1だったと言います。西ドイツはそれを、対外的
には10:1として扱いながら、国内的には1:1として扱います。
もちろんひとり6000マルクの限度は設けますが。そういう大きな援助を辛抱して、やっと今、東ドイツ
の高齢者にもクルーズに参加できるほどの年金が支給できているのです。

 それに加えて、ギリシャが、スペインが甘えてきますと、金を融通しなければなりません。
「必ず返すのはもちろん、国内で甘い財政をしないと約束して頂戴」とはメルケルさんの条件です。 
 なんと常識的です?

 民主党さん、国民だってこうした常識をもっていますよ。一人900万円にもなる国の借金を、どうす
るんですか。返す見通しがあるのですか。これを、必ずいつまでに返す、とはっきりして、その上で、
みんなで辛抱しましょうね、と言えばいい。消費税が本来的に罪悪だそうで、もしそうなら、ドイツも
オランダもベルギーも、そして北ヨーロッパなんか大犯罪を犯しています。25%の消費税(物品税、
セールス税、付加価値税などいろいろの名称)、給与から天引く所得税40〜65%。この実態で不思議に
反乱も暴動もありません。

 アジア系インド系アフリカ系イスラム系と雑多な「出稼ぎ人」が目に付きます。
 でもスーパーマーケットでレシートを見れば、7%、9%、などと食料品でも税が付き、19%、20%
と食堂ではレシートが返される。実態が納得できない日本人は、もうだいぶ意識も実態も手遅れではな
いか、と感じる始末。

 最後の寄港地、バルネミュンデではドイツ人たちが帰っていきました。代わりに乗ってきたドイツ人
もいました。次のクルーズの始まりでもあったのでしょうか。私たちも下船して、このこぢんまりした
港町を観光しました。眺めのいいところで土産を売り、飲食店を開き、アリーナにマストを乱立させて、
おだやかな港を作っていました。ドイツ統一から今日までの変わり様を想像してみました。 どこも平
和で、特に露天の市場はよそと代わらないヨーロッパの街でしたが、郵便局が時間になっても開かなか
ったこと、インフォメーション(観光案内)が開いても職員がどこにいるのやら、といったふうに、公
務員(あるいはそれに準じる職員)が、仕事に心を込めていない(真剣になっていない)ことでした。
 歴史とは「名残り」が尾を引きます。これからの日本を思いました。
 
 この日のディナー時、隣席は今日の乗ってきたドイツ人の夫婦。奥さんは75歳、旦那さんは77歳。
「私たちと一緒だ」となって、急に仲良くなりました。
  職業は農業。英語が思うように通じません。

  普通、ドイツ人は苦労なしに英語を理解すると思ってましたが、この人たち、日本では平川唯一が
「♪カムカム、エブリボディ♯」とやり始めたころ、スターリンの語録やロシア語で閉じこめられていた
のでしょう。私の妻が、野菜の絵を描き、これも作る、あれも作る、これは難しい、と交歓をしたので
した。

 でも忘れていたドイツ語も思い出させて貰いました。たとえば「77」は「7と70」と言うのです。
「妻は5と70歳(yahre)」というふうに。(逸れますが、フランス語なら、77は60,17といいます。
77歳は、60,17ans。80歳なら4の20歳。95歳なら4の20、15歳、99歳なら4の20、19歳。
言うのも大変、聴き取るのも大変です。ドイツ語はまだマシな方)

 一日だけ激しい下痢の日がありましたが、それを除けば、食べたいだけ食べ、ゆっくり寝て、穏やか
な日々でした。下船の前日には早めに荷造りして室外に出し、要領よく下船できました。
 10日ぶりのコペンハーゲンです。
 歩いて最寄りの列車駅へ行くこともすでに知っています。ノールポール駅から一気にコペンハーゲン
駅へ出、二時間に一本の列車を待ちます。

 嬉しいことに、船内では全クローネ(小銭まで)すっかりユーロに換えてありましたので、列車に乗
ってしまえば、ポケットまで身軽でした。

 6月17日、11:25、例の3両の列車が出発、途中の45分間は、列車ごとフェリーに乗ります。
14:00にはハンブルグ。4時過ぎには、ゲッチンゲンの宿に着くのです。予定通りに気持ちよくドイツ
のどまん中、ゲッチンゲンへ付きました。

 少し早い夕食を、駅のレストランで食べ、ホテルに向かいました。一泊が¥11000ぐらいに相当しま
すが、思いの外に気持ちのいいホテルでした。三泊分を前払い。インターネットのパスワードももらい、
最後二日をここでくつろぐのです。

 土産なんか一つも買っていませんし、買うつもりもありません。この小さな街は、大学で有名なので
す。店も7,8軒に一件は本屋ではないか、と思えるくらい、とっつきから本屋です。でも大きなスー
パーマーケットもありました。ここドイツも例に漏れず、食品は多様です。

 日本ではTPP交渉をすると、農業を壊し小売り業はもちろん衣料品小売りまで成り立たなくなって
しまうという「亡国論」があって、国会議員が政治生命を賭けて反対するなどと極論する輩が一人や
二人ではありません。グループを構成して喚いておりますが、この滑稽さはヨーロッパに来て見るまで
もなく、ご大層主義だと私は軽蔑していました。

 今、ここゲッチンゲンでも、フランクフルトでも、いやいや、北欧の白夜の国でも、スーパーマーケ
ットで見る食品に、なんと種類が多いことでしょう。

 野菜は、当然ヨーロッパにあるはずの野菜に加えて、地球のどこかから輸入され、飛行機で飛んで来
た多様な野菜が、多様にあふれています。ユカ芋なんて、ケニアかどこかアフリカで掘り出されるでん
ぷんの多い芋だと理解していますが、そんなのもあれば、レンコン(蓮)だって、どこで作るのでしょ
うか。インドから輸入されてるに違いありません。レタスやジャガイモと変わらず廉価で土付きのまま
で無造作に並んでいます。驚いたことに、何か分からぬ笹の葉みたいなのが小さい束になってあるのに
札が付いて
「なんたらgrass」。
 竹や笹の仲間は一本たりとも存在しないヨーロッパのはず、これは何だろうかとしばらく吟味して、
やや独善ですが、結論を出しました。「マコモダケ」です。

 あの(我が故郷の)赤尾の「下向き(田圃の名前)」や「ミソぐち」辺りに、かつては稲のお化けみ
たいな「マコモ(真菰)」が自生していました。昔はなんとも思わなかったあの植物、根元の芯だけ取
り出して「マコモダケ(真菰竹)」の名で、日本で貴重食品にされています。それは日本の話。
 ベトナムやミャンマー辺りかインドネシアか、それは分かりませんが「なんたらグラス」が西洋の野
菜と並んで売られているのです。

 もっと言いましょう。果物は西洋でよく知られるブドウやリンゴ、オレンジ、アプリコット、イチゴ、
コケモモなどはもちろんですが、採れるはずのないライチー、竜眼、枇杷、紅毛蛋、など南シナのもの
から、石榴、ココ椰子の実、干し柿の実のような甘いつぶつぶ椰子(ナツメヤシ)の実が一箱ごとに並
んでいたり、要するに地球の南北を問題にしない野菜や果物の交流があります。

 世界はすでにこのような経済交流を作り出して、互いが互いをなんとか利用し合う関係になっている
のでしょう。なんで日本だけがこの「仲間」に入ってはダメなのでしょうか。

 連中の曰く、仲間になると例えば「農業がつぶれる」そうですが、もうつぶれています。このままで
はもうつぶれるどこぞの国のどこぞの農業が、思いもつかなかった珍しくもない作物が、行ったことも
ない余所の国で、思いも掛けずに珍重されたりするのです。

 ドイツ、ゲーテの頃、メンデルスゾーンの「歌の翼に(auf Fluhgern des Gesanges)」は、
インドへのあこがれが歌われ、蓮のことに触れていますね。今や蓮の実も根も、食卓で味わえる経済の
交流が日常化しているわけです。日本の里山の畑から異国の人のテーブルにアケビや野沢菜が飛行機で
運ばれても、嘆く必要も危険視することも全くないはずですのに、座して行き詰まる方途を叫ぶ政治家
の不勉強が癪に障ります。

 ゲッチンゲン大学は45人ものノーベル章受賞者を出しています。日本で言えば桑名ほどもない小都市
です。大学も日本のようにばかでかく広くはありません。もともと宗教大学でした。ノーベル賞以前に
ガウス(数学者、物理学者)もここを出たのですが、小さい街の小さい学校でほんとうの学問があり得
たのでしょうか。

 うちの孫どもも、できればこんなとこで好きなことを学んだらええなあ、と思いました。
 購買部へ入ると、おばさんが親切に応対してくれました。掲示があって「ここは現金だけ扱います」
とあり、
「よかった。どこもカード化してるので……、私はカードが嫌いなんですよ」、と言うと、おばさん、

「私もです。カードは自分が借金していても気づかないんです」、

 私と同じカード社会批判を持っていました。

「サブプライムローンだって、アメリカがカード社会になったから起こったクライシス(破局)ですよ。
ありもしないお金を使わせる装置です」

 日本でも急速に「借金人間製造装置」が普及しています。ヨーロッパもそうでした。
 その結果がギリシャを潰し、スペインを倒産に向かわせ、次はどこになるんでしょうか。
 日本は、借財の額ではこれら両国の十倍をはるかに凌いでいます。どうするんでしょうかねえ。

 学食(学生食堂)に入りました。秀才どもがくつろいで食べるランチの、ジャガイモ料理を味わいな
がら、彼らが21世紀の後半に、不毛の国家間問題を大所高所から分析、洞察して、一皮むいた人類社会
を作ってくれるだろうと期待していました。

 若い人の時代をなぜかほほえましく想像できたのは、久しぶりのことでした。

 旅の報告は、終わります。

 愛知県に「年金者組合」ってのがあり、自分は入ってませんが、原稿を頼まれ、高消費税の国を旅し
て見聞した市民の税意識を、連載の二回分にして送ったところです。かれらは、消費税反対運動の団体
ですからどんな反応があるのか、見物(みもの)です。

 折しも、最低賃金で働くより、生活保護のほうが好い生活ができると報じられていました。

 資料が明示されないので、想像で言いますが、現役で身を粉にして働く人の、何倍もの「年金」を
貰って殿様然としてやがる奴を、あぶり出して、財政の無駄を正す政策を推し進めてほしいものです。

 旅が長かったので、畑は荒れていましたが、背丈ほどになった草を引っこ抜くと、うれしいことに例
年を凌ぐ赤タマネギが衣装箱にしまいきれないくらい残っていたこと、スナック豌豆が、稔りすぎ、莢
は真っ黒に黴びていましたが、みんなこれをむくと、なんと青みを帯びた「実豌豆」になりました。
 豆ご飯や豌豆スープになります。また、ロケットを放ったらかして行ったので、種がそこいら中に
こぼれ、今、草引きがてらに採って帰ると、毎朝、大皿一杯の野菜サラダ(タマネギスライスにロケッ
ト、マヨネーズ和え)が食べられるようになりました。さらさらの血で長生きします。

 長い近況報告でした。                   2012.7.19 藪野 豊

現在 名古屋市在住
Tel&Fax  052-977-6650   Mail  yyyabuno@yahoo.co.jp 
ホームページ  https://yabuno-world.com/    
   (藪野豊の世界 と入れて検索をしても、すぐ出てきます。いちど覗いてください)
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